2023/02/07 - 2023/02/07
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たびたびさん
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関西久しぶり旅八日間の最後は大阪。長年の課題だった道明寺天満宮と司馬遼太郎記念館をメインにして、道明寺天満宮周辺の古市古墳群を少しと司馬遼太郎記念館の近場の石切さんや八尾市街、上本町の中寺辺りを想定していましたが、中寺の寺町がなかなか盛沢山。結局、司馬遼太郎記念館は残念ながらまたのリベンジとして先送りすることにしました。
ただ、それでもかなりのごちゃごちゃ旅。大阪の旅はだいたい手当たり次第にあちこち訪ねて、こんなにいっぱい回りましたけど~みたいなことになるんですね。しかし、私としては、そういう大阪歩きはけっこう気に入っているというか、そのごちゃごちゃ感にこそ飾らないあっけらかんとした大阪らしさがいっぱい詰まっているような気がするんです。少し視点は変わりますが、大阪では人間関係なんかでもそういうところがあって、変な話、貧乏人も金持ちも対等。会社の役職の差とか年齢や見た目とかもあんまり気にしないかな。裸一貫、同じ人間同士みたいな感覚。東京もそんなに気にしていないよという御仁もいらっしゃると思いますが、東京では知らず知らず棲み分けが出来ていて、それぞれ住む世界が違うので、交わることがそもそもないように出来ているのではないかと感じます。
大阪には2回住んだことがあって、通算は7年。それに西日本の人間としてはもともと大阪が中心という感覚もありますからね。まあ、生まれも育ちも大阪という人からするとわずかな経験なんでしょうが、それでもそれなりにこの独特の心地よさが身体に染みているところがあって、このごちゃごちゃ街歩きにもそれと重なる部分を感じるんですね。ということで、大阪旅はごちゃごちゃ旅。ご覧いただく方にはわけわからんという面が多々あるかと思いますが、私としてはけっこう真面目な楽しみ方。なんというかその辺りは大目に見てご容赦いただきたいと思います。
妙な前置きになりましたが、まずは河内のこと。翌日の交通の便を考えて宿を取った八尾市や道明寺のある藤井寺市。それらに隣接する柏原市、羽曳野市。それらは奈良から流れる大和川が大阪平野に注ぐ流域で、河内国。国府は藤井寺市、国分寺は柏原市にありました。藤井寺市の中心は葛井寺。渡来系の葛井連の氏寺だった寺。藤井寺市から羽曳野市には世界遺産にも登録された古市古墳群。蘇我氏に敗れた物部氏は八尾が本拠地だったようですし、都のあった奈良との関係で栄えた歴史のある地域であることが分かります。一方で、その後の歴史だと源頼義、義家といった河内源氏の故郷であり、楠木正成の戦いも。河内国の相続を巡って畠山氏の内紛が応仁の乱の発端になって、戦国時代の三好長慶、松永久秀の流れもとかく戦乱のイメージですね。
八尾の早朝散歩で印象に残ったのは、顕証寺を中心とする久宝寺寺内町と大信寺(八尾御坊)を中心とする八尾寺内町。八尾寺内町の方は江戸期からなのでちょっと後世ですが、寺内町は中世の自衛・自治意識の賜物。自力で開墾した土地を有力な寺社や貴族に荘園として寄進し、自らは荘園の管理者となって力を蓄える。既存の荘園を侵食するだけではない側面も持っていましたから、律令制度を壊すという意味では悪党とも呼ばれた新勢力で、こうした勢力が台頭するのはまさに時代の流れですね。ちなみに、楠木正成もその代表格ですが、いずれにしても河内国の戦乱の中でしぶとく生き延びるために育まれた自衛・自治の意識。その土壌に真宗を広めた蓮如の影響が相まっての寺内町でしょう。中世の河内では有力者が次々と変わっていますが、たぶんそれはこうした地侍というか土着勢力が特に強く、絶対的な支配者になることは難しかったからかもしれません。少し視野を広げると、堺商人なんかも典型ですが、大阪よりも根来・雑賀衆や粉河寺衆徒とか紀州の方がさらにこの傾向は強くなる。対して、この中世の頑強な社会秩序を壊したのはあの秀吉。10万の大軍で紀州攻めを行い、すべてを踏みつぶしてしまいました。信長の薫陶を受けてのものかもしれませんが、刀狩りや検地もそう。時代を進める秀吉の力には本当にものすごい執念があるのを感じます。余談ですが、京都の智積院は根来寺の塔頭でこの時、命からがら避難した経緯があって、京都ではアンチ秀吉という珍しいお寺です。これもちょっと面倒くさい説明になったかもしれませんが、寺内町。その歴史的な意味を感じてもらえれば嬉しいです。
なお、もう少し紀州に興味がある方は、これも参考まで(https://4travel.jp/travelogue/11205681)
残りははしょってですが、続いての道明寺は大宰府に左遷される菅原道真が叔母の覚寿尼を訪ね、別れを惜しんだと伝えられる寺。もっとも、この寺は菅原道真の祖先、土師氏の氏寺として建立された寺ですから、もともと親しみのある場所でもあったのだと思います。ただ、河内の歴史と重ねると、都が平安京に移ったことで衰退をしていく時代の道明寺。哀れを誘う情景がいっそう強く思われます。
そして、その後は、古市古墳群と石切さん、中寺寺町へ。古墳時代に遡って、また江戸期に戻ったり。大阪の街歩きがごちゃごちゃになるのは当然です(笑)
