2023/02/03 - 2023/02/03
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しにあの旅人さん
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更新記録 23/10/22:投稿日誤記訂正
掘辰雄文学記念館。
旧居玄関入り口です。
玄関入って左に茶の間、多恵子の部屋がありました。白い柵のむこうです。
基本参考資料は「堀辰雄紀行1」に並べました。引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
投稿日:2023/4/16
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
奥の板の間がたぶん増設した台所と風呂場ではないでしょうか。仕切りの壁があったはず。
多恵子さん得意の柳川はここで作った。
いまは物置状態。 -
「ウインゾルチェア」と説明があります。
-
読みやすいように画像を調整。
「ウインゾルチェア(ウインザーチェア) 虎の門の古道具屋で見つけたイギリス風の椅子」と説明があります。
昭和15年(1940年)春、堀夫妻は杉並の多恵子実家の一隅に家を新築中でした。大阪に行っている多恵子にあてた手紙で、
辰雄→多恵子/筑摩373/4月16日付け
★きのふ虎の門の家具屋で軽井沢の山の家にあったやうな椅子(中古)を見つけ買ふことにしました。金は本を売ってこしらえます。手紙には日付をおつけなさい。★
本を売るって、高い本をもっていたのですね。椅子が安いのか。
掘辰雄は本がだいすきでしたが、本そのものには執着しませんでした。必要がなくなった本は整理してお金に換えていました。このときは画集が化けたそうです。(来し方の記P85) -
手紙に絵を描いています。
ウインゾルチェア?
壊れたベビーベッドに見えた。堀辰雄は絵のうまい人ではなかったようです。「うちの人は、何を買ったのだろ」と奥さんは思ったでしょう。
青木繁など、文章のうまい絵描きはいっぱいいます。竹下夢二は小説まで書いています。逆は少ないみたい。
一書に曰く、
本を読んでいたby夫が、突然大声で笑い始めました。
何ごとかと思ったら、見て見て!
この絵です。
そうかあ?そんなにおかしいかな?
下手は下手だけれど、言われたらわかるし。
わたしは、むかし、美術の授業で、ギリシャの石膏像をロボットに描いた人物を知っていますので、掘辰雄のウインザーチェアは、許容範囲ですけれどね。
ベビーベッドに見えなくもないけれど。
一高、理系出身で、文学者という、パーフェクトに見える掘辰雄の弱点を見つけてうれしかったのでしょうか。by夫は。
By妻 -
多恵子が最初に書いた文章は「辰雄、花、小鳥」でした。1949年(昭和24年)「女性改造」という雑誌に発表されました。49年というと、まだ油屋となりの家に住んでいたころです。
「むかしの人」1950年(昭和25年)も油屋となりです。
両方とも「葉鶏頭」に収録されています。
「葉鶏頭」には「葉鶏頭」1951年10月、「早春」1952年3月、「童話風の手紙」1952年5月なども載っています。ここに引っ越したのは1951年7月ですから、きっとこの部屋で書いたのでしょう。
★私が原稿を書くときは、旦那さんちゃんと原稿読んでくれました。読んで直してくれましたの。ちらっと直すとなかなかよくなるのね。やっぱり違うななんて思いましたよ。★(山ぼうしの咲く庭でP242)
そりゃ掘辰雄に添削してもらえば、いい文章になるでしょう。
ただ、1937年(昭和12年)~38年、婚約前、掘辰雄と交わした多恵子の手紙の文章とはずいぶん違います。あの意味不明瞭な、行ったり来たりする感じではありません。やはり一般読者を相手にするのと、読み手が掘辰雄ただ一人とは違います。
雪が降って多恵子が炬燵にしがみついていると、辰雄が俳句を作ることを勧めたことがありました。試してみました。
★よほどまずかったと見えて、一向に直してもくれませんでした。★(来し方の記P112)
