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日本書紀28巻天武天皇紀には、ロマン溢れる歴史物語が語られています。<br />書紀や懐風藻が絶賛する、ほれぼれするような大津皇子、読む人の胸を打つ歌6首を万葉集に残す大来皇女。<br />敵役には兎野皇女、のちの持統天皇。妻には頭が上がらなかったことは別にすると英邁な君主天武天皇。<br />熱血不良青年高市皇子と十市皇女。<br />こうしたスポットライトを浴びたスターの陰に、目立たない、影のような皇子がいます。<br />草壁皇子。<br />大津大来に比べると地味ですね。<br />そもそもエピソードがない。<br />古代史に燦然と輝く政治家持統天皇、でも母親としては我が子かわいいだけのただの女、その母に頭を押さえられたマザコンというイメージです。<br />飛鳥という歴史の大舞台の片隅でしょぼんと、いじけている影のような皇子。<br />でも、「飛鳥の姉弟8」のコメントのやりとりで、草壁皇子のファンもおられることが分かりました。前日光さんによれば、草壁は綾野剛。「やさしい男」というイメージ。いい線いっていると思いました。<br />今回は綾野剛をイメージしながら、飛鳥にわずかに残る草壁皇子由縁の地を旅してきました。<br /><br />六国史(りっこくし)とは古代日本の律令国家が編纂した歴史書の総称です。<br />記述する時代は、<br />「日本書紀」(成立720年)が神代から持統天皇(697年)まで。<br />「続日本紀」(797年)文武天皇(697年)~桓武天皇(791年)<br />「日本後紀」(840年)桓武天皇(792年)~淳和天皇(833年)<br />「続日本後紀」(869年)仁明天皇の代(833年~850年)<br />「日本文徳天皇実録」(879年)文徳天皇の代(850年~858年)<br />「日本三代実録」(901年)清和天皇(858年)~光孝天皇(887年)<br /><br />今回の旅行記では次の資料を使用しました。<br />原文は漢文ですが、参考、引用するのは、原則として碩学による現代語訳です。<br />引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。<br />「全現代語訳・日本書紀」宇治谷孟・講談社学術文庫<br />「全現代語訳・続日本紀」宇治谷孟・講談社学術文庫<br />「新版言語訳付き・古事記」中村啓信・角川ソフィア文庫<br />「万葉集・全訳注原文付」中西進・講談社文庫、引用では「万葉集中西」<br />「万葉の秀歌」中西進・ちくま学芸文庫、引用では「万葉の秀歌」<br />「折口信夫全集第4巻・口約万葉集」中央公論社、引用では「万葉集折口」<br />文中、引用、参照が「日本書紀」「続日本紀」「古事記」とあるのはこの資料をさします。<br />「日本書紀」日本古典文学大系・坂本太郎他・岩波書店<br />読み下し文、漢文原文が必要な場合は本書を引用しました<br />「懐風藻」全訳注・江口孝夫・講談社学術文庫<br />「道路の日本史」服部健一・中公新書電子版<br />「古代道路の謎」近江俊秀・祥伝社新書<br />「古代甲斐国の交通と社会」大隅陽・六一書房<br />「日本古代の道と駅」木下良・吉川弘文館<br />「日本古代道路辞典」古代交通研究会編・八木書店<br />

六国史の旅 草壁皇子1 束明神古墳

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2021/07/08 - 2021/07/10

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旅行記グループ 六国史の旅 草壁皇子

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しにあの旅人

しにあの旅人さん

日本書紀28巻天武天皇紀には、ロマン溢れる歴史物語が語られています。
書紀や懐風藻が絶賛する、ほれぼれするような大津皇子、読む人の胸を打つ歌6首を万葉集に残す大来皇女。
敵役には兎野皇女、のちの持統天皇。妻には頭が上がらなかったことは別にすると英邁な君主天武天皇。
熱血不良青年高市皇子と十市皇女。
こうしたスポットライトを浴びたスターの陰に、目立たない、影のような皇子がいます。
草壁皇子。
大津大来に比べると地味ですね。
そもそもエピソードがない。
古代史に燦然と輝く政治家持統天皇、でも母親としては我が子かわいいだけのただの女、その母に頭を押さえられたマザコンというイメージです。
飛鳥という歴史の大舞台の片隅でしょぼんと、いじけている影のような皇子。
でも、「飛鳥の姉弟8」のコメントのやりとりで、草壁皇子のファンもおられることが分かりました。前日光さんによれば、草壁は綾野剛。「やさしい男」というイメージ。いい線いっていると思いました。
今回は綾野剛をイメージしながら、飛鳥にわずかに残る草壁皇子由縁の地を旅してきました。

六国史(りっこくし)とは古代日本の律令国家が編纂した歴史書の総称です。
記述する時代は、
「日本書紀」(成立720年)が神代から持統天皇(697年)まで。
「続日本紀」(797年)文武天皇(697年)~桓武天皇(791年)
「日本後紀」(840年)桓武天皇(792年)~淳和天皇(833年)
「続日本後紀」(869年)仁明天皇の代(833年~850年)
「日本文徳天皇実録」(879年)文徳天皇の代(850年~858年)
「日本三代実録」(901年)清和天皇(858年)~光孝天皇(887年)

今回の旅行記では次の資料を使用しました。
原文は漢文ですが、参考、引用するのは、原則として碩学による現代語訳です。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
「全現代語訳・日本書紀」宇治谷孟・講談社学術文庫
「全現代語訳・続日本紀」宇治谷孟・講談社学術文庫
「新版言語訳付き・古事記」中村啓信・角川ソフィア文庫
「万葉集・全訳注原文付」中西進・講談社文庫、引用では「万葉集中西」
「万葉の秀歌」中西進・ちくま学芸文庫、引用では「万葉の秀歌」
「折口信夫全集第4巻・口約万葉集」中央公論社、引用では「万葉集折口」
文中、引用、参照が「日本書紀」「続日本紀」「古事記」とあるのはこの資料をさします。
「日本書紀」日本古典文学大系・坂本太郎他・岩波書店
読み下し文、漢文原文が必要な場合は本書を引用しました
「懐風藻」全訳注・江口孝夫・講談社学術文庫
「道路の日本史」服部健一・中公新書電子版
「古代道路の謎」近江俊秀・祥伝社新書
「古代甲斐国の交通と社会」大隅陽・六一書房
「日本古代の道と駅」木下良・吉川弘文館
「日本古代道路辞典」古代交通研究会編・八木書店