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八尾の宿は近鉄八尾駅とJR八尾駅の中間という不便な住宅地の中。まあ、そうだったから思いついた八尾の街歩きですからね。
土地勘が全くない中で、近場から歩き始めます。
慈願寺は、親鸞の東国布教で帰依した二十四輩のひとり法心が親鸞の遺命を受けて、久宝寺村に弘安3年(1280年)建立した寺。
その後、江戸期に入ってからの東西本願寺の分裂により、本願寺派の久宝寺寺内町の顕証寺に対して、大谷派の八尾寺内町の大信寺とその役寺、慈願寺という関係となったよう。ただ、蓮如が八尾を訪れて、顕証寺の前身、西証寺を建立したのは明応年間(1492~1500)ですから、慈願寺の方がかなり古い。久宝寺から現在の場所、八尾に移ったのはちょっと割り切れないものがあったかもしれません。
ただ、本堂、鐘楼、太鼓楼、経蔵などの構えは、浄土真宗らしい豪壮なもの。寺の激しい歴史を映しているようです。 -
そして、冒頭も触れましたが、八尾寺内町の中心は、この八尾別院大信寺。八尾御坊とも呼ばれた大谷派のお寺で、慶長12年(1607年)、徳川家康より寄進された土地に東本願寺、教如が創建。かつては久宝寺寺内町の本願寺派顕証寺と対立した存在です。
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そういうなかなかの歴史はあるのですが、現在の本堂は鉄筋コンクリートで風情はあまり感じられませんね。
周囲の商店街エリアがかつての寺内町の歴史を受け継いでいる感じで、それがせめてもの救いなのかなと思います。 -
八尾天満宮と八尾戎神社は、八尾寺内町の鎮守で八尾の天神さん。
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同じ山門から境内に入って、突き当たりのところに正面と横手にそれぞれ建っています。八尾御坊、大信寺に隣接していて、商店街にも面している場所。八尾のあれこれがぎゅっと詰まっているような感じです。
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これもほど近くの常光寺。歴史は、奈良時代、僧行基が創建した聖武天皇の勅願所から。
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河内音頭の発祥の地碑があったり、大坂夏の陣ではこの辺りは激戦地となり、藤堂高虎が本堂で首実検を行ったという歴史もあるようです。
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境内はやや殺風景ですが、山門の仁王像がちょっとかっこいいです。
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周囲の商店街というのは、この八尾ファミリーロードのこと。本町筋商店街や御坊前商店街とかいくつかの商店街が集まった八尾では一番のアーケード商店街ですね。
大信寺のおひざ元という場所ですから、大信寺を中心とする八尾寺内町の歴史も受け継いでいるのでしょう。毎月11日と27日にお逮夜市という市もあるようです。 -
ファミリーロードのアーケード商店街の中にある河内音頭記念館です。しっかりした看板なので、すぐにわかります。
河内音頭関係だけではなくて、その他のレコードも取り扱ったり、雑貨屋風のところもあるような感じかな。まあ、その分、活気も保っているとは思います。 -
イチオシ
旧八尾寺内町のエリアから少し歩いて、今度は久宝寺寺内町へ。
これも既に触れましたが、久宝寺には、もともとは親鸞の弟子が建てた慈願寺があったのですが、これとは別に文明2年(1470年)、蓮如が布教し建てられたのが、久宝寺御坊、顕証寺の前身、西証寺です。 -
石山合戦を巡って、講和派の顕如と抗戦派の教如の対立が先鋭化。顕証寺は顕如派に従い、慈願寺は教如派に従ったということ。慈願寺は久宝寺寺内町から大信寺の八尾寺内町へ。久宝寺寺内町の中心は顕証寺となりました。
顕証寺の豪壮な構えは、今でも寺内町の中心といった存在として十分なインパクトがあると思います。 -
久宝寺寺内町と八尾寺内町ですが、寺内町の面影は久宝寺寺内町の方は寺町の風情が濃い。これに対して、八尾寺内町の方は近鉄八尾駅に近いこともあってしっかりした商店街があって、これはこれで寺内町の歴史を受け継ぐもの。その対比も面白いなと思います。
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念佛寺も寺町風、久宝寺寺内町の一角に構える融通念仏宗の寺。
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聖徳太子の建立した久宝寺の末院であったことから、その久宝寺の本尊、聖徳太子作と伝わる11面観音菩薩・不動尊をお祀りしているという古刹。山門から落ち着いた雰囲気が漂って、浄土真宗とはちょっと雰囲気が違います。
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これは、八尾市まちなみセンター。久宝寺寺内町の歴史的遺産の継承と八尾市のまちづくりの地域活動拠点として設置された施設。久宝寺寺内町の中心部にあって、鉄筋コンクリートのなかなか立派な建物です。
