2023/02/03 - 2023/02/03
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しにあの旅人さん
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掘辰雄文学記念館。
右が多恵子の白い家、左が旧居。中央の赤い葉鶏頭の向こうが犀星並木です。
犀星並木は私の命名で、ほかでは通じません。詳しくは「堀辰雄紀行6 信濃追分、旧居と多恵子の畑」をご覧下さい。
掘多恵子と室生犀星のエピソードを拾ってみました。
基本参考資料は「堀辰雄紀行1」に並べました。引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
投稿日:2023/04/22
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
掘辰雄没後、初めて室生犀星が信濃追分の家に来たときのことです。その帰り、多恵子は犀星をバス停まで見送りました。「詩人・掘辰雄」より。(筑摩別巻2P225)
「 」は筆者挿入。
★彼(犀星)はたえ子さんにあなたは七八年も睡眠不足をしてゐたのだから、睡るだけは寛くり寝なさいといった。ええ、やすましてもらひますわ、ではまたと、お行儀のよい彼女は、それだから掘に好かれたやうな「こなし」をしてみせ、バスが追分街道をおれまがるところまで、先刻着いたときとおなじやうに、手を振って見送ってくれた。★
「掘に好かれたようなこなし」ってなんだろう。
「こなし」をgoo辞書で見ると、
★からだの動かしかた、「身のこなし」
★歌舞伎の舞台で、俳優がせりふなしで演じるしぐさ。「花道で思い入れのこなしがあって・・・」
犀星が注目したくらいですから、後者の「こなし」でしょうね。
「こなしをしてみせ」です。なにげないそぶりではなく、多恵子は意識してそれをした。
なにかエレガントな、ちょっと芝居っぽい身振りをした。それが掘辰雄好みだった。
「投げキッスをした」By妻
やりすぎ。
着ていたのは着物でしょ。都はるみが「好きになった人」を歌った時みたいに、肩の付け根までむき出しにして手を振った。現役復帰コンサートのときです、あれはすごかった。
「しばいたろか、それが掘辰雄好みか!」By妻
「両手を拡げて肩をすくめた」By妻
いやみ!
掘辰雄はおフランス趣味、おドイツ趣味でした。
ドイツ女に気の利いたことができるとは思えないので、ここはやはりフランス風でしょう。
多恵子は、クリスチャンの家庭に生まれ、10才まで香港で育ち、帰国してからはミッションスクール、東京女子大の英文科でした。英語は読み書きだけではなく、生け花のデモンストレーションの通訳ができるくらい会話に堪能でした。香港では日本人学校に通いましたが、イギリス人租界に住んでいたようです。中国人の乳母さんもついていました。日英中のトライリンガルだったのでしょう。日本語があやしいと掘辰雄に言われたとか。
一書に曰く、
犀星っていうひとは、本当に細々と気が付くおひとです。
優しさに涙ぐみたくなるような。
でも、場合によっては、姑的に意地悪におもえたかもしれません。
そういう至れり尽くせりに気が付く人に対して、どういう風にするかなあ。
考えれば考えるほどわかりません。
by夫が、海外帰国子女だから、投げキッスだの、肩をすくめただの、、、
そんなわけないでしょう。
ただ仕草に、色っぽさはなかったのではないかな。
掘辰雄という人は、そういう江戸情緒というか、色っぽい環境に育ったみたいだし。そういうのではないものに惹かれての軽井沢、追分だったのでしょうから。
外国育ちなら、きっと、しっかり目を見て話したんではないかと。
そして声も明朗だった。
とにかく分かることは、犀星は、多恵子さんが好きだったのです。娘のように、弟子のように愛したってことです。
By妻
追分の街道で油屋のおかみさんと話をしていると、声が病床の辰雄まで聞こえたそうです。50mはあります。声がよく通る人でした。