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配
  • 束明神古墳、「つかみょうじん」と読みます。とてもマイナーな古墳です。近鉄吉野線飛鳥駅と高松塚古墳を目印にしておきます。飛鳥旅に詳しい方には、場所が見当つくでしょう。<br /><br />草壁皇子は日本書紀でも出番は少なくて、薨去したときも、<br />持統3年(689年)夏4月13日、<br />★皇太子草壁皇子が薨去された。★<br />これだけ。大津皇子とは違います。人柄、能力などにも言及なし。<br />陵墓は、真弓丘陵となっています。10世紀編纂の延喜式に書かれているそうです。これに基づき宮内庁も真弓丘陵を陵墓としています。束明神古墳のほぼ南、直線250mくらいです。<br />ところが、昭和59年(1984年)の、橿原考古学研究所と高鳥町教育委員会による発掘調査の結果、束明神古墳が草壁皇子の真墓の可能性が大きいという結論が出されました。<br />宮内庁の治定と異なる古墳がある場合は、異なる方が真墓の可能性が強いので、まず行ってきました。<br />

    束明神古墳、「つかみょうじん」と読みます。とてもマイナーな古墳です。近鉄吉野線飛鳥駅と高松塚古墳を目印にしておきます。飛鳥旅に詳しい方には、場所が見当つくでしょう。

    草壁皇子は日本書紀でも出番は少なくて、薨去したときも、
    持統3年(689年)夏4月13日、
    ★皇太子草壁皇子が薨去された。★
    これだけ。大津皇子とは違います。人柄、能力などにも言及なし。
    陵墓は、真弓丘陵となっています。10世紀編纂の延喜式に書かれているそうです。これに基づき宮内庁も真弓丘陵を陵墓としています。束明神古墳のほぼ南、直線250mくらいです。
    ところが、昭和59年(1984年)の、橿原考古学研究所と高鳥町教育委員会による発掘調査の結果、束明神古墳が草壁皇子の真墓の可能性が大きいという結論が出されました。
    宮内庁の治定と異なる古墳がある場合は、異なる方が真墓の可能性が強いので、まず行ってきました。

  • 佐田の集落が見えてきました。<br />飛鳥も観光ルート一歩外れると車載カーナビはお手上げで、グーグルさんのお出ましです。目的地はあらかじめ探しておきます。<br />正面の黄色い建物のかなたの岡に束明神古墳はあるはずです。<br /><br />万葉集1-175<br />★夢にだに見ざりしものを、おぼゝしく、宮出もするか。佐田の隈曲(くまわ)を★<br />★こんなことになろうとは、夢にさへも見もしなかったのに、今、佐田(さだ)の岡の曲がり角の辺の御墓の門を退出することだ。あゝ、夢か幻か訣(わか)らぬやうな、漠然(ぼんやり)した心持ちになる★(万葉集折口、以下現代語訳は同じ)<br />万葉集に、草壁皇子の舎人の歌が23首あります。その多くに佐田という地名がでてきます。いずれも皇子の死を悼む挽歌です。いずれも胸にぐっとくる歌です。<br />「私たちは、今、佐田にいるのね」By妻。感慨深げ。<br />持統3年、1332年前もこの里は佐田とよばれていたのです。<br />皇子の舎人はもちろん、柿本人麻呂もここを訪れていたはず。<br /><br />束明神古墳の住所は、<br />奈良県高市郡高取町大字佐田<br />大字は佐田です。<br />大字は明治以前の、村より小さい集落単位。飛鳥時代と現代と呼び名が変わっていないというのは、範囲も変わっていないでしょう。<br />やはり、皇子の真墓は束明神古墳です。<br />佐田地区ではこの古墳が草壁皇子の墓という伝承が今に伝えられているそうです。<br />

    佐田の集落が見えてきました。
    飛鳥も観光ルート一歩外れると車載カーナビはお手上げで、グーグルさんのお出ましです。目的地はあらかじめ探しておきます。
    正面の黄色い建物のかなたの岡に束明神古墳はあるはずです。

    万葉集1-175
    ★夢にだに見ざりしものを、おぼゝしく、宮出もするか。佐田の隈曲(くまわ)を★
    ★こんなことになろうとは、夢にさへも見もしなかったのに、今、佐田(さだ)の岡の曲がり角の辺の御墓の門を退出することだ。あゝ、夢か幻か訣(わか)らぬやうな、漠然(ぼんやり)した心持ちになる★(万葉集折口、以下現代語訳は同じ)
    万葉集に、草壁皇子の舎人の歌が23首あります。その多くに佐田という地名がでてきます。いずれも皇子の死を悼む挽歌です。いずれも胸にぐっとくる歌です。
    「私たちは、今、佐田にいるのね」By妻。感慨深げ。
    持統3年、1332年前もこの里は佐田とよばれていたのです。
    皇子の舎人はもちろん、柿本人麻呂もここを訪れていたはず。

    束明神古墳の住所は、
    奈良県高市郡高取町大字佐田
    大字は佐田です。
    大字は明治以前の、村より小さい集落単位。飛鳥時代と現代と呼び名が変わっていないというのは、範囲も変わっていないでしょう。
    やはり、皇子の真墓は束明神古墳です。
    佐田地区ではこの古墳が草壁皇子の墓という伝承が今に伝えられているそうです。

  • 真弓丘陵は、佐田の里より小さな峠を南に下ります。<br />写真奥、数軒の家の向こうが佐田の集落。

    真弓丘陵は、佐田の里より小さな峠を南に下ります。
    写真奥、数軒の家の向こうが佐田の集落。

  • 小高い丘の上。

    小高い丘の上。

  • 宮内庁治定の草壁皇子陵。「岡宮天皇」とあるのは、草壁皇子には死後70年、天皇号が尊称としておくられているからです。<br /><br />住所は奈良県高市郡高取町、<br />大字は森。<br />