年代が分かりませんが、多分この家に移ってからでありましょう。多恵子さん、茶の間で一人苦吟したのではないか。
室生犀星は多恵子に「もっと漢字を多く使いなさい」と注意したそうです。活字になったとき一見して美しく見える。
一方ダンナは、「なるたけ仮名を使うように」と言ったことがありました。
「?」と多恵子さん思った、じゃないかと。
藤圭子の「夢は夜開く」です。歌詞を書くとJASRACから文句が来ます。
結果は、辰雄さんのいうことを聞きました。漢字をあまり知らないからだそうです。元祖海外帰国子女です。(葉鶏頭P181)
一書に曰く、
わたしも、by夫に、忙しいなら書かなくていいよ。と言われて、その気でいたら、書かないの?と、非難され。
どうすりゃいいのさ。であります。
室生犀星という人も、細々と口出すものですね。
昔の日本男子は、愛情を愛情として表現しないで、文句を言う形で表現するということに、最近、気が付きました。
昔ムカシ、若いわたしがレースのカーディガンを着て職場に行きましたら、
「給料が安いから、こんな穴だらけの服しか買えないんだ。」
と、先輩のおじさんに言われたことがありました。
今の青年なら、「すてきなお洋服ですね。」位のことはいうところでしょうに。
季節らしい涼しげな服着てることに気が付いた。そのことを、伝えたかっただけ、単にかまいたかっただけだと、今なら分かります。
若い私は、言葉の裏に気が付かない未熟者でありました。
室生犀星の場合は、かまいたいのと、本気とでアドバイスするわけで、多恵子さんとしては、従うべきか、従わざるべきか、、、
あ、そうか!
シェークスピアを、現代語訳すると、藤圭子になるのか。
ハムレットは、「どうすりゃいいのさ、このおいら。」なんですね。
By妻
掘辰雄の「辛夷の花」(1943年)は高校の現代国語の教科書に載っていました。By妻が見たことがあるそうです。
多恵子の「夏の日記」(1961年、葉鶏頭P117)も高校の教科書に掲載されました。(返事の来ない手紙P68)
1973年頃のことらしい。新選現代国語という教科書だそうです。
夫婦そろって作品が教科書にのるというのは珍しいのではないか。
堀家の経済
▲▼▲▼▲
掘辰雄はお金に関しては「一、二、たくさん」という人だったようです。
★辰雄は宵越しの金は持たないという江戸っ子気質があったのだろう。あればお金使いの荒い、そして大変気前のいい人だった。★(来し方の記P34)
★彼は原稿料もらうと家に持って帰ってきたことはないのよ。途中でみんなきえてしまう。みんな本を買ってしまうんです。★
堀家の収入は印税で、それは多恵子が管理していました。お金の出し入れは全部多恵子。上手に使ったそうです。辰雄は家にお金がいくらあるかなんて心配しない人でした。
税金の申告、今日でいう確定申告も全部多恵子。
★主人「俺の所得の申告をしているのか」って。「そうよ、あなたのよ。私、結婚してからずっとあなたの所得を申告してますよ」って言うと、「ふーん」なんてびっくりした様子なのね。★
節税できないかといろいろ計算していると、
★「そんなバカなことをして、税金は国民の義務である」なんて仰せられました。わりに真面目な人なのね。★(以上山ぼうしの咲く庭でP169-172)
「仰せられました」だそうです。多恵子さん、あきれている様子ありあり。
一書に曰く、
掘辰雄って、
「納税は、国民の義務である。」
はいはい。
えらいえらい。
でも、掘辰雄が、脱税を推奨したとかだったら、とても尊敬はできませんから、これでよかったのです。
By妻
「山ぼうしの咲く庭で」は1998年出版の本です。室生犀星没後ずっとあと。犀星生きていたら、絶対に削除を命じたでしょうね。これだと、堀辰雄、まるでバカではないですか。
いやそうは思えない。「風立ちぬ」以降、俗事は全部多恵子に任せて、辰雄は創作に没頭したということです。
★堀辰雄は生涯を通じてたった数篇の詩をのこしただけであるが、その小説をほぐして見ると詩がキラキラに光って、こぼれた。こぼれたものを列べてみると、それはみな詩の行に移り、よどみない立ちどころの数篇の詩を盛りあげていた。小説や物語の女達の言葉や行いが、人間の性情にあるときは詩というものが、こんなふうのものかと、そう思われる優柔感をそなえてみせた。★(室生犀星「わが愛する詩人の伝記」)
