
2023/03/14 - 2023/03/14
84位(同エリア256件中)
Akrさん
ご覧いただきまして、ありがとうございます。
今年も鎮魂の日がやって来ました。早いものであれから12年です。震災当時、小学校に入学した子が高校を卒業するほどの時間が流れてしまいました。
すこし遅くなりましたが、3月14日に珍しく平日のお休みが貰えたので、私が住む、若林区内の沿岸部を久しぶりに歩いて来ました。その様子を今回はお送りします。また、後半に被災当時、近所の様子を沿岸部中心に車を走らせて車載カメラで撮影した画像もご紹介しております。
この節目の日に現地から情報を発信するのは被災地に住む人間の役目だと思っておりますのでよろしければご覧いただき、防災への意識を高めて貰えれば幸いです。
※ご注意
旅行記に津波の写真や被災した街並みの写真が出て来ます。震災関連の画像で精神的なストレスを感じてしまう方は閲覧をお控えいただいたほうがよろしいかと思います。
※表紙:若林区の深沼海水浴場からの太平洋(現在は遊泳禁止)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
-
今日は珍しく平日休み。
3.11は仕事だったので、今日は私が住む、仙台市若林区を巡ってみようと思う。
まずは「荒浜へ」
「若林区荒浜」
この地名は震災の時のニュースで知った人も多いと思う。
「若林区荒浜で200~300の遺体発見」というショッキングなニュースが流れた。実際には200人弱の方々がこの荒浜で命を落とされた。 -
「荒浜」と仙台駅の位置関係。
左の赤丸が仙台駅。右の赤丸が荒浜地区。
この荒浜は海沿いに集落が形成されており、昔ながらの街並みが見られた。また、荒浜の海岸は「深沼海水浴場」として仙台市民なら一度は訪れる海岸だった。
私の自宅からだと5km。車で10分ほどの距離にある。 -
自宅から少し、走ると見えて来る築堤。
仙台東部道路だ。
震災時はこの道路が防波堤の役割をしてこの道路より内陸は津波の被害から免れた。
私の自宅もこの道路がなければ津波が来ていたのかもしれない。 -
仙台東部道路をくぐる。
ここから先が津波で被災したエリアだ。 -
荒浜に着いた。
遠くに見える丘は、震災後に作られた津波避難の丘。
東北沿岸部ではこのような津波避難用の丘があちこちに作られた。 -
津波で被災した仙台市立荒浜小学校へやって来た。
この周辺では一番高い建物であり、屋上へ何百人という人が避難して救助を待った。
現在は、「震災遺構 荒浜小学校」として保存されている。震災遺構 仙台市立荒浜小学校 名所・史跡
-
2016年に閉校され、その後、震災を後世へ伝承する目的で保存された。
校内では震災関連の展示のほか、被災当時の教室の姿を見る事が出来る。
入場無料
9:00-16:00(7、8月のみ17:00まで)
月曜、第4木曜休館
施設HP
https://arahama.sendai311-memorial.jp/index.html -
もともと校庭だった所は舗装され、駐車場になっている。
大型バスの駐車場も作られ、現在では、仙台市内の小学校の校外学習でも震災教育の一環として訪れる学校も多い。 -
現在も津波時の避難所に指定されている。
-
学校前がバスの終点になっている。
アクセスは地下鉄東西線の終点、荒井駅より市営バス、荒浜小学校ゆきで15分。
他の地域の震災遺構に比べ、仙台駅からも行きやすいので、興味を持たれた方はぜひ、訪れてほしい。
※バスは毎時1本確保されています。 -
貞山堀にかかる深沼橋。
ここから旧市街地へ行ってみる。 -
この橋は古く、震災前の姿を留めている。
ここから先が住宅地であった。 -
橋の近くにあった説明板より。
震災前と震災後の市街地のようす。
ぎっしりと住宅がひしめいて建っていたが(左)、震災後は。跡形もなくなった(右) -
このあたりは住宅が建っていた。
奥に見える松の木は、本来、ぎっしりと海岸に沿って並んでいたが、ほとんどが津波で失われた。 -
道路が海に突き当たった所に立っているのは荒浜慈聖観音。
この地で犠牲になられた方の慰霊のために建立された。
3.11から3日後ということもあってたくさんの花が並べられていた。 -
さらに海へ向かってみる。
この防波堤は震災後に作られたもの。
この場所に深沼海水浴場があった。
駐車場もあって、松林を抜けると砂浜に出た。子供の頃、よくここへ海水浴へ来た。深沼海水浴場 ビーチ
-
今日も海は静か。
現在は、遊泳禁止になっている。 -
説明板より。