    宮内庁治定の草壁皇子陵。「岡宮天皇」とあるのは、草壁皇子には死後70年、天皇号が尊称としておくられているからです。

    住所は奈良県高市郡高取町、
    大字は森。

  • 陵は小さな谷に面しております。

    陵は小さな谷に面しております。

  • 谷は南に開け、遠くに見えるのは森集落。<br />天武持統陵がある東は岡に遮られております。菟野はやがて自分も葬られることになる大内陵の方向に、草壁の陵は向いていることを絶対に望んだはずです。<br />真弓陵は、草壁皇子のお墓ではないでしょう。<br /><br />一書に曰く、<br />佐田の集落は、この旅で二度行きました。<br />二度目は、なんだか写真が撮れていなかったとかなんとかで、単に写真の為に行ったのですが、二度とも、私は不思議な感じを受けました。<br />二度とも出発点が同じだから、ほとんど同じ道を通ったからだと思うのですが。<br />集落への道は、大きい車通りからわき道に入って、またわき道に入って行くのです。<br />そうやって走って行くのは、古墳が山なのだから当然ですし、そういう景色は他にも何度も見たはずなのですが、なぜか、ここは、袋に入っていく感じがするのです。<br />山の麓は、普通の村落で、農協だか何だか施設もあったし、何かのグラウンドもあったような。広がりがあって、もう全く、日本中何処にもある農村なのです。ところがそのあと坂を上ります。この坂のせいかなあ。<br />いや、その前の曲がって曲がってのせいかなあ。<br />袋の入口でモゴモゴもがいて、抜け出したらそこには、そこは袋の中って感じ?<br />二度とも、潜り込む感じがしました。なぜでしょう?<br />By妻<br />

    谷は南に開け、遠くに見えるのは森集落。
    天武持統陵がある東は岡に遮られております。菟野はやがて自分も葬られることになる大内陵の方向に、草壁の陵は向いていることを絶対に望んだはずです。
    真弓陵は、草壁皇子のお墓ではないでしょう。

    一書に曰く、
    佐田の集落は、この旅で二度行きました。
    二度目は、なんだか写真が撮れていなかったとかなんとかで、単に写真の為に行ったのですが、二度とも、私は不思議な感じを受けました。
    二度とも出発点が同じだから、ほとんど同じ道を通ったからだと思うのですが。
    集落への道は、大きい車通りからわき道に入って、またわき道に入って行くのです。
    そうやって走って行くのは、古墳が山なのだから当然ですし、そういう景色は他にも何度も見たはずなのですが、なぜか、ここは、袋に入っていく感じがするのです。
    山の麓は、普通の村落で、農協だか何だか施設もあったし、何かのグラウンドもあったような。広がりがあって、もう全く、日本中何処にもある農村なのです。ところがそのあと坂を上ります。この坂のせいかなあ。
    いや、その前の曲がって曲がってのせいかなあ。
    袋の入口でモゴモゴもがいて、抜け出したらそこには、そこは袋の中って感じ?
    二度とも、潜り込む感じがしました。なぜでしょう?
    By妻

  • 佐田ふるさと館。<br />古墳の近くに駐車できる場所はなさそうなので、ここに止められないかと思って目標にしました。<br />

    佐田ふるさと館。
    古墳の近くに駐車できる場所はなさそうなので、ここに止められないかと思って目標にしました。

  • 会館にはどなたもおられませんでしたが、軽トラの向こうで農作業をしておられた方に、止めさせて下さいとお願いしました。<br />「どうぞ、ごゆっくり」<br />

    会館にはどなたもおられませんでしたが、軽トラの向こうで農作業をしておられた方に、止めさせて下さいとお願いしました。
    「どうぞ、ごゆっくり」

  • 集落の道は狭く、とても車をもってこられません。ふるさと館にとめて正解でした。<br /><br />一書に曰く、<br />集落は、どれも立派な瓦葺きのお屋敷ばかりで、この地区の豊かさを示しているようです。しかも、それも昨日今日建てられたものではなく、適度に古びて周囲の自然にとけこんでおります。<br />その奥に山があります。<br />そこが目的地の束明神古墳です。<br />山の途中にお寺があり、どなたか出ていらっしゃいましたが、よそ者がうろついても特別驚きもせず、庭先の用事を済ますと、家にはいってしまわれました。<br />静かです。<br />テレビとかラジオとかの音が漏れ聞こえることもなく、遅ればせながらのウグイスの声がするくらい。<br />このお寺は、草壁の皇子を守って出来たお寺なのでしょうか。<br />なにかお話を伺いたいとは思いましたが、もう出ていらっしゃらない。<br />ピンポンするのも、と気後れしてしまいました。<br />結構私たちへたれなのです。<br />By夫に言わせると、そういう慎みを知ることが教養というものだ。だそうですが。<br />By妻<br />

    集落の道は狭く、とても車をもってこられません。ふるさと館にとめて正解でした。

    一書に曰く、
    集落は、どれも立派な瓦葺きのお屋敷ばかりで、この地区の豊かさを示しているようです。しかも、それも昨日今日建てられたものではなく、適度に古びて周囲の自然にとけこんでおります。
    その奥に山があります。
    そこが目的地の束明神古墳です。
    山の途中にお寺があり、どなたか出ていらっしゃいましたが、よそ者がうろついても特別驚きもせず、庭先の用事を済ますと、家にはいってしまわれました。
    静かです。
    テレビとかラジオとかの音が漏れ聞こえることもなく、遅ればせながらのウグイスの声がするくらい。
    このお寺は、草壁の皇子を守って出来たお寺なのでしょうか。
    なにかお話を伺いたいとは思いましたが、もう出ていらっしゃらない。
    ピンポンするのも、と気後れしてしまいました。
    結構私たちへたれなのです。
    By夫に言わせると、そういう慎みを知ることが教養というものだ。だそうですが。
    By妻

