2023/02/03 - 2023/02/03
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しにあの旅人さん
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追分巡礼の聖地といえば、堀辰雄旧居、現在の文学記念館と油屋。記念館はもうちょっとあとで、多恵子さんの案内でおうかがいします。
油屋。1937年(昭和12年)11月に火事で全焼した旧油屋旅館と、再建された油屋つまり現在の油や文化磁場です。
もう一つ、掘夫妻が戦争中疎開して、1944年(昭和19年)から1950年まで住んでいた油屋隣の小さな家がありました。今は跡形もありません。ただひとつ、小さな池に頭をだした岩が、その面影を伝えるのではないかと、私は思っています。
一書に曰く、
油や、ささくら、そして掘辰雄記念館は、一本の道に並んでいます。
私たちが訪れた二回とも、人影もなく、時折自動車が通り過ぎてゆくので、現実に引き戻されるような。
夢の中、あるいは映画のワンシーンのような道でした。
これが、夏などのシーズンには、人出があるのでしょうか。
By妻
基本参考資料は「堀辰雄紀行1」に並べました。引用では僭越ながら敬称を略させていただきます
投稿日:2023/02/16
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
旧油屋
▲▼▲
現在の「ささくら」というおそば屋さんの位置に、焼失前の油屋がありました。
堀辰雄が信濃追分油屋に初めて滞在したのは、1934年(昭和9年)7月です。矢野綾子(「風立ちぬ」節子のモデル)あて、7月27日付け絵はがきを書いていますから、この日までに信濃追分に入りました。(筑摩書簡153)
掘という人は、自分の動静を親しい人に小まめに書き送るくせがあります。このとき最も親しい人は綾子ですから、追分入りは多分27日当日か、26日。
この年秋綾子と婚約。
この年は断続的に12月29日まで油屋にいました。宿屋にいるというより、住み着いております。(筑摩書簡180)
翌年12月綾子死去。
矢野綾子に付き添って富士見のサナトリウムに入った1935年(昭和10年)は別として、36年、37年は油屋にいた方が長いくらいです。
37年夏にはここで加藤多恵と知り合い、翌年結婚します。
一書に曰く、
掘辰雄という人は、結核で亡くなるのですが、彼の周囲の人、しかも身近な人々も結核で亡くしています。
婚約者、親しい年下の友である立原道造。
特に婚約者の矢野綾子は、看病しているわけです。
どういう死に方をするのかを、つぶさに見ている。
同じ病に倒れて、自分がどうなるのかわかっていたのですね。
これは、恐かったでしょう。
刻一刻、自分が死に近づいて行っていることは、誰よりもわかっていたのでしょうから。
死を見つめながらの、執筆だったのですね。
結核は、不治の病でした。
By妻 -
現在の油やとの位置関係です。
-
「堀辰雄生誕百年」より。
焼失前の油屋は、旧中山道を小諸から来て右側にありました。
堀辰雄が最終章を除く「風立ちぬ」を書いたのはこの宿です。1937年から38年の冬、年末年始を除いてここに住みました。
11月13日付け立原道造あて封書、
★だがもうこれだけ(手紙を)書いたら手が冷たくってやりきれないからもう止そうと思う。★(筑摩書簡212)
12月24日道造あてはがき、
★怠けてゐたのでけふから仕事をはじめると晩にはもうインクが凍る。★(同216)
マイナス15度くらいにはなるようです。
私たちが行った日はマイナス6度でしたが、写真を撮るにも、バシャバシャっとやってすぐ手袋。
お腹と背中にホカロン、足の裏に貼るホカロンで、体はまあまあ暖かい。時を超えて堀辰雄にモノを送れるなら、まずホカロン。
一書に曰く、
