2021/07/08 - 2021/07/10
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しにあの旅人さん
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日本書紀によると、持統天皇は、元年冬10月22日に大内陵(天武天皇陵)の築造に着手し、翌2年冬11月11日、完成した陵に天皇を移葬しました。
この陵は、鎌倉時代の盗掘により古くから陵の内部が分かっており、内部には2室の石室があります。持統天皇は、初めから自分も夫の陵に合葬させるつもりでした。
草壁皇子の束神明古墳まで直線約2.5km、現代の道路で3.2km、おそらく古代でも同じ道筋です。
大内陵の近くには、もう一人彼女の身内が埋葬されています。
文武天皇。草壁皇子の子供、つまり持統天皇の孫です。大内陵から直線400m、徒歩10分かからない中尾山古墳。
宮内庁によれば、檜隈安古岡上陵(ひのくまの・あこの・おかのえの・みささぎ)が陵墓とされています。大内陵から直線900m、歩いて15分くらいです。しかし学問的には中尾山古墳を真墓とする説が多いようです。
六国史および引用資料は「六国史の旅 草壁皇子1」をご覧下さい。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
高松塚第2駐車場に車をおいて、歩き始めました。この日は猛烈な熱さ。
県道209を渡って、グーグルさんの言うとおり行くと、「中尾山古墳」の案内が出てきました。嬉しいことに木立の中です。しばらくはハイキングコースみたい。 -
まともな小路に出てすぐ、古墳らしきものが見えました。
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東西に延びる丘陵の頂部。江戸時代には「中尾塚・中尾石塚」とも呼ばれ、文武天皇の檜隈安古岡上陵ではないかといわれていたそうです。
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現場案内板より。
三段筑成の墳丘とその周囲をめぐる3重の外周石敷を有する八角墳。八角墳は7世紀から8世紀の天皇陵の特徴です。
墳丘の対辺長約19.5m、高さ4m、外周石敷の対辺長は32.5mだそうです。墳丘は草壁皇子の束明神古墳より一回り小さい。 -
ぐるっと回ってみます。
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これが墳丘3段目かな。3段目は版築で3mくらいの高さがあり、1、2段目には石が敷いてあった。
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一部に発掘の跡がありました。
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現場案内板より。
2020年11月の発掘で露出された石槨です。10個の巨石で構成されています。 -
石槨内部。
案内板によれば、
★幅及び奥行き約90cmを測ります。石槨側面は非常に丁寧に磨かれており、全面に水銀朱が塗布されています。床石は片麻状石英閃緑岩が使用されており、床面の中央部は60cm四方、深さ1cmの範囲が凹状に削り込まれています。この区画には火葬骨を収めた蔵骨器を安置するための台が設置されていたものと考えられます。★
文武天皇は、火葬されたと続日本紀にありますが、ぴったり一致します。 -
暑かったですが、日射しは木漏れ日、快適でした。このあと宮内庁が文武天皇陵と治定する檜隈安古岡上陵に歩いて行く予定でしたが、炎天下は勘弁。車で行きました。
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やって来ました、檜隈安古岡上陵(ひのくまの・あこの・おかのえの・みささぎ)
文武天皇の陵と宮内庁は言っていますが、学問的には真墓ではない説が優勢。直径28m、高さ2mの円墳だそうです。飛鳥の田園を見下ろして by しにあの旅人さん文武天皇陵 名所・史跡
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石碑は、「檜前安古岡上陵」
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お決まりの宮内庁の三禁たてかん。
「檜隈安古岡上陵」石碑とちょっと違います。
「檜隈安古陵」という続日本紀の記事とも違います。 -
よく整備されておりますが、このお金を中尾山古墳や束明神古墳の整備にあてればいいものを。