  • 佐田の集落。古墳はここからさらに登ります。

    佐田の集落。古墳はここからさらに登ります。

  • 古墳は春日神社という神社の境内にあります。<br />登り口の左には円浄寺というお寺。<br />

    古墳は春日神社という神社の境内にあります。
    登り口の左には円浄寺というお寺。

  • 「春日神社」社標と鳥居が見えてきました。

    「春日神社」社標と鳥居が見えてきました。

  • By妻に写真をまかせて、私はドローンを飛ばす場所を探します。この日半ズボンでしたから、虫除けスプレーを忘れて、足がボコボコになりました。

    By妻に写真をまかせて、私はドローンを飛ばす場所を探します。この日半ズボンでしたから、虫除けスプレーを忘れて、足がボコボコになりました。

  • 神門をくぐって、

    神門をくぐって、

  • 春日神社本殿です。<br />ご祭神は春日神、創建年代など詳細は分かりません。高取町にはどういうわけか春日神社が5社もあります。<br />

    春日神社本殿です。
    ご祭神は春日神、創建年代など詳細は分かりません。高取町にはどういうわけか春日神社が5社もあります。

  • 束明神古墳の案内板です。この文章はネット上にはありませんでした。草壁皇子ファンの共有情報にしたいので、全文書き起こします。書き起こしミスがあれば御連絡下さい。和数字は洋数字にしています。<br /><br />★束明神古墳<br />この古墳は明治26年の野淵竜潜による「大和国古墳墓取調書」に初めて記され、その後「大和国高市郡古墳誌」等にも報告されているが、それほど目立った存在として取り扱われなかった。橿原考古学研究所では高松塚古墳の調査後、終末期古墳の研究を進め、束明神古墳が後背部に大きなカット面を持つなどの特色から終末期古墳として注目してきた。こうした認識にたち、昭和53年に外形の実測調査を実施し、これをもとに各方面からの検討を加え、昭和59年4月16日から発掘調査を行った。調査は、由良大和古代文化研究会の助成を受けて奈良県立橿原考古学研究所が高鳥町教育委員会と共同で実施した。<br />古墳は尾根の南側を直径約60メートルの範囲で造成し、その中央部に墳丘をつくっている。石槨の規模等についてもこれまで調査された終末期古墳にみられなかった大規模なものである。石槨の変遷・棺の構造・須恵器等から総合的に判断して、7世紀後半から末頃と考えられ、また歯の鑑定結果は男女の性別は不明で、年齢は青年期から壮年期と推定される。<br />草壁皇子(天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇子)の墓である可能性が大きいといわれている。<br />高取町教育委員会★<br /><br />束明神古墳が草壁皇子の墓であると、古代ブログによくみられますが、この案内板が根拠のひとつのようです。<br />「歯の鑑定結果は男女の性別は不明で、年齢は青年期から壮年期と推定される」とあります。草壁皇子の享年は27才。青年期の終わりというべき年頃です。<br /><br />「高取町観光ガイド」によれば、対角線の長さが30mある八角形憤で、天武・持統陵の45mにつぐ規模です。八角形憤というのは、終末期古墳では天皇陵の特徴です。<br />★横ロ式石槨は緻密な構造になっており、切って積み上げられた凝灰岩の大きさは厚さ30cm、幅50cm、奥行き50cmにも及ぶ。★<br />とあり、巨大な家形の石槨だったのです。<br />石槨の復元レプリカが樫原考古学研究所附属博物館の庭におかれているそうです。残念ながら博物館は改装のため長期閉館中で、見学できませんでした。せめて庭だけでも見られないかと電話してみましたが。だめでした。<br />古墳中枢部は、発掘後、現場で埋め戻されました。<br />★幕末までは古墳に玉垣を設け、草壁皇子の眠る岡宮天皇陵として祀っていたという伝承もある。現在の岡宮天皇陵は素盞嗚命神社の本殿が元々あった地に定められているが、考古学や古代史上では束明神古墳が岡宮天皇陵との説が有力。★<br />とあります。<br />天皇につぐ極めて皇位の皇族の墓であることは明確です。<br />「高取町観光ガイド」<br />https://sightseeing2.takatori.info/tukameijin/<br />

    束明神古墳の案内板です。この文章はネット上にはありませんでした。草壁皇子ファンの共有情報にしたいので、全文書き起こします。書き起こしミスがあれば御連絡下さい。和数字は洋数字にしています。

    ★束明神古墳
    この古墳は明治26年の野淵竜潜による「大和国古墳墓取調書」に初めて記され、その後「大和国高市郡古墳誌」等にも報告されているが、それほど目立った存在として取り扱われなかった。橿原考古学研究所では高松塚古墳の調査後、終末期古墳の研究を進め、束明神古墳が後背部に大きなカット面を持つなどの特色から終末期古墳として注目してきた。こうした認識にたち、昭和53年に外形の実測調査を実施し、これをもとに各方面からの検討を加え、昭和59年4月16日から発掘調査を行った。調査は、由良大和古代文化研究会の助成を受けて奈良県立橿原考古学研究所が高鳥町教育委員会と共同で実施した。
    古墳は尾根の南側を直径約60メートルの範囲で造成し、その中央部に墳丘をつくっている。石槨の規模等についてもこれまで調査された終末期古墳にみられなかった大規模なものである。石槨の変遷・棺の構造・須恵器等から総合的に判断して、7世紀後半から末頃と考えられ、また歯の鑑定結果は男女の性別は不明で、年齢は青年期から壮年期と推定される。
    草壁皇子(天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇子)の墓である可能性が大きいといわれている。
    高取町教育委員会★

    束明神古墳が草壁皇子の墓であると、古代ブログによくみられますが、この案内板が根拠のひとつのようです。
    「歯の鑑定結果は男女の性別は不明で、年齢は青年期から壮年期と推定される」とあります。草壁皇子の享年は27才。青年期の終わりというべき年頃です。

    「高取町観光ガイド」によれば、対角線の長さが30mある八角形憤で、天武・持統陵の45mにつぐ規模です。八角形憤というのは、終末期古墳では天皇陵の特徴です。
    ★横ロ式石槨は緻密な構造になっており、切って積み上げられた凝灰岩の大きさは厚さ30cm、幅50cm、奥行き50cmにも及ぶ。★
    とあり、巨大な家形の石槨だったのです。
    石槨の復元レプリカが樫原考古学研究所附属博物館の庭におかれているそうです。残念ながら博物館は改装のため長期閉館中で、見学できませんでした。せめて庭だけでも見られないかと電話してみましたが。だめでした。
    古墳中枢部は、発掘後、現場で埋め戻されました。
    ★幕末までは古墳に玉垣を設け、草壁皇子の眠る岡宮天皇陵として祀っていたという伝承もある。現在の岡宮天皇陵は素盞嗚命神社の本殿が元々あった地に定められているが、考古学や古代史上では束明神古墳が岡宮天皇陵との説が有力。★
    とあります。
    天皇につぐ極めて皇位の皇族の墓であることは明確です。
    「高取町観光ガイド」
    https://sightseeing2.takatori.info/tukameijin/

  • 古墳をかなり下から見上げております。「直径約60メートルの範囲で造成し、その中央部に墳丘をつくっている」とあります。おそらく写真を撮ったあたりが古墳全体の南端で、頂上の草に覆われた盛り上がりが中央部の墳丘のトップでしょう。<br /><br />葺き石があったとは書いてないので、高松塚古墳のようなものでしょう。<br />