ホカロンというのは、商品名ではないかと思いますが、なんと言っていいのか分からないのでホカロン。
あれは、偉大なる発明ですよね。
昔アルコールを入れる懐炉とかありましたが、これほどには温かくはなかったように思います。
手軽だし、携帯電話と並んだ大発明です。
天災、人災に遭った人たちに送ってあげたいですね。
掘辰雄だって、体を温めていれば、病気にもならなかったかもしれません。
By妻 -
堀辰雄没後50年特別企画展図録より。
道路右にあるので、わかされ方向から撮影しています。道路は舗装されていないみたいです。当時現在の国道18号はありませんので、芥川や片山の車はこんなふうに軽井沢から中山道をやってきたのです。
「ふるさとびと」のなかに、この写真そっくりの場面があります。
★(秋になって)急にひっそりとなった牡丹屋(モデルが油屋)の前に、或秋らしくなった日、一台の最新型の自動車が着いて、そのなかから若い外人の男女が下りた。蔦ホテルかなんかで知合になった同志が、人目を避けて、此処まであひびきに来たらしかった。★(筑摩第2巻P499)
このころ油屋に通年でいたのは、堀辰雄、立原道造、野村英夫くらいでした。彼らが実際に見たとしたら、こんな場面でしょう。
このとき小説では、まだ滞在していた、美術史専攻の学生、松平が通訳してやるのですが、ひょっとして掘たち3人のだれかではないか。
油屋炎上
▲▼▲▼
11月19日に油屋が火事になりました。
この日堀辰雄は軽井沢の川端康成の別荘に泊まっていて留守でした。隣の家から火が出て、油屋に燃え移りました。油屋の建物の下に薪がいっぱい積んであったそうです。
立原道造は二階にいて逃げ遅れました。そのとき油屋の斜め向かいの雑貨屋亀田屋が工事中で、仕事に来ていた大工さんがはしごをかけて立原を救い出したのでした。
「あの時ちょうどうちに大工さんが来ていて、油屋の二階も火がついてしまって、助けにいったんです。(中略)いまでもその梯子は(うちに)ありやすよ」(亀田屋 原田きくよ氏談)」
この講演で多恵子が「亀田屋のおばさん」とよんでいるのが、原田きくよです。
立原道造はこの火事が長くトラウマになったようです。
多恵子は「もしもその火事の時に主人がいましたら、随分体にさわったのではないかと思います。」と言っております。
以上「野ばらの匂う散歩道」P15より。
講演は1993年(平成5年)です。多恵子80歳、講演後の質疑応答などしっかりしたものです。
堀辰雄は油屋に住み着いておりましたので、本や、創作ノート、衣類などを全部失いました。
一書に曰く、
「野ばらの匂う散歩道」という本は、軽井沢の旅館つるやさんのロビーに、「まんがで読む歴史」とかいう、題名は正確ではないですが、そういう漫画と並んでおいてありました。
つるやさんは、旅館ですから、泊まり客の子供用でしょうね。
もちろん、軽井沢関係の沢山の本もありました。
by夫は、掘多恵子さんの本は、読み漁っておりましたが、この本の名前は見覚えありません。
調べてみると、ここ軽井沢での講演会のお話をまとめたもので、今となっては、すぐには手に入らないレア本でした。
もちろん寄贈本で、さすが!つるやさんです。
By妻 -
亀田屋は今も信濃追分にあります。さりげない店構えですが、110年以上の老舗ということです。
-
「雉子日記」だと1937年(昭和12年)では追分のお店は、居酒屋と煙草屋兼駄菓子屋1軒づつしかありませんでした。そのうちのどちらかでしょうね。
1938年(昭和13年)の加藤多恵とのラブロマンスのお話しは、後日じっくりと。
1939年(昭和14年)は油屋には来ておりません。前年から1943年まで夏は軽井沢に別荘を借りています。このお話しも別ブログにまとめます。
1940年(昭和15年)は、一人で6月3日から10日まで油屋にこもって「姨捨」を書きました。「女の一生を二十枚の短編にたたきこむのはなかなか容易でない。」と多恵子に書き送っています。(筑摩書簡393)
