2023/02/03 - 2023/02/03
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しにあの旅人さん
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グーグルマップで探すと泉洞寺の境内に「歯痛地蔵」というのがあります。これが堀辰雄の石仏です。
掘辰雄没後1980年代になると、軽井沢町が「堀辰雄の愛した石仏」として宣伝したので、多恵子の友人から「あの石仏が見たい」とリクエストが来るようになったそうです。(山麓の四季・道の辺の石仏P123)
巡礼地ということで、同好の士がいっぱいいるかと思いましたが、2回行って、だれにも会いませんでした。
基本参考資料は「堀辰雄紀行1」に並べました。引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
投稿日:2023/02/24
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
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-
★その藁屋根の古い寺の、木ぶかい墓地へゆく小径のかたわらに、一体の小さな苔蒸した石仏が、笹むらのなかに何かしおらしい姿で、ちらちらと木洩れ日に光って見えている。★ (青空文庫/筑摩第3巻P102))
「大和路・信濃路」の冒頭「樹下」の書き出しです。1944年(昭和19年)1月の発表。
その「石仏」がこの仏さん。 -
信濃追分の泉洞寺というお寺の境内にあります。
-
「この仏さん」など気安いですが、掘本人が「いかにもお粗末なもので」と書いております。
思っていたより小さい。 -
2月に行ったとき、By妻が説明板読んでいるすきに、比べました。
By妻152cmです。 -
木漏れ日はちょうど当たっていました。
-
苔の有無よく分からず。
一書に曰く、
歯痛地蔵さんは、お寺の裏、墓地の入口にいらっしゃいました。
本当に、さりげなく、木漏れ日の下に、のんびりと。
ここだけ時間が止まっておりました。
広隆寺とか中宮寺とかの半跏思惟像と同じポーズなのです。
が、ここのお地蔵さんは、うたた寝しているとしか見えませんでした。
歯が痛いふうには、思えなかったなあ。
民を救う方法を考えているようにも思えなかった。
すーすーという寝息が聞こえそうでした。
By妻 -
お地蔵さまを一周します。
https://youtu.be/hC3oLw1UR98 -
多恵子によると、戦後お寺の維持費のために、寺内の樹木を伐採、売り払った。
堀辰雄は多恵子に「面倒だろうけど、お寺まで行って、あの例の石仏を危なくない処に移しておくように、和尚さんにたのんで来てくれないか」と言いました。
伐採の後石仏はもとの位置にもどされましたが、日光にさらされ、苔ははげ落ちてしまいました。
また1959年の台風で残り少ない樹木もなぎ払われました。
というわけでせっかくの苔むした石仏は現在のような形になったそうです。(葉鶏頭P104-106)
堀辰雄がお寺の住職と親しかったので、石仏は無事だったのです。墓地のちょうど出口ですから、伐採やトラックの出入りでちょっと間違えたら、もろい焼け石のお地蔵さんなど、いちころです。
「石仏」のなかに次のような住職の話があります。
★(堀の質問)「ときどきお花やお線香などが上がっているようですが、村の人たちはあの像にも何か特別な信仰をもっているのですか?」
最後に私はそんなこともきいてみた。
「さあ、それもいつごろからの事だか知りませんけれど、わりに近頃になってからだそうですが、歯を病む子をつれて、村の年よりどもがよく拝みに来ます。」そういってその住職は笑った。
「あの指先で頬を支えている思惟の相が、村びとにはなんのことやら分からなくって、いつかそんな俗信を生むようになったと見えますな。」★ -
左足の膝の上に左の肘をついて顎を押さえている。「歯が痛いよ~~~」と嘆いているようにも見えます。追分村の村人さんの気持ち分かります。
-
堀辰雄のころ、1944年(昭和19年)頃は、お花やお線香がときどき供えられていました。
