2023/02/03 - 2023/02/03
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しにあの旅人さん
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1951年(昭和26年)7月1日、堀夫妻は新居に移りました。
堀辰雄没後、多恵子は10冊の本を書き、堀の人生の詳しい記録を残しました。そのうち9冊に目を通しましたが、これから28年5月28日まで、堀辰雄がこの家を出たという記録はありません。庭におりたというエピソードもない。
4畳半の病室と隣の3畳、1間の広縁が1年11ヵ月の堀辰雄の世界でした。
基本参考資料は「堀辰雄紀行1」に並べました。引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
投稿日:2023/03/27
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
掘夫妻の住まいの冬はこんな感じか。
-
雨戸、硝子戸、その奥に障子があったらしい。いかに辰雄が愛した追分でも、この造りでは冬は寒かったはずです。
暖房は炬燵と火鉢。ストーブを使った記述はありません。 -
右が堀辰雄が寝ていた病室4畳半、左が3畳です。
南に大きく開いた明るい家で、具合がいいときは起き上がって庭の景色を楽しんでいました。
2人で間取りを考えたのですが、手前の1間の広縁を作ったのは正解だったと喜んでいました。
一書に曰く、
小さなかわいいおうちでした。
藤棚がありまして、それがテラスのようにしつらえてあります。
我々、後の世の人間は、藤棚から、掘辰雄が寝ていたはずの座敷をのぞき込むというわけです。
サンルーム風に広めに作った廊下には、籐の椅子が置いてありました。
父の実家にも、母の実家にも、籐の椅子があったことを思い出しました。
流行だったのでしょう。
母の実家では、廊下のどん詰まりに、調子の変なオルガンが置いてありましたっけ。
と、昔はこうだったのよねえ。
なんて思った第一回目。
でも、その籐椅子が、昭和の大スター、高峰三枝子からのプレゼントで、床の間の掛け軸が、なんと、川端康成の書だなんて!
ははは~であります。平伏~。
高峰三枝子は、まあいいですが、川端康成ですぞ。
おお!やっぱり掘辰雄は掘辰雄。
わが家などとは、同じはずもない。
と、感服いたしました二度目の訪問でございました。
勉強して、あれこれ知ってから拝見すると、ありがたみが違いますね。
ダイヤモンドも、知らない人間には、ただの石ころですもんね。
By妻 -
多恵子の寝室、3畳。
辰雄の具合が悪くなると、多恵子はこの部屋でまんじりともしないで夜を過ごしました。
室生犀星の「わが愛する詩人の伝記・堀辰雄」(青空文庫電子版)より。
★(堀辰雄は)他人にあえば乱れるし、たえ子ですら、次の間に控えていたからである。彼女はだから堀が寝返りを打つとか、咳のあんばいとか、少しばかりふとんの動く音も、聞き逃がすことがなかった。却って堀よりもたえ子の神経はするどく何時も集中されていて、時々、彼女は低い声でいった。「たすけてほしいのは実際わたくしの方かも知れないのよ、お湯をすする気はいでも、びくっとするくらいですもの。★
一書に曰く、
自分が、彼女自身だったなら、と想像するさえ、言葉にもならない苦しさです。
そして、もしも彼女の友達だったなら、彼女に、「たすけてほしいのは実際わたくしの方かも、、、」などと言われたら、どうするだろう。
どうするだろう。
By妻
★激しい咳の発作が起こると、その苦しみを私にまで苦しませたくなかったのか、傍にいないでくれと(辰雄は)頼みました。私は私で隣の部屋で息を殺して発作のおさまるのをまったこともありました。★(来し方の記P113)
★掘君の病ひが重くなってからたえ子さんは、次の間で笑う時は炬燵の中に顔をいれて笑うようになってゐた。咳をするにも然りであった。そんな笑ひ声でも掘君に応えるからである。★(室生犀星「半分づつの命」筑摩別巻2P389)
一書に曰く、
室生犀星は、私なら、どうするだろう?と、立ちすくんでいるしかなかった立場の人でした。
病に苦しむ掘辰雄。それを看る多恵子の苦しみを、万感の思いでいたわり続けた人だったのです。
彼らの苦しみを救う直接の手立てを、犀星がもっていたわけではなかった。けれど、苦しみと闘うふたりにとっては、傍らに犀星がいるかいないかは、大違いだった。
そう思わせられる、犀星です。
By妻 -
床の間の掛け軸は川端康成から贈られたもの。
「雨過山如洗」
堀辰雄が川端康成におねだりしたものです。
康成が快諾してから1年経って、この家の新築祝いにと送ってきたとのこと。
川端夫人から、康成が落款を逆さまに押してしまったので遅くなったと、手紙があったそうです。(堀辰雄の周辺・川端康成P46、葉鶏頭P197、60)
川端康成はこの揮毫を全力で書いたのです。
落款を押し間違えたからといって、簡単に書き直せるものではないらしい。
★辰雄の死後、新潮社から、全集が出たとき、箱の背文字を先生にお願いすることになりました。その時、「三日徹夜しましたがふさわしく書けませんでした」というお手紙を頂き、大変驚いたことがありました。★(葉鶏頭P198)
「堀辰雄全集」の5文字に3日徹夜!