多恵子は杉並の自宅で留守番。
このときの油屋は再建された油屋、現在の油やです。
6月4日に分去まで歩きました。「相変わらず淋しいことだ。」(筑摩書簡386)
1925年(大正14年)と変わっていないということです。
1941年(昭和16年)油屋に来ておりません。
1942年(昭和17年)5月末に短期油屋に滞在。10月6日より10月末まで、ふたたび一人油屋にこもって「ふるさとびと」を書きました。油屋からキャベツ、リンゴ、栗など多恵子に送らせています。東京の食糧事情なども悪くなったのです。
1943年(昭和18年)10月15日前後油屋に短期滞在したようです。
1944年(昭和19年)夏を軽井沢の別荘1412で過ごしたあと、追分に移りました。旅行ではなく、空襲が激しくなった東京からの疎開でした。
油屋隣の家
▲▼▲▼▲
昭和19年(1944年)堀辰雄・多恵子夫妻が疎開したのは、油屋隣の家。油屋の主人が用意してくれた家でした。
油屋旅館の隣、8畳、6畳、3畳、台所という間取りの家で、「縁先には小さい池があった」
畳は新しく、大きい半畳の掘りごたつもあった。
★9月17日に私たちは4羽のにわとりと一緒に追分に移った。★(来し方の記P46)
4羽のにわとり?あとで出てきます。 -
堀辰雄文学記念館常設展示図録より。
夫妻が1944年-1951年(昭和19年―26年)住んだ油屋隣の家です。この家は夫妻が現在の記念館の位置に引っ越してからもしばらく建っていたそうです。プロパンガスのボンベがあるから、この写真はかなりあと。これがあれば多恵子も楽だった。 -
油やの庭の一隅にこんな池と石がありました。堀辰雄文学記念館常設展示図録の石と同じじゃないですかね。
-
ここでクレッソンが採れたって。
クレッソンは清冽な水が必要なはずで、当時はもっときれいな水だったのでしょう。 -
油やの隣「古書追分コロニー」の裏手にも池があります。細長くここまでつながっていたのかもしれません。
-
★19年から20年にかけての冬は特別に寒かったように思う。心の準備もなかったからなのかもしれない。何もかもが凍てつく状態というのはまことに残酷なものであった。
油屋の勝手口に水をもらいにゆくことから始まる1日。自分で築いた石のかまどでお湯を沸かす。池からクレッソンをむしり取り、板の上できざみ、米ぬかをまぜて、まずにわとりに御馳走をする。それからかまどのおきを七輪に移し、朝食の支度にとりかかる。これは大体戸外のしごとで、一日の始まりであった。★
多恵子さんが、おいたわしい。
めずらしく夫婦喧嘩らしいエピソードがあります。軽井沢の山荘で、鶏を飼う飼わないの夫婦喧嘩。多恵子は夫に新鮮な卵を食べさせたい。辰雄は多恵子を気遣って、手間がかかることはやめなさい。
★私の小遣い帳に、特に8月12日として親どり一羽三十円、ひな三羽三十九円、私の小遣いで買う、と書いてある。きっと手がかかるからそんなことはやめなさいと言われ、そんなら私の小遣いで買います、などと言い合ったのかもしれない。★
多恵子が連れてきた4羽の鶏とは、この子たちです。
クレッソンをもらった幸せなにわとりは、もったいなくも詩人野村英夫が作った鶏小屋に住んでおりました。英夫は器用な人で大工仕事がうまかったらしい。
以上出典「来し方の記」P44-47。
一書に曰く、
ぜいたくな鶏さんです。
人間は食べなかったのでしょうかね。
外国育ちの多恵子さんが、なにかフランス料理っぽくしたかもしれません。
ブルターニュの人は、生のクレッソンを片手にむんずと取って、バターを適宜のせ、塩を少々で食べるそうです。モシャモシャモシャ。
あ、これは料理ではないな。単なる食べ方ですね。
多恵子さんは、戦時中のモノの無いとき、どうにかして辰雄に栄養をつけさせたいと思ったのですね。
戦中、戦後、どこの家でも鶏を飼っていました。
