2021/07/08 - 2021/07/10
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しにあの旅人さん
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遺跡巡りのおもしろいところは、あるいは困ったことは、行ってみると何もないことです。田んぼ、道路、ただの原っぱ。
この表紙写真も、飛鳥を旅した方はご存知のはず。石舞台駐車場の入口です。私もこの前の道路を何回行ったり来たりしたか。
ところがこの道路向こうの田んぼに、草壁皇子の宮殿、嶋の宮があったと推定されています。草壁皇子の薨去は持統3年(689年)、その63年前推古34年(626年)には、同じ場所で蘇我馬子が卒しております。
六国史および引用資料は「六国史の旅 影の皇子1」をご覧下さい。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
道路標識にあるように、坂道を少し登ると石舞台です。
「あそこか!」と思った方も多いはず。
一書に曰く、
石舞台は、信じられないくらい人影がなくがらーんとしておりました。
こんなことは初めてです。
飛鳥旅行を始めて、もう、何回この石舞台あたりを、うろついたことでしょう。
最初のときは、このように周囲を囲んで、入るだけで入場料をとるということは、なかった。ただの野っ原で、巨大な石の組み合わせがゴロンという感じでした。
今や、入場料は取る、管理人はもちろん、ガイドさんもつくらしいですね。でも、今日は、ほとんど無人でした。
時々ぽつりぽつりと、観光客らしきひとの訪れがありましたが、早々に立ち去ってしまいました。
By夫は、どこかでドローンを飛ばせないか、場所を探してバタバタはしりまわっております。
暑いし、今にも降りそうな蒸しようです。
そう言えば、最初のときは、こんな茶店あったっけ?
その茶店にもお客はもちろん、店番の人もいないようです。ディズニーのキャラクターの風船なんかが、店先に売られております。
ここに来て、そんなの買う人いるんでしょうか。
ああ、地元の子供が買うのでしょう。
飛鳥時代の遺跡だからといって、ここの人たちが飛鳥時代人ではないですものね。
そうかぁ。今更ながらの気づきです。
By妻
日本書紀推古34年(626年)夏5月20日、
★馬子大臣が亡くなった。桃原墓(飛鳥石舞台の古墳-訳注)に葬った。(中略、馬子は)飛鳥川の辺りに家居(いえい)した。その庭の中に小さな池を堀り、池の中に小さな嶋を築いた。それで時の人は嶋大臣(しまの・おおおみ)といった。★
馬子の死後宮殿は蘇我一族に引き継がれました。しかし皇極4年(645年)の乙巳の変で蘇我氏が滅亡し、朝廷に接収されました。
その後、草壁皇子がここを宮殿としたと考えられています。万葉集の草壁皇子を悼む舎人の歌に、島の宮という言葉があるからです。
皇子が薨去したのは、この宮であります。 -
現状はご覧のように田圃です。全体が見える俯瞰写真がほしかったのですが、石舞台駐車場はドローン禁止です。
-
岡寺へ続く県道15号を登ってみました。このあたりもかつての嶋の宮と思われます。
-
ドローンを飛ばせそうな開けた場所はありませんでした。しかし遺跡を見下ろしています。
一書に曰く、
By夫が欲しい写真は、ドローン禁止なので撮れません。
あきらめればいいのに。というのは心の内で、「暑いし、雨降るよ。」などと、さりげなく、遠回しに言ってみるけれど、もちろん無視されました。
茶店の背後の坂道が、ちょうど、この谷間を俯瞰できる高さみたい。
あ~あ、By夫、気がついちゃった。やれやれ。
そこで、最初は、我がR&R、ロールスロイスではなくて、単にルンルン、ランランって名前を勝手につけたマイカーなんですが。
もう一台、田舎のフェラーリというのも持ってまして。軽トラのことを、アズマではそうよぶのですって。
そのR&Rで坂道を登り、適当なところで写真を撮るつもりです。
が、ところがところが、人はいないのに、車通りは多く、とても駐車して写真なんて撮っていられません。
計画断念。
振り出しに戻る。
また茶店の横の駐車場。
さて、「車がダメなら、太くたって短くたって、丈夫な二本の脚があるじゃない。」だそうです。
臨月のようなお腹の人に言われたくないけどね。
旅先だからがまん。
というので、暑いのに、蒸すのにテクテク歩いて登って、撮った写真がこれです。心してご賞味あれ。
あんまり登ると木が繁って見えなくなるので、中腹あたりです。
道路脇から斜面にかけて、畑がつくってあります。
バナナが植わってました。草壁くんの頃に、バナナはあったのですか?