性格は、神西清によれば、快活で勇ましい。栗の木や屋根、高い所に登るのが大好きだった。
多恵子によると昭和初期の女子大では、ぽん女(日本女子大)は良家の花嫁の肩書き、津田塾は社会に出て働く気まんまん、とん女はその中間だったそうです。多恵子も中学校の先生のお免状もっていました。
多恵子は働く必要のないお嬢さんでした。でも働きたい。
とん女を出て、外国航路の船のスチュワーデスになりたかった。赤ん坊の時から玄界灘をわたって香港を往復していたので、まったく船酔いしない体質でした。母親が安田繁三郎(かつての日本郵船香港支店長。当時郵船専務らしい)に紹介してくれました。いきなり重役面接。しかし体が弱くてダメ。体重38キロしかなかったそうです。
それならばと、日光金谷ホテルのフロントで働きました。金谷ホテルのお客はほとんどが外国人でした。英語で仕事をしたのです。お給料は月100円だったそうです。そのころの帝大大卒初任給は70円。そのくらいの特殊技能をもっていたということです。
ホテルの外国人向けサービスで花笠音頭を従業員が披露しました。多恵子さんも花笠をもって一緒に踊りました。
ホテルの社長が驚いたそうです。
この時代、大学は原則女人禁制です。女子大はありましたが、公立私立あわせて20校くらい。多恵子のとん女英文科卒業は1学年30人くらいだそうです。全部あわせても花の女子大生、全国で1学年3桁いくかいかないか。
多恵子によると「見ているよりやったほうがおもしろいですよ。」
外国人観光客からナンパされかけて、ピシャッとはねつけたこともありました。
以上「やまぼうしの咲く庭でP87-101」より。
当時のヤマトナデシコとしては、かなり特異な人物だったようです。
掘辰雄が惚れたのは、そういう多恵子だったのです。
本題に戻って、そういう多恵子が室生犀星にしてみせた「こなし」とはどんな所作だったか。
結論、分かりません。
皆さん、想像してみて下さい。
一書に曰く、
多恵子さん すてき!
まるでドラマじゃないですか。
女が惚れます!
by夫、まだこなしにこだわっている。
颯爽としていたんじゃないですかね。
宝塚の男役みたいに。
カッコイイ!
私、気づいてしまいました。
皆さんもお気づきでしょう?
by夫は、掘辰雄を追いかけているのではなく、実は掘多恵子さんを追いかけているのですよ。
多恵子さんにほれぼれしているのです。
By妻 -
蛇足です。
By妻の1965年ころの体験談。このころでも4年制大学の女子大生は珍しかった。町工場の社長さんが、女子大生なるものを見てみたいと、仕事もないのにバイトで雇ってくれたそうです。
蛇足の蛇足。
短大卒は長持2棹分。しかし4大を出ると嫁の口はないと言われていました。
一書に曰く、
余計な話です。
嫁の口がなかったから、by夫と結婚したんだよ~。
By妻 -
おついって、なあに?
「羽織とセットになった着物」By妻
室生犀星「わが愛する詩人の伝記・掘辰雄」より。(青空文庫)
掘辰雄が東京帝大文学部にはいったころのようです。
★老女(辰雄の母しげ)は大学を卒(で)たら着せるのだといって、大島のおついの着物を縫わせ、まだ何年後でなければ卒業しない堀のために、箪笥の抽斗にこの紋服同様の大島のおついをしまっていたのである。★
神西清
▲▼▲
ロシア文学者、翻訳家、小説家、(1903-1957)堀辰雄の親友中の親友。一高の同学年。
★それから何年かたって掘君が牛込の家に、僕を訪ねてくれたことがある。春だったようだが、くろっぽいさらりとした着物に角帯をしめ、腰に印伝皮のタバコ入れをたばさむといういでたちであったから、こんどは僕の母が、呆気にとられるという始末だった。くらくならないうちに彼は辞去したが、そのあとで天どんの盆をさげにきた僕の母は、「まあ、あれが掘さんかい。あれで大学へ通いなさるのかねぇ。」と真顔で僕にたずねたものである。★(筑摩別巻2P369)
この「くろっぽいさらりとした着物」とは、しげがつくった大島の着物じゃないか。
By妻さん、大島って、さらりとした着物なの?
