2023/02/06 - 2023/02/06
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たびたびさん
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調べると前回飛鳥を回ったのは2011年5月。気が付くと10年以上のブランクが空いていましたし、奈良の原点はやっぱり飛鳥。久しぶりの関西旅で奈良を入れるなら飛鳥というのは自然な選択だったと思います。
ただ、飛鳥の観光はちょっと難しいところもなくはないので、予めその辺りを少しコメントしておきたいと思います。
①飛鳥時代は推古天皇が即位して、平城京に遷都するまで。飛鳥に都があった時代のことですが、大化の改新の前後で前期を飛鳥文化、後期を白鳳文化と区別しています。他方、考古学的には飛鳥時代も古墳時代の中にあって、古墳が造られながら、大寺も造られ始めるという大きな過渡期の側面があります。飛鳥時代の遺産を古墳で感じるか、大寺のかすかな遺跡で感じるか。ちょっと気持ちの整理も必要な気がします。
②前期の飛鳥文化は、欽明天皇下の仏教伝来以降に花開いた仏教文化。蘇我馬子の発願で建てられた日本最古の本格的な仏教寺院、飛鳥寺や蘇我馬子の墓と目される石舞台古墳がその象徴です。その背景には、仏教を積極的に受け入れた蘇我稲目に聖徳太子も加わって、これに反対する物部氏との対立があり、遂に蘇我馬子と物部守屋の戦いに至る。この戦いでライバルだった物部氏を滅ぼしたこともあり、飛鳥文化の時代の真の実力者は蘇我氏。馬子は、自らが擁立した崇峻天皇すら対立が深まると暗殺し、推古天皇を即位させるという剛腕を発揮しています。しかし、それでも、一般的なイメージとして、この時代の圧倒的なヒーローは推古天皇の摂政となって活躍した聖徳太子でしょう。ただ、その聖徳太子も斑鳩宮を造営し、法隆寺を建立したのは斑鳩ですから、飛鳥文化の最も大切な遺産は飛鳥にはないことになります。
③この世の春を謳歌していた蘇我氏を滅ぼし、唐の律令制を手本とした中央集権国家を目指したのが大化の改新。その中心は、クーデターを成功させた、後に天智天皇となる中大兄皇子であり藤原鎌足。しかし、天智天皇が死去すると壬申の乱が勃発。政権は不安定になると思いきや逆に乱の勝利者となった天武天皇の権力基盤は盤石となり、それを引き継いだ持統天皇の下で唐風の条坊制が用いられた初の都、藤原京の造営や藤原不比等も尽力した大宝律令の制定につながっていく。後期の白鳳文化の時代です。この時代に造営された飛鳥の四大寺は、川原寺、蘇我氏の氏寺から変貌を遂げた飛鳥寺、薬師寺、大官大寺。飛鳥寺には飛鳥大仏がありますが、それ以外はいわゆる廃寺跡といった遺構が残るのみです。ちなみに、薬師寺、大官大寺は、平城京に移転してそれぞれ西ノ京の薬師寺、大安寺に。飛鳥寺も元興寺に引き継がれ、白鳳文化の唯一の建築と言われていた薬師寺の東塔も奈良時代のものだと分かっています。
これに対して、天武天皇の皇子の墓との説もある高松塚古墳、キトラ古墳は、白鳳文化の時代を鮮やかに蘇らせた遺産。瑞々しい壁画は大陸の影響を感じさせる一方でヤマト政権としての独自の美的感覚の芽生えも力強く示しているものであり、まさに白眉の文化遺産です。
④そして、こうした天皇を中心とする政権の動きやその文化的な遺産をどう受け止めるかが基本としても、それと同じくらい大事なのがそうした時代を生きた人々の生活であり、万葉集に象徴される大らかな世界。それは考古学や歴史学の範疇を越えるものであり、この古代のロマンに思いを馳せれることこそが飛鳥観光の大きな魅力。田舎びた風景の中にそのかけらをどれだけ感じられるか。とても大事なポイントです。
こうして縦横斜めに交錯する視点ですが、まあ、それは飛鳥に魅力を感じる人なら誰でもそれなりには感じていること。結局は余計な整理だったかもしれませんね。
以下は年表。神話の世界から一気に現実的な史実の時代に入っていく感じ。国内の激変の一方で、それと表裏の関係ですが、対外的な動きも活発だったことが見て取れるのも注目です。なお、聖徳太子については別途旅行記があるので参考まで。https://4travel.jp/travelogue/11514382
538年 仏教伝来
592年 推古天皇即位
593年 聖徳太子、推古天皇の摂政となる
601年 聖徳太子、斑鳩宮を造営
604年 十七条の憲法制定
607年 小野妹子を遣隋使として派遣 この頃、法隆寺が完成
618年 隋の滅亡、唐の建国
622年 聖徳太子死去
628年 推古天皇死去
630年 遣唐使派遣
645年 中大兄皇子、中臣鎌足が蘇我蝦夷、蘇我入鹿を滅ぼす
663年 白村江の戦い
668年 中大兄皇子、天智天皇として即位
671年 天智天皇死去
672年 壬申の乱
673年 大海人皇子、天武天皇として即位
694年 持統天皇が藤原京に遷都
701年 大宝律令制定
710年 平城京遷都
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飛鳥観光のために京都から新大宮駅まで移動して、新大宮駅からすぐのビジネスホテル、ハーフタイムで前泊です。
しっかりした建物だし、部屋もまずまず。値段が安いのは近鉄奈良駅ではなくて新大宮駅の方だからということなんでしょうが、総合的なことを考えるとコストパーフォーマンスはかなりいいですね。受付のおじさんもフレンドリーだし、対応がきちんとしていて安心です。 -
今日は、飛鳥がメインなんですが、どうしても気になっていたのが纒向遺跡。邪馬台国の遺跡ではないかと注目度が急に上がってきていますからね。単独で行くには少しもったいないし、悩んでいましたが、朝イチの列車で行けば飛鳥には影響があまりないことが分かって、ついでに山の辺の道も久しぶりに少し感じてみることにしました。いやいや、例によって、かなり強引なスケジュールですよね~