    古墳をかなり下から見上げております。「直径約60メートルの範囲で造成し、その中央部に墳丘をつくっている」とあります。おそらく写真を撮ったあたりが古墳全体の南端で、頂上の草に覆われた盛り上がりが中央部の墳丘のトップでしょう。

    葺き石があったとは書いてないので、高松塚古墳のようなものでしょう。

  • 束明神古墳から遠くない高松塚古墳です。<br />2段式で、下段直径23m、上段18m、高さ5mです。束明神古墳の直径30mというのはこ、れより一回り大きい。「これまで調査された終末期古墳にみられなかった大規模なものである。」というのが分かります。<br />

    束明神古墳から遠くない高松塚古墳です。
    2段式で、下段直径23m、上段18m、高さ5mです。束明神古墳の直径30mというのはこ、れより一回り大きい。「これまで調査された終末期古墳にみられなかった大規模なものである。」というのが分かります。

  • この古墳の下段根元生け垣の下、裾まで全部というくらいかな。

    この古墳の下段根元生け垣の下、裾まで全部というくらいかな。

    高松塚壁画館 美術館・博物館

  • 下から見上げる写真、近づきました。この写真全部が高松塚の上段に相当するのでしょう。

    下から見上げる写真、近づきました。この写真全部が高松塚の上段に相当するのでしょう。

  • 岡の頂上古墳頂天前。<br />5mの高度からのドローン映像です。南方向。岡全体が南に下っているのが分かります。<br />

    岡の頂上古墳頂天前。
    5mの高度からのドローン映像です。南方向。岡全体が南に下っているのが分かります。

  • 上の写真と連続しております。

    上の写真と連続しております。

  • 墳丘トップが見えてきました。

    墳丘トップが見えてきました。

  • 墳丘トップと神門。

    墳丘トップと神門。

  • 神門のむこうはすぐ階段。<br /><br />一書に曰く、<br />天武天皇持統天皇陵は、白日の下にさらされて、カラッとしておりましたが、ここがもしも本当に草壁皇子の御陵なら、その日の天気のせいなのか、結構じめっとしておりました。<br />草壁君は、そういう性質だったのかも。<br />ああいう強烈なお母ちゃんとつきあったら、内省的な人間になってしまうでしょう。<br />パパ天武は、あっちの子供、こっちの子供と忙しかっただろうし。<br />例えば、高市くんは、年かさでこの戦で役に立ちそうだから、力づけたり話したりせねばならない。幼い大津くんはママもいないから心細いだろうから世話してやらねば。忍壁くんは、ママ忍壁がパパのお世話係だから、しょちゅうついてきて、会ってたでしょう。なんと言ってもなついていて可愛いし。草壁?草壁は、母親はいるし、しっかりしている。ここは放って置いても大丈夫。なんて思っている。<br />ところが、この草壁母さんが、今で言えば、ばりばりのキャリアウーマンですからね。子供は学童保育とベビーシッター育ち。それでいて、家に帰ると、教育ママで、ガミガミうるさく言う。<br />子供は、なーんか寂しいんだよね。心満たされない感じ。<br />意見を言おうものなら、「何を馬鹿なことを!」と全否定だから言うことも言えない。黙っていると、「どっちにするの?はっきりしなさい!」とか怒られる。<br />何を言っても、言わなくても叱られるから、「ええ、まあ」しか言わない煮え切らない男になっちゃった。<br />なんてね。<br /><br />今、この山の中にいると、日の光、風のそよぎ、木々のかおり、地のぬくもり、鳥の声、虫の羽音。全ての自然がやさしくて、ここに眠る人が誰であれ、やすらかに幸せに眠っていると思えるのです。<br /><br />そうか!ここは袋ではなく、ふところ、懐かしい安心して身をゆだねることが出来る母、父の懐なのです。<br />ふところに、もぞもぞ潜り込んで、自分の体温と親の体温とで温まって安心して眠る赤子のように、草壁の皇子は心安らかに、この地に眠っているのです。<br />By妻<br />

    神門のむこうはすぐ階段。

    一書に曰く、
    天武天皇持統天皇陵は、白日の下にさらされて、カラッとしておりましたが、ここがもしも本当に草壁皇子の御陵なら、その日の天気のせいなのか、結構じめっとしておりました。
    草壁君は、そういう性質だったのかも。
    ああいう強烈なお母ちゃんとつきあったら、内省的な人間になってしまうでしょう。
    パパ天武は、あっちの子供、こっちの子供と忙しかっただろうし。
    例えば、高市くんは、年かさでこの戦で役に立ちそうだから、力づけたり話したりせねばならない。幼い大津くんはママもいないから心細いだろうから世話してやらねば。忍壁くんは、ママ忍壁がパパのお世話係だから、しょちゅうついてきて、会ってたでしょう。なんと言ってもなついていて可愛いし。草壁?草壁は、母親はいるし、しっかりしている。ここは放って置いても大丈夫。なんて思っている。
    ところが、この草壁母さんが、今で言えば、ばりばりのキャリアウーマンですからね。子供は学童保育とベビーシッター育ち。それでいて、家に帰ると、教育ママで、ガミガミうるさく言う。
    子供は、なーんか寂しいんだよね。心満たされない感じ。
    意見を言おうものなら、「何を馬鹿なことを!」と全否定だから言うことも言えない。黙っていると、「どっちにするの?はっきりしなさい!」とか怒られる。
    何を言っても、言わなくても叱られるから、「ええ、まあ」しか言わない煮え切らない男になっちゃった。
    なんてね。

    今、この山の中にいると、日の光、風のそよぎ、木々のかおり、地のぬくもり、鳥の声、虫の羽音。全ての自然がやさしくて、ここに眠る人が誰であれ、やすらかに幸せに眠っていると思えるのです。

    そうか!ここは袋ではなく、ふところ、懐かしい安心して身をゆだねることが出来る母、父の懐なのです。
    ふところに、もぞもぞ潜り込んで、自分の体温と親の体温とで温まって安心して眠る赤子のように、草壁の皇子は心安らかに、この地に眠っているのです。
    By妻