でも松尾芭蕉の芭蕉って、バナナのことですってね。
天武持統陵にも、バナナは植えてありました。
バナナというから、いけないんだ。芭蕉なら日本のふるさと飛鳥の雰囲気を壊さないかも。
By妻 -
石舞台駐車場の田圃を挟んで反対側に回ってみましたが、遺跡の表示らしきものはなし。
-
明日香村文化財調査研究紀要第6号35ページ。飛鳥時代の景観変遷図[飛鳥IV:
7世紀後半]より。
7世紀後半の島の庄の位置です。
島庄遺跡部分を中心に、お馴染みのグーグル・マップに移してみます。 -
だいたいこんなものです。遺跡の赤い四角が1辺40mの方形池となります。発掘された遺跡は道路にかかり、池は駐車場入り口近くの道路に接していたのです。
-
左端の家の右で、道路に池の南の角が接していたことになります。
したがって、私が立っている場所は、草壁皇子の宮殿の一部のはずです。 -
反対側の小道より。宮殿からは池が見渡せたはず。すると大体この位置になります。目の前に1辺40mの方形の池が広がっていたのです。
一書に曰く、
水田です。そのあたりが、草壁くんのお屋敷跡らしい。水田は、田植えが終わったばかりのようでした。このあたりで、草壁くんは、お母様に、説教くらってたのね。
「はい。はい。」
「ちょっと!聞いてるの?!」
なんてね。
お気の毒です。
By妻 -
明日香村島庄遺跡(18次)調査より。
方形池の南側、現在の駐車場にも遺跡が発見されました。駐車場の赤丸が2003年の第18次調査で発掘された建物跡です。
私は、たぶん皆さんも、草壁皇子の宮殿の上に、おそれ多くも車をとめていた可能性があります。
その詳細が上の図。左隅の黄色い枠は私が加えました。
同調査より引用です。
★今回の調査では方形池の南側で数次期にわたる建物群を検出することができました。
特にA群とC群については柱穴が一辺1m以上もある大形建物で、その時期が7世紀前半と後半に推定されることから、蘇我馬子の「飛鳥河の傍の家」や「嶋宮」の時代とも重なっており、その関連性が注目されます。★
左隅の黄色い枠内です。7世紀後半となると「嶋宮」の可能性があります。正方位つまり南面した大きな建物だったようです。
考古学者ではない、物好きなタイムトラベラーの私としては、方形池跡北の岡から飛鳥川にいたる一帯を、草壁皇子の宮殿としてお話をすすめていきます。おそらく当たらずといえども遠からず。
一書に曰く、
不幸な親子だと、しみじみ思います。
親に過剰な期待される子供は、もちろん不幸。
そして、こんなに教育しても、レールを敷いてやってもうまくいかない子供を持つ親も不幸です。
持統さんって、結構理想主義者だったのねえ。
為せばなる!主義。
でも現実は、為せどもならないことばっかりですよね。
だから、早いところ、その子の為せばなせることを見つけてやらなければならないのだけれど。
この親子には、帝位につくか謀反人か。
選択肢はそれしかないですものね。
絵描きになるとか、詩人になるとか、ナチュラリストで、のんびり暮らすとか、そんなことは下々の人間に与えられた幸せです。
草壁くんは、天皇になるしかない。
適性ゼロなのに。
By妻 -
万葉集巻2に、柿本人麻呂の長歌、反歌3首、皇子に仕えた舎人の歌23首が収められています。
その詞書き。引用は原則として折口訳万葉集です。
△日竝知(ひなめし)の皇子の尊を殯の宮に移し奉った時、柿本人麻呂が作った歌、並びに短歌△
長歌は後半半分。現代語訳だけにします。
△其で其御世嗣なる、私どもがお仕へ申して居る皇子さまが、世の中をお治めになる様になれば、春咲く花のように、立派にあらうと思ひ、十五夜の月のように、十分であらう、と世の中の凡ての人たちが、大舟に乗ったような気分で、たよりにし、干魃に雨を待つように、早く御位に即いて下さるやうに、と待って居るのに、どんな風に御考へなさったのか、あの寂しい檀(まゆみ)の岡に御所の太い柱を御立てになり、御殿を高く御造りになって、其處におちつき遊ばされ、以前は朝になれば、御側つきの者に、物を仰つしやつたが、比御所に御出でになってからは、何も仰つしやらずに、日數が澤山たったことのその為に、御側仕への人は、用もなくなって、皆何處へ行ってよいか、訣らずに迷うてゐることだ。△ -
人麻呂は檀の岡と言っています。
佐田の集落の北に真弓という集落があります。直線600mくらいです。集落の大字は真弓。
宮内庁が治定している草壁皇子陵は、正式には草壁皇子真弓丘陵。
おそらく佐田はこのあたりの集落名または地名で、背後の丘陵をひとまとめに真弓の岡または檀の岡と、当時はよんだのではないか。
束明神古墳の近くに殯の宮をつくり、後日移葬したのです。あのりっぱな古墳と石槨は短期間にはできません。天武天皇の大内陵は13ヵ月かかりました。
殯の宮も「御所の太い柱を御立てになり、御殿を高く御造りになって」と、人麻呂は詠っています。そんな御殿である殯の宮もすぐできるはずがない。佐田には草壁皇子の離宮のようなものがすでにあった。そう解釈できる舎人の歌があります。
★外に見し檀の岡も、君在せば、常つ御門と侍宿するかも。★ 2-174
△これ迄は、何とも思はず過ごしてゐた檀の岡だが、皇子が御いでになってからは、何時迄も変わらない御所と思うて、宿直することだ。△