新大宮を5時12分に出発すると八木西口、畝傍経由で巻向到着は6時27分です。
新大宮から大和西大寺で乗り換え。近鉄橿原線で八木西口駅まで向かいます。
飛鳥や吉野とか南部に向かっていく場合は、必ずこの線を利用することになります。そういう意味だと奈良県内を南北に走って基幹的な路線だとは思いますが、奈良は京都や大阪に向かっていく路線の方がどうしても活気があるような気がします。 -
八木西口駅で畝傍駅に乗り換え。ここから先は、JR桜井線 (万葉まほろば線)。奈良駅に向かって巻向駅までの乗車です。この路線は、桜井駅から天理駅を含んでいて、まさに山の辺の道のエリア。大神神社を始めとして飛鳥時代のさらに前の時代の面影を残すヤマト政権の故郷といった場所ですから、奈良の観光では外せないですよね。ただ、私も一度歩いたことがありますが、やっぱりそれなりに遠いので、その後しばらく経ちますが、正直、なかなかまた行く気持ちにはなってきません。
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巻向駅に到着。7時53分発で飛鳥に向かうまでの時間を使っての散策。まだ暗いですけど、ここから山の辺の道の相撲神社とかを目指します。
纒向遺跡は巻向駅から近いので、最後に回します。 -
山の辺の道の標識です。ここを歩く人は多いですからね。ポイントまでの距離が丁寧に表示されていて、とっても親切。相撲神社もここから1㎞と書かれています。
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相撲神社に向かう途中、珠城山古墳というのもありまして。通り沿いに標識が立っていました。
古墳時代後期の前方後円墳が三基縦に並んでいるのが珍しいのだそう。発掘調査では豪華な馬具なども発見されたようですが、ただ、外観としてはちょっとした裏山っぽいだけのことです。 -
ほどなく、相撲神社に到着。
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相撲神社というだけに地元のライオンズクラブが建てた相撲取りの像がありましたが、
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境内は山の斜面で起伏が多い状態だし、
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社殿も祠という感じの小さなもので、ちょっとあっけに取られました。山の辺の道ではそれなりのポイントになっているんですけどね。たぶん、私も来ているはずなんですけど、記憶に残っていないのは仕方ないかな。
ただ、こちらは垂仁天皇の時代、当麻蹴速と野見宿禰による天覧相撲が行われたとされる場所であり、相撲のルーツと言うべき場所であることは事実のよう。がんばって大事にされていると受け止めたいと思います。 -
穴師坐兵主神社は、相撲神社からさらに奥に進んだところ。垂仁天皇の時代に伊勢神宮を創建したあの倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとか、景行天皇が大国主を兵主大神として祀ったとか言われる神社。鳥居から入った境内はそれなりの広さ。一段高い場所に拝殿とその奥に三つの本殿が並んで建っていて三つの神社が合祀されたことを示しています。
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ちょっと地味ですが、それなりに立派な構えです。
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では、巻向駅の方に戻ります。
垂仁天皇纏向珠城宮跡の石碑。垂仁天皇は第11代天皇。ここにこの宮を営んで、当麻蹴速と野見宿禰による相撲をご覧になったということですから、相撲神社とも関係しています。 -
遥かに見える市街地は田原本の方だと思います。
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さらに少し戻ると纏向日代宮跡の碑。こちらは、第12代景行天皇が営んだ宮。
垂仁天皇陵は西ノ京近くで遠いですが、景行天皇陵はすぐ近く。山の辺の道の途中です。九州に親征して熊襲を征伐したとありますが、有名なのはその皇子のヤマトタケルの方でしょう。景行天皇の命を受けて、再びの熊襲征討では女装しクマソタケル兄弟を討ち取ったり、尾張・駿河・相模を越えて常陸や陸奥までもの東国征討を行ったという伝説的英雄です。 -
さて、これが巻向駅からすぐの場所にある纒向遺跡です。
初期のヤマト政権発祥の地とも、邪馬台国の地とも言われてかなり注目されている遺跡なのですが、近くにある箸墓古墳も卑弥呼の墓という説があったり。
しかし、少なくとも弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡とか複合遺跡であることは間違いない。場所的にもヤマト政権と関係があるのも納得感があるでしょう。 -
ただ、邪馬台国との関係はちょっと飛躍もあるような気はします。