川端康成は掘辰雄が好きだったのですね。
床の間左の床柱は辛夷の木。芥川龍之介の書斎を真似ました。(葉鶏頭P58) -
堀辰雄文学記念館常設展示図録に一枚の病床の掘辰雄の写真があります。
「昭和27年、病床の辰雄」とあります。辛夷の床柱の前です。
堀辰雄ファンとしては、衰えた堀辰雄を見るのは忍びないのです。
常設展示館にも展示されています。なぜか。
この写真が撮られたいきさつを知ると、展示せざるをえないと思います。多恵子によると、 -
★山下さんは前の年に主人を見舞いに来てくれているんです。戦死した息子さんが、「もし自分が死んだらお骨を志賀高原にまいてくれと言ったので、お骨をまきに来た」とおっしゃって、寄ってくださった。久留米のお医者さんで、「息子が堀さんをたいへん尊敬していたから会いたい」ということだったんで。
主人は寝ているところでよく知らない人に会うのはうれしくないし、写真も嫌だったんですけど、アルバムの中に寝ている写真が一枚ありますでしょ。あれは山下さんが写してくださったものなの。息子さんのために是非ということで、息子さんが残していった手書きの詩集をわきに置いて撮った写真なんです。★(山ぼうしの咲く庭でP218)
畳のうえにあるのが手書きの詩集でしょう。
堀辰雄と戦争の関わりを物語る数少ないエピソードの一つです。
一書に曰く、
病気のことばかりに気を取られておりましたが、世は戦中、戦後のどさくさの時代でした。
戦争で、多くの健康な若い男が死んでゆきました。
こどもだって、あの「火垂るの墓」の時代でした。
戦地で、人肉を喰ったなぞという小説が出たのは、戦後何年だったのでしょうか。
徴兵から逃げ続けるという男の小説もありますが、息子が、徴兵検査で不合格になったのが、申し訳ないという母親のエピソードを、住井すゑが「暮しの手帖」に回顧しておりました。
当時、どんな理由であれ、兵隊に行かないのは、申し訳ないことだったのですね。
掘辰雄は、病床で、どんな気持ちで、その時代を過ごしていたのでしょうか。
そんな時代、国のために命を犠牲にした青年の親の願いを、どうして断れましょうか。
掘辰雄の、真心の写真です。
By妻 -
高峰三枝子は1936年(昭和11年)東洋英和女学院卒ですから、多恵子の母親静の後輩になります。
この年女優としてデビュー。1938年(昭和13年)には歌手としてもデビュー、掘夫妻は名前は知っていたでありましょう。 -
広縁の籐椅子セットは高峰三枝子より贈られたものです。
-
三枝子との交友は古くからありました。
1949年(昭和24年)4月神西清はわざわざ高峰三枝子のブロマイドの絵はがきを掘に送っております。文面はただの時候の挨拶。
辰雄が「美人だね」くらい言ったのではないか。清は辰雄を冷やかしたつもりでしょうか。(筑摩来簡323)
キャサリン・ヘプバーン
▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲
辰雄はアメリカの女優、キャサリン・ヘプバーン(1907-2003)のファンでした。1935年(昭和10年)神西清にたのんで富士見高原療養所にブロマイドを送らせています。(筑摩書簡198)
三枝子とキャサリンになにか共通点がありますかね。まあ、要するに辰雄の好みはこの辺りであったということで。
昭和10年代の東京の娯楽の中心は浅草でした。辰雄の実家向島から近く、三枝子やキャサリンの映画を見ていたのかもしれません。
一書に曰く、
by夫も、話が暗くなるのは、嫌なのか、ここで華やかな映画のはなしになりますが、掘辰雄の小説って、映画になりますかね。
キャサリン・ヘプバーンは、今の人には知られていない女優さんですが、美人です。本格派美人です。
オードリー・ヘップバーンの方が、日本では人気ですが、掘辰雄の時代にはまだ、オードリー・ヘップバーンは、出ていないのではないですか。
「ローマの休日」は、1953年だそうです。
By妻
7月2日、引っ越しの翌日「朝の便で高峰三枝子さんからお見舞いを頂く」とあります。(葉鶏頭P65)
三枝子はこの引っ越しを知っていたわけで、つきあいが深かったことが分かります。