多恵子のころ、1961年(昭和36年)では「香花もほとんど見られなくなってしまった。」
10月に私たちがお参りしたときは、ドングリだけでした。 -
2月ではドングリ1個。オフシーズンではあります。
軽井沢や小諸まで行けば歯医者はいっぱいありますが、信濃追分にはありません。いいのかね。 -
お地蔵さんの右の木は、住職が植えた樅の木だそうです。(山麓の四季・道の辺の石仏P122)
多恵子がこの文章を書いたのは1980年(昭和55年)、42年もたつとさすがに木も成長しました。あと百年もすれば、再び石仏は苔むすでありましょう。
一書に曰く、
写真を見ると。不自然なポーズに見えます。
右腕とか脚とか。
実物は、そんなことも感じないほど、素朴で、人工物なのに自然そのもの。
ドングリなんかと同じ。
きっと、この仏様は仏様として、成仏なさったのでしょう。
だから、このお地蔵さんに、お願いしても駄目ですよ。
だって現役ではないのだもの。救済係も引退して、ドングリと同じ。
ドングリに願掛けする人いますか?ね。
いっそ、清々しい。
By妻 -
お寺の入口には「歯痛地蔵(堀辰雄の愛した石仏)」と立派なキャッチ。
-
これが軽井沢町の説明板。
内容から、多恵子が友人を連れて来たときにはあったようです。
★軽井沢町で立てたのだろう、大きな立派な立札に、堀辰雄の愛した石仏、と書かれ「樹下」のことなど記されている。私は友人が来て、あの石仏が見たいなどというと、つれだって出かけたりすることもあるが、その前に立つのはなんとなく恥ずかしい。★(山麓の四季・道の辺の石仏P123)
まあ、いいではないですか、多恵子さん。あなたの最愛の夫を慕う人々の賛歌なのです。
★しかし一人で雪の降る日などに出かけ、寒そうな石仏を見ると、積もった雪をそっと払い落としたりして、何かを語りかけたい気持ちになったりすることもある。★(同上)
1980年(昭和55年)の文章です。夫の死後27年。
私たちも雪を被った石仏を期待していたのですが、雪はありませんでした。ただ寒いだけ。 -
一書に曰く、
泉洞寺本堂。
このお寺さんは、歯痛地蔵より、稲垣黄鶴の碑のほうを、お寺としては力を入れていました。
ここ追分出身の女性書道家で、貞明皇后にも書を教えられた方だとか。
お寺のかなり目立つところに、大きな石碑がありました。
句碑の他に筆塚というのもありまして、もう、全寺あげて、黄鶴さんを応援していました。
彼女は、2007年に103才で亡くなっていますので、掘辰雄は、この石碑をご存じなかった。 -
泉洞寺さんは、このほかお地蔵さんにも力を入れていらっしゃいました。
若い方向けの旅行誌には、カーリング地蔵がよく取り上げられているようです。
他にも、仲良しとか、勉強とか一つ一つ題名をつけたお地蔵さんが、沢山ありました。
どのお地蔵さんも、体形的には、のび太の味方のネコ型ロボットみたいで、子供たちのピンチを救ってくれそうでした。
これも掘辰雄は、ご存知ない。
掘辰雄のお墓は、東京の多摩墓地にあるのですが、室生犀星は、ここ泉洞寺にするべきだと、多恵子夫人に言ったそうです。
もしそうだったなら、カーリング地蔵のついでに掘辰雄のお墓も見ておくか。とかのお若い衆もでてきていたでしょうね。 -
泉洞寺は、名前のように、澄んだ水がたっぷり、しかもかなりの速さで流れる用水路が印象的なお寺でした。
-
★追分村の中央にある本陣の横から真っ直ぐに浅間山に登る道がついている。★(葉鶏頭P18)
-
これがそうではないかと思います。
-
かつての追分本陣跡地。
明治11年(1878年)明治天皇巡幸の際にはここに行在所が設けられました。 -
記念碑が建っています。
-
本陣は明治末期には解体されたそうです。
-
旧本陣向かって左に隣接して、浅間山登山道が始まります。
多恵子が言うところの「本陣の横から真っ直ぐに浅間山に登る道」です。
続き。
★その道を500米ほど、落葉松の林の間をゆくと急に展けたところに出る。なだらかなスロオプになっていて、あっちこっちに白樺が立っている。そこからもう少しゆくと、赤く濁った水を湛えている血の池にでる。この辺までくると桔梗も沢山咲いているし、又その色も実に鮮やかだ。★ -