日本人としては、邪馬台国とヤマト政権を結びつけたくなるのですが、やはりそれは願望の世界ですね。つまり、弥生時代に生まれた小さなクニが大きなクニとなり、それが邪馬台国を生み、ヤマト政権につながる。日本の中で社会文化が熟成して発展していくというストーリーです。これは、長年の人類史でも同じで、5万年前、出アフリカを果たした人類が世界中に散らばっていく。そして、それぞれの場所で独自の進化を遂げて今に至るという考え方が長く支持されてきました。しかし、出アフリカを果たした人類がその後も特定の場所に留まり続けたというのはいかにも不自然。歴史の進化は①その地で熟成したり他から文化が伝承されたりするだけでなく、②異文化を持つ民族が移動してきて先住民に取って代わる例えば征服といったことも少なくなかったということですよね。つまり、邪馬台国がヤマト政権につながったとするのは①の考え方。しかし、私は②の考え方の方が納得感があります。つまり、邪馬台国も含めて弥生時代のクニとヤマト政権には内容的にあまりにも大きな隔たりがあって、それが4世紀前後のせいぜい1世紀くらいの間で進化したとするのはかなり無理があるのではないか。小さなクニから邪馬台国までは①の過程、ヤマト政権の誕生は②の過程かな。纏向遺跡がヤマト政権と関係しているとしても、吸収されたという関係くらい。古代によくあった渡来人のように大陸から有力な部族がやってきてブレークスルーが起きたのではないかと思います。結局、弥生時代も弥生人が大陸からやってきてその扉を開いたもの。ヤマト政権誕生に同じようなことが起きていたとしても何の不思議もないでしょう。
なお、纏向遺跡の発掘現場は飛び飛びだし、石柱が建っている中心部も範囲は限られています。 -
纏向を終えて飛鳥に向かいます。
橿原神宮前駅からは近鉄吉野線。予定通り。間に合いましたよ~ -
飛鳥駅に到着。飛鳥駅を出てすぐの場所に建つ建物は、飛鳥総合案内所 飛鳥びとの館です。観光案内所もあるし、ちょっとしたショップもあるし、休憩所としても使えます。
ここからはレンタサイクルなんですが、それぞれの観光スポットへの距離感やアップダウンの様子などを事前に確認しました。 -
レンタサイクルは、明日香レンタサイクルで。飛鳥駅を出るとまあまあ近くに建物が見えています。やっぱり、飛鳥観光だとレンタサイクルが基本ですからね。
なお、ここは橿原神宮前駅そばにも営業所があって、そこで乗り捨て料500円を払えば乗り捨てができる。なかなかの利点ですよね。 -
では、出発。
飛鳥駅を出て、目の前の通りを越えたところにある道の駅 飛鳥です。瓦屋根の建物がすぐに見えていて、道の駅としての規模としては中くらいかな。 -
あすか夢販売所というのが道の駅 飛鳥と一体となった販売所。別々という感じではないですね。いずれにしても、地元の野菜とかの直接販売が主になっていて、この時期だと白菜やあすかルビーといういちごも販売されていました。飛鳥が農業地帯というイメージはあまりありませんでしたが、そこそこがんばっていると感じます。
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まずは、欽明天皇陵。
欽明天皇は、第29代天皇。父は第26代継体天皇。第33代推古天皇は娘です。
この代に百済から仏教が伝来。しかし、これがまさかその後の大きな時代のうねりにつながるとは思ってもいなかったと思いますけどね。 -
欽明天皇陵のほぼ隣りにあるのが吉備姫王墓。吉備姫は、第35代皇極天皇・第37代斉明天皇として二度天皇の位についた女帝の母。女帝、皇極天皇・斉明天皇と第34代舒明天皇との間にできた皇子が天智天皇、天武天皇という関係です。
ちなみに、大化の改新は皇極天皇4年ですが、天皇でいうと白鳳文化の時代はこの第34代舒明天皇からとされています。まあ、舒明天皇がどうというより、推古天皇が崩御したので飛鳥文化の時代は終わりという整理なんだと思いますけどね。 -
ただ、この墓で有名なのはむしろ猿石という石造物の方かも。近くの水田から掘り出されここに置かれたものということですが、確かに不思議な雰囲気を持った石。
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済州島のお土産のトルハルバン(石製の爺さん)にも似ているような気がしますが、いかがでしょう。済州島では石の加工技術が伝統的なものとなっていて、飛鳥に残された不思議な石造物群もそんなところとどこかで関係しているとすると面白いことですね。欽明天皇の代に任那は滅んでいて、その時期、多くの人が朝鮮半島から入ってきていた可能性もありますね。
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鬼の俎、鬼の雪隠もその不思議な石造物群を代表するもの。もともとは同じ古墳の石室に使われていた花崗岩の石材のようですが、今はそれぞれ少し離れた場所にあります。
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イチオシ
これは鬼の雪隠の方。古墳の石室なんて、自然石を積み上げただけのように見えますが、同時にこうして石の加工技術もちゃんとあって隠れているところではその技術が使われていたということ。古代の技術恐るべしですね。
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イチオシ
もう一方の鬼の俎は少し山の上にあって、確かに平たい形。一部ほぞ穴の加工が施してあるので、やはり自然石でないことが分かります。
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国営飛鳥歴史公園館は飛鳥歴史公園の中にあって、ここから南に向かって行くと高松塚古墳やキトラ古墳に至るという場所。
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それらも含めて、
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飛鳥村全体の立体模型の地図があって、それを確認ましたが、やっぱり効率的なルートを考えると高松塚古墳やキトラ古墳は最後にしましょう。
いずれにしても、ここは飛鳥だと最初に訪れるビジターセンター的な施設です。 -
ちょっと引き返すような感じになりますが、続いては定林寺跡へ。
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現在の定林寺の裏手の方の山の上。細い道をぐーんと上っていった先でした。