平たく言えば、立派な公民館といったような存在かな。トイレもあるので、街歩きには助かります。 -
少し離れますが、許麻神社の辺りも久宝寺寺内町のエリアになると思います。
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江戸時代から久宝寺の牛頭天王とも呼ばれた神社。「こま」というのは、高麗からの渡来民族が多く住んでいたからというのが由来のよう。境内はそれなりに広いですが、けっこう殺風景。意外にさっぱりした神社です。
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八尾の街歩きを終わって、近鉄八尾駅から道明寺駅まで移動します。
同じ近鉄線なんですが堅下駅で柏原駅に乗り換え。ここから道明寺駅までは近鉄道明寺線です。路線は、この区間の2.2kmだけだし相互乗り入れとかもないので面倒くさいですが、地域では代わる線路もないし必須の路線となっています。 -
道明寺駅から、まずは道明寺天満宮へ。
道明寺には道明寺天満宮と道明寺があって紛らわしいのですが、その関係は明治の神仏分離で二つになっただけ。いずれも、土師氏の氏寺である土師寺がルーツです。 -
これも既にふれましたが、菅原道真の菅原氏はその土師氏の分流であり、菅原道真のおば、覚寿尼がここに住んでいて、道真が太宰府に左遷される際にはこちらに立ち寄ったことで有名です。
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神社は、小高い馬の背のような場所にあって、山門から入った境内の奥行きはけっこう深いですね。
菅原道真とのゆかりはかなり深いものがありますが、派手な感じはほとんどなし。安土桃山時代の再建という檜皮葺の本殿も自然で穏やかな構えだと思います。 -
道明寺天満宮の梅まつりももうすぐのよう。この日は、地元の有志による盆梅展を拝見しました。
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老木に清らかな梅の花が咲いて、一服の清涼剤。菅公にも思いを馳せました。
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なお、梅まつりの期間中は、こちらの梅園の拝観のほか宝物館の菅公遺品特別公開が目玉のようです。
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続いては、道明寺。神仏分離によって寺は独立。現在は、真言宗御室派の尼寺です。
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楼門から入った境内は、意外にそこまで広くはないような。
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ちょっと奈良のお寺を思わせる雰囲気がありますね。
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国宝、十一面観音立像が毎月18日と25日に拝観できるそうで、そのことは初めて知りました。
国宝の十一面観音は七体あって、向源寺、観音寺、聖林寺、六波羅蜜寺、室生寺、法華寺と道明寺。法華寺と道明寺は秘仏なので公開はなかなかないと思っていました。国宝の十一面観音は、向源寺の十一面観音を拝見(https://4travel.jp/travelogue/11088595)したのが最後でしたが、これならなんとかなりそうですね。
ところで、あの桜餅の道明寺もここが発祥です。 -
では、ここから古市古墳群の方へ。2016年に一度回っていて(https://4travel.jp/travelogue/11132228)、けっこういい印象が残っています。その後、2019年にユネスコの世界遺産に登録されたので、どこかでもう一度、細かいところをチェックしたいと思っていたんですよね。
これは、三ツ塚古墳群。東側から、八島塚古墳、中山塚古墳、助太山古墳の三つの古墳が並んでいて、いずれも古墳時代の中期に造られた方墳。濠を共有しているのでまとめて、三ツ塚古墳群と呼ばれます。
一番東の八島塚古墳は、墳丘長50m、高さは8m。際のところまで駐車場が迫っています。 -
真ん中の中山塚古墳は、墳丘長50m、高さは8.5m。これもぎりぎりまで集合住宅が迫っています。
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最後の助太山古墳は、墳丘長36m、高さは6m。大きな木がないので、ちょっとむき出しの状態。荒れた感じがなくもないですね。
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少し住宅地を進んで。
この辺りからは、第15代天皇、応神天皇陵古墳の周辺に散らばる古墳を訪ねます。ちなみに、応神天皇は台4代天皇、仲哀天皇の第四皇子。母は神功皇后。神功皇后が三韓征伐から帰って、筑紫国で産んだとも言われ、実在が認められる最初の天皇であり、応神天皇陵古墳は日本で二番目に大きな古墳です。
この東馬塚古墳は、応神天皇陵古墳の外堤上、かつ、二ツ塚古墳の東側の濠にも近いという位置からして、応神天皇陵古墳と関わりの深い古墳とされています。墳丘長は30m、高さは3.5m。周囲はコンクリートの塀で囲んであって、これもかなり窮屈そうな状態です。 -