この舎人は檀の岡を知っている。やはり草壁皇子の離宮があって、付き従ってきていたのでしょう。そのときは檀の岡など気にもとめなかったのです。檀の岡を御所と言っているので、皇子が御陵に葬られたあとの歌ということです。
草壁皇子の宮殿は、「島の宮」「島宮」「嶋宮」いろいろな書き方があるようです。
万葉集では「島の宮」となっています。
人麻呂の反歌
★ひさかたの天みる如く、仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しくも★(2-168)
△御在世の時は、天を見るように尊み、ふり仰いで見た、皇子の御所の、荒れていくのが残り多いことだ△
よほど立派な御所だったのです。持統天皇、息子の御所には財を惜しまなかった。 -
異本の歌、
★島の宮、勾りの池の放ち鳥、人目に戀ひて池にかづかず★(2-170)
△皇子の居られた時分には、勾りの池に水鳥を放ってご覧になったが、今では誰も見る人がいない。今自分が見てゐると、水鳥は、人の見るのを懐かしがって、池にも潜らずに、悲しげに浮いている△
荒れはじめた屋敷の池に浮かぶ水鳥の悲しげなイメージが、ぐっときます。
「勾りの池」というのはなんだろう。勾玉を連想するのですが、発掘された馬子の池は1辺40mの方形です。
人麻呂の歌に、舎人の歌23首が続きます。
△日竝知の皇子の舎人等の悲しんで作った歌。廿三首△
「万葉の秀歌」(中西進)によると、
★舎人は、天皇・皇子に仕えるなかば私的な従者で、護衛や諸種の雑事にあたる。(中略)私的な従者ゆえに、彼らは極端にいうと、主人が死ぬと職を失うことになる。★
この23首には、主人を偲ぶ切々たる情感に溢れているのですが、それだけではなく、今後どうなるか分からない、自分自身の行く末への不安があると考えると、より切実なものとなります。
★天地と共に終へむと思ひつ、仕へまつりし心違ひぬ★2-176
△天地のなくなる迄、お仕へ申さうと思ひ乍ら、宮仕へをしてゐた豫期に、はづれたことだ。あゝ。△
これなどは、自分の行く末への不安があらわです。 -
★島の宮、上の池なる放ち鳥、荒びな行きそ。君まさずとも★2-172
△島の宮の、上の方に在る池に放った水鳥よ。たとひ皇子は御いでにならずとも、此儘で居って、人慣れない様に、なってしまってくれな。△
池は少なくとも上下2カ所あった。「上の池」は馬子の方形の池とは別のもので、170の「勾りの池」がこれでしょう
★水傳ふ石(いそ)の浦曲(うらわ)の岩躑躅(つつじ)、繁(も)く咲く道を、復見なむかも★ 2-185
△此後、島の宮の石の多く立ってゐる水の入り込みの辺りにある、岩躑躅の一杯に咲いてゐる道を、も一度見ることが出来ようか知らん△
池の周囲は曲がりくねり、石で囲まれていて、石の周りにはツツジが植えられていた。勾りの池または上の池です。
★とくらたて飼ひし雁の子、巣立ちなば、檀の岡に飛び帰り来ね★ 2-182
△とくらを据えて育て置いた、鴨の子が飛び立つことが出来るやうになったら、皇子のゐられる檀の岡に飛び移って来て、皇子の御心を慰めてくれ。△
水鳥が好きで、雛から育てさせていました。雛を育てる係の舎人はいました。鴨の子は自分で育てていたのかな。 -
★御立しの島をも家と棲む鳥も、荒びなゆきそ。年かはるまで★ 2-180
△始終御立ちになった所の島さへも、今では自分の家顔に住んで居る水鳥も、せめてわれゝとおなじく、1年の間は、人慣れた性を失っていかない様にしてくれ。△
「1年」というのは、御陵ができるまででしょう。天武陵は13ヵ月かかりました。
★御立しの島を見る時、にはたづみ流るゝ涙留めぞかねつる★ 2-178
△御在世の時分には、終始御立ちになった所の御池の築山の景色を眺めると、水たまりの様に、流れる涙が止めてゐられないことだ△
池の島は築山というくらいの高さがあったらしい。
180以降も、「御立しの島」という言葉が181、188にでてきます。「始終お立ちになっていたところの島」と訳されています。草壁皇子は池の島に渡って築山に登るのが大好きだった。
この島は馬子の作った池の島でしょう。 -
★東の激湍(たぎ)の御門に侍(さも)らへど、昨日も今日も召すこともなし★ 2-184
△いつもと変わりなく、自分は東の水の落ち口の激湍の御門の詰所に詰めて居るが、とんとお召しにならない。昨日もさうだ。今日もさうだ。思へば、君はもう此御殿には御いでにならぬのだ。△
この歌の訳注で中西は、
★細川から水を引いて上中下三段の池を作り、飛鳥川に水を流していたらしい。東に急傾斜で流れ出る処に宮門を作ったか。★
「激湍」は滝のこと。細川は一般名詞で単なる細い川かと思っていましたが、駐車場の宮跡と思われるところから、東約600mに細川という地名があります。このあたりに冬野川が流れています。冬野川から水を引き、三段の池を経て飛鳥川に排水するということでしょうか。細川のあたりの標高は202m、駐車場は150mくらいです。石舞台から談山神社に上がっていく道ですから、ちょっとした傾斜です。標高差50mを600mで下ることになるので、たしかに一部は滝になるでしょう。東に宮門を作ったことになります。宮門の近くに滝があった。ここに第一の池があったのか。
★一日には千度参りし、東の激湍の御門を入りがてぬかも★ 2-186
△以前は1日の中に、千返(せんぺん)も出入りした、水の落ち口にある東御門を、今は這い入りかねることだ。△