★高峰三枝子も堀の小説を愛読し、歿後もずっとたえ子夫人とのつきあいが続いていた。この頃、お会いした香川京子も、たえ子夫人から聞くと、やはり堀の本が好きで、追分の家まで訪ねて行ったそうだ。たとえばこの二人の佳人がその例にすぎないが、作家が女の人にあいどくされるということは、どこかに通うている血が感じられるのである。★(「わが愛する詩人の伝記・堀辰雄」)
高峰三枝子は堀作品の大ファンで、堀の友人の手紙のやりとりにたびたび名前が出てきます。
堀辰雄→神西清書簡/筑摩712/昭和26年(1951年)3月17日付け/信濃追分油屋隣より
後述の「菜穗子」映画化に関し、神西が映画会社との交渉にあたっていたので、
★カツドウヤとの交渉が不愉快だったら遠慮なくその話蹴ってくれたまえ、(ほかならぬ高峰でもやりたいといふのなら話は別だがね、呵々)★
高峰三枝子主演なら映画化に応じると言っている。そのあと「呵々」とはなにか、本気か冗談か分かりません。
映画「菜穗子」は掘の作品を組み合わせたストーリーだったらしい。
神西によれば「掘辰雄作中人物の顔見世興行みたいなものだ」(筑摩来簡472)
小説上菜穗子は27,8才という計算になります。「聖家族」では絹子は17才、「ルーベンスの偽画」くらいから始まるとすると「少女」は15才くらいかな。
高峰三枝子はこのとき33才、後述の原節子も33才ですから、28才の菜穗子はできなくはない。ただ15才は無理でしょう。
岸田今日子
▲▼▲▼▲
女優さん、まだある。
年月日が分かりませんが、岸田今日子が来ています。
★岸田今日子さんが馬に乗って北軽井沢からやってきて、あの庭の木に馬をつないで、サイダーを飲んでいったり、ずいぶんいろんな人が来ましたよ。★(筑摩別巻2P318)
岸田今日子は昭和5年(1930年)生まれですから堀夫妻が新居を構えた昭和26年(1951年)では21歳です。
かつての草軽電気鉄道北軽井沢周辺に今日子の父岸田国士の別荘がありました。堀辰雄文学記念館まで22kmくらいですから、馬で来られないことはありません。4時間くらいかかるでしょう。元気なお嬢さんです。1950年くらいから芝居を始めていたようです。
馬で来るとは!
堀夫妻も驚いたことでしょう。 -
岸田国士と堀夫妻は面識がありました。昭和26年春から岸田国士は「菜穗子」の映画化を企画しており、監督は木下恵介を予定。岸田も木下も堀作品の愛読者でした。(堀辰雄の周辺・岸田国士P220、神西清→堀辰雄書簡/筑摩来簡447/昭和26年(1951年)4月7日付け)
この時期、堀作品の映画化企画は一種のブームだったみたいです。
「角川」は角川書店つまり角川源義。
★昭和25年(1950年)春ごろ、角川が「菜穗子」映画化の話をしていたが、その後なんとも云わないところをみると、その方の話は自然消滅になったらしい。★(神西清→堀辰雄書簡/筑摩来簡441/昭和26年(1951年)3月15日付け)
東宝からも同様の企画が多恵子に来ていました。
映画化には神西清が堀辰雄のいわば代理人として応対していました。
神西の掘当て書簡から、映画企画の中身を見て見ます。
昭和28年5月27日の段階、つまり辰雄死去の前日、
松竹案
監督・木下恵介/主演・高峰秀子(この時29歳)
東宝案
監督・豊田四郎/主演・原節子(この時33歳)
松竹案では、小山祐士の脚色でシナリオ第一稿が完成し、昭和27年の婦人公論4-5月号に掲載されました。(筑摩8巻P428脚注)
木下恵介が脚本の検討に入り、原作料の振込直前までいっておりました。
神西清→堀辰雄あて書簡/筑摩来簡561/昭和28年5月27日付け
★(木下恵介・高峰秀子、豊田四郎・原節子)のコンビと、どっちが堀先生はお好きなりや、お暇の節お考えおきありたし。★
この手紙が信濃追分に着いたとき、堀辰雄は死去しておりました。
企画の発案者岸田国士、1954年(昭和29年)3月5日死去。
神西清は堀辰雄の死後、新潮から刊行される堀辰雄全集の編集に全力投球で、映画化などにはかまっていられなかったのではないか。
この企画は実現しませんでした。
堀辰雄が5月28日の危機を乗り越えたら、高峰秀子あるいは原節子演じる菜穗子をスクリーンで見られたかもしれません。
岸田国士、神西清、丸岡明、中村真一郎などが脚色に参加する企画でしたから、後年の2作のような適当なものではなかったでしょう。