  • 墳丘トップ全景です。<br /><br />「大和の古墳探索」というブログがあります。<br />そこに束明神古墳の詳しいレポートがあります。<br />束明神古墳 - とし坊の「大和の古墳探し」 (jimdofree.com)<br />https://narasakurai.jimdofree.com/%E9%AB%98%E5%8F%96%E7%94%BA/%E6%9D%9F%E6%98%8E%E7%A5%9E%E5%8F%A4%E5%A2%B3/<br />作者のプロフィルがありませんので、詳しいことはわかりません。奈良在住の古墳専門家のようです。ご自分のことを「とし坊」とおっしゃっておられます。<br />「とし坊」さんは、文面から、発掘後の現場説明会に参加され、発掘担当者の川上邦彦氏より直接説明を受けたと思われます。貴重な情報がありました。<br />引用です。<br />★石槨内の排出土から出土した細小骨片から地山土壌の鉛成分は0.01%以下なのに、この骨片から10%という異常な鉛成分が検出された。これらの事から日本書紀に母親の持統天皇が鉛白を愛好した記述があるが、愛息の為に遺体に再生を念じて死化粧を施した可能性も考えられ興味深い。 ★<br />日本書紀の鉛白の記述とはこれですね。<br />持統6年(692年)閏5月4日、<br />★沙門観成(かんじょう)にふとぎぬ15匹・綿30屯・布端を賜り、その作った鉛粉(おしろいを造る鉛粉のはじまり-訳注)を褒められた。★<br />この時代、おしろいは中国からの輸入に頼っていたようです。その国産化に成功したということです。持統天皇がこんなに喜んだので、それまでに愛用していたと、たしかに解釈できます。<br />日本書紀によれば、39歳の推古天皇は「姿色端麗、みかおきらきらしく」つまり美人となっております。持統さんのすがた、かたちについて何も書いておりません。ということは、ということだったのです。でもおしろいを塗って、鏡を見て、「こうすると、私もまんざらじゃないわね」と言ったとか言わないとか。<br /><br />草壁皇子が薨去したときの、持統天皇の嘆きが想像できます。<br />実の姉太田皇女の子供、つまり血のつながりのある甥の大津皇子を謀殺してまで、一人息子を帝位につけたかった持統でした。草壁の享年27才、あと3年くらいすれば天皇位を譲れると、文字通り指折り数えていたでありましょう。<br />持統自ら息子の死顔におしろいを塗り、おそらく紅を引き、「生き返っておくれ」と叫んだでありましょう。<br />皇位の長子継承のルールを確立し、壬申の乱の再発を防ぐ、とは持統天皇の政治家としての言い分。しかし、何が何でも自らの血を引く息子を帝位に就かせたい、母として、ただの女として、持統天皇いや菟野の心の奥底にあったのは、この執念だった。<br />その息子を失った。<br />死化粧を息子にした母親の気持ち、哀切であります。<br />こうして母親に先だった息子、草壁皇子、あまりに痛々しい。<br /><br />https://youtu.be/sjbAZupKbCc<br /><br /><br /><br />

    墳丘トップ全景です。

    「大和の古墳探索」というブログがあります。
    そこに束明神古墳の詳しいレポートがあります。
    束明神古墳 - とし坊の「大和の古墳探し」 (jimdofree.com)
    https://narasakurai.jimdofree.com/%E9%AB%98%E5%8F%96%E7%94%BA/%E6%9D%9F%E6%98%8E%E7%A5%9E%E5%8F%A4%E5%A2%B3/
    作者のプロフィルがありませんので、詳しいことはわかりません。奈良在住の古墳専門家のようです。ご自分のことを「とし坊」とおっしゃっておられます。
    「とし坊」さんは、文面から、発掘後の現場説明会に参加され、発掘担当者の川上邦彦氏より直接説明を受けたと思われます。貴重な情報がありました。
    引用です。
    ★石槨内の排出土から出土した細小骨片から地山土壌の鉛成分は0.01%以下なのに、この骨片から10%という異常な鉛成分が検出された。これらの事から日本書紀に母親の持統天皇が鉛白を愛好した記述があるが、愛息の為に遺体に再生を念じて死化粧を施した可能性も考えられ興味深い。 ★
    日本書紀の鉛白の記述とはこれですね。
    持統6年(692年)閏5月4日、
    ★沙門観成(かんじょう)にふとぎぬ15匹・綿30屯・布端を賜り、その作った鉛粉(おしろいを造る鉛粉のはじまり-訳注)を褒められた。★
    この時代、おしろいは中国からの輸入に頼っていたようです。その国産化に成功したということです。持統天皇がこんなに喜んだので、それまでに愛用していたと、たしかに解釈できます。
    日本書紀によれば、39歳の推古天皇は「姿色端麗、みかおきらきらしく」つまり美人となっております。持統さんのすがた、かたちについて何も書いておりません。ということは、ということだったのです。でもおしろいを塗って、鏡を見て、「こうすると、私もまんざらじゃないわね」と言ったとか言わないとか。

    草壁皇子が薨去したときの、持統天皇の嘆きが想像できます。
    実の姉太田皇女の子供、つまり血のつながりのある甥の大津皇子を謀殺してまで、一人息子を帝位につけたかった持統でした。草壁の享年27才、あと3年くらいすれば天皇位を譲れると、文字通り指折り数えていたでありましょう。
    持統自ら息子の死顔におしろいを塗り、おそらく紅を引き、「生き返っておくれ」と叫んだでありましょう。
    皇位の長子継承のルールを確立し、壬申の乱の再発を防ぐ、とは持統天皇の政治家としての言い分。しかし、何が何でも自らの血を引く息子を帝位に就かせたい、母として、ただの女として、持統天皇いや菟野の心の奥底にあったのは、この執念だった。
    その息子を失った。
    死化粧を息子にした母親の気持ち、哀切であります。
    こうして母親に先だった息子、草壁皇子、あまりに痛々しい。

    https://youtu.be/sjbAZupKbCc



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この旅行記へのコメント (11)

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  • 前日光さん 2021/08/23 23:52:28
    立派すぎる親を持つのも。。。
    こんばんは、しにあさん
    夕方コメントを書いたのですが、送信の直前で消えました(>_<)
    今回はコピーをする時間もなくて。
    同じことは二度と書けませんが、今から努力してみます。

    草壁くんの悲劇は、立派すぎる親を持ったが故のものですね。
    特に母親が強すぎると、グレて反抗するか、逆らえないひ弱な人間になるか、どちらかのような気がします。
    この辺の考察については、by妻さんが的確に分析されておりまして、まさにその通り!と拍手いたしました。
    「ええ、まあ」で受け答えしてしまう男になってしまったのですね。

    綾野剛くんですが、実は彼は高校の頃陸上部で鍛えていて、見かけよりずっと逞しいのです。
    しかしながらあの細身なので、弱っちい腺病質にも見えて、その辺りが草壁くんのイメージとかぶるような気が。。。
    大河「八重の桜」で彼が演じた松平容保公はジャストフィット!
    これ以上の適役はいないと、今でも思っております。
    勝手に心の中で、草壁皇子=綾野剛ができあがってしまいました!(^^)!