が、しかし、多恵子さんは、小さいけれど会社社長のお嬢様で、元祖ではないかもしれないけれど、海外帰国子女のハシリでした。
そういう人が、自分で築いたかまどで、湯を沸かすとか、鶏を飼うとか。
痛々しいばかり。
夫のために、必死だったのですね。
「愛していたのね。」の一言では、とても言い尽くせない献身です。
それよりなにより多恵子さんは、仕事のできる人だったのではないかな。
するべき事はする人。
信頼できる頼もしい人ですね。
By妻 -
23年2月に池の石を確認してきました。
-
気温のわりには池は凍っていませんでした。
-
湧水なのかもしれません。
-
多恵子の手記にはでてきませんが、とにかく石はありました。
-
たぶん、これが件の石でありましょう。
私としては大発見のつもり。
この池は「葉鶏頭」にもでてきます。「戦争中は手入れもせず水草がぼうぼうと生い茂っていた」とありますから、もっと大きかったのではないか。現状では水草が茂るほどの面積もありません。
池の周囲にはスモモ、グミ、ニシキギが植わっていた。 -
堀辰雄文学記念館常設展示図録より。「家から見える小鳥の観察に使った」と説明があります。
1949年11月というと、もう堀辰雄は外出できなくなったころです。スモモの枝に青光りする小鳥がきました。ルリ鳥。多恵子はオペラグラスを辰雄に渡す。
辰雄は疲れることも忘れて一心に眺めていた。
クイナもウソも来たそうです。(葉鶏頭P19-21)
「近況」
▲▼▲▼
神西清が「堀辰雄が山登りをした」とどこかに書いたそうです。みんなから「もっと体に気をつけて」といってきました。
短い随筆「近況」によると、
★この5月の末ごろの或る温かい日、家のものたちと裏の山へたらの芽をとりにいって、つい気もちがいいまま、二三時間山で過ごした。★
裏の山といっても、この家の裏手の林らしい。 -
てすりの向こう、池から一段上がったあたりが家です。
-
その背後はたしかにちょっと小高い林になっています。
5月まではまだ家の近くの散歩などを楽しんでいたということです。
「近況」が発表されたのは1946年(昭和21年)11月10日です。(筑摩第4巻解題P725)
多恵子によれば、辰雄は1946年11月以降、寝たきりになったそうです。
戦後復員してきた矢内原伊作(いさく、哲学者、1918年-1989年)は追分に住みました。1946年(昭和21年)ごろのことです。矢内原は隣村の借宿の配給所に、堀家の分まで米や豆を取りに行きました。
矢内原は配給を堀家に届けるのを楽しみにしていました。堀辰雄に会えるからです。
それもこの油屋隣の家でした。配給と一緒に道端でつんだ黄色い花を添えて多恵子に渡しました。(筑摩第6巻月報6P2)
その黄色い花のことを堀辰雄が「近況」に書いています。
★この頃、菊の花ばかりつづけて、さう3回ほど人に貰った。★(筑摩第4巻P156)
一書に曰く、
黄色い花といえば、高峰秀子が、黄色のバラの花が好きだと、どこかで読んだ覚えがあります。
関係あるのでしょうか。
高峰三枝子のほうは、記念館に彼女がプレゼントした籐椅子がありました。
By妻
追分の冬
▲▼▲▼
私たちが住んでいる房総九十九里浜沿岸は暖かいところです。23年1月珍しくマイナス4度になったら、水道管があちこちで破裂しました。
私たちが行った日はマイナス6度。2月の追分では比較的暖かいらしい。
寒さに根性なしの私たちは、震え上がりました。
炊いた御飯が凍ってしまうそうです。多恵子はそれを油屋にもっていって、雑炊にする方法を教えてもらいました。(山ぼうしの咲く庭でP182)
多恵子が「何もかもが凍てつく状態というのはまことに残酷なものであった。」と言った追分の冬を、チョッピリ味わってきました。 -
だ~れもいない追分、旧中山道。
油や、堀辰雄文学記念館の前ですが、人っ子一人通りません。信濃追分では必見の観光スポットなのですが、ときどき車が行き過ぎるだけ。止まりません。ジモティさんでしょうね。 -