全編が詩であるような作品を紡ぎ上げる研ぎ澄まされた感性は、税金の計算と両立はしない。堀辰雄のイメージを損なうものとは思えません。
辰雄は中学生のころ、数学のよくできる生徒でした。一高でも理科乙類に進み、数学者になるつもりでした。(来し方の記P52)
その辰雄を文学という魔道に引き込んだのは親友神西清。
アインシュタインは「税金の計算は数学者の仕事ではない。哲学者だ」というようなことを言ったそうです。出典あやしい。辰雄が確定申告を多恵子任せにしたのも、同じ理由といたします。
なおアインシュタインの名言のひとつに「純粋な数学とは、論理的思考が織りなす“詩”である。」というのがあるそうです。 -
記念館の南に小さい建物があります。書庫です。
新居では本は廊下に積み重ねてありました。辰雄は、読みたい本は多恵子に病床まで持ってこさせていたのですが、多恵子が本を見つけやすいように書庫を作ろうと思ったそうです。昭和27年(1952年)秋のことです。
昭和28年5月半ば、書庫はできあがりました。 -
★出来上がった書庫を見たいだろうと思い、一寸起きて御覧になりますか、というと、このままでいい、手鏡をかしてくれと言って、床の中で鏡を使って写してみたりしたのは亡くなる一週間か十日前のことであったように思う。★(来し方の記P61)
辰雄は本を分かりやすく分類し、並べ方まで指示したカードを多恵子に作らせていました。しかし書庫の書棚にならんだ本を見ることはありませんでした。
★私はそのカードにだけたよらなければならないようなことになるとは思っていなかった。死後にはよくわからない事などもあり、福永武彦さんに手伝って頂いたりしてどうにか収めた。★(葉鶏頭P88) -
書庫にこのように整然と本を並べたのは、辰雄の死後、多恵子と福永武彦でした。
もはや見る人はいない。それなのに本を並べた多恵子の心中は・・・想像するだけでつらくなります。
一書に曰く、
掘辰雄が、この書庫の真ん中に、どっしり坐って、読み耽ったのかと思ったら、これは、彼の夢の書庫で、終に自身は中にも入れなかったのだそうです。
そう聞くと、その無念な気持ち、うーむ。やるせない。
家を増築して、隣の部屋を図書室にしたほうが便利ではと思いますが、独立した書庫にしたのは、諸々の事情があったのでしょうが、手近にあると、読み過ぎて体に悪いということもあったのかもしれませんね。
手鏡で、写して見たというところに、辰雄の本に対する執着と喜びと、第三者的には、涙ぐまずにはいられないものがあります。
By妻 -
辰雄の病床があった4畳半から見た書庫。当時は藤棚はなかったかもしれません。石も木もありませんでした。
-
★元気になって病室の籐椅子に腰かけ、別棟の書庫に並ぶ書籍を双眼鏡で見るのだと楽しみにしていらしたのにそれもかなわずじまい、雪柳もこんなに背高く、大きくなってしまっては、書庫の中など今はこちらからは何も見えません。★(返事の来ない手紙P28)
この文章が書かれたのは辰雄の死後かなりたってからのようです。
雪柳は、油屋からもらってきました。植えたのが1951年とすると、もう70年ちょっと。何代も代替わりした雪柳でしょう。 -
辰雄は、植えたばかりの小さな雪柳を、1952年と53年の春、見たのです。
信濃追分で雪柳が咲くのはいつでしょう。行ってみたいなあ。 -
この本、実は段ボールでできたレプリカだそうです。
1990年(平成2年)、多恵子が旧居を軽井沢町に寄付したとき、蔵書も一緒に寄付しましたが、空調のきく倉庫に入れることを条件にしました。すると書庫が空になるので、
★写真複製の方法で、もとの本そっくりの本を段ボールで作って、本棚に納めました。たいへんよくできていて、本物のようでしょう。あれは長野の方が作ったんですよ。★(山ぼうしの咲く庭でP271)
そういえば、 -
左端の一群、和綴じの本のようです。はっきりとレプリカであることが分かります。
外国語の本は多くがこれより前、神奈川近代文学館に寄贈されておりました。(堀辰雄没後50年特別企画展前文)
キリシタンの小説
▲▼▲▼▲▼▲▼