二ツ塚古墳も、応神天皇陵古墳の前方部東側の内堤に接している前方後円墳。墳丘長110m、後円部の高さは9.9m。濠は応神天皇陵古墳の外濠と一体化していて、応神天皇陵古墳と関わりの深い古墳とされています。
住宅地に接していますが、緑がけっこう深くて密林のような状態です。 -
栗塚古墳も、応神天皇陵古墳の東側。応神天皇陵古墳の外堤に隣接して造られた方墳。応神天皇陵古墳と関わりのある古墳とされていて、墳丘長43m、高さは5m。墳丘の周囲には本来濠があるようですが、埋没保存。いずれにしても、住宅地の中にあることもあり、よく分からないことになっています。
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ここから、誉田八幡宮にも寄ってみます。
その脇を走る通りに雰囲気がありますが、これは東高野街道です。
京都から高野山への参詣道である高野街道のうち、一番東側を通る街道。京都の八幡で京街道から分かれて、河内国の東部を通って、河内長野で西高野街道と合流するというもの。一方で、京と河内国府を結ぶ官道としても重要だったということ。誉田八幡宮の脇をまっすぐ伸びていて、今でも存在感があるような気がします。 -
誉田八幡宮は、応神天皇陵の南に隣接して鎮座する神社。
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欽明天皇20年(559年)、欽明天皇が応神天皇陵前に神廟を設けたことを創建とし、最古の八幡宮とも。
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イチオシ
八幡神は源氏の氏神であることから、源頼朝や足利義教の奉納した神輿や絵馬も伝えています。
周囲は土塀が囲み、境内も悠々とした広さですが、社殿はどちらかというと地味な感じ。歴史の割に静かで落ち着いた雰囲気が印象的です。 -
ほか、境内の小さな植え込みのところに「誉田林古戦場跡」の石碑と説明板。
大坂夏の陣の道明寺・誉田の戦いでは、剛勇の武将として知られる大坂方の薄田兼相が陣を構えていましたが、出撃して道明寺付近で討死。後藤又兵衛も討ち死にしていますが、この付近に陣を構えていた真田幸村は、殿として伊達政宗隊と奮戦し、豊臣軍撤収に成功したということです。
ただ、翌日には、一番の激戦と言われる天王寺・岡山の戦い。幸村も出撃、討ち死にしていて、豊臣家は滅亡。それでも、それぞれに最期の華を咲かせたのは末代までの誉れ。誰しもが認めるところだと思います。 -
再び、古墳群に戻って。
東山古墳は、応神天皇陵古墳の西側。応神天皇陵古墳の外堤に隣接して造られた方墳です。
墳丘長南北54m、東西57m、高さは7m。全体がこんもりした雑木林になっていて、周囲は畑。あんまり近づきすぎると、逆に全景が分かりにくくなってしまいます。 -
野中宮山古墳も、応神天皇陵古墳の西側で、墓山古墳の北に位置する前方後円墳。全長154mは小さくないようにも思いますが、やはり、応神天皇陵古墳(全長425m)やその倍塚である墓山古墳(全長225m)と比べるとかなり小さいですね。上部には野中神社という神社もありました。
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はざみ山古墳も、応神天皇陵古墳の西側で、墓山古墳の北に野中宮山古墳と南北に並んで位置する前方後円墳。墳丘長は、野中宮山古墳よりさらに小さい103m。全体はスケスケの林のような姿になっていて、何とか風化を防いでいるといった感じです。
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墓山古墳は、長さ225m、前方部の幅153m、後円部の径135mの前方後円墳。周囲に濠もあって、応神天皇陵の陪塚のようですが、それでも古市古墳群では5番目の大きさです。
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向墓山古墳は、応神天皇陵古墳の倍塚である墓山古墳の東側に位置する方墳。東辺68m、西辺62m、南北両辺62m、高さは10m。周囲を金網のフェンスで覆っていて、この辺りの古墳では比較的整備が整っている方かな。正面の表示もよく分かります。
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西馬塚古墳は5世紀後半に造られた方墳で、墓山古墳の後円部南東側に位置していることから、墓山古墳の陪墳とみられています。墳丘長45m、高さ9.4mで、それなりの大きさ。住宅地の中にあってコンクリートで囲われていますが、際までいっぱいいっぱい。窮屈な感じで保存されています。
ちなみに、墓山古墳には5つの陪墳があり、野中古墳、向墓山古墳、浄元寺山古墳、西墓山古墳とこの西馬塚古墳です。 -
青山古墳も墓山古墳とさほど離れてはいないのですが、墓山古墳との関係は不明です。古市古墳群を構成する径65mの円墳。フェンスの向こうの雑木林の中にぼんやりと見えていました。
一方で、周囲からは前方後円墳1基、方墳4基の新たな古墳が発見され、まとめて青山古墳群とも名付けられました。そして、さらに一基が見つかり、今は青山7号墳まで。なかなか複雑です。