やはり東御門。東に正門をつくると、母が待つ飛鳥浄御原宮に行くには、自分の宮殿をおおきく北か南に迂回することになります。持統は草壁に毎日朝廷に出てこいと、うるさく言ったはず。マザコン息子のわずかな抵抗、わざわざ時間のかかる東に門を作ったか。
ある日の持統天皇。
「皇子は?」
「ただいま東の御門をお出になりました」
しばらくして。
「皇子は?」
「お屋敷の南の角を曲がられました」
「皇子はカタツムリですか(`Д´) だから西に門を造りなさいと言ったでしょ! もういい、私が門をつくります」
でも西に門は出来なかったようです。 -
発掘結果、人麻呂、舎人の歌をたどると、島の宮のイメージと、そこでの草壁皇子の暮らしぶりが想像できます。
太い柱の豪壮な御殿であった。
東門の近くで、滝のような急流が池に流れ込む。
池はほかに二つあり、ひとつは勾玉のような形で、上の池とよばれ、岩に囲まれ、ツツジが植えられていた。
もう一つは馬子が作った1辺40mの方形で、小高い築山のある島があり、それぞれの池には水鳥が放たれていた。
皇子はきさくな性格で、東門までやって来て、詰めている舎人と話をすることもあった。
皇子は毎日島に渡り、築山に上るのが大好きだった。
どうやって渡ったのか、舟か、橋が架かっていたのか。
舟じゃないですかね。自分で漕いで渡った。舟は1隻、そのあとだれも島には渡れません。築山に一人寝転んで、現在岡寺がある辺りの里山を眺めていたのではないか。
水鳥が好きだった。池に放していた。「鳥は、自由でいいなあ」と思っていた。
水鳥は雛から育てた。自分で育てたかもしれない。
好青年だったのでしょう。
人麻呂や舎人たちに慕われていた
日本書紀では影の薄い草壁皇子ですが、続日本紀には文武天皇の父として下記の記述があります。
巻第一 文武天皇記冒頭
★(草壁皇子は)天性ゆったりとしておられ、めぐみ深く怒りを外にあらわされることもなかった。ひろく儒教や歴史の書物を読まれ、とくに射芸(弓を射ること)にすぐれておられた。★
射芸が好きだった、というのは、ちょっと意外な感じがします。スポーティな一面もあった。でも、温厚で、「めぐみ深く」つまり舎人などともフランクにつきあい、読書が好きだった。内向的な人だったんですね、舎人の挽歌から浮かび上がるイメージに一致します。 -
万葉集で最も有名な歌のひとつは、柿本人麻呂の、
★「ひんがしの野に陽光の立つ見えて、かへりみすれば、月傾きぬ」★ 1-48
これは草壁の死後、軽皇子(草壁の子供)の安騎野の薬狩りの歌です。長歌と反歌4首。
1-45の長歌の結びは「古(いにしえ)おもひて」
反歌1-46の最後も「古おもふに」
折口によれば、この「いにしえ」は「以前、日並知尊(ひなめしの・みこと、草壁皇子)がたびたびここへ狩に来られた時分の事」
★日竝知の皇子の尊の、馬竝めて御狩たたしし時は来むかふ★ 1-49
△お懐かしい日竝知皇子様が、ここまで馬を竝べて来て、御狩を挙行遊ばした時節は、ちょうどこれからで、さういふ時候が、今来かかってゐる。お懐かしいことだ△
草壁皇子は安騎野で、馬を走らせるのが好きだった。
必ずしも軟弱なヒッキーではなかった。
そういえば、舎人の挽歌にもこういうのがあります。
★けごろもを春冬かたまけて、出でましし宇陀の大野は、思ほえむかも★ 2-191
△冬から春にかけて、たびたび御狩にお出になった所の、宇陀の大原のことは、何時何時までも思ひ出されることだろう△
草壁皇子の安騎野の狩の記事は書紀にはありません。大規模な朝廷の行事ではなく、プライベイトで、宇陀の大自然の中で馬を駆る、孤独なプリンスの唯一の楽しみだったのです。
お供は舎人数人と人麻呂だけだった。
人麻呂の草壁への挽歌の痛哭が、理解できたような気がします。 -
人麻呂の歌から、草壁皇子はプライベイトで何度も安騎野に来ていたことが分かりました。
安騎野は、草壁の少年時代思い出の地です。
天武元年(672年)6月24日、大海人皇子と菟野皇女は吉野を脱出して桑名に向かいました。草壁皇子同行。壬申の乱勃発です。
書紀6月24日続き、
★その日に菟田の安騎(奈良県宇陀町)に着いた。(中略)このとき屯田司(みたの・つかさ)の舎人土師連馬手(はじの・むらじ・うまて)は天皇の従者の人々の食事をたてまつった。★
「菟田の安騎」とは現在の阿紀神社とされています。人麻呂の歌碑で有名なかぎろいの丘のすぐ近くです。
このとき10才の少年草壁も一緒、馬手が作ってくれたお昼御飯を食べました。メニューはなんだったのか。ほとんど立ち食いの忙しい食事だったはずです。
大海人、菟野にとっては、一か八かの大勝負にでたわけで、必死。伝令の報告を聞き、斥候を出す。目なんか血走っていたにちがいない。
ところが草壁にとっては、父と母と一緒の遠足みたいなものです。両親と一緒に原っぱでお弁当を食べる、初めての経験だった。
楽しかったと思います。
舎人の歌では「宇陀の大野」となっています。折口はこれを「宇陀の大原」と訳していますが、宇陀にある広い原野と解釈して、安騎野とおなじ場所と考えているのでしょう。
しかしこれは原詩通り「大野」でいいのではないか。中西も「宇陀の大野」、原詩そのままです。宇陀には大野という場所があるのです。
しかもここも草壁思い出の地なのです。
安騎野や大野、楽しかった少年時代の最後の思い出を辿ったのでしょう。
書紀6月24日続き、