大野俊一
▲▼▲▼
ドイツ文学者(1903-1980)は東京浅草生まれ。一高で掘と同期。
★大学に入ったばかりの掘が、颯爽と、つづれの角帯をしめた着流し姿で、震災後のバラックの家に私を訪れたときの、わかわかしい健康な顔が思い出される。私もすぐに角帯をまねた。笑止の至りである。★(筑摩別巻2P274)
この「着流し姿」も件の大島ではないか。
一書に曰く、
私も着物に詳しくはないので、よくは分からないのですが、「さらりとした」とあるので、絹物かなと思います。
ということで、たぶん件の大島紬。
今なら、ブルージーンズのところを、昔は久留米絣だったみたいです。
特に男の子の普段着は久留米絣。それに兵児帯。
そういう年齢は過ぎていたのでしょうが、大島紬に角帯、印伝の煙草入れねえ。
日本橋、大店の若旦那か?
今なら、ユニクロのジーンズの群に、ひとりイタリアンファッションみたいなものかな。
堀家というのは、そういう家だったのですね。
By妻 -
堀辰雄文学記念館常設展示図録表紙より。
1930年(昭和5年)掘辰雄26才です。
羽織を着ている。これがおつい?
一書に曰く、
大島紬というのは、着物好きには、憧れのモノらしく、by夫の母も我が母も、何枚か残しております。
ところが、今の時代、骨董市に行きますと、一枚3千円もしないのですよ。
姑さんは特に、ゼロがいっぱいついてるの買っちゃった!とか言っていたのに、その嫁ときたら、それがどれだか分からない。
だとしたら、3千円で売るわけにもいかないし。
今や、箪笥のぬしですよ。居座っております。
By妻 -
堀辰雄文学記念館常設展示図録より。
1951年(昭和26年)の掘辰雄。47歳。信濃追分の新居に引っ越したばかりです。床の間には川端康成の書がかかっています。
このころはまだ、具合がいいときは坐って机に向かうことができたのです。
着ている着物は26歳の時と同じに見えるのですが。
21年もたっている。いくら大島でもそんなにもつものなの?
一書に曰く、
大島紬が、なんでそこまでファンがいるかというと、普段着の帝王なのですね。いくら何百万円しても、しょせん普段着。
と言うことで、「こんな高価な物を普段に着てる贅沢」が良いのかな。
長持ちするしね。
母は、母の祖母が着ていた大島紬を、仕立て直して父に着せておりました。
それもわが家にあずかっておりましたが、この度、兄が、大店では全然ないけれど、日本橋のご隠居になりましたので、譲りました。
着ているはずです。
百年近く経つのかな。
印伝の煙草入れも勧めておきましょう。
By妻
掘辰雄はいつも身軽に生きようと言っていました。本以外はモノを買わなかったようです。
着れるモノなら、何十年も同じ着物を着ていてもおかしくない。
再び犀星「わが愛する詩人の伝記・掘辰雄」より。
★私はずっと辰雄歿後の後年、奥さんのたえ子に、大島のおついが一揃えおありでしたろうと言うと、たしかに、ございました、永い間着ていましたけれど、何分にもお古いものでございましたから、もう、ほどいて了いました。切れ端でもあったらお大事になさいというと、それはもう、きちんと糊張りにしてしまって置いてございますと、言われた。口でうまい事をいって何処かに突き込んであるんじゃないかと言うと、たえ子は開き直って、じゃお見せしてもいいわ、畳紙にきちんと包んでございますのよ、いまごろ、いじめようとしたってちゃんとする事は、みな片づけてあるんですもの、時々、現われてあらさがしにつけつけ言おうとなさっても、もう、晩(おそ)くてだめ、と、彼女はてんで受けつけなかった。★