以上で、古墳は終了。 -
イチオシ
最後にもう一つの遺跡。
翠鳥園遺跡は、古市古墳群の一角といった場所にありますが、これは旧石器時代の遺跡。縄文時代よりさらに昔の2万年前の石器づくりの跡やサヌカイトの石器が多数見つかったよう。
公園のモニュメントはそのサヌカイトの石器を輪切りにした形だそうですが、何も知らない人でも、インパクトを感じるデザインです。 -
今度は、古市駅から近鉄奈良線石切駅に移動して。
ここからいしきりさんに向かいます。その参道沿いの商店街がまた名物なんですが、石切駅を出るとすぐに急な下り坂が始まって、これは半端じゃないですね。 -
最初はお店が少ないですが、だんだんお店が増えてきます。
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おだんご屋さんや名物のよもぎうどんのお店などがありまして。
これだけ活気があればかなりのものだと思います。 -
石切参道商店街の中ほどにあるお団子屋さん、梅月堂。
おばちゃんの元気の良さにつられて、よもぎのあんこ餅をいただきました。味の方は、まあ、普通かな。特にどうということはないけど、まずくもない。普通のものを普通に提供するのがここの信用ということかもしれません。 -
名物のよもぎうどんは、大和屋でいただきます。
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有名人も来たみたいな色紙があって、この辺りでは老舗のお店なんでしょうね。
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ただ、よもぎうどんの方は可もなく不可もなくかな。特によもぎの香りがいいわけでもないし、よもぎの緑がちょっと目を楽しませてくれるくらい。一応食べておきましたくらいでいいかなと思います。
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さらに下って。
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石切劔箭神社、いしきりさんに到着です。
神道石切教の神社というのですが、八尾辺りを本拠地としていた物部氏に関係があるとかないとか。あっても不思議はないというくらいでしょうか。 -
イチオシ
門前の商店街は賑やかですが、この神社自体は割とあっさり。
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あとは立派な楼門と手前の変わった風な大鳥居が目を引きました。
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帰りは、このままさらに下って新石切駅の方から帰ることにします。とても、今来た坂道を戻る気にはなりませんからね。
その途中、いしきりさんより少し下手の方の石切藤地蔵尊です。首無し地蔵として知られているお地蔵さん。小さな建物ですが、中は覗けたのかなあ。外観だけを確認したのでよく分かりませんでしたが、後で調べると中にも入れるようですね。 -
新石切駅から谷町九丁目駅へ。ここからは、最後に、生國魂神社の辺りと中寺の寺町を回ります。
藤次寺は、とうじじ。弘仁年間(810-824年)、藤原冬嗣の発願で藤原家の安泰を願い建立された真言宗の寺です。 -
ちなみに、藤原冬嗣は藤原北家。桓武天皇から淳和天皇まで四代に仕え、太政大臣にまでなった藤原家を代表する人物の一人です。
赤い塀に赤い山門の構えがちょっとインパクトあり。今は、如意宝珠融通尊への信仰によって「大阪の融通さん」とも呼ばれるようです。 -
では、生國魂神社の境内に入ります。
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ここからいくつかの境内社をチェックします。
生國魂神社の境内にある赤い社の稲荷神社。祭神は、倉稲御魂神。
「佐賀県の祐徳稲荷の分霊で鍋島藩とその蔵屋敷出入りの商家が篤く尊崇したと伝えられ、五穀豊穣、商売繁盛、除災招福の願望を叶えられます」と説明がありました。 -
隣りは、源九郎稲荷神社。その隣りが鴫野神社で、三つの小さな神社が並んでいます。
この神社は、吉野の源九郎稲荷の分祠。吉野へ落ちる源九郎半官義経を救ったので源九郎の名となっています。そして、ここに合祀されたのが八兵衛大明神。淡路島からやってきた芝居好きの狸、芝右衛門が武士、三隅八兵衛に化けて芝居見物。正体がばれて殺されてしまいますが、その狸が結局は死んで芝居繁盛の神様となったというもの。狸の芝右衛門は淡路島でもそれなりに有名な話です。 -
本殿と同じ高さの場所に移って。
これは住吉神社。祭神は、底筒男神、中筒男神、表筒男神の三神。海の神様ですね。左右に屋根を広げた妻入りの拝殿の後ろに小さな社が見えていて、そちらがいわゆる本殿かな。褐色の木の質感がそれなりに美しいです。 -
一番奥が皇大神宮。皇大神宮は伊勢神宮だと内宮の中心となる宮ですから、伊勢神宮と関係があるのでしょう。淡い緑の屋根が穏やかな印象。ただ、これといって目立っていないので、たいていは見過ごされている感じです。