★大野に至って日が暮れた。山は暗くて進むことができない。その村の籬(かき)をこわして燭(ひともし)とした。★
大野とは現近鉄室生口大野駅付近だそうです。
6月24日は西暦7月24日、書紀の記録では25日の夜まで雨は降りません。路面温度40度、馬のたてる土埃で、天皇皇后、草壁も汗が糊になって埃がくっつき、顔なんか真っ黒けだったはず。
近くに宇陀川が流れております。川原で大休止または野営だった。
少年草壁クンは、川で泳いだのではないか。両親と生まれて初めてのキャンプですよ。楽しかっただろうな。 -
人麻呂の碑の立つかぎろいの丘。
軽皇子の薬狩りの地とされております。
草壁皇子の私的な狩の場所でもありました。
草壁少年の楽しかった思い出の地でもあるのです。
しかし、草壁の無邪気で楽しい少年時代はここで終わります。
大海人菟野の吉野脱出行は成功しました。
書紀天武元年6月26日、
★(天武天皇は)二十六日、朝、朝明郡(あさけの・こおり、三重県三重郡)の迹太川(とおがわ)のほとりで、天照大神を遙拝された。★
近江を脱出してきた大津皇子、大来皇女が合流しました。
★このとき益人が到着して奏上し、『関においでになったのは、山部王、石川王ではなく、大津皇子でありました』といった。やがて益人の後から大津皇子が参られた。大分君恵尺(おおきたのきみ・えさか)(以下9名氏名略)らがお供をしてきた。天皇はおおいに喜ばれた。★
物心がついてから、草壁が大来大津姉弟に会ったのは初めてのはず。このとき大来11才、大津9才。草壁はひとつ年下の大津が自分よりかなり背が高かったのに驚いたのではないか。大来も背が高く、頭の回転が速い、メチャクチャに気の強い美少女だった。草壁は何を思ったか。
その後桑名の郡家で、壬申の乱の終結まで、草壁は大来大津姉弟と2ヵ月一緒に暮らすことになります。
この2ヵ月が、草壁皇子にとって、全ての不幸のはじまりでありました。
菟野皇女つまり持統天皇は、大津皇子が、我が子草壁皇子にくらべ、体力、知力において、はるかに勝ることを思い知ったのであります。この姉の危険性も感じとった。
これは、大来大津の姉弟にも悲運のはじまりでありました。
このあたりのいきさつについては下記を読んでいただければ幸いです。
「六国史の旅 飛鳥の姉弟5 天武菟野吉野脱出行・上、書紀いけず読み」
https://4travel.jp/travelogue/11675114
「六国史の旅 飛鳥の姉弟6 天武菟野吉野脱出行・下、2泊3日無理ムリ~ 謎の6月23日」
https://4travel.jp/travelogue/11676620
「六国史の旅 飛鳥の姉弟8 大来大津桑名郡家」
https://4travel.jp/travelogue/11679851 -
一書に曰く、
楽しかったと思います。って!
うーん、なんかしっくりこない言い方だなあ。
過ぎてしまったとき、「あのとき大変だったねー!」と言い合う事ってよくあります。
今の幸せは、あの苦労の上なのだというとき、その苦労を繰り返し語ることで、今の幸せをかみしめるみたいな。
さて、草壁くんについては、両親とも、このとき必死でピリピリしていただろうけれど、草壁くんは、この時点では唯一無二の後継者。
菟野さんは、ピリピリしながらも、草壁くんに気を使い、「くーくん、ママの近くから離れるんじゃないわよ。」なんて感じだったろうし、大海人皇子だって、「体は大丈夫か。疲れてはいないか。父の近くの安全なところにいるのだぞ。」てな具合だったでしょう。
ふたりに気を使われて、草壁くんは幸せだったに違いない。
あのとき、そう、大来、大津姉弟が合流してくるまでは。
菟野さんは、二人を見て、くーくんなんて言っている場合じゃない!と愕然として、今までと一変して教育ママと化したし、お父ちゃんだって、草壁皇子が唯一無二の跡継ぎではない、場合によっては取りかえたってと思ったかもしれません。そうではなくても、はるばる苦労して駆けつけた姉弟を手厚くいたわったのは、自然のなりゆきでしょう。
あの日を境に一変した両親の態度。
この日を境に、陰におかれてしまった皇子
以後草壁皇子は、あの栄光の日々を懐かしむようになったとさ。
というのはいかが?
By妻
草壁皇子は病弱でありました。
天武天皇が崩御したとき、草壁皇子は24才でした。天皇に即位させてできないことはありません。10年後、草壁の息子軽皇子が文武天皇として即位したとき、わずか14才です。
持統がそれをしなかったのは、草壁が病弱であったからではないか。持統は息子の回復を待っていたのでありましょう。
しかし、持統の願い空しく、この宮で皇子は薨去したのであります。
いかがでしょう、この草壁皇子のイメージは、綾野剛でいけるかな。
一書に曰く、
母親は、息子を非常に愛していたことでしょう。一粒種の大事な我が子。彼女の命そのものです。けれど、その一方、理想とは遠い息子に苛立ち、場合によっては憎んだかもしれません。
また息子のほうも沢山の異母兄弟がいる環境で、信頼し頼るのは、ただ母のみ。どんなにか母を恋しく思ったことか。けれどまた、希望に添えない自分を追い詰める母は、憎悪の対象だったかもしれません。
この親子の愛は、まるで真夏の太陽そのままにきらめき、その日陰は、くっきりと黒いのです。
草壁くんの不幸せは、持統天皇の息子として生まれたことだったのでしょう。
By妻 -