堀辰雄文学記念館のおとなり、村内唯一のおそばやさん「ささくら」です。味噌と大根を絞った辛い汁でたべるおそば「おしぼり」が食べられると聞いていました。
-
昨年10月はその日臨時休業。
今回は、 -
まあ、これだけ観光客がいなければ、しかたありません。
22年8月、10月、今回と3回来て3回とも空振り、よっぽど縁がないのです。 -
その真向かいの油や-文化磁場。2022年10月に来たとき「11月には閉める」とお店の方がおっしゃってはいましたが・・・
-
やはり閉まっていた。
再開は来春といったって、いつのことやら。 -
掘夫妻が油屋横の家に住み始めてすぐ、東京の中里恒子より、追分に疎開できる家はないかと問い合わせがありました。
1944年(昭和19年)10月16日中里恒子あてはがき、
★追分にも家は全然ありません 雨の漏るような家まで人が棲んでいるようです。雪でもふるやうになったらどうするのでせう★(筑摩書簡588)
ある冬の初めのことです。
「(油屋に)お風呂を貰いに行った私(多恵子)は・・・」という一文がありました。
この家にはお風呂がなかったのです。(葉鶏頭P23)
それでも追分に疎開した人達のなかでは、掘夫妻は非常に恵まれていました。
掘辰雄は何回か追分の冬を経験しています。しかし油屋に泊まって、小説を書きに来ていただけです。インクは凍るかもしれないけれど、毎朝外で火をおこして、鶏に餌をやって、御飯を炊いたりしません。
1946年(昭和21年)11月からは、多恵子は全部一人でやらなければならなかったのです。
戦争はおわりました。
しかし病身の夫をかかえて、多恵子の追分の冬とのいくさが始まりました。
一書に曰く、
掘辰雄という人は、どんな人だったのだろう。
当時、不治の病だった結核患者に嫁がせたいと、親は思うだろうか?
しかも、婚約者がいたことは、知られた事実で、言ってみれば後妻にはいるようなものです。
多恵子は、もちろん初婚で、しかもお金持ちのお嬢様でした。
よい縁談は、降るほどあっただろうに。
普通は反対しないかなあ。
それを、反対させなかった掘辰雄ってひとは、よっぽどいい人だったのでしょうか。
青木繁も、結核でした。
私たちは、青木繁を追いかけるうちに、その最期の、余りの悲惨さに、もう書くのが嫌になってしまったのですが、もしも、もしも福田たねと結婚していたのなら、もう少し仕事ができたのではないか。あんな最期ではなかったはず。
福田たねが、青木繁を捨てたのではなく、青木繁が、捨てたのです。
それは、彼の意思ではなかっただろうけれど。それでも青木繁が福田たねと子供を捨てたとき、彼は幸せも運も捨ててしまったのです。
結核は、掘辰雄の命は奪ってしまったけれど、彼は彼の仕事をなし終えたし、又人生は幸せだったと思えます。
そういう掘辰雄の人生を「支えた」というより、むしろ「創った」のは、夫人、掘多恵子でした。
まことに、女性は太陽なのです。
By妻
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この旅行記へのコメント (5)
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- 前日光さん 2023/02/24 23:59:08
- 多恵子が堀辰雄を「創った」!
- by妻さんのこの言葉、名言ですね!
それにしても、帰国子女のハシリであった多恵子夫人が、酷寒の信濃追分で、鶏に餌を作ってやり、かまどでご飯を炊き、雑炊の作り方を油屋に教わりに行き、お風呂もない家に住んで(当時はそれでもマシだったのですね!)、病身の夫の世話をするなんて。
考えるだに凄まじいと思います。
戦後のドサクサ(もちろん戦中も)を生き抜いた人たちは強いですねぇ。
by妻さんもおっしゃっていますが、良家の子女と思われる多恵子さんが、苦労するとわかっていながら結核持ちの辰雄と結婚するとは!