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生國魂神社から寺町、下寺の方に歩いて、これは浄土宗の寺、淨國寺。島原の吉野太夫、吉原の高尾太夫とともに三名妓と言われた夕霧太夫の墓があることで有名です。
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夕霧太夫は、京の島原の置屋、扇屋の太夫だったのですが、扇屋が大坂の新町へ移転したことから、大坂で最初の太夫となる。西鶴の「好色一代男」に登場したり、近松門左衛門の浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」があったりして、浄瑠璃、歌舞伎の演目でも多く取り上げられたよう。
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この日もお墓にはきれいな花が手向けられていました。
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ところで、大坂城の南部は防備に弱いので、それを補うために秀吉はいくつもの寺町を造りました。これから回る中寺町に淨國寺のあった下寺町はその代表です。そして、それは、大坂の陣で豊臣家が滅んだ後も引き継がれ、あの大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当したという松平忠明が寺院の整理を進めます。
これから回る寺は、生玉筋中寺町24ヶ寺ほか。〇印が今回回った寺、●印が既に回っていた寺です。
本行寺
〇蓮成寺
〇妙寿寺
〇宝泉寺
〇福泉寺
●法性寺
〇法雲寺
〇江國寺
本経寺
〇久成寺
本覚寺
〇常國寺
妙堯寺
〇妙徳寺
〇薬王寺
〇大雲寺
〇本要寺
●雲雷寺
〇禅林寺
〇顕孝庵
〇大倫寺
●円妙寺
〇正法寺
〇蓮光寺
これは、24か寺の一つ常國寺。日蓮宗のお寺です。
門前に梶井基次郎墓所と記した石柱があって、これは、代表作「檸檬」にちなんで、命日が「檸檬忌」と呼ばれる明治時代から昭和初期の小説家のようです。 -
境内に入ると、初代 中村鴈治郎の墓。本堂の前のところに建っています。
初代 中村鴈治郎は、明治期に活躍した大阪随一の花形役者。東京にも進出し成功。松竹創成期の伸張と東京への進出に大きく貢献したということです。ただ、お寺の方にお話を聞きましたが、「特に関係はないんですけどねえ」みたいな感じ。明治は遠くなりにけりですね。 -
24か寺の一つ、正法寺も日蓮宗のお寺です。
板塀が古そうな山門の奥に本堂。 -
こちらは鉄筋コンクリートの建物。あんまり風情はないかもしれません。
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報恩院は、中寺の一角にある真言宗の寺。入口から奥へ屋根伝いに進むと
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二人の童子を従えた不動明王の像が現れて、なかなかの迫力ですね。ひしゃくで水をすくって掛けるようになっていて、美しい生花も活けてあったり。法善寺の水かけ不動尊みたいだなと思いました。
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これがメインストリート。
地図では、西高津中寺町筋となっています。 -
24か寺の一つ、久成寺。法華宗のお寺です。
お初墓所と書いた石柱があって、ここは曽根崎心中で有名なお初の墓があるのですね。 -
本堂を過ぎた突き当り。
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木戸を開けてさらに進むと「妙力信女」と記した小さな墓がありました。
ただ、墓石はまだ新しい感じです。 -
24か寺の一つ、江国寺。臨済宗のお寺です。
山門は見事な彫刻が入る大きな構え。 -
ただ、境内はなにか重々しさがあって、庫裏の入り口までしか入れませんでした。
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24か寺の一つ、大倫寺。曹洞宗のお寺です。
白い塀には白線が三本。格式を表しているのだと思いますが、山門も整った姿。 -
すぐ奥に本堂が建っていますが、周囲はとてもシンプルな印象です。
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24か寺の一つ、法雲寺。臨済宗のお寺です。
土壁の山門を中に入ると -
また塀囲いがあってその中に本堂が建っているという造り。二重の構造でした。
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24か寺の一つ、禅林寺。曹洞宗のお寺です。
厳めしい山門の先、 -
境内に入ってすぐの正面にはいきなり共同墓地が続いていて、その右手が本堂かな。ちょっと窮屈そうな雰囲気です。
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24か寺の一つ、顕孝庵。寛文元年(1661年)、鴻池家が一族の墓の菩提寺として顕孝庵と改め復興したという曹洞宗の寺です。
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奥の方の墓地に一族の墓地があるはずなのですが、よく分からないのでお寺の人に案内してもらいました。