1951年(昭和26年)の写真は、しげがつくり、着流し姿で神西や大野を訪れた黒い着物と同じじゃないですかね。
多恵子は夫の没後、おついを大事に箪笥にしまっておいたのです。
犀星の文章は小説的脚色があると、多恵子も言っています。しかしこの件では、本当に怒ったのではないか。
その後おついはどうなったのでしょう。
多恵子は亡くなる2010年までは必ずや大事にしまっておいたでしょう。今も多恵子の縁者のどなたかの桐のタンスに、睡っているのでしょうか。 -
「わが愛する詩人の伝記・立原道造」(青空文庫)より。
★「センセイ」
と、或る日、立原は更(あらた)まって用事ありげな、不安の面持でいった。
「何や。」
「詩の原稿のストックがありませんか、こんど雑誌を出すのにほしいんですが。」
私は原稿のストックという言葉に、はじめて腹を立てて呶鳴った。
「君じゃあるまいし、凡そ書きための原稿なぞ一枚だってあるものか、ばかも秤りにかけてから言え。」
立原は私の怒りが本物であることを、顔色で見とって言った。
「参った、失敬なことを言いました。」
私は彼があまりに悄気たので言い更めた。僕なぞは一行でも書くと売るという厄介な仕事をしているので半枚の書きためもないのだよ、若い時分は詩も何十枚も書きためていたが、もうそういう美しい宝舟は僕という港には繋がれていないと、いくらか彼をなぐさめ、自分の怒りを自分で取り消す顔付でいった。少時経ってから立原は、僕はノオトには何冊も書きためがあるといったから、それだから君の毎日は愉しいし、反対にいつも空っぽの僕は悒鬱な顔をしているんだと、私は胡麻化して言った。★
このエピソードはかなり有名で、何カ所かで引用されているのを見た記憶があります。
場所も年月日も犀星は書いておりません。
この現場に多恵子はいたのです。
日記をつけておりました。それによると1938年(昭和13年)の2月中頃だそうです。鎌倉で喀血し、入院した辰雄を見舞ったあと、道造と2人で大森の犀星の自宅を訪ねました。そのときの出来事でした。
ことの顛末は犀星と同じ。
その後の流れが書いてあります。
犀星夫人が夕食を勧めました。
多恵子はその場に座っていられなくて口実を作って犀星宅をお暇しました。ところが、道造は、
★それなのに叱られた当の立原さんは、先生のお小言に悄げてしまっても、奥さまや朝子さんや朝巳さんと仲善しだったからなのでせうが、あとに残られ、奥さまの御馳走を頂かれたやうでした。★(葉鶏頭P213)
一書に曰く、
このエピソード、すごいな。さすがです。
まず夕食を勧めた犀星夫人がすごい。
それを断らずに、食べていった立原道造もすごい。
だってね。
もし、ここで、このままお開きにしたら、ケンカ別れですよ。
次に会ったときの気まずさったら。
会いたくないかもしれません。
それで、それほどの、つまり絶交する迄の気持ちでなかったとしても絶交になってしまいそうです。
こういうことは、時間を置いては駄目なのです。
どんなに怒ったって、御飯を共にしたら、気まずさはさらりと流れます。
多恵子さんも良い判断でした。
だって、多恵子さんがいたら、犀星は、多恵子さんとばかり話して、和解のチャンスがなかったでしょうからね。
私が、この年になって気づいたことに、若くしてこの人達は、自然にできたのですねえ。
でも、このときの御飯、最初は、味したかしら?
By妻
犀星は道造を「どうぞう」と呼んでおりました。
多恵子と道造のつきあいは、この事件のあと道造の死まで約1年でした。
4月の辰雄・多恵子の結婚式のとき、辰雄の介添え役は道造でした。それを含めて会ったのは5,6回だそうです。それなのに大変親しい気がしておりました。それは?