堀辰雄という人は、それほど魅力的だったのでしょうか?
あるいは、その才能の抜きんでているところに惹かれたのでしょうか?
もちろん両方なのでしょうね。
多恵子さんがいなかったら、堀の作品の大多数は生まれなかったことでしょう。
すると、堀辰雄は堀多恵子の作品でもありますね?
今に残るかつて二人が住んだという家の前の大きな石、しにあさんは、この石を堀夫妻も見ていたと思うのですね?
大部分の人が注目していないようですが、世の中にはこうした無視されている事柄が多々あるに違いありません。
私もこの石は、きっと夫妻も眺めた石と信じます。
立原道造が、油屋火災の際に、隣で工事中の大工さんに助けられたとのこと、立原の詩が好きな私としては、この大工さんにも感謝!です!(^^)!
それにしても、昔の人は結核で命を落とす人が多かったですね。
この不治の病が、現在ではそうでなくなっているように、コロナも早く消滅してくれないものかと願うばかりです。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/02/25 07:56:21
- Re: 多恵子が堀辰雄を「創った」!
- 夜遅くまで連続コメ感謝です。
多恵子という人は、母親静の影響が強かったのです。静は当時としてはビックルするくらい自由な考えを持っていた人で、結婚は本人が決めることと思っていました。このあたり次回の辰雄多恵子出会いから婚約までの年代期作成で触れます。
一家揃ってクリスチャンの家庭に育ちました。多恵子は、何か抽象的なものに奉仕するという考えを持っていたみたい。本人がどこかで書いていました。
夫の文学的才能を信じて、それを支えるということにキリスト教的信念を持っていたのかもしれません。
日本的烈婦とはちょっと違うみたい。
本当にお嬢さんで育って、新婚当時ご飯が炊けなかったようです。大根が煮てもやわらかくならないと、母親に手紙で愚痴っています。このお話もまた後日。
結果的に多恵子の信念は当たっていたわけです。堀の死後4回も全集が発行され、今なお私たちみたいな巡礼が追分を訪れるのです。
堀辰雄の文学的価値を本能で見抜いていたとしか言いようがありません。
「堀辰雄は堀多恵子の作品でもあります」というのはまさに言いえて妙ですね。
堀辰雄は、当時の加藤多恵にほぼ一目惚れだったみたい。写真がありますが、決して多恵は美人とは言えません。
何が堀辰雄を惹きつけたのか、これもまたこの旅行記のテーマの一つです。おそらく当時の日本女性が持っていなかった、西欧的で、自由な価値観、というか、雰囲気、性格を愛したのではないかと思います。現代の日本の女では当たり前ですが。
油やに残る池の石、私たちは堀の評論家ではなく、ただの巡礼ですので、こうした夫妻を偲ぶよすがが大事なのです。
信濃追分にいらっしゃる機会があれば、ぜひ眺めてください。ただの石ですが。
油屋火事での道三救援。多恵子が残した本には、こうした未知のエピソードがいっぱいあります。
立原が、同人雑誌に載せるため、室生犀星に「詩のストックがあればください」と言って、犀星に叱り飛ばされた話、ご存知ですよね。
多恵子はこの現場にいたのですよ。
何やら番宣が多くなりました。例によって、期待しないでお待ちください。
-
- kummingさん 2023/02/19 10:47:01
- 件の石⁇
- 結核が不治の病だった時代、同じ病で婚約者を失い、自分も同じ病で闘病中の心持はどんなだったのでしょうか。私の母は7人兄妹だったのですが、その内3人が男で内2人は結核に倒れたと聞いています。息子を2人結核で失った祖母の心中を推し量る事も出来ない子供だった私は、当時はたくさん生まれても致死率も高かったのだなあ、くらいに思っていました。
-15℃の世界(*_*; インクが凍る‼ そう言えば先日、朝方部屋の中でボールペンが使えない事がありました。日中は使えるようになったので、低温でインクが固まっていたのかも。堀辰雄氏のは、万年筆かインクツボのいんく