震災の1年前の深沼海水浴場。 -
防波堤の上は遊歩道になっている。
果てしなく続いている。 -
更地になった荒浜の街を観音さまが見守っている。
-
当時の荒浜地区に立っていた住宅の基礎部分も震災遺構として保存されている。
施設HP
https://arahama.sendai311-memorial.jp/residential_foundation/index.html震災遺構 仙台市荒浜地区住宅基礎 名所・史跡
-
説明板より。
被災前の荒浜の街並みの様子。かなりの住宅があったことがわかる。 -
これは津波襲来時の街の様子。
当時のニュースで津波に飲まれる街の様子を空撮した映像を観た人も多いだろう。 -
ブロック塀の一部。
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かろうじて建物が残っている物も。
-
これは浴室だったのだろう。
-
基礎が残されている部分は歩道が作られていて、基礎の傍まで行くことが出来る。
-
ここに人々の生活があった証だ。
-
ここ荒浜には駐車場も整備され、誰でも訪れることが出来る。
-
余談だが、綺麗なお手洗いもある。
-
荒浜を後にする。
この築堤は県道10号線。もともと低い場所に作られた道路だが、震災後、防波堤の役割を持たせるために6mの盛土をして作られた。 -
海に沿って全長10kmが盛土された。
仙台東部道路のように有事の際には被害を半減してくれるだろう。 -
少し走ると見えて来る築堤が仙台東部道路。
震災後、海岸線に防潮堤、県道10号線、そして仙台東部道路と3重の津波対策が施されたことになる。 -
こちらが仙台東部道路。
このおかげでここより内陸側への津波の浸水を食い止めた。 -
その東部道路に沿って左側に見えるのが仙台市地下鉄東西線の荒井車両基地だ。
ここは震災後の完成だが、かさ上げされた形で地上より高い場所に基地が作られた。 -
建物や駐車場も高い位置にあって、要塞のようになっている。
-
その車両基地に隣接する地下鉄東西線荒井駅に来た。東西線の東の終点だ。
荒井駅 駅
-
駅前にはバスターミナルがあって、荒浜小学校へもここからバスが出ている。
-
以前の旅行記でも何度か紹介しているが、荒井駅の構内には震災関連の展示室がある。
-
「せんだい3.11メモリアル交流館」
せんだい3.11メモリアル交流館 名所・史跡
-
2階建ての館内は主に仙台市沿岸部のエリアの震災関連資料が展示してある。
ここも入場無料。先ほどの荒浜小学校と併せて訪れて欲しい場所だ。
入場無料
10:00-17:00
月曜と祝日の翌日は休館。
地下鉄荒井駅構内
施設HP
https://sendai311-memorial.jp/ -
3月11日から3日過ぎてしまったが、特別な日ということで今回は自宅周辺の被災地の様子を発信させていただきました。
今回の旅行記はこれで終わりですが。最後に、私が被災直後の沿岸部の様子を車載カメラで撮影した映像を何枚かキャプチャしたのでご紹介させていただきます。
津波に飲まれた自動車などのショッキングなものも含まれますのでご注意ください。(解像度が低い映像からのキャプチャですのでお見苦しいかと思われますのでご了承ください)
※撮影日は、2011年3月20日と4月上旬にかけて -
仙台市内中心部にある、30階建ての高層オフィスビル「SS30」
屋上のアンテナがぽっきり折れている。
現在は折れた部分以外はそのまま現存している。SS30 名所・史跡
-
こちらは近所のマンション。
外壁が無残にも破壊されている。地震も震度6強で3分近く揺れたので建物へのダメージも大きかった。幸い、築20年の自宅マンションはひび一つ入らなかった。 -
こちらは若林区のお隣、宮城野区の隆起した道路。
こんな道路が市内あちこちで見られた。 -
自宅マンションの駐車場。
建物はなんともなかったが、敷地内の駐車場が陥没してしまった。自分が停めている場所は大丈夫だった。 -
工場の外壁が落下している。
-
ちょっとわかりづらいが、2つ並んだマンションの左側が右方向へ傾いている。
2011年4月の震度6の余震でさらに傾き、住民は避難。結局、取り壊された。 -
こちらは家電量販店。外壁が無くなっている。
私は震災当日、ここで被災した。 -
別な日、仙台市から多賀城市方面へ県道23号線をクルマで走ってみた。
確か震災から10日後あたりだったと思う。道路わきには津波で流された車が無残な姿を晒していた。 -
延々と続く、クルマと瓦礫の列。