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イチオシ
あ、これはすごい。
初代鴻池善右衛門とその一族の墓ですが、墓が何列かに渡ってぎっしりと密に建っていて、圧巻じゃないですか。それだけ一族の人数も多いということなのでしょうが、これも家としてこれだけ栄えたという証なのかな。ある意味、ちょっと感服です。 -
ここからは、大通りである谷町筋沿いのお寺。生玉筋中寺町24ヶ寺からは離れます。
こちらは浄土宗の寺、専修院。山門を入ってすぐの左手に頬焼地蔵尊という地蔵があります。 -
イチオシ
子育てや厄除けにご利益があるといわれているのですが、これはこの地蔵を熱心に拝んでいた千代という女性があらぬ疑いで折檻を受け、焼けた火箸を頬に押し付けられたのですが、代わりにこの地蔵の頬に焼け跡が付いたという謂れから。今は黒い御影石の地蔵です。
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願生寺は、谷町八丁目交差点の角にある浄土宗のお寺。中寺の寺町の端っこといった場所です。大通り沿いにあって、どうかすると手すりとドアがマンションみたいにみえなくもない鉄筋コンクリートの建物が本堂ですね。山門との隙間もないし、建物が大きい分ちょっとキツキツのお寺です。
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本長寺は、日蓮宗のお寺。深緑色の色調の真四角なコンクリート造りの建物は、一風変わった雰囲気です。
一方、最上稲荷が祀られているようで赤い幟が建っていたり、尾張6代目藩主、徳川継友公菩提所、松平日向守菩提所の石碑もありました。やはりそれなりの格式があるお寺なのかなと思います。 -
妙經寺は、門前に「日蓮宗光徳山 妙經寺」の石柱。コンクリート敷の境内とその奥に鉄筋コンクリートの本堂が建っています。境内は狭くはないのですが、いかにも都会的な構えで風情はあまり感じないです。
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長久寺は、谷町七丁目交差点の西側すぐ。昭和38年に建てられたという鉄筋コンクリート造の近代的な本堂のお寺ですが、歴史は古く天正7年(1579年)。真偽は定かではありませんが、淀殿が子の豊臣秀頼の武運長久を祈願し、大坂城築城の余材をもって本堂を建立したという寺伝があり、淀君の寺とも呼ばれているよう。正面の寺紋も立派です。
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楠木大神は、道路の中央分離帯のようなところにある小さな神社。樹齢500~600年ほどのクスノキが祀られているので、楠木大神かな。かつては、本照寺という寺があって、このクスノキはその境内にあった御神木。その御神木だけがこうして残っているということのようです。
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正覚寺は、谷町筋の東側。日蓮宗の寺で、ちょっと厳めしい山門に、周囲を巡る塀も褐色の板と白い漆喰の立派な意匠。
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谷町筋の西側にもお寺が並びますが、比較するとこちら側は悠々とした構えのお寺が多いような気がします。
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妙光寺も同じ並び。日蓮宗の一派、法華宗本門流の寺で、白い漆喰の塀には三本の線が入っているので、格式がある寺ということなのでしょう。
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山門から境内を拝見すると意外に広大。奥の一段高い場所に建つ本堂もちょっと迫力があると思います。
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続いて、久本寺は、永禄5年(1562年)、讃岐国の戦国武将、久本重時なる人物が開基となり創建した本門法華宗の寺。
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境内には、江戸時代に入り、本堂や客殿、庫裏などを建立した天王寺屋一族の墓があって、それが見どころの一つです。
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場所はすぐに分かったのですが。。
ちなみに、1628年(寛永5年)開業の天王寺屋は大阪の両替商の草分け的存在。当主は代々、五兵衛を名乗っているので、初代がどの墓なのかはちょっと分かりにくいんですね。お寺の方に訪ねたら、お寺のパンフレットがあって、少し説明をしてくれました。 -
再び西高津中寺町筋の方に戻ってきて。
福泉寺は日蓮宗の一派、法華宗真門流のお寺。しっかりした木造の山門の奥には -
落ち着いたコンクリート敷の境内と正面には本堂が構える眺め。本堂の隣りに、堀部弥兵衛 堀部安兵衛 親子の墓がありまして。
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それがこちら。