- kummingさん からの返信 2023/02/19 11:18:42
- Re: 件の石⁇
- あ、間違えて送信してしまいました↑((笑)推敲していないのに…。
仕方ないので続けます。
堀辰雄氏のは、高級インクかもですが、うちのは百均の5本百円のボールペン、比較対象外ですねぇ。
ホカロン、というのですね、ここいらではホッカイロ、と申します。旅の最後に余ったホッカイロをホテルのスタッフさんに差し上げると、毎度たいそう喜んで頂けます。懐炉も見たことあるし、寝るときに使う湯たんぽ、他には、中に石綿が詰めてあって真ん中に炭だか練炭?を入れて、布の袋に入れてあっためるやつ、とか、電気毛布が出る前は重宝していた記憶。
こういうのを、ガスも電気も断たれたウクライナやトルコに送ったら、喜ばれますよね。先日、ある登山家の方が、全国から集めた寝袋をトルコに送られたとか。
油屋が火事の時、留守にしていた堀辰雄氏も、たまたまいらした大工さんに救われた立原氏も、ほんとに幸運でしたね。すべての所持品喪失は痛手ですが、命あっての物種、命には代えがたい。
「野ばらの匂う散歩道」とは何ともロマン溢れる文学的題名でしょう、by妻さんは心惹かれ手に取られたのに、by夫の食指は動かず⁈
クレソンで鶏を飼う多恵子さまにも驚きますが、これぞ元祖帰国子女感覚なんでしょうね。
寒さの中の、そして疎開中の献身についてコメントすると長くなるのでこの辺で_(._.)_
実はしにあさんの肝いりの写真10枚『件の石』、何のことやら?感情移入できず。
-15℃どころか-6度でも、私だったら1日もたない(笑×5)
- しにあの旅人さん からの返信 2023/02/21 16:48:45
- Re: 件の石⁇
- おじさんが二人結核で亡くなっているのですね。
我が家も、祖母は七人子供を産んで、生き残ったのは母とその兄の二人だけ。祖父も結核、死んだ子供で成人に達したのは結核で死んでいるようです。
ボールペンのインクって凍るのですか。
堀辰雄は万年筆らしいですが、凍ったらどうするんだろう。手で温めて溶かすとか。
そういえば、昔の万年筆は、スポイトみたいになっていて、インクビンからチューっと吸うやつでした。
ホッカイロという言葉、知ってはいますが、私は使わない。
By妻はホッカイロに馴染みがあるそうです。九州限定かも。
なおキックボードをケリンチョまたはケリンコという件ですが、By妻は漫画「アラレちゃん」で見たそうで、現物は知らないそうです。
相模弁かもしれない。私は10−13才くらい逗子にいたことがあるので、若干相模弁を解します。
「かっこいい」「いかす」などというのは、もともと湘南の不良どもの相模弁だそうです。
「野ばらの匂う散歩道」は、欲にかられて手に取りましたよ。つるやで朝6時から、By妻に両手で開いてもらって、iPhoneで180ページ写真を撮りました。
この本、今はAmazonでも売っていないレア本でして、専門の古本屋で3万円します。
この件、後日別ブログでネタにします。
多恵子さん、本当に海外帰国子女的人だったみたい。それが堀辰雄にはたまらない魅力だったようです。
要するに、我々の時代のチャンネー。今時の娘さんが昭和の初めにタイムスリップしたと思えばいい。
件の石。これは堀辰雄研究史上の新発見ではないかと、1人自負しているものです。堀夫妻がこのやぼったい家に暮らしていた唯一の痕跡!!!
すごいでしょう。大発見。
「やぼったい家」というのは堀辰雄がどっかに書いていました。
問題は、これが事実だとして、堀文学研究上全く意味がないことです。
専門家は「ふーん、で?」というでありましょう。
でも私みたいな、週刊誌的野次馬には、極めて大事大事。
ということで、無理やり感情移入してください。
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旅行記グループ 堀辰雄紀行 信濃追分
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