堀辰雄の死後、多恵子は蔵書目録を作りました。筑摩別巻2堀辰雄研究P487以降に載っています。なるほど、多恵子が保管に条件をつける、貴重な蔵書です。
和書、漢籍、英語、ドイツ語、フランス語のおびただしい量の本です。外国語の本、源氏などの日本古典に関する本は、堀の作品にその研究結果が残っているので当然。
中国古典、漢籍も相当ある。
芭蕉が多い。
驚いたのは、キリシタンものの本が多数あることです。多恵子に作らせた分類カードに「キリシタン物」が独立しています。
★こんどのような病気になってからでも、なおったらキリシタンの小説が書きたい(と)言って、キリシタン関係の本は目につき次第古本屋からとりよせたりしていました。このころはもうだいぶ揃って本棚にぎっしり並んでいます。★(葉鶏頭P45)
堀が書きたかった小説の片鱗が垣間見えます。高山右近に興味があったようです。1952年(昭和27年)5月ころのお話しです。
堀が万葉の時代をテーマにした小説の構想をもっていたことは「十月」で彼自身が書いています。
1953年5月28日を乗り越えたら、あと何年かすれば、医学は彼の結核に追いついたのではないかと、思うのですが。
昭和30年代の高度成長期と飛躍的な医療の進歩はもうすぐでした。
キリシタンをテーマにした小説を、私達は読めたかもしれません。
一書に曰く、
こんな絶望的な状態になっても、次の作品について準備していたのは、驚きです。
治るつもりだったのです。
前向きです。
楽天家ともいえます。
親にたっぷり愛されて育つと、こういうポジティブな人間に育つのですね。
こういう所が、周囲の人々から、愛された所以でありましょう。
By妻
掘辰雄の最期については触れません。
多恵子の「来し方の記」P123-124が全てです。要約もできません。その場にいた多恵子が覚えていないのです。
★辰雄を呼び続けている自分の声が静かな部屋一杯になっているのに気づいた時は、もうなにもかも終わってしまっていました。★
掘辰雄はその晩寝支度をしている多恵子にやさしく「お前は意気地がないから心配だなあ」と言いました。
多恵子は、意気地がないどころか、その後半世紀21世紀初めまで、掘辰雄の語り部でありました。
多恵子の最後の物語りは2002年(平成14年)10月6日、88才、堀辰雄文学記念館での講演です。
一書に曰く、
掘辰雄の最期についての描写は、まるで源氏物語の雲隠れのようです。
光源氏の死は、題名「雲隠れ」だけです。
かっこよすぎるぞ。
「おまえは意気地がないから、心配だなあ。」
愛の言葉ですね。
「長患いをして、世話になった。ありがとう。」だと、辰雄は被保護者になってしまいます。
「おまえは意気地がないから、心配だなあ。」
多恵子を、慈しみいたわることばです。
妻を単なる看護師さんにはしなかった。
夫として語った言葉です。
多恵子夫人の心に、しみ通っていったでありましょう。
By妻 -
堀辰雄文学記念館常設展示図録より。
展示館に展示されている折口信夫の弔歌2首です。
★菜穗子の後 なほ大作のありけりと そらごとをだに 我に聞かせよ★
★しづかなる夜の あけ来る朝山に なびく煙を 思ひ出に見む★
「堀辰雄の周辺・折口信夫P105」によれば、通夜の席に急ぎ届けられたのは次の弔歌でした。訃報を聞いて、すぐ書いたのでありましょう。
★菜穂子の後なほ大作のありけりと人も聞かせよ。心なぐさむ★
★しづかなる夜のあけ来たる朝の山 朝の水みな思ひ出とせむ★
「文芸」の堀辰雄追悼号には、展示図録の歌が掲載されました。こちらは折口の文学作品ということであります。4首の歌が作られたのです。
いずれも痛切な哀悼の調べです。
「菜穂子の後なお大作のありけりと」だれもが心から思いたかったのです。
「人も聞かせよ」の人とは、多恵子でしょうね。
「そらごとをだに、多恵子、我に聞かせよ」
1953年(昭和28年)5月28日
▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼▲▼
私はこの日を覚えているのです。
7才の誕生日でした。東京都大田区のナントカという町でした。