おまけです。
堀没後、角川と新潮が全集刊行で競合しました。大手であり、今後の多恵子の収入のことを考えると、新潮で出すべきだと神西は考えました。ごねる角川源義の説得に、國學院の師である折口信夫を引っ張り出すなど、大変な努力をしました。(堀辰雄の周辺・神西清P42)
源義は折口に出てこられてはどうしようもありません。全集を新潮に譲りました。
折口は「掘君はうらやましいほど、いい友人を持っているね。」と言ったそうです。(同P42)
このとき10年後には角川が全集をだすという約束があったようですが、今度は新潮が、早すぎるとごねました。その説得にあたったのは川端康成でした。(堀辰雄の周辺・川端康成P47)
新潮版は1954年-1957年と新版1964年。角川版1963年-1966年、その後筑摩版が1977年-1980年、1996年-1997年の2回刊行されています。再版を含めて42年間に5回全集が刊行されるというのは、あまり例がないと思います。
筑摩版2回目は現在も販売中です。
私が十代の終わりで読んだのは角川版1963年-1966年、手元にあるのは筑摩版の1回目です。 -
映画化の話を続けます。
写真は軽井沢高原文庫に移築された、堀夫妻の別荘内部にあったポスターです。
「風立ちぬ」
監督:島耕二、久我美子、石浜明主演。
1954年(昭和29年)東宝。
「掘辰雄作品より」となっています。
内容は潤色されており、原作とは似ても似付かないシロモノです。同じなのは題名だけ。題名だけ使わせたということです。生前辰雄は、それはそれでかまわないと言っておりました。
多恵子も神西清も一切言及しておりません。 -
1976年、東宝。
「風立ちぬ」
監督:若杉光夫、山口百恵、三浦友和主演。
やや原作の面影を残しているそうです。「原作:掘辰雄」と書いてあります。
山口百恵主演だから、私としてはなんでもOK。しっかし、あの健康そのものの百恵ちゃんが、矢野綾子になれたのかねえ。
一書に曰く、
この別荘というのは、丸太小屋みたいな家で、「菜穗子」よりかハックルベリーの家みたいでしたが、木の壁に、唐突に山口百恵のポスターでした。
まったく場違いなかんじ。
「伊豆の踊子」のほうは、のちに話題になっていますから、「風立ちぬ」は、成功とは思われていないみたいですね。
雰囲気違うよね。
観ていないのに、勝手なこと言ってスミマセン。
小説を映像化するのは、かなりハイリスクな賭博のように思います。
人間の好みは、それこそ人の数ほどですから。
大抵、「思っていたのとは違う」のではないでしょうか。
わたしなぞ、「風立ちぬ」のヒロインのモデルといわれている矢野綾子の写真を見て、違う。と思ってしまいましたからね。
一重の切れ長の眼で、ほっそり、俯き加減な人ってイメージだったのは、肺結核からの連想でしょうか。
写真の矢野綾子さんは、二重のぱっちりした目で、健康的な南国風美人でした。
大柄な人だったらしいです。
多恵子夫人も背の高い人だったらしいので、キャサリン・ヘップバーンといい、掘辰雄は、体格のいい人がお好きだったようですね。
By妻
堀辰雄自身は自分の作品の映画化にあまり関心はなかったようです。そもそも映画化が可能だとは思っていなかった。
辰雄は多恵子に、自分の亡き後は神西清になにごとも相談するようにと言い残しました。その神西も4年後に死んでしまったので、映画化の問題がおきたとき川端康成に相談しました。
★「堀さんの作品の映画化にそんなにこだわることはないでしょう。映画と小説は別個のもので、映画化されたそれが良いものであればそれでいいのです」と諭されたのは忘れられない。★(堀辰雄の周辺・川端康成P46)
その結果がこの映画ということでしょうか。
三つ目の2013年宮崎駿監督「風立ちぬ」はまだ記憶に新しい映画ですが、2010年の堀多恵子の没後であり、ここでは言及いたしません。 -
悲しい思いで
▲▼▲▼▲▼
★私は或長雨の日、無意識に「つまらないなあ」とつぶやきながら硝子戸越しに庭を眺め、そして其所にあった籐椅子に腰を下ろし、何気なく病人の方に目を移しますと、じっと私の方を見て何か言いたそうにしている顔にぶつかりました。私は、
「どうかなさったの?」と聞くと、