本陣横の小道を500m行くと、現在は千メートル林道に出ます。標高1000mを巻いている林道でしょう。
展けていないなあ。
1949年の話ですから、まあ、しょうがない。70年あれば、苗木もこのくらいの森になります。
血の池というのは、グーグルマップによると弁財天神社の境内にあります。
直線4.1kmです。山道ですので、「もう少し行くと」というわけにはいかないのではないか。あるいは多恵子さん、すこぶる健脚なのか。 -
1937年(昭和12年)の「牧歌」にこの小路のことがでてきます。
副題が「恩地三保子嬢に」となっています。
「牧歌」堀辰雄バージョン
▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼
★けふは浅間登山道を僕は真直に登ってきた。★(筑摩第4巻P108)
その前日作者つまり堀辰雄は同じ路を若い娘3人と歩きました。
イブキジャコウ草といういい匂いのする花が咲き乱れている原っぱにきて座りました。
一人は恩地三保子。一人はこないだ自転車から落ちて足に包帯を巻いている自転車娘。
もう一人は、
★一番最後に、いつまでも僕たちのそばに立ったままそれ(イブキジャコウソウ)を一本もぎとって手でいじってゐた、もう一人の大人寂びた女友達も、とうとうその花の傍らへ腰を下ろした。★(4巻P112)
大人寂びた女友達=加藤多恵。1年後には堀多恵子。
加藤多恵バージョン
▲▼▲▼▲▼▲▼▲
版画家恩地孝四郎が、主催していた雑誌「書窓」に載せるため、娘の三保子(みおこ)に手紙を持たせて、堀辰雄に直接執筆を依頼しました。
三保子このとき20歳、多恵子の東京女子大2年下の後輩、親友でした。
多恵子はこの夏病気療養のため、弟とともに信濃追分油屋に滞在しておりました。焼ける前の油屋です。
多恵子さん、浅間高原を着物姿で闊歩していたようで、なにが病気療養か。思うに、実物は相当のオテンバだったのではないか。
後年ですが、小諸の駅で客車に乗り遅れたので、強引に機関車に乗って追分まで帰ったことがあるそうです。(山ぼうしの咲く庭でP164)
一書に曰く、
どういうことだろう?
ホームに駆け込んで、そこに機関車がいた。
と、汽車が動き始めたから、機関車に飛び乗った。
運転士さんが乗れと言ったのか、勝手に扉を開けて乗り込んだのか。
(扉ないですか?あるように記憶しておりますが。)
運転士さんは驚いたでしょうねえ。
その後の気まずさといったら。
頑張りました。多恵子さん。
By妻
加藤多恵バージョンではこの道は下り。この時は2人でした。
辰雄は本陣の裏手あたりに来ると、多恵子の足もとにコロコロした黒いものを見つけ「それ山羊のうんこ、うんこ」と言いました。
★私(多恵子)は娘心をまだたくさん持っていた頃だったので、まあなんてことを言うのかしらと、妙に恥ずかしくなり、すんでのところで愛想づかしをするところだった。★(葉鶏頭P102、返事の来ない手紙P60)
この思い出は強烈だったらしく、多恵は2カ所に書いています。辰雄さん、ふられる寸前だったのです。
一書に曰く、
「風立ちぬ」を書いた人が、うんこ、うんこ。
息子も4,5歳のとき、そういう言葉を意味なく言いたくて、歩きながらでも言っていました。
言うと、お口が嬉しいんだそうですよ。ハハハ
更に続きがありまして。
友達に相談したら、
「うちの亭主なんて、今でも言ってる。」
By妻
★堀はその頃もういくつかの作品を書き、「風立ちぬ」の作者として私もその名をすでに知っていた。私はまだ二十三歳かそこらで、堀を自分の結婚の対象としては考えてはいなかった。私たちの年齢の開きは九歳であったし、私は少し名のある小説家のおじ様と散歩し、いろいろの話が聞けるのが楽しかったのじゃないだろうか。
その夏、私は親友恩地三保子さんを追分に呼んだ。★
「堀辰雄というおもしろいおじさんがいるから来てみない?」と三保子に手紙を書いたのです。
恩地孝四郎と堀辰雄は面識がありました。恩地はこれさいわいと信濃追分に行く娘をメッセンジャーにしたというわけです。
全くの邪推ですが、父親としては、堀辰雄が娘を気に入ってくれるといいな、と思っていたかもね。邪推です。邪推。
一書に曰く、
掘辰雄が小父さん?