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聖徳太子御建立七ヵ寺の一寺とする説もあるようですが、あまりよくは分かっていない寺のよう。山の上にそれらしい塔跡のような盛り土がポツンとありました。
ただ、そもそも聖徳太子御建立七ヵ寺というのも、これが聖徳太子建立七大寺なら法隆寺や広隆寺、法起寺、四天王寺、中宮寺、橘寺(葛木寺は廃寺)といった有名どころ。もしこれに準じるような寺であるならばそれはとんでもないことだと思います。 -
そのまま今度は、まさに聖徳太子建立七大寺の一つ橘寺。もとものとは欽明天皇の別宮で、聖徳太子誕生の地とも言われます。
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ここは境内に入るだけでも有料。
西門から入って、本堂の脇を進んで、 -
これが本堂正面。
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本堂から眺めて
右は経堂、左手は本坊です。
せっかくなので本堂の内部拝観もさせてもらいましたが、たくさんの仏像が並んでいて、こんなに多いとちょっと頭の整理ができないですね。逆に、本尊の聖徳太子座像。聖徳太子35歳の時、勝鬘経を講讃された姿とされる像ですが、見たような見なかったような。。もったいないことをしてしまったようです。
ところで、聖徳太子と勝鬘経といえば、聖徳太子が著したとされる法華経、勝鬘経、維摩経の三経の注釈書「三経義疏」かな。ちなみに、中国では隋代に智顗が天台宗を開き魔訶止観を説いたり、龍樹の中観論により大乗仏教も確立していた時代。インド哲学の影響もまだ色濃かったかもしれないですが、そうした仏教の世界はただ信ずればいいという単純なものではなくて、とても難解な最高峰の思想体系だったはず。この後、奈良時代や平安時代の最澄や空海ら英才たちもこの思想体系を自分のものにするべく躍起になってチャレンジしているのですが、もしかしたら聖徳太子はこの時代すでにかなりの深さでそれらの価値を理解していたのではないか。そして、その理解があったればこそ仏教への思いが揺るぎないものになったのではないか。私の旅は仏教を巡るテーマも大きいのですが、聖徳太子については考えれば考えるほど途方もないものを感じてしまいます。 -
少し脱線しましたが、分かりやすいところだと本堂の横にある二面石ですよね。同じ花崗岩の岩の表と裏に善悪2つの顔の彫られていて我々の心の持ち方を表すとされるもの。
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イチオシ
ただ、見比べてみても、そこまではっきりとした善と悪の顔でもないような。
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単に二人の異なる人物の顔が背中合わせで彫られているだけのような気もしますけどね。
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川原寺というのは、飛鳥寺・薬師寺・大官大寺と並んで、飛鳥の四大寺の1つに数えられた大寺。斉明天皇の川原宮跡に、皇子の天智天皇が建てた寺ですから、白鳳時代の寺ですね。現在は廃寺になって、その礎石等が残るだけ。橘寺から弘福寺の方に下りてくると開けた場所に礎石の跡がかなりはっきりと残っていました。
ちなみに、飛鳥時代の都は唐風の条坊制が用いられた藤原京までは、比較的簡素なもので、転々としています。斉明天皇の川原宮のほか、有名なのは大化の改新の乙巳の変の現場ともなった皇極天皇の板蓋宮、推古天皇が即位した豊浦宮、新宮として造営した小墾田宮、天武天皇と持統天皇が営んだ飛鳥浄御原宮辺りかなと思います。 -
しかし、立派な遺跡のようで実はこれは復元したものだそう。実物は弘福寺の境内の方。
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本堂の周辺にちょっとした飛び石っぽい石があって、それが本物の礎石の跡なんですね。
なお、こちらも有料のお寺。本堂の方の巨大な木造持国天、多聞天立像の拝観もコースとなっています。 -
ここから石舞台古墳へ向かいます。よく知られた飛鳥観光のハイライト。私はこれが3回目ですね~
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周囲は広く有料のゾーンとなっていて、ここが入口。
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周囲の土手から眺めたり、近くに寄って眺めたりしますが、
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イチオシ
なんといっても上部に乗っかった南側77t、北側64tの巨石が素晴らしい迫力。
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石舞台という名前で表されるこの姿も、本当に言いえて妙だと思います。
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ただ、この上部と同じくらい見応えのあるのは
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地中に設けられた石室の内部。
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イチオシ
30個の巨石をかなり精緻に積み上げて整った空間は、
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長い間の風雪にも耐えて微動だにしていない。