このころはまだ行方不明者の捜索も行われていた。
被災したクルマにはスプレーで〇や×の文字が書かれ、「捜索が完了した」「車内にご遺体があった」などの目印となっていた。 -
一見、頑丈そうな大型トラックも簡単に津波に流された。
-
大型複合商業施設の駐車場も瓦礫で埋められた。
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歩道には横倒しになったクルマが。
-
大型タンクローリーでさえ、津波の前では無力。このローリーが流されている動画を観たことがある。
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どこまで行ってもクルマと瓦礫の列。
これでも道路はクルマが通れるくらいに撤去されている。そもそも震災直後3日くらいは水が引かなかったので通行も出来なかった。 -
七ヶ浜町までやって来た。
このあたりは結構な内陸なのだが津波が運んできた瓦礫が散乱している。 -
奥に見える林の向こうが海。あっちから津波が流れ込んできた。
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こちらは体育館。
地震でガラスが割れている。 -
一応、指定避難所。
あの有様では避難所として機能していない。この震災では安全だと言われた避難所が津波に飲まれるケースが多発。避難所の見直しに繋がった。 -
グラウンドの向こうの山は、集められた瓦礫の山。
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今度は塩釜方面へ。
道路に船がある。このような光景は海沿いでたくさん見られた。気仙沼市では大型の貨物船まで流されてきた。 -
松島の遊覧船も無残な姿に。
-
今度は南下して、また若林区へ。
左の築堤は、先ほども紹介した「仙台東部道路」
防波堤代わりになって津波の内陸への浸水を防いだ。 -
ただ、一部、高架部分は高架下から津波が流入した個所もあった。
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奥に見える松林は震災前は隙間なく植えられていたのだが、津波によって松の木が流され、虫食い状態になってしまった。
-
さらに南下して仙台空港へ向かう。
-
空港周辺も津波被害が酷かった。
周辺の住宅はほとんど流されてしまったが、一軒だけ原型を留めている。この住宅は、震災遺構として保存され、現在でも見ることができる。震災遺構 旧鈴木英二邸 名所・史跡
-
空港に着いた。
仙台空港も壊滅的な被害となったが、米軍によりいち早く復旧され、物資の空輸が可能になった。民間航空も4月には再開した。仙台空港 空港
-
空港ターミナルも1階が浸水したので一部しか再開していない。
案内板も手製の急ごしらえのものでマグネットを貼り付けるタイプだった。 -
通常は1階が到着、2階が出発なのだが仮復旧後、しばらくは出発も1階を使っていた。
-
空港アクセス鉄道が滑走路下をくぐるトンネルが津波で水没して運休中なので、代行バスが運行されていた。宮城県バス協会が県内のバス会社を搔き集めて輸送に当たっていた。私の会社でも仙台空港鉄道の代行バスを震災後、しばらく運行した。
-
仙台空港駅には被災当時、津波で取り残された電車がそのまま。幸い、駅は高架だったので被害は免れた。
-
せんだい3.11メモリアル交流館展示物より。
きっと荒浜で育ったこどもさんが書いたのでしょう。
いつかまた賑わいを取り戻すことを願わずにはいられません。
12年目の3.11をお送り致しました。
毎年、3月には震災関連の旅行記を発信していけたらと思います。
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。
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この旅行記へのコメント (15)
-
- つららさん 2023/03/25 10:26:52
- 「いま」と「あの時」
- Akrさま
こんにちは。
東日本大震災の日、津波が押し寄せて船や住宅が1軒丸ごと流れていたり、建物が崩壊した映像が次から次へと流れてくるのを、息をのんで見ているばかりでした。とても怖かった。阪神淡路大震災にはなかった津波、そして原発事故も。暖かい部屋でテレビを見ている自分に罪悪感があり、せめて一人でも多くの方が助かってほしいと祈ることしかできませんでした。