「つまらないのかい、どうしたらいいのだろうね」と言われ、すっかりあわててしまったことなど思い出します。自分が無意識に言うそうした言葉がどんなに相手の気持ちを暗くし、悲しませるかに気づいて驚いたのでした。★(来し方P122) -
それがこの籐椅子なのでしょう・・・
-
この一節が印象に残っていて、籐椅子を見たとき「これかな」と思いました。
堀辰雄は、自分の病気が多恵子を束縛していることを絶えず気にしておりました。 -
この写真のガラス戸の向こうでの出来事でありました。
-
一口のごま塩のおにぎり
▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲
多恵子は辰雄の食事に気を使っていました。
厳密なカロリー計算をして病人に無理強いしたら、下痢などかえって悪い結果になったこともありました。
辰雄は山菜が好きでした。
最初は気味悪かったドジョウも裂いて柳川などを作りました。「柳川はあの独特な鍋がないと気分がでないな」と、多恵子をこまらせたとか。
「独特な鍋」って、なんですかね。
皮を剥いだウサギを丸ごと1羽もらったときは、さすがにかわいいお目々がどうにもならず、油屋に頼んで調理してもらいました。
辰雄は多恵子の苦労を知っていたのでわがままは言いませんでした。しかし食欲のないときはどうしようもありません。
★たった一度こんなことがありました。私の一生懸命つくった夕食に辰雄が箸をつけてもくれないので癇癪を起こして、お皿の中のものをぽいと縁側から庭先に捨ててしまったのです。まだ何かがみがみ言いながら台所へ行こうとした私の目に、辰雄の眼尻を流れる一筋の涙がうつりました。私はそのまま部屋を出て込み上げてくる悲しみに、子供のようにしゃくりあげながら、もう一度、辰雄が食欲のない時でもどうにか喉を通る、小さい一口のごま塩のおにぎりをつくったことなどがありました。★(以上来し方の記P114-116)
このエピソードは昭和33年(1958年)ごろ雑誌に掲載されたようです。それを室生犀星が読んで、「辰雄の思い出」として1冊の本にする前に、この部分を「そっとお膳を下げた」
くらいに訂正するように多恵子に忠告しました。「辰雄の愛読者がもっているイメイジを私(多恵子)の書くもので毀してはならないとお思いになったようだ」
それを多恵子が「嘘は書けない」と押し切って、そのまま昭和34年(1959年)に本にしました。
こういうふうに多恵子が犀星に逆らうと、いつもそのあとで「ほり君も君には相当手を焼いただろうね」と言ったそうです(葉鶏頭P182)。
犀星の忠告は分からないでもありませんが、このエピソードで辰雄と多恵子のここでの生活が、ひときわイキイキと私には感じられるのです。
一書に曰く、
今では、誰にも信じてもらえないのですが、現役時代のby夫が、食欲をなくしていたときがあったのです。
毎日毎日、残業残業、本当に忙しいときでした。
仕事は、楽しかったようです。
が、それでも忙しすぎました。
最初ははりきっていたのに、だんだん疲れがたまったのでしょうか、食器に盛り付ける、いつもの量が多いと言うようになって、朝ご飯は食べずに出勤すると言い出しました。
好き嫌いのない、食欲だけはある人なのに。
夜中まで帰ってこないのに。
そこで、私も考えました。
本当に小さな、親指と人差し指を丸めたくらいの小さなおにぎりを、二つ三つ作ることにしました。
朝、出勤の用意をする間に、ちょっと口に入れて、お茶を飲んで。
それを、何週間続けたでしょうか。
気がつけば、ちゃんと、元通りの食生活にもどっておりました。
やっぱりね。
日本人には、お米がおいしいのです。
なかでも、人の手で包み込まれたおにぎりは、塩気と共に、握る人のナニかが加味されるのでしょうか。どんなときでも、おいしいですね。
by夫は、そんなことあったっけ。と思っているでしょう。
あの頃、日本が元気いっぱいだった時代、どこの奥さんも、これくらいのことはしていたんじゃないでしょうか。
それでも、握る方は、何とか食べさせて元気にしたいと必死でしたわね。
多恵子夫人のエピソード、他人事には思えませんでした。
必死さは、比較になりませんが、ちょっとだけ、私も多恵子夫人でした。
By妻 -
辰雄は「俺には3人の妻が必要だ」と言っておりました。
なぬ?!