★つれもなき、檀の岡に、宮柱太敷き坐し(ふとしきいまし)、御家(みあらか)を高著(たかし)りまして、★ 2-167
△あの寂しい檀(まゆみ)の岡に御所の太い柱を御立てになり、御殿を高く御造りになって、△
人麻呂が歌う佐田の里の立派な殯屋に、草壁皇子の遺体は、御墓が出来るまで安置されました。
当時の佐田はどんなどころか、そこで舎人たちは何をしていたか。 -
石舞台駐車場つまり島宮遺跡から佐田ふるさと館への徒歩ルートです。おそらく現代のルートと大きな違いはない。主に県道209ですが、途中天武持統陵を通ります。3年前天武天皇が崩御し、陵はできた直後です。持統もこのお墓に入るつもりです。飛鳥の宮殿から立派な道があったはず。
このあと牽牛子塚古墳近くを通ります。
ウイキペディアによれば、この古墳の石槨は重量80トンの巨大な岩であり、古墳全体に使用された石の総重量は550トン以上、約15km離れた二上山西麓より運ばれたそうです。
天智6年(667年)春2月27日、「斉明天皇をこの古墳、小市岡上陵(おちの・おかのうえの・みささぎ)に、葬った」という記事が日本書紀にあります。つまり20年ほど前にこれだけの重量物を運ぶ道路が造られたことが分かります。
また天武8年(679年)3月7日に天武天皇は「越智に御幸され、斉明天皇の陵に参拝された」という記事もあります。
草壁薨去689年のわずか10年前です。ここまでの道は当時十分に整備されていたと考えられます。
佐田が草壁皇子陵の建設地に選定されたのは、資材運搬の道路環境がよかったからではないか。
このルートは飛鳥旅のゴールデンルート、この道を車、自転車、歩いた方も多いでしょう。
牽牛子塚古墳については、
「六国史の旅 飛鳥の姉弟4 大来大津まぶたの母、太田皇女越塚御門古墳」
をごらんください。
https://4travel.jp/travelogue/11672620 -
★橘の島の宮には飽かねかも、佐田の岡遍に侍宿しにいく★ 2-179
△舎人達は、橘の里の島の御所には満足できないからか、佐田の丘あたりへ、宿直しにいくことだ。△
★はたらこが昼夜といはず行く路を我はさながら宮道にぞする★ 2-193
△農夫らがいつも行き来する道だのに、私はさながら宮道のごとくに行くことだ。△
この歌(193)は原文も訳も中西訳万葉集です。
舎人たちは、島の宮から佐田の殯屋まで、宿直のため通ったのです。宮道とは、折口によれば、昇殿のため通う道。 -
佐田の里へは、現在の奈良県立高取国際高校あたり、北東に開いた谷から舎人たちはやって来たはず。赤→です。島の宮からは最短距離。
-
佐田のふるさと館から北東を見ております。
この方向から、テクテクとやってきたのですね。
私たちは緑→から入りました。 -
でもこの道は里に入る前に切り通しになり、近代の工事っぽい感じです。
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突き当たり右が切り通し、左が奈良県立高取国際高校方向。この里山沿いの小道が古代ぽいのですが、細い。グーグルさんお得意の道幅無視の可能性あり、進入やめました。
やっぱり、歩かなければだめだなあ。 -
★朝日照る佐田の丘遍の鳴く鳥の、夜鳴き変らふ。この年頃を★ 2-192
△皇子の御陵の出来ない時分の、佐田の岡に鳴いてゐた鳥も、此頃では、其夜鳴きの声が変わっている。△
「即、御陵に奉侍する侍臣が、夜泣くのを云うたのである」と折口の注があります。御陵ができて、殯が終わり、遺体が墓に安置されても、舎人は佐田で夜の宿直を続けていました。
★夢にだに見ざりしものを、おぼゝしく、宮出もするか。佐田の隈曲(くまわ)を★ 2-175
△こんなことになろうとは、夢にさへも見もしなかったのに、今、佐田の岡の曲がり角の辺りの御墓の門を退出することだ。あゝ、夢か幻か訣(わか)らぬやうな、漠然(ぼんやり)した心持ちになる。△
「宮出」と言っております。「おぼゝしく」という取り乱しよう、これが最後、つまり草壁皇子御陵最後の宿直を終えて御墓の門を出るのか。舎人たちは、職を失い、ちりぢりに散っていくのでありましょうか。 -
舎人の歌23首は、本当に舎人の歌であるという説、柿本人麻呂の代作、あるいは人麻呂が補作したという説などがあるようです。
折口は、
★この廿三首は、恐らく柿本人麻呂のやうな、名家の代作であらうと思われる、すべて傑作である。★
一方、中西は「万葉の秀歌」で、人麻呂の代作ではないといっております。
どちらかなどということは、碩学が議論なさること、私などの出る幕はありません。
ただ、人麻呂は当時の売れっ子歌人、担当の草壁皇子がいなくなっても、「それじゃああ、私の担当をお願いします」という話はいくらでもあったでしょう。
舎人の歌の、今後の自分の身の振り方を心配するような歌は、人麻呂の発想ではないような気がします。人麻呂が添削している可能性はある。そうか、こういう歌もあるな、と彼も思ったのではないか。
一書に曰く、
草壁くんを慕って、その死を悼む人たちはいたのです。たくさんの舎人たちの哀傷歌。
これを、どうみましょうか。
彼がこの世を去っても、後追い自殺するほどドラマチックに愛した女性はいなかった。残念です。
いつまでもその面影を追い求める姉もいなかった。寂しいことです。
時代第一のプリンスなのに、まったくスターじゃないんだから!