    それにしても、しにあさんの旅行記は、読むほどに行きたい所が増えてしまうので、コロナ禍&感染大爆発の今、とても困ったものだと思います。
    束明神古墳が草壁くんの陵らしいとのこと、菟野皇后の心理を考えますと、確かに山に隠れて見えない宮内庁比定の「真弓丘陵」よりも、束明神古墳の方が現実的に感じられますね!
    奥へ奥へと入り込んで行くような感覚の束明神古墳、思えばそれは草壁くんの「父母の懐への回帰」のような感覚だというby妻さん、私も一票!

    一見こんな恵まれた生い立ちの人間はいないだろうと思われる草壁くんは、いつも居場所がなかったのでしょう。
    従兄弟の大津はキラキラと輝いて眩しく、大来からは「じれったいわね、まったく」なんて言われながら、オロオロと過ごす日々。
    ママが自分を愛してくれているのは分かるけれど、いつも追い立てられてる気分だった。パパは誰にも優しいけれど、いつも忙しい。親のために役に立ちたいのに、すこし頑張るとすぐに体調が悪くなる、
    ママの強い精神力とパパの逞しい行動力が、どうして自分にはないのだろう?
    草壁くんの一生って、こういう葛藤の繰り返しだったのかも。
    資料がほとんど残されていない草壁くんの旅行記、この後も続くとか、どうつないでゆくのでしょうか?


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/08/26 06:39:46
    Re: 立派すぎる親を持つのも。。。
    草壁くんの資料がないと思っていたのですが、実は大量にあったのです。万葉集の挽歌。あれを資料として読み解くのが、次回の目的です。佐田の里に実際に行ってみないと、挽歌の解釈はできません。ここでまた番宣。

    綾野剛が陸上部、実は草壁くんも弓が好きだったのです。ひょろっとしたおぼっちゃまではない。もっと複雑な人間像に辿り着きました。
    やはり母親のパワーと、菟野さんの男の子だけが大事という偏った価値観、というか思いこみが問題みたい。菟野のパワー過剰の被害者は、草壁だけではなく、孫の軽皇子のちの文武、多分ひ孫の首皇子のちの聖武まで及んでいるとの結論に達しました。これは次の次のテーマです。
    草壁くんの長女の氷高内親王も別な被害者かな。

    佐田の里はおすすめです。谷の奥に集落があるだけ。古墳以外何にもありませんが、多分この景色は飛鳥の昔と変わっていない。ディープ飛鳥です。
    バス停はありましたが、本数があるとは思えない。自転車という手もありますが、絶対電動。谷全体が、ゆるーいとはいえ全部上りなのです。ふるさと館に車を止めさせてもらって歩くのがいい。紅葉の頃なら最高でしょう。

    せっかくの文書が送信で消えるというのは、突然パスワードを入れろという画面になって、それが入らない。行ったり来たりしている間に消えちゃうというケースに、私も何回も遭遇しています。
    私はコメントはiPadで書きます。まずメモで下書きをして、コピペすることにしています。

    kumming

    kummingさん からの返信 2021/08/28 21:31:48
    コメントが消えた(TT)
    横レス、失礼致しますm(_ _)m
    あなたのブログに◯◯さんがコメントしました!と知らせてくれる親切メール、そこから自分のブログにとんで、頂いたコメントに返信すると、消える!?!?
    改めて自分の処からそのブログに行って、コメントに返信すると、大丈夫みたいな?
    あの事務局が親切で送ってくれるメールから入ると、ログインしていない扱いになるのかな~
    と、思っていますが…、違ってたらごめんなさ~い。つい最近まで、私も何度も消えて、しにあさん伝授のコピペ、採用していました♪

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/08/28 21:46:52
    Re: 立派すぎる親を持つのも。。。
    ころばぬ先のコピペ、と申します。
  • mistralさん 2021/08/22 11:32:50
    草壁皇子
    しにあの旅人さん
    by妻さん

    おはようございます。
    ブログのパワーアップ化がどんどん進化していってますね。
    ドローンによる撮影、これによって古墳の全体像が把握できて
    古代史研究家にとっては最強兵器が加わったかのようです。

    さて、まさかの草壁さんの登場。
    天武ファミリーの中では目立たない存在だったかもしれないけれど
    それ故に自ら政争の中に飛び込むような事もなく人生が終わったのは
    優しい人柄だった (母親にとっては物足りないにつながりますが)
    ことが想像されます。
    兄弟間のパワーバランスもそれ故にうまく運んでいったのでしょう。

    そんな草壁さんを、しにあさんの旅行記で取り上げられたのは
    しにあさんの優しさにつながると思いました。

    とし坊さんのブログ、拝見してきました。
    束明神古墳のことが詳細に書かれていて興味深かったですね。
    日本人の優しさ故?草壁さんにも後に天皇名を送り、天皇陵を定めた。
    天皇にならなかった皇子に対しての事例は他にもあるのでしょうか?
    或いは天皇につけるように母親が仕組んできた謀に応えるため?
    天武系統にこだわっていたのに、やがては天智系統に戻っていく
    時のうねりなどなど、様々な事を想いました。

    古墳が包み込むような形で、そばに神社がある様子は
    房総中央部の白山神社と大友皇子のものとされる古墳のあり様と
    良く似ているように思いました。

    mistral

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/08/26 05:50:08
    Re: 草壁皇子
    「まさかの草壁さん」みなさん、そうおっしゃいます。
    大来大津を調べていたときは、ただのマザコンとバカにしていたのです。でも万葉集や続日本紀をよく読むと、マザコンではありますが、そう単純なものではないと気が付きました。
    おっしゃるように、本当に優しい人柄だったようです。
    全く政治には向かないタイプだったみたい。
    グランド・マザーに押しつぶされた息子というイメージは、おそらく合っていると思います。

    ブログのパワーアップといいますか、新しいおもちゃを手に入れて楽しんでいます。音楽を入れるときなど、映画監督になった気分。
    ドローンは、俯瞰写真が撮れる以外、あんまり面白くない。グーンと上って行って、ぐるっと回って、動画を撮って、降りてくるワンパターンです。画質は悪いし。