★その3人の妻とは、朗読の上手な妻、料理のうまい妻。そして一等看護婦のようなつもりだったのだろう。★(返事のこない手紙P71)
料理についてはOK。
ドジョウを裂いて柳川までつくっております。
朗読とはなにか。
最晩年の辰雄は起きて本を読むことができなくなりました。多恵子は、本の朗読をすることになったのです。ところが朗読は大の苦手。
本人が言うので、下手だったのでしょう。
どんな本かというと、漱石、鴎外、荷風、旧約聖書。書名が書いてあるのは、
「思ひだす人々 内田魯庵」
「十千堂目録 尾崎紅葉」
「明治文壇回顧 馬場孤蝶」
などなど。
原文にあたってないので、どんなものか見当つきませんが、明治の文章日本語です。泉鏡花の小説まで読まされたそうです。(来し方の記P57)
プロのアナウンサーだって、初見だったらスラスラとは読めませんよ。
多恵子さん、よくやったと思います。 -
こちら側の病室で寝ている辰雄に、隣室から読んだのです。
それでも具合のいいときは、
★寝床に仰臥して、胸の上にコンサイスをのせ、字引を引きながらフランス語の本を読んでいたこともあります。(中略)本を取り上げたらきっと熱がでたかもしれません。
夜になると疲れてしまうので、私の下手な音読を聞くことで我慢をしてもらいました。私が読めない字にぶつかってつかえると、隣室から教えてくれる始末なのです。★(同P95-96)
辰雄は一度読んだことがあるのです。漢字までよく覚えているなあ。 -
★(夏は友人達が訪ねてきて賑やかだが)あとはもう。みずから看護卒をもって任じておられる快活で勇ましい多恵子夫人との完全なZweisamkeit(ふたり居の静けさ)なのだ。★(神西清「高原の人」筑摩別巻2P186)
看護卒つまり看護兵、辰雄の言う一等看護婦。
神西は多恵子あての手紙で、自分は看護卒の助手だと言っております。(筑摩来簡397)
★その前でも助手(看護卒の)が必要でしたら、予定など蹴っとばして、いつでも応召の覚悟です。何とぞご遠慮なくお申しつけ下さい。★
多恵子は夫を守って結核に戦いを挑んでおりました。看護卒は的確です。
でもこの看護婦さんかわいそうです。
主治医は掘を尊敬していた加藤周一。加藤は掘が危なくなったとき、リンゲルを打ちました。注射器を持つ手伝いは多恵子。
★掘(多恵子) どきどきしてなれない手つきなものだから「もっと立てて!」と叱られるわけ。(中略)
加藤 掘さんを助けるとか助けないとかになると、奥さんのことなんか考えてられない、丁寧もなにも、どう思うなんてことにかまってられない、こっちは忙しいんだから黙ってろってな具合でね。★
加藤におこられたと辰雄にメソメソしたら「みんな一生けんめいにしてくれるんだよ。そのくらいなんだ」とまた叱られたのです。
以上筑摩別巻2月報11「掘さんのこと、福永のこと」(座談会、中村真一郎、加藤周一、掘多恵子、1980年)
一書に曰く、
三人分の仕事をした多恵子夫人。
身体の世話から、精神の世話まで、掘辰雄は、多恵子夫人に丸抱えです。
掘辰雄という人間は、彼女がいなければ、もっと早くにその人生を終えていたことは間違いない。
そして、掘辰雄という作家も、彼女がいなければ、これほどの作品を残せたのか。
誠に、掘多恵子という女性が、掘辰雄を創ったと言えると思います。
掘辰雄のファンは、多恵子夫人に感謝ですね。
By妻 -
本の話しのついで。
「大和路」の取材で、2人で京都などを旅した、まだ辰雄が元気だったころ。
★私は本屋歩きを辰雄と一しょにするのが嫌いで、「それだけは真平ごめんなさい」といつも願い下げにしていました。「本屋を一しょに歩くと、かならずのようにお腹が痛くなる」という私の言訳を仮病だと思っていたようでしたが、「本はお前のライバルみたいみたいだね」などとからかったりしたこともありました。★(来し方の記P93)
仮病そのもの。
「真平ごめん」などと、ベランメエ調になるくらい嫌いだった理由は書いてありません。多恵子は気短な人だったらしい。延々と本を眺める辰雄に我慢できなかったのでしょうか。
多恵子が正面から辰雄に逆らった珍しい例です。
一書に曰く、
本屋に行くと、便通がよくなるという話もあります。
印刷インキのなせるわざともいわれております。
もちろん、個人差はあるようですが。
私は、掘辰雄タイプで、何時間でも本屋にいたいのですが、by夫は、「30分後に、時計のしたに集合。では解散!」とかです。
小学校の遠足じゃあるまいし。
第一、いつからアンタは、私の担任の先生なの?