そう思って、誰か、例えば人麻呂、例えば家持が、それを補って、歌を詠んだのかもしれません。
それとも、そのまま本当に沢山の舎人が草壁皇子を、しみじみと懐かしく愛しく思って、それぞれの言い方で彼をしのんだのか。
どっちだったでしょうか。
島に渡って、独りの時間を愛した草壁くんを、そっと見守っていた護衛の者達がいたのです。
彼らは、そんな孤独な草壁くんに、身分を越えた愛を感じたかもしれません。いえ、きっとそうだったに違いありません。
ヤマトタケルに七掬脛や吉備の武彦がいたように。
詳しくはこちら。
「ヤマトタケルの家路17 たたなづく青がき」
https://4travel.jp/travelogue/11645727
By妻 -
歌をよく読むと、島の宮、佐田の殯屋と御陵の有様を、後年推測する手がかりがあちこちにちりばめられております。
そもそも、この一群の歌がなければ、島の宮という言葉つまり草壁皇子の宮がどこにあったか、また御陵が佐田にあることは後世に伝わりませんでした。
大来皇女の歌があって、後世の人々は大津皇子の墓が二上山にあることを知りました。
同じケースです。
日本書紀の欠陥を補う意図で、人麻呂と舎人の歌は万葉集に収められたのではないか。
二上山を含む大来皇女の歌が2-163から166、直後から人麻呂の長歌、反歌と舎人の歌23首です。ゾッとするくらいよくできている。明らかに仕込んであるな、と思いませんか。
大来皇女の歌を万葉集に収めたのは、万葉集の編集者である大伴家持とし、意図については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟11 大来皇女京師に還る」の最後「天平の反体制派」で延々と書きました。
https://4travel.jp/travelogue/11685229
ご迷惑でしょうが、こちらを読んでください。
この草壁皇子への挽歌も大伴家持の編集ぽい。何故家持がここまで草壁皇子にシンパシーを感じていたのか。邪推にかけては天下一品と自認する、根性悪の私も、これは分かりません。
古事記、日本書紀、万葉集という古代御三家を通じて、ここまで一人の人間の、日常の素顔を彷彿とさせる描写はないのではないか。それを全部歌、つまり詩でやる。近代的というより、現代的な手法です。
そもそも、当時の散文、つまり漢文では、ここまで日本人の細やかな感情を表現できない。万葉集だけができる。
「家持は天才だ、天才に口出しをするな」はい、ごもっとも。で、これでおしまい。
あっ、ちょっと。
舎人の歌の真の作者は、折口によれば「柿本人麻呂のやうな、名家」、中西は人麻呂の代作ではない。
家持、ってことは、ないですよね~~~
https://youtu.be/yrrdJRcf3rU
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この旅行記へのコメント (6)
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- 前日光さん 2021/09/05 23:31:46
- 家持、草壁に成り代わって(?_?)
- ええーー!(゜Д゜)
この妄想、すごい!凄すぎる!
でも、そう思いたい!
我ら(って、誰?「私の」でしょ!)の家持(>_<)
万葉集の編集は、家持の生涯をかけたものだったし。。。
草壁の鬱屈した精神を自分ほど理解できる者はいないと、自負していたかも。
しにあさんの妄想、私もかなりその意見に傾きそうです。
だいたいにおいて、光り輝く存在よりも、はかない影の薄いものが好きだった家持です
「春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鶯鳴くも」とか
「わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも」
なんて詠んでますからね。
橘諸兄なんかが元気だった頃、父旅人が存命だった頃、華やいだ時はほんの一瞬で、藤原氏が台頭してきた。
昔は良かった!なんてベタなことは言わないけれど、時代は大きく変化し、天皇よりも藤原氏が暗躍する時代になってきた。
あの不比等の、藤の蔓のようにしぶとい天下取りの手法、己の娘をして天皇家との繋がりを強化せしめ、結局天下を欲しいままにしてしまった。
大伴のような古い家は、黙って去りゆくのみなのだ。
さすれば後世に、気弱さ故に自らは何者も残さぬ草壁のような人物を、彼の周囲の者の歌を残すことで、取り上げてみよう。
舎人どもの歌にはちと未熟なものもあるので、それはさり気なく手を加えてしまおう。
人麻呂様の歌に関しては、何の問題もない。
何千年の後でも、誰かがこの良心的な改竄に気づいてくれるやもしれぬ。
武人としては大したことはできなかったが、自分はこの歌集に自分の生きた痕跡を残すのだ!
なーんて、家持に成り代わって(おこがましい^^;)、しにあ説に賛同してみました。
家持は、あの唯一残っている署名の文字から、しにあさんがおっしゃっているように、けっこう一筋縄では行かないシニカルな所がありますからね。
生涯をかけた歌集に密かに暗号のように、不運だった人々の怨念を残したのではないでしょうか?
草壁が、屋敷の西に門を造らずに、少しでも母から遠ざかろうとした説、草壁らしいささやかな反抗で憎めないですね。
一人島に渡って寝転び、空を眺めていたって。。。
「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」を連想しました。
確かに万葉集には、草壁皇子を偲ぶ舎人たちの歌が数多く残されています。
私も初めて万葉集を読んだとき、あれ?草壁くんって意外にみんなに慕われていたのねと思ったことを思い出しました。
配役は、やっぱり綾野剛ということで。(^_-)
持統ちゃんは尾野真千子ちゃんで(シツコイ!)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/09/06 11:10:51
- Re: 家持、草壁に成り代わって(?_?)
- 「誰」はすぐに見当つきました。「なぜ」はどうしたものかと思っておりました。
家持の「いぶせき心」を前提にすると、スッキリ理解できますね。
「光り輝く存在よりも、はかない影の薄いものが好きだった家持です」その通り。
「草壁の鬱屈した精神を自分ほど理解できる者はいないと、自負していたかも。」言える。
となると。
「さすれば後世に、気弱さ故に自らは何者も残さぬ草壁のような人物を、彼の周囲の者の歌を残すことで、取り上げてみよう。」
ドンピシャリ。
達筆ながら、どこかグレた筆跡の家持にふさわしい。
「家持に成り代わって」いますね。
越中で家持巡礼をなさった時のインスピレーションでしょうか。
越中、行ってみたくなりました。奈良飛鳥はこの7月の旅でしこたま材料を仕込んできたので、一区切り、次は九州なのですが、その次の旅は家持詣りかなと思い始めました。
書紀の吉野脱出行に出てくる「菟田の安騎」「大野」という地名、万葉集の「安騎野」と「大野」、合わせると確実に草壁さんの少年時代が浮かび上がるようになっている。これ、どうみても偶然ではないですよね。
「何千年の後でも、誰かがこの良心的な改竄に気づいてくれるやもしれぬ。」
ひょっとして、前日光さんと私たちは、気づいちゃったのでしょうか、嬉しいな、
「一人島に渡って寝転び、空を眺めていたって。。。『不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心』を連想しました。」
啄木かあ、草壁さんはもうちょっと影が深かったような。
-
- へびおさん 2021/09/05 12:08:50
- 母は強し
- しにあの旅人さん
こんにちわ。
草壁皇子って影が薄いな~と思っていましたが、しにあの旅人さんの記事を拝見して、母が強過ぎたのかなと思いました。
母が強いと色々口出ししちゃうだろうし。
いつの世も親が偉大でも子供も同じとは限らない。
芸能界もスポーツ界も2世で生き残っている人って滅多にいないですもんね。
凄い両親を持ったせいで周りの期待とかも尋常じゃなかっただろうし、そういう精神的なものも若くして亡くなった要因にもなってしまったかも??