東日本大震災の教訓として、津波警報が出たら空振りでもいいからとにかく高いところに逃げることはわかったつもりでしたが、備蓄は意識が薄まってしまっていました。だけど他人事ではなく南海トラフ地震は間違いなくやってきます。
その時にどうすればいいのか、そもそも生きていることはできるのか。命が助かった時、まずそのことを感謝して、でもその先に私は少しでも人のために役に立てるのか。簡単には答えは出ません。
当時の写真はだいぶ配慮されて、おそらくあまりにショッキングなものは掲載を避けておられるのでしょうし、写真より実際に直接ご覧になった光景は、もっと辛いものだったことでしょう。この旅行記を書かれる際にその辛さがよみがえってこられたことと思いますが、「いま」と「あの時」を見せていただいたことで、とても心に響きました。
つらら
- Akrさん からの返信 2023/03/25 13:36:33
- RE: 忘れぬこと、恐れること
- つららさま
こんにちは。
コメントありがとうございます。
私は震災当日は停電でテレビも見られなかったので車のラジオの情報だけが頼りでした。考えてみれば自宅にラジオってないんですよ。ラジオチューナー内蔵のコンポはあっても停電だから使えない。震災後はラジオの有難みを知りました。
そんな状況の中でリアルに被災地に居た訳ですのでまわりの状況が分からなくて。
津波が来たのを知ったのは数日経ってからでした。ただ、ビルはそこら中壊れているし、遠くでは黒煙が上がってるし、とんでもない事が起きたなとは思いました。
何れまた、災害は繰り返します。
とにかく、あの日を「忘れぬ事」、そして災害を「恐れる事」ですね。決して慣れてしまってはダメなんです。人は忘れる生き物ですので、節目の月にはなにかしら震災の事を考える事にしています。旅行記もそうです。
後は、常に「備える事」ですね。乾電池の買い置きや食糧、水は常に一週間くらい暮らせる分のストックを持つように心がけています。私、個人的にはカセットコンロ。これ重宝しました。お湯沸かしたり、レトルト温めたり、冷蔵庫が電気切れたので生卵を片っ端からゆで卵にして数日食いつなぎました。
南海トラフも騒がれていますね。不安を煽られるのですが、やはりいつか来るのでしょう。明日かもしれないし10年後かもしれない。そのために備えておくことは大事だと思っています。
震災直後の写真はアップするか悩みましたが、これも風化させないために、一人でも多くの人の目に留まって、防災について考えて貰えればいいなと思い、掲載しました。当然、これは一部だけで、この目で見た光景は忘れられません。見てはいけないものもたくさん目にして来ました。
どの地域でももう二度とこのような事が起こらないように祈らざるを得ません。
Akr
-
- とのっちさん 2023/03/21 11:44:12
- 12年ひとまわり
- Akrさま
こんにちは。事実をありのままに真正面から伝える社会派旅行記でした。当時はテレビの画面越しにこの世のものとは思えない光景に絶句したことを今でも覚えております。ふと時計を見て14時46分をさしてると未だに「あっ…」と思ってしまいます。
もう12年も経つんですね。十二支、二十四節気、還暦…時計は1分が60秒、1時間が60分、1日が24時間、1年が12カ月…「ひとまわり」を表すのは12の倍数が多いような気がします。そんな節目の年になったんですね。当時小学校に入学した子が高校を卒業する年と言われると12年って長い年月だなと思いますが、九州新幹線の全通が震災の翌日でしたので、そう考えるとまだついこの間のように感じてしまいます。記憶が残ってるうちに、その記憶を風化させないようにしないといけませんね。
幅1メートルくらいの水路に1メートルの津波を起こす実験動画を〇outubeで見たことがあります。有明海の「1メートルの波高」とはわけが違いました。一辺が1メートルの立方体に水を詰めると1トン、津波は高さ10メートル近くにもなって広い幅で押し寄せてくる…考えただけでもゾッとします。悲しい記憶を忘れない…ではなく、先人の犠牲を無駄にしないよう、少しでも命を守る判断ができるよう震災遺構は大切な存在だなと改めて気づかされました。痛ましい当時の記録画像はたいへん貴重です。私も震災直後は「いつでも逃げられるように…」と酒を断っていましたが、いつの間にかその生活習慣が風化してしまいました。いかんいかん…
旅行記の横に出てくるこの地域で人気のタグの#清水の舞台から…#夢の3食…がかすんでしまうほど、現実とまじめに向き合う社会派記事でした。気を引き締めて生活していこうと思います。