まだ戦争の廃墟が残っておりました。残骸の後片付けは終わっており、悪ガキどもの遊び場でした。厚いガラス片が散らばっていました。不思議な甘い匂いがしました。ガキの宝物であり、いっぱいもっているヤツがえらい。あとから分かったのですが、これは飛行機の風防のガラスであり、このあたりに墜落した日本軍あるいは米軍の戦闘機の残骸でありました。鉛が入っているので甘い匂いがしたらしい。匂いガラスと子供たちは呼んでおりました。
しばらく前、母は私の誕生日のプレゼントで、子供用自転車を近くの自転車屋に注文しておりました。しかし直前になって、プレゼントはなし。たぶん、お金の都合がつかったのではないか。「ごめんね」と母は言いました。戦後まだみんな貧しかった時代です。「しょうがないね」と私は思いました。
ところが、祖母が注文を取り消すのを忘れていたのです。
自転車屋は、夕方、自転車を担いでわが家にやってきました。
「また今度にしてください」と祖母は言いました。
自転車屋は、やはり肩に担いで自転車を持って帰りました。 -
記念館の南の端で、By妻がこんなモノを見つけました。長さ15センチくらい。
ポルトガルでこのくらいの大きさの松ぼっくりを見たことありますが、ちょっと違う。 -
中央の小さな木かと思いましたが、右の太い大きな葉の木でした。
By妻が事務局に聞いたら、ホオノキでした。 -
23年2月に写真を撮り直しました。
-
直径50センチ以上はある。
もしかすると、昭和15年(1940年)6月に、堀夫妻、野村英夫、深沢紅子が軽井沢で見たホオノキと関係があるのか、と思いました。
深沢紅子(こうこ)は、堀辰雄詩集の挿絵を描くために、4人で軽井沢を散歩しておりました。
紅子は堀没後も多恵子と交流がありました。 -
出典:堀辰雄文学記念館常設展示図録。
その時の紅子のスケッチ。傘の左が野村英夫、右の眼鏡が堀辰雄、ちょっと離れて多恵子です。旅館ふじやが作ってくれたおにぎりを食べているそうです。
この翌日まだ閉まっていた誰かさんの別荘の庭で、「青白い大きな花」を見ております。ホオノキでした。(筑摩第3巻月報3P6)
一方堀辰雄には「朴の咲く頃」という作品があります。筑摩の全集の分類では小説となっています。同じ話を辰雄の側から見た作品です。こちらには野村英夫は出てきません。やはり小説的脚色があるのでしょう。
深沢紅子が「あら、あんな真っ白な花が咲いている」と気づいた花が、朴の花でした。(筑摩第2巻P296)
この部分、紅子の文章とまったく一致します。見たとおりなのでしょう。
そのときの思い出で植えたホオノキなのか、と思ったのです。 -
軽井沢塩沢の「深沢紅子野の花美術館」です。ここの2階に1枚の肖像画が展示されておりました。
深沢紅子野の花美術館 美術館・博物館
-
美術館カタログ「紅子と省三」P105より。
「青い小さな本 1984年 深沢紅子」とありました。
私はなんとなくモデルは堀多恵子かなと思いました。
しかし1984年って、多恵子71才です。この絵、若すぎないかなあ。
「女、七十路、みくびるなよ」By妻
あ、By妻も七十路だ。
カタログを調べたら、
★さらに掘辰雄の妻で、辰雄の死後も親しく交流した随筆家の掘多恵子がモデルとなったのは、「青い小さな本」(cat.no.143)である。★(P102)
一書に曰く、
多恵子夫人は、気迫の人ですから、ずっと生涯、お若かったと思いますよ。
六十過ぎたら、女は度胸ですわ。
あ、それ以前も。
女は、いつだって度胸ですわ。
おほほ
By妻
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この旅行記へのコメント (4)
-
- 前日光さん 2023/05/01 00:02:30
- 青い小さな本(^-^)
- 素敵ですねぇ(*^^*)
多恵子さんなんですね。
眼鏡をちょっと上に上げる仕草、上品な着物の色合い、七十路、かくありたいものです。
辰雄の書庫、覚えています。
でもまさか、あの並んでいた本がレプリカだったとは(+o+)
辰雄は、この書庫に入ることはなかったのですねぇ。。。
多恵子と福永武彦氏が、辰雄の指示に従って、本を並べたのですねぇ。
(「草の花」、大好きな一冊でした!)