私の祖母は、今生きていたら120才になる人ですが、女学生のときに結婚しております。
長女の母は六月生まれなので、卒業式のときには、妊娠後期。めだったことでしょう。
母が女学校に入ったとき、同級生に、祖母の同級生の娘さんがいまして、母子二代に渡って同級生だと申しておりました。
母の時代でも、高等女学校は、県下にいくつもありませんでしたから、そういうことも起きたのでしょう。
祖母は18才で出産したのですから、その同級生もそういうことになりますね。
昔は、早婚なのは珍しくなかったようです。
そういう時代に、とん女在学中の二十歳の女性が、三十代初めの掘辰雄をオジサン呼ばわりするものかなあ。
適齢期の女性が、適齢期の男性に、小父さん?
By妻
恩知三保子、1917年-1984年。翻訳家。「若草物語」「あしながおじさん」「大草原の小さな家」などの翻訳が有名。「大草原」は今もBy妻の愛読書です。
一書に曰く、
「若草物語」「あしながおじさん」も大好きでした。
御世話になりました。
ありがとうございました。
けれど、訳者の名前は、存じ上げなかった。
一般的に、原作者の名前は、知られても、翻訳者の名前って、知られていませんね。
コンニャクにでも、できる仕事と思われているんですかね。
By妻
恩知三保子バージョン
▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼
「牧歌」のころ/恩知三保子/筑摩別巻1月報P5
★「堀さんというおもしろい小父さんもいるからいらっしゃい」という手紙を多恵子さんからいただいて、追分へ出かけていったのは1937年の夏、二十歳のときだった。(中略)おさない頃から本の虫だった私は、父が手掛けた装填本が次々と送られてくるのを息つく間もなく読み漁っていた。(中略)小説の中ですでにいっぱしの人生を見終えた気になって、十代にして恋にも結婚にも絶望していた珍妙な存在であったから、おそらく堀文学を、例え読んでいても判る筈がなかった。★
おもしろい小父さんだって。
三保子によれば、堀は、
★無口でやさしい小父さんだった。(今でも二十歳の女の子には三十歳を越えた男性はだいたい小父さんだろう。)(中略)そして多恵子さんは二年上級で、当時は卒業生でもあり、大人大人した着物姿だったので、「大人寂びた女友達」と堀さんが書かれたとおりだった。
★
「私(多恵子)はその頃いつも和服を着、大人ぶっていた。」とご本人が書いています。(返事の来ない手紙P58) -
こんな路の向こうに原っぱがあって、そこにはイブキジャコウ草が咲き乱れているらしい。
私たちも行ってみようと思ったのですが・・・ -
「感染予防対策を行うため、すぐには救助に行かれません」
え!
助けに来てくれないの?
でも浅間山に登るわけじゃなし・・・ -
ゲゲ、クマ生息地域。
くまった!