★それはきっと、室生さんのお家の方々や、福沢紅子さん、野村英夫さんも勿論、私たちはよく道造(どうぞう)さんとはか、立原さんはとかいって、思ひ出話をして来たせゐなのかもしれません。★(葉鶏頭P213)
道造の死後、彼の全集刊行の資金作りで、掘辰雄たちが蔵書の競売会をしました。多恵子も手伝いました。その場で小堀杏奴を見かけました。(掘辰雄の周辺・立原道造P83)
小堀杏奴(あんぬ)森鴎外次女。随筆家。1909-1998、当時31才。1934年結婚して小堀姓。彼女もまた、道造の詩の愛読者であったのでしょう。 -
山芝
▲▼
記念館の南の庭は芝におおわれております -
高麗芝かと思いましたが、山芝だそうです。山芝は野芝ともいい、野生種に近い。高麗芝より密度が荒く手入れが簡単だそうです。
1952年(昭和27年)この家を建てたとき、山から10坪ほどの山芝を移植しました。
1961年(昭和36年)には今のように庭一面に広がりました。庭から浅間山、蓼科、八ヶ岳が見えたそうです。(葉鶏頭P115)
犀星介入
▲▼▲▼
室生犀星は庭造りの名人でした。掘没後、早速介入してきました。
★信濃追分の家の庭芝を剥がして土を生かし、土の面を見て楽しむといいと忠告されたりした。庭造りの名人である室生さんの言葉でもそうたやすくその忠告に従えないこともある。そんな時、「掘君も君には相当手こずったのだろうな」と突き放したような言い方をされた。★(掘辰雄の周辺・室生犀星P25)
でました、犀星の「手こずった」発言。
多恵子が犀星のいいつけを聞かなかったので、現在も記念館の芝生の庭はあるのです。
これは正解。
この庭は南の国道18号に向かって傾斜しています。土のままだと水の流れができて小さな渓谷になります。芝生は地下20cmまで根が張って、抜群の吸水力があります。
この庭が崩れてしまわなかったのは、多恵子さんが犀星に逆らったタマモノであります。
一書に曰く、
庭を芝生にしたいというところが、海外帰国子女ですわね。
今でこそ、芝生の庭も一般化しましたが、昔は、石や苔を楽しんだのではないですかね。
犀星記念館も、岩がゴロゴロ、苔むしたお庭でした。
犀星の美意識と多恵子さんの美意識は、隔たりがあります。
並木に犀星のご推奨の楓を、半分だけ植えて、顔を立てたところが可笑しい。
「手を焼いただろうね。」と言われて、
と言うか、どういうイントネーションで、そんなひどい言葉を言ったのか、そこから知りたいですが。
言われた多恵子さんは、こたえた風がないのだけれど、多少は、メゲちゃってたのかしらん。
By妻
以下は1970年ころのお話しのようです。
芝生のメンテには多恵子も苦労しています。冬の終わりに枯れ芝を焼くと春にいい芽が出るのですが、火の回りが予想外に速く、「気が付くととんでもない処がちょろちょろ燃えていたりします。」(返事の来ない手紙P29)
まさにその通り。あたふたして、長靴で火を踏み消している多恵子さんが目に見えるようです。私たちも何回もやっているので、よく分かります。
スエーデン製の芝刈り機を使いました。
★芝の中に生える可愛い花も一緒に刈ってしまうので、私は見つけ次第、移植鏝で掘り起こし、移し植えています。★(同P30)
大変だ。
でも多恵子のおかげで、私たちは今、記念館の美しい芝を楽しむことができます。
22年10月に行ったとき、記念館のスタッフさんが、丁寧に芝生を掃除していました。多恵子の仕事は引き継がれているようです。 -
したら面白かったのではないか。二人には漫才の台本のようなエピソードがあります。
そのうちの最高傑作。
要約したら面白くないので、全文引用。
★(友人と隅田川に行って)隅田川のポンポン蒸気に載って浜離宮まで行ったりして。
帰ってから先生(犀星)にその話をしたらすごく叱られましたの。「君はね、泳ぐことなんかできないくせに、船がひっくり返ったらどうするんだ」って。犀星先生はすべてそういう風に心配なさるわけ。だから、どこにもいけないのよ。朝子さんはもっと大変だったんじゃないかしら。★(山ぼうしの咲く庭でP235)
多恵子は、犀星生前は旅行できなかったのです。
朝子は娘の室生朝子。多恵子が在京のとき、犀星が東京散歩をすると、朝子と多恵子がお伴するのでした。銀座が好きだったようです。
電話がかかってきて、急に朝子が来ないこともあったようです。多恵子に犀星をおしつけて、自分はエスケープしたのではないか。
朝子は女学生時代、多恵子に宿題を見てもらった仲でした。
辰雄の死後は「山ぼうしの咲く庭で」のインタビューアー堀井正子によると「過保護な父親のごとき犀星に守られた九年間」でありました。
一書に曰く、
犀星って、ほんとーに、過保護。というかうるさい。
老婆心どころではないです。
よくまあ、悪いことばっかり思いつくこと!