あっ、宮内庁の管理下になると、私などは近寄れないのかな。取り消し、このままで結構です。 -
私はこのブログでは、歴史的事実を語る場合は持統天皇、または持統、天皇になる前は菟野皇女、彼女の個人的な心理を推測する場合は、菟野と書くことにしています。持統天皇の個人名です。
菟野皇女が夫天武のあとをついで天皇に即位したのは、持統4年(690年)1月1日です。天武天皇の崩御は天武15年(686年)9月9日ですから、4年近く間が空きました。本当は皇太子草壁皇子を即位させたかったのでしょうが、草壁このとき24才、若すぎました。
この時代天皇即位は30代以降という通念があったそうです。出典、根拠は分かりませんが、平均寿命が30才くらいだったので、30まで生きれば、まあそのあとも大丈夫だろうということではないか。
この間称制、実質天皇として統治しました。称制というのは天皇空位のときの代理です。
ところが頼みの草壁が持統3年(689年)4月13日に死んでしまうのです。それでやむを得ず自分が即位した。このとき持統天皇45才。
草壁皇子には長男軽皇子(かるの・みこ)がいました。天武12年(683年)生まれですからこのときまだ7才。
菟野は、我が子が30になるのを指折り数えて待ち、夢破れて、今度は孫の成長をジリジリしながら待っていたでありましょう。
ところが待ちきれず、文武元年(697年)8月1日、まだ14才の軽皇子を、文武天皇として即位させます。30才もへったくれもない。
このとき菟野52才、自分が元気なうちに軽皇子を即位させ、自分が太上天皇として補佐する。そのうち14才も経験をつむだろう。あと10年、15年くらいは自分は大丈夫だと思ったのではないか。 -
一書に曰く、
持統天皇という女性は、やっぱりものすごい人だった。
この女性は、政治家としても歴史に残る大政治家に違いないのですが、彼女の私的な生活も、苦難を乗り越え乗り越え、常人ならばそのうちのひとつでさえ乗り越えられない人生のピンチを、何度も何度も乗り越えております。
草壁の皇子の死は、そのうちの最大のピンチでしょう。
あんなに準備万端整えて、やっと、その日を迎えられるかというときの息子の死。これまでの苦労がすべて水泡に帰してしまいます。
なんのために、無理矢理に天武ファミリーの結束を確認して、高市皇子を押さえ込んだのか、なんのために無理矢理、罪をでっちあげて大津皇子を刑死させたのか。なんのために、、、
あんなに無理をしたのに、こんなに次期天皇のためにレールを敷いたのに。
その御本人様が、けろりと死んでしまったのですよ。
あー!持統天皇の悲鳴のような嘆きの声が聞こえるようではありませんか。
常人なら病気になって、精神も立ち直れません。そのまま気力をなくして生きていても抜け殻になってしまいますよ。
それなのに、また立ち上がる!
息子がダメなら、孫がいる。そう思える精神の強靱さ。
もはや精神異常ではないかと言うほどの強さです。
美人であったという記述がある女帝もいますけれど、持統さんには、そういう言葉はないらしいです。
そりゃそうです。こんなに無理してがんばって、押し通して意地を張って、弱みを見せずにいたら、例えそれが綾瀬はるかだったとしても、魔法使いのおばあさん顔になっちゃうでしょう。
シワシワ、くちゃくちゃ、眉間に縦皺、法令線クッキリ。口角下がって、例えニッコリしたって、皮肉を言うのかと、周囲の人々を震え上がらせる魔法使いのおばあさん。
この人、本当に不幸な女性でしたね。
私は、この人を抱きしめて、背中を撫でてあげたい。
がんばった。よくやった。
きっとこの人は、そういう私の手をふり払うでしょうが。
By妻
持統太上天皇は本当に健康だったようです。続日本紀によれば、大宝2年(702年)10月10日から11月25日まで、参河(みかわ)国、尾張国、美濃国、伊勢国、伊賀国を行幸しています。観光旅行ではなく、称制つまり天皇代理の諸国視察でした。健康に自信がなければできない。ところが、
大宝2年(702年)12月13日、
★持統太上天皇が病重くなられたので(以下略)★
急に発病したようです。行幸のハードワークがいけなかったのか。
12月22日、
★太上天皇が崩御された。★
発病後10日もたっていません。健康な人がなにか急病にかかった、と思われます。
まだ19才の文武天皇を残して逝くのは、死んでも死にきれぬ思いであったでしょう。
57才でした。
一書に曰く、
こういう独裁者というのは、脳溢血とか心筋梗塞とかで命を落とすという気がします。
彼女の決断力、行動力のある様子を見ると、どうも田中角栄っぽいですからね。
それとも、いっそのこと政敵に、毒を盛られた?