By妻
辰雄が稼いだ原稿料はすべて本に消えたようです。
一方印税は全部多恵子のもの。
この件次回で詳しく。
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この旅行記へのコメント (5)
-
- 前日光さん 2023/04/12 00:31:20
- 知らなかった!
- こんばんは、しにあさん&by妻さん
三月いっぱいの孫守りですっかり疲れてしまい、なかなか元気が出なかったのですが、今日は昼においしいランチを食べ、帰ってからいつの間にか寝てしまったのですが、珍しくぐっすり眠れて頭がすっきりしました。
孫守りは、孫姫1に手こずりました。
幼児心は複雑で、考察してみると文学になるかも?なんて、今は思っています(^_-)-☆
さて、あの籐椅子が高峰三枝子女史から送られたものだとは!
私も二度目に訪れた時に見たような気が。。。
そしてあの床の間の掛け軸が川端の文字だったとは!
これは知らなかったので、もしまたあの文学館に行くことがあったなら、そのつもりで見てみようと思います。
知らないで見過ごしてしまい、深い後悔の念に襲われることは何度となくありましたが、文学館や博物館というものは、二度行くべきだと強く思いました。
一度目は軽くさらっと眺め、情報を知ってから深く見つめなおす!
そうすると、得られるものは多いような気がします。
百恵ちゃんが「風立ちぬ」で、矢野綾子を演じたことは知っていましたが、確かに健康的な感じのする百恵ちゃんには、綾子の役はちょっと。。。と思います。
「絶唱」はまぁまぁだったし、「春琴抄」での盲目のわがままな娘役も悪くはなかったのですが。。。
結核の女性役は、どうなのかな?と"(-""-)"
「伊豆の踊子」も「野菊の墓」もよかったのですがねぇ。
私、けっこう百恵ちゃんのファンだったので、ひいき目に見ているかもしれませんが。
綾子役って、もう少し儚げな感じのする女優がいいと思います。
若かりし頃の木村多江さんみたいに不幸顔の人だといいんじゃないかと。。。
堀辰雄は、自分が病弱だったから、大柄でしっかりした感じの女性に惹かれたのでしょうかねぇ。
山下医師が撮ったという病床の辰雄は、良い感じですねぇ。
眼鏡をかけた辰雄の写真とは別人みたいです。
この手のタイプは、ある種の女性の心を捉えますねぇ。
もちろん私も「ある種の女性」に属していますが。
腺病質の弱っちいのが好みなので、ちょっとばかり心を持っていかれました(^▽^;)
それにしても多恵子夫人はの奮闘ぶりには、頭が下がります。
強い人ですよね?
辰雄の寿命が少しでも延びたのは、絶対に夫人のおかげだと思います。
辰雄と一緒に本屋歩きをするのが嫌いだったという多恵子の、その理由には笑えました。
同時にby妻さんとの、本屋でのしにあさんご夫妻の闘争にも頷けるものがあります。
「学校の遠足じゃあるまいし」、「いつからアンタは私の担任の先生なの?」という件には声を上げて、笑ってしまいました!(^^)!
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/04/12 13:44:22
- Re: 知らなかった!
- 孫守りご苦労様でした。我が家はお姫様一人ですから、この種の苦労はなし。
記念館は3回行きました。多恵子の手記を読み込んでいきましたので、石一つ、木一本の由来が分かっていたので、実に面白かった。
この記念館のガイド、というか、うんちく集としては、多分これまでにないものだと自負しております。
将来「風立ちぬ」シリーズをやるつもりですが、その時はこの2本の映画をもっと取り上げてみたいと思っています。百恵ちゃんの「風立ちぬ」は、テレビ放映があったみたいで、なんとか映画そのもをみられるのではないか。最初のやつは、どうでしょうね。キネマ旬報で資料を探してみたい。
もうすぐ都内に簡単に出られるようになるので、資料あさりが楽になりそうです。
多恵子のイメージをだいぶしっかり掴めるようになりました。このあとこのシリーズの一つで「多恵子と犀星」というブログを出す予定です。その時、お披露目できると思います。
加藤多恵という女性は、決して美人とはいえないのですが、堀辰雄は初見から惚れ込んだみたい。その理由をなんとなく説明できると思います。
1953年5月28日の堀辰雄の臨終はあまりに突然でした。運命といえばそれまでですが、何かが一つずれていれば避けられた運命のような感じ。
多恵子としては残念であったでしょう。
昭和30年代の高度成長と医療の飛躍的進歩はもうめの前でした。この日を乗り切ったとしたら、堀辰雄の再起はあったのではないかと思うのですが。
歴史にIFはないのと同様に文学にもIFはありません。
-
- kummingさん 2023/04/02 12:33:31
- 一口のごま塩おにぎり
- しにあさん、by妻さん、今年は桜の開花が早かったですが、どこぞにお花見に出かけられましたでしょうか?