やっぱり辰雄は、金銭に興味がなかったんですね。
ああいう作品を書く人は、銭の勘定なんかに心を砕いてはいけません。
ま、だから全部多恵子さんに負担がかかってくるわけですが。
でも多恵子さんって、そういうこと嫌いじゃなかったんじゃないかと。
それから辰雄の絵には笑えました。
ああいう小説を書いたから、なかなか味のある絵だなんて言われてるのかも?
でも、確かにあれは椅子には見えない。
ベビーベッドですよね?
私も人のことは言えませんが( ̄▽ ̄;)
少女漫画風の絵はなんとか描けるのに、風景とか車とかうまく描けません。
音楽も素晴らしい!とは思うものの、時々眠くなったりします。
私は文章にのみ反応する人間です。
美しい表現は大好き!
そういえば全編がほとんど詩だと思った作品は、北杜夫の「幽霊」です。
辰雄のキリシタンものとか万葉時代のものとか。。。読みたかったですねぇ。
ストマイの出現が遅すぎましたねぇ"(-""-)"
朴の木は、我が家の門を入ったところにありました。
ついこの間まで。
というのは、あまりに成長が早くて巨大化したので、伐採してしまったのです。
あの花の香りは最高でした。
大きな白い美しい花も、すばらしかったのですが。。
まとまりがなくなってきました。
女は、いつだって度胸、by妻さん!同感です!
七十路になったって、度胸をもって、日々がんばりましょう(>_<)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/05/01 05:46:33
- Re: 青い小さな本(^-^)
- 多恵子の絵は、By妻は一目で多恵子と確信したそうです。女同士のテレパシーというか。
私はもしかと思いましたが、後日資料を見るまで確信できず。
昭和27年の多恵子の写真まではメガネなし。
ということは老眼でしょうね。
椅子の絵は笑っちゃいます。辰雄はこれ以外に何枚か手紙に絵を添えています。うまいとはおせじも言えない。
この椅子の絵は、記念館がおまけにくれた栞にも使われていました。
愛嬌はあります。
いよいよ引っ越し準備本番です。頭の中は引っ越しでいっぱいですので、ブログにコメントをいただくと、世界がパッと明るくなります。
お返事が短くなりますが、かんべん。
-
- pedaruさん 2023/04/17 06:18:11
- 堀辰雄 死んでからだいぶ たつお
- しにあの旅人&妻さん おはようございます。
大変楽しく拝読いたしました。堀辰雄記念館に行ったことが懐かしく蘇りました。
縁側のあるあの和室、庭の隅の書庫、思い出しました。
書かれているように、ストレプトマイシンが出るのはもうすぐでした。残念です。
私はストマイで助かりました。その割には何もなさず、まもなく終わります。
思い出しました、木などにこするといい匂いのしたプラスチックのようなガラス片?
一生思い出すことがなかったことが、文を読んで記憶の箱の蓋が開きました。
しにあの旅人さんの旅行記は他の数ある旅行記の中で、保存版の価値ありです。
pedaru
- しにあの旅人さん からの返信 2023/04/21 08:10:49
- Re: 堀辰雄 死んでからだいぶ たつお
- 何か気の利いたダジャレをお返ししようと思って遅くなりました。
結局何も思い浮かばず。まだ修行が足りません。
匂いガラスの同世代ですね。戦後のまだ日本中が貧しかった時代の思い出です。目下引っ越しで、物を捨てるのに苦労しております。なんという時代でしょうか。荷造りを始めましたが、ダンボール何箱になるか見当つきません。無駄なものを山ほど持っております。
私たちが、戦後の貧しかった記憶がある最後の世代ですかね。
小学校給食の脱脂粉乳の思い出は消えません。アメリカの豚の餌のお下がりだそうですが、あれで私たちは命をつなぎ止めたのです。飲まないと先生に怒られるので、鼻をつまんで飲みました。
堀辰雄記念館をおもい出していただいて、堀夫妻になりかわりまして、ありがうございます。
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