とのっち
- Akrさん からの返信 2023/03/24 17:29:30
- RE: あっという間の12年でした
- とのっちさま
こんにちは。
返事が遅くなりまして申し訳ありません。
あれから12年ですね。
長かったような短かったような。たまにふと時計を見ると14時46分だったりします。
本文でも書きましたが、12年と言えば、震災当時小学校に入学した子が高校を卒業するくらいの時間が流れたという事です。
確かに12の倍数はいろいろと節目ですね。鉄道のダイヤも6分、12分ヘッドは綺麗に00に戻りますからね。つい、鉄道のネタに振ってしまいすみません。
確かに九州新幹線開業は、2011年3月12日でしたね。
結構、派手に宣伝してたのに震災でうやむやになってしまいました。鹿児島中央から博多まで、沿線で新幹線を見送る人たちを映したCMは、今でもYoutubeで見て、感動しています。とっても明るいCMなのに、あれを見るとなぜか涙がこみ上げるんですよね。
あの震災が来るまでは、正直、津波なんて来ないと誰しも思っていました。
実際に警報が出ても「3日前の地震でも大したことなかったし大丈夫でしょ」と言って避難しなかった人がほとんどでした。
二度と繰り返さぬよう、肝に銘じたはずが、12年ですっかり防災意識が薄れてしまっています。でも毎年、風化を防ぐかのようにデカい地震が来ます。
震災遺構は後世に残していくために必要な施設だと思います。
実際にここまで津波が来たとかいう謂れがある神社があったりしますので考えさせられます。
毎年、この時期にはなにかしら震災関連の旅行記をアップして行こうと思います。
旅行記の人気のタグは私も気づきました。このタイミングで不謹慎だなと思いつつ、スルーしました。
Akr
-
- 毛利慎太朗さん 2023/03/18 19:49:18
- 今日は仙台からいろいろと…
- Akrさん、こんにちは。
今日はAkrさんの旅行記に触発され、悪天候ながら、旧荒浜小学校に行ってまいりました。
あの松が震災から逃れて、ポツンポツンとなってるのか~とか、学校向かいの高台が避難所なのか~とか、いろいろと思う節があり、大変参考になった次第で…
なかでも、旧音楽室でやっていた映像がなかなかためになり、校長先生がいち早く、生徒や住民を4階に避難させ、この点は釜石の鵜住居や石巻の大川小学校と違って大英断だった、と思います。
荒井駅のスペースにもちと立ち寄って見学しましたが、企画展が休止中だったのが、ちょっと残念で、年表を見たり、付箋を見たり…
閖上の五柱神社の狛犬さんがちょっと気になって、いろいろ調べましたが、流されて、またどうやらまた拝殿の前で祀られてるみたいで、こちらも復興商店街のついでに立ち寄ってみたいと思いました。
閖上は赤貝やしらすで有名ですものね。
写真の観音様にも意味があってですね、あれは津波の高さをあらわしてるんですよね。
ご存知だったら、すみません…
でもそうやって「津波塚」みたいにして、後世に残すのも大事ですよね。
毛利慎太朗
- Akrさん からの返信 2023/03/19 11:17:06
- RE: ご訪問ありがとうございます。
- 毛利慎太朗さま
こんにちは。
コメントありがとうございます。
LINEで荒浜小の写真をいただいた時になんたる偶然と思ったのですが、私の旅行記がきっかけとは恐縮です。
昨日は雪も降ってあいにくの空模様だったにもかかわらず、中もご覧になったとのことで良かったです。
震災当時は、遠くへ逃げようとした人とその場に留まり、より高台へ逃げた人で、生死の分かれ目になった場所も多かったです。災害時などの異常時に瞬時に判断できるのは凄いことだと思います。
3.11メモリアル交流館にも寄られたのですね。
そういえば、荒浜の観音さまの高さが津波の高さを表しているって前に聞いたことありますね。私もすっかり失念しておりました。
宮城でも過去に津波が来た証として「浪分神社」とか「末の松山」とか津波に関連する場所があります。
今後は節目の3月にはこのような旅行記を公開して行けたらなと考えております。
Akr
-
- エヌエヌさん 2023/03/18 18:00:51
- やっぱり・・・
- あれから12年
年々震災の事は風化していくと思います。
でもそれは致し方ないことでもあります。
でも震災遺構を見るとあの時の記憶が蘇ってきますね。
そして亡くなられた方々に思いをはせ冥福を祈る。
遺構って大事だなと思います。
- Akrさん からの返信 2023/03/19 11:04:42