手垢が1cmは積もった駄洒落で恐縮です。
堀辰雄と娘3人は、クマを蹴散らしながら森を歩いたのでしょうか。
私たちは携帯ラジオ・鈴持ち合わせなし。仲間との会話つまり得意の夫婦喧嘩は疲れていたのでその気力はなし。
で、諦めました。
一書に曰く、
鈴、あとで買いました。
観光協会の女性に勧められて、愛宕山に登ったときに、持っていったのですが、熊も鹿もウサギもタヌキも出ませんでした。
半化けタヌキは、傍にいましたが。
By妻
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この旅行記へのコメント (4)
-
- 前日光さん 2023/03/05 00:01:52
- 素朴ですよね(^-^)
- 歯痛地蔵ですか。
頬を抑えていると、確かに歯が痛い人みたい。
ちなみに私は、中宮寺の弥勒菩薩半伽(「足偏に加」なのですが文字が出てきません)思惟像が好きなのですが、この歯痛地蔵は、その原型みたいな気がしないでもないです。でも、中宮寺の方が古いですよね?
kummingさんは「へのへのもへじ」と言っていますが、そうなのかも。
三十代の堀辰雄は、9歳ぐらい年下の女の子から見たら「おじさん」なのかなぁ?
昔の人は老成していましたからね。
by妻さん、私も「若草物語」と「あしながおじさん」、大好きでしたよ!
特に「若草物語」は、「第四若草物語」まで持っています。
ベスのようないい子は神様が早いところ、天国に連れて行ってしまうのですね。
夭折するから、あんなにいい子に書かれていたんですね。
私は、自分の母親がマーチ婦人のようによくできた人物ではなかったので、この母親に憧れておりました。
おっと、話題が逸れてしまうのは、kummingさんと同じです。
昭和30年代から40年代ごろまでは、「若草物語」のような作品がありましたよね?
「小公女」、「小公子」、「秘密の花園」、一連のバーネット作品も大好きでした!
今は、あのような清らかな作品は絶滅危惧種なんですね。
ああいった作品を素直に楽しめた時代は、もう来ないのでしょうか?
そういう観点から考えると、堀辰雄作品のような結核・美少女・高原のサナトリュウム・高等遊民的な世界というのは、もはや時の流れの中に消滅していく運命なのでしょうか?
純愛というのは、死語なのでしょうかねぇ?"(-""-)"
時代の流行りというのは、今どきは「鬼滅」のなにやらが受けていますが、私は全く読んでいません。
なんだかつまらない時代になってしまいましたね((+_+))
古いものばかりがいいとは言いませんが。。。
まとまりがなくなってきました。
今回はこの辺で(^.^)/~~~
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/03/06 06:47:32
- Re: 素朴ですよね(^-^)
- おはようございます。
歯痛地蔵は、古さからいうと、問題にならないと思います。おそらく江戸後期あたりでしょう。分去れの石仏が安永年間ですから、18世紀後半、旧中山道の宿場として追分が栄えたころではないですか。
信濃追分は浅間根腰三宿の一つでとても栄えたそうです。宿場女郎などがたくさんいて、それにまつわる悲しい伝説もあるみたい。油屋には、心中した侍と宿場女郎のお話などがつたわっていました。
あのお地蔵さんは、そういうようなものと関係があるのかなと思いました。
あまりガラのいいところではなく、女の旅人は追分を避けて、隣の御代田に泊まったとか、追分資料館に解説がありました。
多恵子の描写だと、堀辰雄はおっさんですね。これについては、次のブログで、By妻が鋭く多恵子の心理分析をしています。本当におっさんだと思ったら、おっさんとは書かないそうです。
By妻は、せっせと赤毛のアンなど少女小説を揃えています。7歳の孫姫がもう少し大きくなったら、渡すのだそうです。そういうのが好きな子に育ってくれるといいのですが。
私も、彼女が高校に入った頃読んでもらおうと思って、4トラの旅行記を書いています。
目下のところ、デズニーのお姫様、鬼滅のナントカ、すみっこ暮らし、コロコロとお好みが変わります。