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先ほどの巨石もちゃんと天井を形成していて、ある意味、石材の一つでしかないことがわかります。
なお、この遺跡は近くに蘇我馬子の庭園があったことから馬子の墓という説が有力。物部守屋と争い物部氏を滅ぼすと、その後即位した崇峻天皇と対立するや殺害するほどの実力者。父は蘇我稲目。馬子の息子が蝦夷で、その息子が入鹿。しかし、入鹿が聖徳太子の息子である山背大兄王を死に追いやり人心が離れたことが滅亡の引き金になったのは皮肉なことだと思います。 -
蘇我馬子の墓とされる石舞台からほど近いところにある都塚古墳。古墳時代後期の築造で、こちらは蘇我稲目の墓とする説もあるようです。
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石室の中が覗けますが、石舞台と比べると規模も小さいですが、石の積み上げ方は扇形に両方から石がかぶさってくる構造。技術的にはなかなか高度のように感じます。
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そこからさらに山の方に入って行った奥明日香地域にある稲淵の棚田は、日本の棚田百選にも認定されています。
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緩やかな傾斜地の見通しの良い場所一帯に棚田が広がっていて、とても長閑な風景。棚田は山奥とか険しくて地形が悪いところにあるというイメージですが、ここはそういう棚田ではないですね。
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ちょうどその辺りにあるのが、坂田寺跡。日本書紀にも記載がある寺で、渡来人、鞍作氏の氏寺とされていて、渡来人の寺としては最古のもの。推古天皇の時代には、大官大寺、飛鳥寺、川原寺、豊浦寺と並ぶ五大寺の一つだったとか。
脇道に入ったところに石柱と解説板が立っています。 -
明日香村の中心市街地に戻ってきまして、
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この蔵作り風の建物は、犬養万葉記念館。万葉集研究の第一人者である犬養孝氏の業績を顕彰する記念館です。
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明るくて気持ちの良い内部には
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犬養孝氏の書籍や集めた資料とかが展示されていますが、
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それはまあそこそこといった感じかな。
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やっぱりここの目玉はビデオ視聴でしょう。犬養孝氏の万感を込めたような万葉朗唱に触れて歌の解説を聞くと遥かな万葉集の世界を実感として思い描けるような気分。
例えば会津八一もそうですが、奈良を研究対象としてだけでなく、自らがライフワークとして愛し慈しむ対象と捉える姿勢がないと飽き足らなくなるのでしょう。それは私も共感する部分が多いですね。ここでしか味わえない爽やかな感動があると思います。 -
天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子が住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる寺。
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草壁皇子は天武天皇崩御の後、母とともに大権を委任されますが、皇位につくことなく早世。その子、後の文武天皇が幼かったため、母が持統天皇に即位するという経緯ですから、この寺の創建についても相当のバックアップはしていたものと思われます。
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壬申の乱で飛躍的に高まった天皇の権威。その権威をもとにして強力な律令国家の建設を目指していくのですが、その取り組みは藤原京の造営や大宝律令の制定とか天武天皇よりむしろ持統天皇の代の方が具体的な実績は多かったかも。藤原不比等などの優秀な人材に恵まれていたこともあったかと思いますが、さすが天智天皇の娘というか持統天皇は女帝であってもしっかりとそれぞれの政策にコミットしていたと言われています。
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イチオシ
反面、その意志の強さが壬申の乱ももともとは持統天皇の思惑があったものだとかささやかれるまで。天皇即位も文武天皇への継承を確実にするためというのは明らかでしたし、文武天皇の子、聖武天皇はじめ、奈良時代は天武系の天皇でなければ天皇の目はないという不文律がありましたが、それは同時に持統天皇の血筋ではないと天皇の目はないというのと同じくらいの意味合いだったかもしれません。
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天武系の天皇の縛りが完全に外れるのは平安時代を開いた第50代桓武天皇から。形式的には天智天皇系に戻ったということなのですが、ここで同時に持統天皇の血も途切れることになったわけですね。
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春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天のかぐ山
聡明な持統天皇の溌溂とした姿が目に浮かんでくるようです。 -