それにしてもこの時代のタラレバを想像したとき、未来の歴史がどうなっていたかを考えるのも面白いです。
もし大田皇女が長生きしていたら?
大津皇子が皇太子になっていたら?
草壁皇子が天皇になっていたら?
文武天皇が長命であったら?
藤原氏の台頭を防ぐことができたのでしょうか・・・
偉大な両親を持つ草壁皇子の真陵とされる古墳がああいう状況であることを見て、運命とは本当に皮肉だな、と考えさせられました。
大河ドラマは無理でしょうが、古代をドラマ化して欲しいですね!
天武・持統・天智は誰が演じるのが良いかな~(*^。^*)
- しにあの旅人さん からの返信 2021/09/06 11:46:33
- Re: 母は強し
- 古代を訪ねる旅にハマっております。旅には縦横がありまして、横の旅は普通の旅、縦は歴史を訪ねる旅です。
縦の旅は古代が比較的やりやすい、古事記、日本書紀、万葉集の古代御三家を読めばなんとかなります。御三家と考古学上の発掘結果に矛盾しなければ、何をどう書こうとこっちの勝手です。
草壁さんは一見すると材料が少ないのですが、書紀、万葉集を読みくらべるとそうでもない。その隙を突くと面白い旅ができました。
持統さんという方は面白い人物です。すごい政治家ですが、こと我が子が絡むと判断を間違えました。By妻が言うように、適性ゼロなのに天皇をやれと草壁さんに言ったのは、無理ですよね。言われた方も迷惑だったに違いない。
天皇には向いていないとあちこちに遠回しに書いてある。当時の人々もそう思っていたのですね。
六国史の旅・大来大津シリーズをやっていた時、コメント欄で、映画化のキャスティングの話で盛り上がりました。私の大来皇女=若い頃の和田アキ子は総スカンを食いました。
夢いっぱいの古代の旅です。
お付き合いください。
-
- kummingさん 2021/09/04 01:35:32
- 超、力作♪
- いつにも増して、しにあさんby妻さんの熱量がず~んと胸に伝わってきました。
古代史にも万葉集にも疎い私、の前にどなたかコメントしてくださ~い!と願いながらのカキコですm(_ _)m
膨大な史料を読み込み、その狭間に感じた違和感、疑義を突き詰め、歴史の隙間に分け行って、この人!と見定めた、権力の陰でやむに止まれず涙をのんで散った命、その無念の想いを掬い上げ、彷徨う魂に息吹きを吹き込み、そうして私たちの前に、見事に血の通ったひととして立ち上がって来る、大津往来、ふみのねまろ、厩戸皇子、村国男依、に続く草壁皇子。
引用されている万葉集個々の歌についてのコメントは差し控えさせて頂くとして(前日光さん、mistral さんにお任せします)、万葉集に記紀に書けない事をしのばせた、って事ですか?
生まれた場所、立場故に親子の情愛に恵まれなかったかもしれない、薄幸の皇子も、人麻呂や舎人ら数人の側近に慕われていた、とは救われるお話ですね。
もしかしたら、”母親に従順“に見せかけつつ、遠回りの東門作ってたみたいに、意外とこそっと我が道を行く♪タイプだったりしませんか? 例えば父親として、夫としての草壁くんは、息子に慕われ、妻に愛された、しあわせな家庭人だったとか…。
パタパタと走り回る夫を横目に心の内とは裏腹なれどの優しいお言葉、いつか何処かで見たような(笑)R&Rを諦めて“苦しくったって~悲しくったって~♪(←アタッNo1)”丈夫な二本脚でてくてく上って撮られた写真、しかと拝見^ ^
動画でせっかくGoogle navi ばりの道案内して頂いたのに、しにあさんや前日光さん、mistral さん方の様に、この近辺を裏庭みたくマニアックに散策される方々と違ってシロウトの私、には豚に真珠、猫に小判かもしれません(;o;)
ん~、なんとも大作にそぐわない、物足りないコメントでm(._.)m
- しにあの旅人さん からの返信 2021/09/04 09:56:58
- Re: 超、力作♪
- 正史では数行の人物に縦横から光を当てて、生き返らせる、私たちの意図を汲み取っていただいて、嬉しくて感激です。これからもりきを入れてやります。
家庭人としての草壁さんは、誠実だったみたい。この時代の皇族としては珍しく正妃以外の子供がいないようです。正妃と言ってものちの元明天皇ですが。
ずーっと先ですが、ひ孫の孝謙天皇がいやにひいおじいさんである草壁皇子にこだわっています。この話は次回やるつもり。「いい人だったんだよ」とか、誰かから何か聞いていたのかな。
大来大津の追っかけをやっていた頃は、ただのマザコンと思っていた草壁さんですが、どうもそう単純な人ではなかったようです。
読み流すと書紀では影の薄い皇子さんですが、万葉集や続日本紀と合わせ読むと、少年期、青年期、没後と、個人的な動静が見事に浮かび上がってきます。
これは偶然か、意図的なのか。
どうしても万葉集の編者の作為を感じるのですよね。「誰が」は見当付いても、「なぜ」がわからない。
パタパタと走り回りました。2度手間が多くて、三歩下がって二歩歩む(進んでいない)という感じでした。
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