長嶋茂雄ではないですが、堀辰雄は不滅です、と円地文子が書いています。風立ちぬはいつも本屋にあるし、赤毛のアンも文庫本で並んでいます。当面大丈夫だと思います。
ただ、買っているのが、By妻のような、かつての若い娘の可能性もあります。
「古いやつだとお思いでしょうが」という鶴田浩二の名台詞があります。この歌が1970年、当時も古いものは新しいものに追われていたようです。それでもまだ生き残っているので、なんとかなるのではないかと思っています。
-
- kummingさん 2023/03/01 11:23:26
- Google Mapにも載っている⁈
- しにあさん、by妻さん、こんにちは♪
堀辰雄の愛した石仏、巡礼地として登録?紹介されているのですね。「このお仏さん」、
お顔を見て「へのへのもへじ」を連想してしまいました。木漏れ日の中、何を主張するでもなく、のんびりとひっそりと穏やかにたおやかに佇まれるお姿、『無』、の境地と『無償の愛』を感じました。見ているだけで救われます。
たぶん今、心が弱っていて、近年珍しく物事が肯定的に捉えられなくなっている自分にそう見えるだけかもしれません。こんな事を書く気は毛頭なかったのですが、大体、このシリーズにコメント書く事自体、めちゃくちゃ気が引けています。
確かに、半跏思惟像と同じポーズですね。頬を抑えている思惟の姿が「歯痛地蔵」俗信を生んだのかもしれませんね。堀辰雄氏が、「何か語りかけたい気持ちになったりすることもある」という気持ちに共感を覚えます。
「大草原の小さな家」原作は読んでいませんが、NHKの連続ドラマを楽しみにしていました。父も大好きでした、再放送もしっかり視聴♪ 赤毛のアンに続くby妻さんとの共通項が見つかって嬉しいです^o^ 本題は翻訳者の恩知三保子さんでした、テーマからズレるコメントは毎度のことでm(._.)m 翻訳者次第で原作の意味や雰囲気がずいぶん違ってしまうものですよね。
件の石、もでしたが、この仏さま、の写真も何枚撮られた事やら(*_*)半化けたぬき= 前のブログでは160枚もの写真(写本?)を撮られたという、あの方の事ですよね?傍らでページをめくり、押さえていらしたby妻さんの「無私の愛?」に拝礼♪
- しにあの旅人さん からの返信 2023/03/03 07:19:19
- Re: Google Mapにも載っている⁈
- へのへのもへじ、気がつきませんでした。どっかで見たことあるなと思っていましたが、そうかあ、へのへのかあ。
昔はもっと目鼻立ちがはっきりしていたでしょうが、今はご覧の通り。でも下手に彫られているより、こっちの方がいいかもしれません。
作った人は、後世このようにみんなから愛されるとは、思いもしなかったでしょう。
焼石というのは、浅間の噴火で撒き散らされた火山岩らしい。
なんの気兼ねがいるものか、どんどんコメントください。
これからお話は文学的というより、辰雄と多恵子の馴れ初め、などと週刊誌的になります。気楽にお付き合いください。
恩地三保子という人は、相当面白い人だったようです。これからも多分出てくると思います。
歴史に残る翻訳を残しておきながら、「あんなのは生活のためだ」とうそぶいていたそうです。
By妻に写真がくどいと言われている半ばけたぬきでございます。それで今回はスライドショーにしました。Pesaruさんみたいに動画に文字を入れる方法がわからないので、静止画像の方が扱いやすい。好きにコメントできます。
160ページの写真は、朝も早よから~♪でした。ホテルのロビーですからね、窓の外はまだ暗く、人が朝ご飯に降りてくる前に二人で頑張った。
今のところ、中古本市場にたった1冊、それも3万円で売りに出ているレア本なのです。
iPhone横にするとちょうど見開き2ページ撮れるのです。誰かに上と下を押さえてもらうと、非常に効率がいい。
写真をそのままブログに使うわけではなし、読めればいいので、これで十分。
スキャンするより楽です。早い。
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