かもね。まさか心当たりがないってことはないでしょう。
毒を盛るのは、何も恨みを抱いた人ばかりではないかもしれません。
何時迄も続く、年取った彼女の支配にうんざりした彼女の腹心だったかもしれませんね。
ふふふ。しそうな男、しそうな女がおりますでしょ?
菟野讃良皇女は、そういう白刃の上を歩くような日々を生き抜いたのでしょうよ。
By妻 -
がらっと場面が変わります。
写真は2020年6月の藤原京朝堂院跡です。 -
藤原宮略図です。出典:藤原京資料室パネル。
大極殿は内裏に囲まれていたようです -
現代の地図に引き移しています。出典:藤原京跡現場パネル。
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院閣門あと。朝堂院から大極殿に入る門です。実際の位置より南に30m移しているそうです。
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この1mほど小高い基盤が実際の院閣門の位置。ここから大極殿です。
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基盤の上は林。小さな祠がありました。
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院閣門跡の北が、大極殿の発掘現場です。
炎天下の発掘作業です。
若いきれいな考古学者さんが記録を取っておられました。院生か助手か。完全装備ですが、陽に焼けないのでしょうか。By妻によると、若いと日焼けはすぐにもとに戻るのだそうです。
このような方々の努力で、遺跡は発掘され、いつの日か私たちに公開されるのです。ただただ感謝。 -
発掘現場の北、生け垣の向こうが、県道を挟んで内裏跡です。
現在は醍醐池と農地。何時の日か、発掘されるでしょう、その日を楽しみに待ちます。若い美人の考古学者さんが教授になるころか、がんばってね。
この内裏が、持統太上天皇の終焉の地となりました。
続日本紀大宝2年(702年)12月22日(西暦703年1月13日)、
★太上天皇が崩御された。★
12月13日突然病に倒れ、崩御したのは9日後、遺詔を残しているので、最期まで意識はあった。
何を思ったか。
持統天皇としては、2年前に大宝律令も作ったことだし、夫天武のあとを継いで中央集権古代国家を築いた、という満足感はあったでしょう。
菟野としては、遠からず自分も入ることになる大内陵の近くに、最愛の息子草壁を眠らせた。
後述のように、孫の文武も近くに陵を造るように、ひそかに不比等に遺詔した。できれば首皇子(おびとのみこ、聖武天皇)も近くに呼び寄せたいが、いくらなんでも不比等がそこまで長生きはしないだろう。
まあ、そんなところではないでしょうか。
母鳥のように羽の下に子や孫を抱え込む。菟野は女を信頼していなかったので、男の子だけ。女は男にそそのかされて何をするか分からない。いやもっと困るのは、逆に男を操って何をさせるか分からない。
菟野がそうでありました。 -
持統天皇陵は天武天皇との合葬です。飛鳥を睥睨する丘の上の、墳丘直径45mという終末期最大の八角墳です。飛鳥旅のマニアなら行かない人はいない。なので詳細略。
続日本紀大宝2年(702年)12月22日、
★(持統)太上天皇が崩御された。遺詔に次のように述べられた。「(前略)内外の文官・武官は任務を平城の通り行え。葬儀の儀礼については、つとめて倹約にせよ」と。★
とはいうものの、殯の宮が造られ、殯の宮をとりまく垣を造られました。
四大寺での齊会が2回、殯の宮での百日の齊会が1回。翌年正月1日の朝賀は取りやめで、
親王以下百官は殯の宮で礼拝。
翌年10月9日、葬儀の装束を整える司には穂積親王以下12人、火葬の御竈造る司には志紀親王以下12人を任命。