なお、ここの最大の見どころは、このご本尊の如意輪観音菩薩。
塑像としては日本最大の仏様で、銅像の東大寺 毘盧遮那仏や木像の長谷寺御本尊 十一面観世音菩薩と並ぶ日本三大仏なんだそうです。
私的には目力がとても印象的。何度見てもパワーを感じる仏様です。 -
帰りですけど、
岡寺に向かう参道の途中といった場所にある真言宗豊山派のお寺、岡本寺。子安観音 あすか大師とも呼ばれるようですが、本堂の周りには赤い幟が何本も立っていて賑やかです。ただ、寺は小規模なもの。通り沿いに敷地が少しあるだけなので、パッと見ればおしまいです。 -
不思議な石造物に戻って、この酒船石は謎に包まれたという意味では最右翼の石でしょう。
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酒を造るのにつかわれたという説から酒船石と呼ばれますが、その他にも油や薬を作るためのものだとか、庭園の施設だという説も。
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イチオシ
表面に彫られたくぼみとそれを結ぶ溝。その文様はいろんな想像力を刺激するには十分すぎるくらいの奇抜さです。
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その近くには、斉明天皇の時代に造られたとされる亀の姿の石造物も。亀形石造物の周辺は有料ゾーンとなっていて、ここだけは特別待遇となっています。
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ごろた石を敷き詰めた窪地にある亀形石造物は
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丸い目の頭の方から水を取り入れて、甲羅にたまった水が溝の刻まれた尾から流れ出るという構造ですが、その加工はとても高度で現代でも通用するくらいの水準に感じます。
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ほかの石造物はどうしても少しぼんやりしたところがあるのですが、ちょっと一線を画しているような完成度だと思います。
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さて、飛鳥寺を横目で見ながら
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今度は少し長躯して大原神社へ。小さな神社の入り口に「大原の里」の説明板があって、ここが藤原鎌足の誕生地であることを示しています。
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奥の方に進むとけっこうしっかりとした石垣もある産湯の井戸があって、
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地元で大事に保存されてきていることが分かります。
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帰りに寄った飛鳥坐神社は小高い丘の上。石段をしばらく上がった先に境内がありました。
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大国主神が皇室の守護神として、カヤナルミを祀ったとか、天武天皇の病気平癒のため幣帛が奉られたとかの記録があって、とにかく古い起源であることは間違いないですね。
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再び、飛鳥寺のところに帰ってきました。
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飛鳥寺の駐車場横に一軒のお土産物のお店があって、それが大佛屋。昔からのお店なんでしょうが、構えとしてはまだ新しい感じですね。甘酒やラムネなんかも置いていて、それを見るだけでもちょっとほっこりした気分になるような気がします。
で、今日は時間の関係もあって飛鳥寺はスルーして。 -
イチオシ
お目当ては蘇我入鹿首塚です。
645年に起きた大化の改新。その口火を切ったのは、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿が殺害されるという乙巳の変。その際、殺害された蘇我入鹿の首が飛んできたといわれるのが、この飛鳥寺の境内の西側のこの場所なんですね。田んぼの中のなんでもないような場所ですが、蘇我入鹿と父の蝦夷の館のあった甘樫丘を背にして首塚が建っています。 -
今度は、飛鳥寺からまあまあ近くの弥勒石。
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飛鳥川の東岸の小屋に鎮座する2.5mほどの石仏です。
簡単に加工はしてあるのでしょうが、ほとんど自然石みたいな印象ですけどね。下半身の病気が治ると言われていて、きれいなお花が手向けられていたり、今でも大事にされています。 -
川の反対側を上流に進むと飛鳥京跡苑池遺跡。これは、飛鳥宮の庭園跡。
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女帝である斉明天皇が宮殿に隣接して造った饗宴の空間で、海外からの賓客をもてなしていたということです。少し高台にきれいに整備された広場があって、そこから遺跡の一帯を眺めることになりますが、正直言えば、単なる草の生えた空き地。庭園という痕跡はほとんど確認できません。