お寺の方にどうしてここにあるのかを尋ねましたが、よく分からないとのこと。しばらく前に末裔の方が来訪されたことがあるようですが、自分が最後であるというようなことをおっしゃっていたよう。そういう意味では、そう遠くない時期に無縁の墓になるのかなと思います。 -
大雲寺は、もともとは常在寺という日蓮宗の寺だったのですが、浄土宗に変わって大雲寺に。木造のしっかりした山門に、
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境内は本堂や庫裏がコンパクトにまとまっていて、清楚な印象を持ちました。
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妙壽寺の門前には「田中金峰墓所」の石柱や鬼子母神と赤く書いた看板も。
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ちなみに、田中金峰は弘化元年(1844年)に生まれ、18歳の若さで世を去った天才漢詩人だとか。ちゃんと爪痕を残していて素晴らしいですね。
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薬王寺は、日蓮宗の寺。しっかりした木造の山門から
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奥に建つ本堂は鉄筋コンクリート造りかな。ちょっと風情がないように感じます。境内には、初代中村富十郎墓も。
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これが初代中村富十郎墓。本堂の前の辺りです。
ちなみに、初代中村富十郎は、享保4年(1719年)生まれ。若くして名人上手と称賛された天才的な女形役者だそう。そういわれれば、墓も色や形がちょっと艶っぽいような印象。後世に建てられたものだと思いますが、センスは悪くないと思います。 -
蓮成寺は、京都妙満寺を総本山とする顕本法華宗のお寺。厳めしい山門から奥を眺めると
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本堂は横向き。生け垣の向こうに建っていて、手前の井戸とのバランスが景色として悪くない。清々しい雰囲気です。
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24ヶ寺の一つ、妙徳寺です。
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厳めしい山門から境内を拝見すると墓地を囲う生け垣の向こうに本堂。穏やかな佇まいです。
寺町は以上。 -
あとは高津宮にもちょこっと寄ってみます。
比売古曽神社は、大国主神の娘、下照姫命を祀る神社。もともと、この地にあった神社なのですが、大阪城築城のため高津宮がここに遷されたことで高津宮が本社となり、比売古曽神社が摂社となったという経緯のよう。高津宮の本殿の横に小さな祠がありました。 -
これは高津宮の本殿です。
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高倉稲荷神社は、高津宮の本殿に向かって右手にある境内摂社ですが、参道入り口には赤い鳥居が二本。参道に沿って両側には「高倉稲荷大神」の赤と紺の幟が何本も立ってなかなか盛況な雰囲気。社の方も軒破風のしっかりした造りです。
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その隣りが安井稲荷神社。同じ稲荷神社ですが、こちらは構えが簡素な一方で、「安産守護」とはっきり霊験が書かれていて、おもしろいなと思います。
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これで、本当におしまい。今日はかなり粘りました。
晩飯は、うえほんまちハイハイタウンへ。 -
適当に入ったのは狸狸亭。お好み焼きのお店なんですが、名前も初めて聞いたとん平焼というのが気になって、それにしてみました。
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イチオシ
焼いた豚肉を卵で包んで、全体にお好みソースやマヨネーズで濃く味付けしたもの。まあ、味的にはビールのつまみかな。しかし、これは大阪らしいストレートなうまさ。これは十分満足です。
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帰りは、上本町から鶴橋駅経由で新大阪駅になります。
鶴橋駅で乗り換えですが、鶴橋商店街はもうそこです。 -
韓国焼き肉のお店とかキムチなどの総菜を扱うお店が集中していて、大阪でも伝統ある韓国商店街ですが、若い人でも日本語がなまっている店員さんがけっこう多いです。東京の新大久保ではあんまり感じたことはないですけどね。遅い時間まで開いている店もありますが、総じてけっこう早い時間に閉まるのでそれも要注意かな。
さてさて、これで八日間の旅も無事に終了。お疲れさまでした。
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