続日本紀大宝3年(703年)12月17日、
★従四位上の当麻真人智徳が、諸王・諸臣を率いて、太上天皇について誅(しのびごと)を奏上し、諡を奉った。(和風諡略)
この日飛鳥の岡で火葬にした。
12月26日、大内山稜に太上天皇を合葬申し上げた。★
崩御から合葬までほぼ1年、文武朝総力をあげての葬儀でした。本人希望の倹約とはほど遠い。 -
ところがこの文武天皇も5年後崩御します。
続日本紀慶雲4年(707年)6月15日、
★天皇が崩御された。★
24才でした。
その後天皇を葬る手順が書かれています。
冬10月3日、
★二品の新田部親王(他4人の高官)御竈(みかまど)を造る司に任じ★
御竈とは、火葬するための施設です。
同日、
★従四位上の下毛野朝臣古麻呂・正五位上の土師宿禰馬手・正五位下の民忌寸比良夫・従五位下の上石上朝臣豊庭・従五位下の藤原房前を山稜を造る司に任じ★
同日
★正四位下の犬上王(他4人)を葬儀の装束を整える司に任じた★
冬11月12日、
★遺体はその日、飛鳥の岡で火葬にした。★
11月20日、
★遺骨を檜隈安古陵(ひのくま・あこの・みささぎ)に葬り申し上げた。★
10月3日に現在の中尾山古墳に相当する山稜を造り始めて、11月20日までに完成するとは思えない。6月15日の崩御後すぐに準備にかかったとしても5ヵ月です。天武天皇陵は築造に13ヵ月、草壁皇子陵も1年かかっていると思われます。
ここに陵をつくることはあらかじめ決められていたのではないか。
菟野は、死後も、息子草壁のように、孫文武を自分の墓の近くにとどめておきたかった。
秘かに遺詔(ゆいしょう)を残したのではないか。その遺詔を実行できる、忠実かつ有能な臣がいた。藤原不比等であります。
不比等は斉明天皇5年(659年)生まれ、持統3年(689年)以降、持統の腹心として実務に励んだ忠臣であります。文武崩御のとき48才、従二位、政府実務を取り仕切る最高実力者でありました。
不比等なら遺詔どおり文武を飛鳥に葬ることはできます。
10月3日に任命された5人の造山稜司の1人が藤原房前。不比等の次男です。26才ながら従五位下、藤原四兄弟ではもっとも切れ者といわれます。不比等がいかに文武天皇陵の造築に本腰をいれていたか、うかがい知ることができます。
慶雲4年(707年)というと、すでに藤原京から平城京への遷都計画は発動されておりました。後年メンテナが面倒になる遠い飛鳥より、平城京予定地近くに陵を造った方がいいという意見もあったでしょう。文武以降5代の天皇陵は平城京の北に造られております。それで崩御後4ヵ月も造山稜司が決まらなかったのかな。
しかし不比等は遺詔を押し通した。
推測ですが、ありえると思います。
一書に曰く、
持統天皇は、壬申の乱というクーデターを成功させた中心人物。そして現政権の核という人物です。その葬儀ですからね。どうしてあだやおろそかにできましょうや。
現代なら、みどりの日どころか、国民上げての記念日になるところですよ。まあ休日っていうのは、あったのかなかったのか、とにかくその葬儀は、国力を上げてされたに違いありません。
これで終われば良かったのに、そのあと間なしに、文武天皇が御崩御。
文武さんだって、天皇なんだから、家族葬ってわけにもいかなかったでしょう。
とすると、このころ天皇家は、ずいぶんお葬式で出費が嵩んだのですよ。
経済逼迫。ということで、元明天皇は、私の葬式は質素に。と遺言を残したと。
ここいらの流れは、我ら庶民にも共感出来ることですわね。
それに、ここの御家系は、不思議なことに男の子が長生きできないようで。これは、近親婚の弊害でしょうか。
色盲とかは、男子に現れる遺伝ですが、そういうなにかがあったのでしょうか。女性天皇が続きます。
ということで、一応、天皇らしく天皇を全うした聖武天皇は、また派手にお葬式したらしいですがね。政治も充実して、国も豊かになったってことでしょうか。