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続いては、明日香村埋蔵文化財展示室のところから裏手を少し歩いて行くとそれらしい遺跡のようなものがあって、それが石神遺跡。飛鳥時代の斉明朝、天武朝、藤原宮期の三時期の遺構で、斉明朝期の建物群は迎賓館だったと考えられているもの。しかし、遺跡を見ても、これもそこまでの想像はなかなか難しいと思います。
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奥山久米寺は、飛鳥の中心部に建てられた古代寺院。
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塔跡基壇に明日香村でも最大級となる10個の礎石が残っているのですが、文献や記録もなく謎の寺なのだとか。ただ、蘇我氏同族の小墾田氏が創建した小治田寺との説もあるようで、塔や金堂が一列に並ぶ四天王寺式の大寺院であったことからすると飛鳥にはいくつもの大寺があったことも窺われますね。なお、遺跡の上にはその後に建った寺があるので、礎石の上に建つ十三重石塔以外、重要な遺跡という雰囲気はありません。
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今度は雷丘を目指しますが、あの山は甘樫丘かな?ちょっとよくわかりませんね。
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雷丘は、雷丘という普通の道路の交差点があって、その角にある小山でした。何でもないような山ですが、日本書紀にも記された、雷神が降臨する説話を伝える聖なる丘。
近くの案内板には、柿本人麻呂の「大君は神にしませば天雲の雷の上に庵りせるかも」の歌が紹介されていて、天武天皇がこの聖なる丘の近くに仮の宮殿を作って住んでいることを天皇は神なのでと歌ったものだということです。天皇は神であるという表現は絶対的な専制君主という意味合いですから、天武天皇となっていかに天皇の権威が上がったかを示しているもの。反面、戦時中に天皇は神であるとして戦争の道具とされたのは忸怩たる思いがする汚点ですね。 -
もう少しマイナースポットチェックです。
普通のお寺の門前に豊浦寺跡の説明板が建っていました。この豊浦寺は、603年、推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に移った後に建立した寺。また、そのルーツは、欽明天皇13年(552年)、百済の聖明王が朝廷に献上した金銅の釈迦佛を蘇我稲目が賜り、向原の家を浄めて寺としたというもの。日本初の寺ということになります。
豊浦寺の伽藍跡の下層から推古天皇の豊浦宮の跡が発見され、また、豊浦の地はもともと蘇我氏の本拠地であったということ。飛鳥時代の始まりに関係する遺跡です。 -
甘樫坐神社は甘樫丘のふもとにあって景行天皇にも仕えた武内宿禰による創建と伝えられ、江戸時代以降は推古天皇を主祭神とするようになったという神社。近くに推古天皇の豊浦宮があったからだと思います。歴史はとんでもなく古いのですが、佇まいは意外なほど質素で地味。人けもあまり感じません。
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植山古墳は、もう橿原神宮前駅にけっこう近いエリア。古墳時代の末期の長方墳。推古天皇とその子息である竹田皇子の合葬墓ではないかと言われる国の史跡です。
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周囲は気持ちの良い公園となっていて
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甘樫丘もここから眺めるとはっきりそれと分かります。
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なお、古墳の方はブルーシートで覆われていまして、ちょっと悲惨なことになっています。
さて、もうこんな時間。ここから高松塚古墳はけっこう遠いんですけどね~ -
ちょっと焦りましたが、なんとか高松塚壁画館の方に帰ってきました。
今回はこれを楽しみにしていましたから、見ないと話になりませんよね。 -
薄暗い展示室に入ると
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模写の天文図、
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古代中国の四獣(玄武、白虎、青龍)、
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飛鳥時代の人物群像(男子・女子)の壁画がライトで照らされてくっきり浮かび上がっています。
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久しぶりに見ましたが、やっぱり迫力がありますね。
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イチオシ
モチーフは中国の影響を受けているのでしょうが、精緻な筆致とともに、人物の顔形とかは日本人的だと思います。
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イチオシ
つまり、借り物ではなく
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ちゃんと独自の文化が成立していたことをうかがわせるものであるところがやっぱりすごいです。
少し冒頭でも触れましたが、白鳳時代の遺産は、寺院の方はほとんどが廃寺になっているので、その文化的な価値を直接味わうことができません。また、寺院として残っていたのしても、寺ではこれほどしっかりと文化財が継承されたかどうかは分からない。古墳の風習が残っていたことでこうして当時の文化水準の高さをリアルに感じることができるのは本当にラッキーなこと。白眉の文化遺産だと思います。 -