- RE: 月日の流れは儚いです
- エヌエヌさま
こんにちは。
コメントいただき、ありがとうございます。
人は忘れる生き物ですから、年月が経過すれば記憶が薄れていくのは致し方ないことですね。仙台でもほとんどの小学生は震災の後に生まれた子というのも衝撃的です。
震災をしらない世代が増えて来ています。
ですので、震災遺構を遺していく事に意義があると思います。
そうすればどうしてここに家が一軒もないのか。そういったことから「気づき」が生まれて来るんだと思います。
毎年、3月にいろいろ発信して行きたいと思います。
Akr
-
- HAPPINさん 2023/03/18 13:50:09
- 12年経っても
- こんにちはAkrさん
最初に
未曽有の大災害で尊い命を落とされた方のご冥福を心からお祈り申し上げます。
一瞬にして家族を、大切な人を、家を、日常を奪われた方にこころより主米申し上げます。
もう何年も前に旅行記で「被災地と呼ばなくていい日が早く来ることを願っています」みたいなことを書いた覚えがあります。
13年経って。
Akrさんが発信して下さった「いま」の姿。まだまだ震災の記憶を強く呼び起こさせるような景色がたくさん残っていますね。
忘れてはならない、貴重な記録の数々。こうして発信なさるにあたって・・・心中お察しいたします。なんて軽々しく言えるものではないことも重々承知しています。
仙台東部道路が堤防代わりになったというお話。現地で何度かお聞きしました。まかりまちがえばもっと内陸まで、と考えると・・・・・
この大災害。ひとごと、と思っている方も多くいらっしゃるのかもしれませんが、いつ、どこが襲われてもおかしくない、そんな日本列島に住んでいる。
ついつい日常の些末事(これはこれで一人一人にとっては大きいこと)に煩わされて忘れてしまう。
自然災害に翻弄される、大自然の前では太刀打ちなどできない、そんな人間。
だからこそ、紛争、争い、やってる暇があったら、などと思うのは甘い理想主義者なのでしょうか、なんて思ったりします。
数年前に仙台のバスで出会った若いバスガイドさん。震災時は小学生だったと言ってました。
彼女の言葉
「被災地としての仙台ばかりでなく、観光地として未来に向かっている仙台も是非見に来て欲しい」
に大きな希望をいただいたことが胸に刻まれています。
若い人々が未来を見据えることができる社会。これこそが失われてはいけない社会なのかもしれません。
わすれてはいけない。でも未来を向かないといけない。
長くなってしまいました。
色々と考えさせられる生々しい写真と文面。感謝いたします。
Happin
- HAPPINさん からの返信 2023/03/18 13:54:06
- Re: 12年経っても
- 申し訳ありせん、誤字訂正です。
最初に以下の文面訂正させていただきます。
「主米申し上げます」→「お見舞い申し上げます」
【訂正後】
未曽有の大災害で尊い命を落とされた方のご冥福を心からお祈り申し上げます。
一瞬にして家族を、大切な人を、家を、日常を奪われた方にこころよりお見舞申し上げます。
- Akrさん からの返信 2023/03/19 10:40:16
- RE: 自分たちも他人事でした
- HAPPINさま
こんにちは。
温かいコメントをありがとうございます。
正直、自分たちも震災が起きるまでは他人事でした。
3.11の3日前に少し大きめの地震がありまして、津波注意報が発令されたのですが、小さな津波が来て養殖筏に被害があった程度で済み、人的な被害はなかったんです。
その時もまさか津波が来るなんて誰も思っていなかったです。それが3日後にあの惨劇ですから、言葉になりません。
気持ちはもう被災地ではなくなっていますが、海沿いを歩けば、其処此処に震災の爪痕を見ることができます。遺構として遺していく事で風化を防ぐことにもなります。
ですので観光で来た時でも、ついでで構わないので震災関連の遺構や施設をご覧いただいて、みなさんの防災の役に立っていただければと思います。
いまや日本の何処で大地震が来てもおかしくないです。
なかなか実感が湧かないかと思いますが、明日かもしれないし、10年後かもしれない。でも備えだけはしていただくということは大事だと思います。
当時は、防災意識も薄かったので「停電したらファンヒーターが使えないから石油ストーブも1台買っておく」とか「懐中電灯を使おうとしたら乾電池が切れていた」とか「クルマの燃料は半分切ったら満タンにする」とかいろいろ勉強になりました。
とにかく、備えておくことですね。