4畳半と3畳の小さなおうち、ですが堀辰雄氏晩年の闘病の場、として捉えると、看病した多恵子さんの心中に思い至り、息詰まるような空間でもある。
有名人からと知らないで見るのと知って見るのとではありがたみが違う!凡人の私にはあるある、でございます。ホンモノだと思ってたら実はレプリカだった⁈知って損した気分になります。
病床の貴重な写真を撮らせたエピソード、山下氏は東京の久留米のお医者さまですか?国のために命犠牲にした青年の願いをどうして断れようか、まっこと真心の写真ですね。
キャサリンヘップバーンといえば「旅情」でしょう。「招かれざる客」とか晩年の「黄昏」も良かった♪
作品映画化の話も多かったのですね、「風立ちぬ」の題名は知っていますが、映画はどれも見ていません。原作と映画は似て非なるもの、脚本化の時点で別モノになってしまうのではないですかねえ?原作が好きで期待して映画を観ると大体期待ハズレ、逆に映画を観て原作に行くと、当たる確率高い気がします。映画単体としてはおもしろくても、どうしても原作とは別作品になってしまう傾向ありませんか?
全集刊行の出版社競合にお出まし頂く方々(*_*)折口信夫氏に川端康成、堀辰雄家調度品(籐製の椅子、掛け軸)プレゼントに並ぶ大物が登場♪ その時代に愛されていた作家だったという事でしょうか。
ありし日『一口のごま塩おにぎり』で支えたby妻さんが、今日のしにあさんを創ったように、3人の妻をこなした多恵子さんが「堀辰雄を創った」のです。
えっ、本屋行くと便通が良くなる⁇
- しにあの旅人さん からの返信 2023/04/02 12:51:55
- Re: 一口のごま塩おにぎり
- 久留米はそちらの久留米です。お伺いしようかと思っていました。息子が戦死されたお医者の山下さんではわからないでしょうね。終戦時50-60才ではないでしょうか。
後ほどまたコメント返事書きます。とりあえず山下医師の件。
- しにあの旅人さん からの返信 2023/04/08 06:34:41
- Re: 一口のごま塩おにぎり
- 本屋で云々のお話は、化粧品、お薬の通販宣伝と同じです。個人の感想と思ってください。
多恵子さん、この部分だけ、キッパリとダンナに楯突いております。本当に嫌いだったのでしょう。私はウインドウショッピングなるものができないタチです。買いもしない物を眺めている気持ちがどうしても理解できません。夫婦逆ですが、多恵子の気持ちよくわかります。
小さなお家です。よく考えると、あれは寒さしのぎですね。小さな部屋なら火鉢とコタツくらいでなんとかなるかもしれません。広縁を障子で仕切ってしまえば、7畳半の小さな部屋です。
現場を見て、多恵子の手記を読むと、二人の生活がリアルに感じられます。嵐の時、多恵子は夫の布団の上に覆い被さって守ろうとしたことがありました。
高峰秀子の映画「菜穂子」は見たかったです。ただし神西清や福永武彦が脚色に加わっているので、確実に木下恵介とぶつかったでしょうね。ロケ隊が追分で無遠慮に堀家にやってきて、多恵子と大立ち回りを演じた可能性もあり。それはそれで面白かったかも。
シナリオ第一稿は、国会図書館に行けば読めるみたい。いつの日か、行ってみるみるつもりです。
実現寸前まで行ったみたい。神西清夫人から多恵子に、松竹からの原作料払込先の銀行口座問い合わせの手紙が残っています。
堀辰雄は同時代人からの評価が非常に高ったのです。このあたりは、今ではちょっと想像できません。
それが作品なのか、人柄なのか、よくわからない。人柄とすれば、半分は多恵子のおかげですね。
頼みもしないのに、友人知人がよってたかって助けに来るのです。神西清などの友人はわかりますが、川端、折口、犀星など。
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