高松塚壁画館の上部が高松塚古墳。8世紀の初頭、天武天皇につながる皇子のひとりが埋葬されたものということ。高市皇子ではないかという説もあるようです。
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持統天皇の孫、文武天皇陵は、高松塚古墳のすぐ南側。こんもりした森のような陵です。
文武天皇は第42代天皇。持統天皇の執念が実って、祖母である持統天皇から皇位を引き継ぐことに。そして、文武天皇の第一皇子がいよいよ聖武天皇。平城京への遷都は文武天皇の頃に計画されていて、奈良時代の幕開けもまもなくです。 -
ここから最後にキトラ古墳を訪ねるのですが、その途中にもう少し。
於美阿志神社は、第15代応神天皇の代に渡来した渡来人で、東漢氏の祖である阿智使主の居住地跡。東漢氏の氏寺とされる檜隈寺があったともされていて、伽藍主要部は回廊で囲まれ、金堂、講堂、塔を備える相当の構えだったよう。渡来人が政権の中枢を支えるだけでなく、自らも大きな力を持っていたことはどういうことだったのか。ちょっと不思議な気持ちがしなくもないですけどね。 -
境内にはあちこちにかつての大寺を彷彿とさせるような礎石が残るほか、
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平安時代の十三重石塔も立っています。
ちなみに、坂上田村麻呂の坂上氏も東漢氏の後裔となるようです。 -
キトラ古墳に到着。高松塚古墳に次いで国内2例目となる大陸風壁画が発見された古墳です。少し離れているようですが、いずれにしても藤原京の南域であり、皇族の墓域であることは共通。こちらも、高松塚古墳と同じく、天武天皇の皇子、高市皇子の古墳という説があるようです。
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隣接したこのキトラ古墳壁画体験館 四神の館が資料館。後からできたものだからでしょうか。高松塚壁画館よりずっと大きくて立派な施設です。
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見学時間を選んで受付を済ませると、グループになって二階の展示室に入ります。展示室では自由に壁画を鑑賞するのですが、高松塚のように鮮やかではないし撮影も禁止なので、思ったほどテンションは上がらないかな。なかなか難しいものですね。
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むしろ、楽しめるのは一階の展示室の方。
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石室の模型や
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改めてキトラ古墳の壁画、四神像や獣頭人身十二支像の説明や
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渡来人に関係するあれこれ。
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百済からやってきた檜隈民使博徳は、東漢氏のことでしょうか。
キトラ古墳の壁画も渡来人の技術によるものかもという指摘など -
結局のところ、飛鳥時代や白鳳時代には我々が想像する以上に国際色豊かな世界が広がっていたということでしょう。
つまり、遣隋使派遣は聖徳太子の時代だし、遣唐使も白鳳時代の始まり舒明天皇の代から。積極的な外交に、時には戦争があっても、人の往来は絶えずに活発だったし、優れた文化を拒まず取り入れて、自分のものにしていくという姿勢が一貫してとても旺盛だったということ。言い方を変えると、シルクロードや唐の文化を受容して天平文化の華を開かせた基礎的条件が事前に十分に育まれていたということかな。高松塚古墳やキトラ古墳の壁画を通じて、我々現代人がそうしたことを実感を持って理解できるのは、とても素晴らしいことだと思います。
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この旅行記へのコメント (2)
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- mom Kさん 2023/11/13 11:45:20
- 圧巻です
- たびたびさん、10年ぶりの飛鳥行ですか。随分変わっていたのではありませんか。「新大宮」泊は、正解だと思います。
本旅行記、随所で唸って拝見拝読。私の切れ切れの旅の記憶が少しはつながり、とても感謝です。
「定林寺」。まさか。同じ名前ではありませんか。ああ、うれしいです。先月の扶余。苦労してたどり着いたかいがありました。
できましたら、私が愛してやまない「唐招提寺」の旅日記、よろしくお願いします。
- たびたびさん からの返信 2023/11/13 22:05:35
- RE: 圧巻です
- 唐招提寺ですか。
ちょうど、今月、鑑真が日本に上陸した坊津を訪ねようと思っていました。鑑真記念館というのもあるんですが、坊津の港からでも20?くらい離れていてちょっと遠いしどうしようかなあと考えているところです。
奈良の西ノ京はどうでしょうね。東大寺と興福寺は年明けになんとかしようと思っていましたが。。そういえば、薬師寺の東塔の修復が終わってまだ行っていませんし、唐招提寺の平山郁夫もまた見たくなってきました。まあ、考え出すときりがありませんけどね。
まあ、これからもぼちぼちとやっていきたいと思います。
たびたび
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