    束明神古墳は、飛鳥旅の穴場ですよ。なんたって、佐田という地名が、草壁さんの時代と同じなんです。多分ここには草壁さんの離宮があったはず。根拠は次回。
    なんと発音していたか、「さた」か「さだ」か、今はさだのようです。
    秋、紅葉の頃、森、佐田、真弓あたりを歩いたら、素敵だと思います。古墳以外何にもありません。
  • kummingさん 2021/08/21 17:12:55
    予想外の展開(*_*)
    以前のブログでは高市皇子や大津皇子に比べて、凡庸で取り柄がない愚鈍な皇子?的な評価されていたように記憶している、草壁皇子の追悼編?
    ちょっと意外でした。宮内庁知定のと異なる古墳がある場合は異なる墳墓の方が真墓の可能性高い!そうなんだ~ご自分の足で確かめるまで信じない態度、あっぱれでございます♪

    私はどうしてもアンチ持統にはなれなくて、あれだけの大事業を成し遂げた女性だし、母親としてはフツー以下の毒母?だったのは仕方ないんじゃないか?と思っています。
    FDII も長男には裏切られ、アウグストスも後継者欲しさに娘を嫁がせ孫作り、を繰り返して不良孫娘に泣かされた。偉大な親を持つと子供が屈折、鬱屈してしまうのは当然、というか、どうしてもそうなってしまいますよね。かわいそうっちゃかわいそうなんですが、その境遇に寄り添って涙、出来ないクールな私(-。-; ごめんなさい。

    偉大な人も、親としてはみんなただの親、って事ですかね。子を想う親心は同じ?大事を成すにエネルギー注ぐから、中々プライベートに割く時間もエネルギーも足りないのかも。

    しにあさんの半ズボン姿、蚊の餌食になられお気の毒m(_ _)m私の父も夏場は半パン派で、しかもハイソックス愛用でした♪あれは虫除けだったのかな?と、ふと思い…。

    何となく袋の中に潜り込んでいる感→袋ではなく懐かしい安心して身を委ねる事が出来る母、父の懐に、安心して眠る赤子のように草壁皇子はこの地に心安らかに眠っている。ここにby妻さんの文学的ロマン派表現が全開^o^

    ドローン撮影もスライドショーも堂に入った仕上がりで♪

    あ、シチリアの熱波48.8°、欧州観測史上最高気温だとか(°_°)

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/08/21 19:52:00
    Re: 予想外の展開(*_*)
    持統さんは、壬申の乱が有名ですが、書紀の最後、続日本紀を読むと、その後が大事みたい。特に文武天皇に譲位後、続日本紀の最初、すごい仕事している。書紀と続日本紀の谷間、これはいいテーマになるかも。
    ところが、これが、息子が絡むとメロメロなんですよね。それが息子にとどまらず、孫、ひ孫まで、とにかく男の子にこだわった不思議な人です。
    元明天皇と元正天皇の仲良し母娘(ホントは分かんない)なども出てきて、今後お話は極めて低レベル、発言小町か女性週刊誌的展開の予定ですので、例によって期待しないでお待ちください。

    By妻の袋説、論理的にはよくわからない部分もあるのですが、佐田の里を歩いた実感としては、ビシッとわかります。古墳の位置は変わっていない。もがりの御殿はどう考えても今の佐田の集落のどこか、古代がコンパクトに固まっています。不思議なところです。
    あれは、文学的ロマン派的表現ではないな。もうちょっと直感的。

    宮内庁の決めた真弓丘陵は、絶対草壁さんはここで眠っていないと、現場で確信しました。古代の旅は、とにかく行ってみる。
    観光ルートをちょっと外れると、飛鳥にはすごいところがあるのです。古代直結ですよ。
    kummingさんも一度行ってくれないかな~~。古代病に引きずり込みたい。

    シチリア48.8度、行かなくてよかったと、負け惜しみ。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/08/22 13:24:04
    Re: 予想外の展開(*_*)
    心変わりについて。
    草壁さんに興味を持ったのは、万葉集の人麻呂と舎人の挽歌を読んでからです。続日本紀には、書紀にはない人物評がありました。これだと、草壁さんは本人のせいというより、母親に押しつぶされた悲劇的なマザコン、というイメージなのです。
    次回、たっぷりと万葉集を引用して、人物像を浮き上がらせたいと思います。
    古代人で、これだけ素顔に迫ることができる人物はいないのではないか。
  • へびおさん 2021/08/20 23:39:11
    草壁皇子
    しにあの旅人様
    こんばんわ初めまして。

    束明神古墳は私も行ったことがあります。
    住宅街の奥まったところにあって、なかなか行きつけなかった記憶が。
    地元の伝承、そして調査で八角墳であることが分かったということから、草壁皇子の真陵であることは間違いないと思われます。
    しかし・・・偉大な天武・持統両天皇の皇子の真陵が、かくも無残に人知れずな状況であるとは・・・
    歴史と言うのは残酷で本当に分からないものだとひしひしと感じました。

    私も持統天皇についてはしにあの旅人さんと同じ気持ちです。
    天皇である前に1人の女であり母親であったのだと。
    せめて大来皇女が斎宮を辞した後の後ろ盾になってあげれば良かったのに・・・と思わずにいられません。
    まぁ大来皇女が結婚して男子でも生まれようものなら、草壁、ひいては自分の血筋の脅威になりかねないと考えたのかもしれませんが。
    大田皇女が長生きしていたら皇后は彼女で、天武の後を継いだのは大津皇子で・・・
    そうしたらどんな歴史になっていたのかと想像してしまいます。

    長文のコメントになってしまいすいませんでした。
    これからも旅行記楽しみにしています。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/08/21 09:46:54
    Re: 草壁皇子
    束明神古墳にいらっしゃったとは、相当の古墳通ですね。
    私も、あそこが草壁皇子の真墓の可能性がなければいかなかった。宮内庁治定の真弓丘陵が東に閉じる地形だったので、こちらが本物だと確信しました。やはり自分の足で行ってみないとダメですね。

    この時代の歴史に精通されているようで、同志を得た感があります。
    持統天皇はなんとも魅力的な人物です。大来大津姉弟の旅をやって、今度は草壁にたどり付いたのですが、どうも舞台まわしは持統さんのようです。調べれば調べるほど、彼女は偉大な政治家なのですが、こと我が子のことになると、まるっきりダメなただの母親なのです。この落差が不思議。
    このシリーズ、あと2回ほど続きます。お付き合いください。

    束明神古墳の旅行記、見つけました。じっくり読ませていただきます。

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