今後もこの時期にはこういった震災関係の旅行記をアップしていこうと思っています。
Akr
-
- Tagucyanさん 2023/03/18 13:17:09
- 時間がたつのは早い
- Akrさま
こんにちは
珍しく(大変失礼)、社会派レポートですね。あの荒浜からほど近いところに住んでいれば、この日のことは避けられないですよね。今年でちょうど12年。つまり13回忌。早いですねえ。この当時、生まれたばっかりでフガフガ言ってた次男が、来週末小学校の卒業式です。
いろいろインパクトがあったあの年、野球観戦をどうしても被災地仙台で締めたくて、楽天戦の最終戦を見に行ったのが初めての被災地入りでしたね。記録によれば10月18日。ちょっと早めに着いたので仙台空港に行ってみましたが、その途中の沿線が津波被害を受けたまんまの状態で、あの光景はよく覚えています。
荒浜地区は、私も数年前に歩いたことがあるのでよく覚えています。その時はなかった住宅基礎とか、整備されたものがあるようなので、もう1回行ってみたいなあと思いました。
震災直後の現地の様子の写真、貴重な記録ですね。ガソリンの入手が困難になって、しばらく車は動かさなかった記憶があります。被災地在住ならではのレポート、来年も待ってます。
---
Tagucyan
- Akrさん からの返信 2023/03/19 10:56:19
- RE: あっというまの12年間です
- Tagucyanさま
こんにちは。
コメントありがとうございます。
普段からふざけた内容の旅行記ばかり投稿しているのでこういった旅行記を書くと自分じゃないみたいです。
私が住む「若林区」は仙台市内でもかなり地味なエリアなんです。
それが震災の荒浜のニュースで全国区になってしまって。「若林区」と報道されただけで遠方の知人が、当時、Googleパーソンファインダーで安否確認していただいて。
自宅もどちらかと言うと海寄りですし。堤防代わりになって津波を防いだ仙台東部道路からなら直線で2kmしか離れていないので、東部道路が無かったら、自分もどうなっていたのか想像すると恐ろしいです。
野球ネタですが、震災時は楽天は星野監督でして、選手たちを連れて避難所を訪問していたのが印象に残っております。星野さんが「自分たちはなにも出来ないが、野球で元気づけることはできる」と言っていたのを思い出しました。それから2年で日本一ですから、楽天優勝の2013年はみなさん勇気をもらったと思います。
荒浜地区はかなり整備されており、ぜひ来仙の際には足を延ばしてみてください。
荒井駅からバスで荒浜まで行けます。
後半で公開した震災当時の写真は、貴重な記録として遺しておいてよかったです。
書いてて思い出しましたが、ガソリン不足に泣かされましたね。あの当時は、給水所へや買い物など何をするにもクルマが不可欠でしたので必死で営業しているガソリンスタンドを探しましたね。夜通し並んで10リッターとか。それを3日くらい続けて満タンにした記憶があります。いまは半分切ったら満タンにするように心がけています。
毎年、この時期は震災関連の旅行記を書こうと思っております。
Akr
-
- shuuu1983さん 2023/03/18 12:32:09
- 貴重な写真
- Akrさん
こんにちは。
震災直後の貴重な写真ですね。
旅行記としてインターネット上に記録いただくことはとても意義があるようにおもいます。
震災後に石巻に入っていたのですが、当時は本当にバスが活躍されていました。
社員の皆さんも大変な中、バスを走らせていただいたことは本当に大きかったです。
shuuu1983
- Akrさん からの返信 2023/03/19 10:24:05
- RE: 記録することは大事ですね
- shuuu1983さま
こんにちは。
コメントありがとうございます。
未曾有の大災害だったので記録を残しておこうと思い、撮影しました。
あの瓦礫とクルマで埋め尽くされていた道路もいまは何事もなかったかのようになっていますが、風化させないためにもこうして発信していく事は大事ですね。
震災後は鉄道がしばらくダメだったので、鉄道代行バスや大手企業の従業員送迎バスなど、かなり多忙に走りました。それと被災してバスが不足した際に全国のバス会社で中古車を無償提供いただいたのは本当に有難かったですね。
今後も3.11になったらなにかしら震災関連の旅行記をアップして行きたいと思っていますのでよろしくお願い致します。
Akr
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