そういう犀星を、面白がって、まあ、ありがたがっている多恵子さん。
尊敬し、慕っていたからこその寛容でしょうか。
By妻
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 前日光さん 2023/05/12 23:07:18
- ほんに、一連のこの旅行記は。。。
- by妻さんのおっしゃる通り、堀辰雄紀行ではなく、「堀多恵子紀行」ですね!
強くそう思います!
しにあさんって、こういうタイプが好きなんですねぇ。
こんばんは、しにあさん、お久しぶりです。
引っ越しは無事澄みましたか?
それとも今、真っ最中?
はたまた、これからですか?
地震の影響は?
何かと各地で自然災害、特に地震が頻発していて、心配です。
さて多恵子と犀星って、そんなに深いつき合いだったんですねぇ。
しかもかなり五月蝿い舅のようです。
でも多恵子さんが嫌がっている感じはありませんね。
ま、いうことを聞かずに庭に芝生を植えたようで、その選択はこの文学館にとってマイナスではありませんでしたが。
立原と犀星のエピソードにも妙に感心させられました。
立原を残して去った多恵子さんの判断も、結果としてよかったようですし。
立原の死後、その全集刊行の資金作りで、掘たちが蔵書の競売会をしたとき、その場で小堀杏奴を見かけたとのこと、鴎外の次女が、この場面に出てくるのですねぇ。
彼女もまた、立原の詩の愛読者だったようで。
堀辰雄というよりは、多恵子夫人を巡って文壇の輪が広がっていったのですね。
それにしても、しにあさんの好みの女性像が垣間見えてくる旅行記ですね。
割と大柄で、自分の考えをしっかりと持ち、それを主張できる人、いわゆる大和なでしこ風ではなくて、身のこなしが粋な人、意識した身のこなし方ではなく、自然に身に付いた、あざとさのない動きをする人がいいんですね?
拝読していて、多恵子夫人のことだけでなく、しにあさんの考えも伺える旅行記でした(^_-)-☆
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/06/02 18:01:46
- Re: ほんに、一連のこの旅行記は。。。
- 引っ越しは少し余裕がでてきました。荷物がどうのこうから、おちついて4トラのコメントを読もうと思ったのが、その証拠。
堀多恵子の本は10冊あり、ほとんど読みました。「雑木林の中で」は2010年、なくなる直前の出版なのですが、これはどうしても手に入りませんでした。国会図書館に行かなければならないようです。
これからは国会図書館にもいけるので、資料あさりも楽になりそうです。
多恵子のえらいところは、夫の語り部であることに徹したことです。本人も書いていますが、あまり文学的才能がある人ではありません。
「小説堀辰雄」のようなものを書きませんでした。
彼の日常を細々と書き並べることで、辰雄のイメージが読者の中に自然にたち上がってくるのです。素材をわたすから、そっちで勝手に物語を組み立ててちょうだい、ということですね。
小堀杏奴と道造のかかわりは初見でした。だからといってそれが立原道造研究になにかの影響があるはずもないのです。
小堀についてはなにも調べておりません。なにやら猛烈に気の強い女だったようです。その杏奴が「たおやかな」道造を読んでいた、このあたり、ほんわりとおもしろいのです。
私の好みの女性像、うーん、そうかもしれない。大柄と粋以外、ほぼBy妻です、な~~~んちゃって。
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