By妻 -
山稜を造る司の一人です。はじの・すくね・うまて、大海人菟野の吉野脱出行の馬手と同一人物です。前回も少年草壁を知る人物として登場してもらいました。
書紀天武元年(672年)6月24日続き、
★その日に菟田の安騎(奈良県宇陀町)に着いた。(中略)このとき屯田司(みたの・つかさ)の舎人土師連馬手は天皇の従者の人々の食事をたてまつった。★
35年前、安騎で昼食を差し上げた10才の草壁の皇子。その息子文武は馬手には孫の歳です。文武のお墓を作ることになるとは、馬手も感慨無量だったでしょう。
いかなる思い出が、馬手の胸中去来していたか。
馬手は持統天皇の葬儀にも、御竈を造る司の副(すけ)に任じられています。造陵の専門家、土木建築の専門家だったのです。土師氏は古来古墳築造に関わってきました。
造陵、山稜の修復というとたびたび名が続日本紀に出てくる馬手ですが、このときが最後となります。年齢65前後でしょうか、最後のお勤めと思っていたか。
壬申の乱の功臣です。天武、持統、草壁をよく知っていたのは当然、正五位上の高級貴族でしたから、文武にも側近く仕えたのです。
彼もまた天武チルドレンでありました。
脱線します。
日本書紀天武持統紀と続日本紀には、同じ人物が、違う役割であちこちに登場します。まるでバルザックの「人間喜劇」(Comedie humaine、Comeのeにアクセント記号)です。見事な物語の構成能力。書紀の完成は720年、続紀は797年ですから、続紀の編集者は書紀を熟読して、この手法を思いついた。このあと約200年で源氏物語を生み出す文学的土壌はあったということです。紫式部は書紀続記を読み込んで、一人の人物に多方面から光をあてて、明暗を浮き立たせる、このテクニックを学んだに違いない。 -
文武天皇が若くして崩御し、その子首親王(おびと・しんのう)がまだ7才だったため、草壁皇子の妃、阿閇皇女(あへ、阿部とも書く)が元明(げんめい)天皇として即位しました。位慶雲4年(707年)-和銅8年(715年)
草壁皇子は妃、阿部皇女とのあいだに3人子供がいました。
氷高内親王(680年-748年)、軽皇子(文武天皇)、吉備内親王(686年-729年)。大宝律令以降、皇女は内親王と称号が変わりました。
吉備内親王は長屋王の妃で、長屋王の変に巻き込まれて自殺、墓所は不明です。
元明天皇は霊亀元年(715年)に娘・氷高内親王に譲位、元正(げんしょう)天皇です。在位霊亀元年(715年)-養老8年(724年)
元正天皇は、養老8年(724年)に聖武天皇に譲位しました。このとき聖武天皇23才。
聖武天皇は、大宝元年(701年)-天平勝宝8年(756年)、在位神亀元年(724年)-天平勝宝元年(749年)。
文武天皇第1皇子、持統天皇のひ孫です。701年生まれで、持統の没年は703年ですから、ひい孫の顔を見ております。草壁すでになく、孫の文武天皇は病弱、菟野さん、喜んだでしょうね。 -
時は流れます。63年後、天平神護元年(765年)、10月13日より称徳天皇が紀伊国行幸に旅立ちます。
称徳天皇は聖武天皇の娘、つまり草壁皇子のひ孫です。
養老2年(718年)-神護景雲4年(770年)、孝謙天皇として在位天平勝宝元年(749年)-天平宝字2年(758年)、重祚して称徳天皇在位天平宝字8年(764年)-神護景雲4年(770年)。
続日本紀天平神護元年(765年)10月15日、
★天皇の一行が檀山稜(草壁親王陵-訳注)を通過するとき、つき従っている官人たちに詔を下して、騎馬のものはすべて下馬させ、儀仗兵にはその旗や幟を巻かせた。★
ひいお祖父さんのお墓に敬意を表したということですが、その規模がすごい。このときの行幸は、前後に騎兵2部隊、騎兵だけで308騎、そのほかの歩兵、歩行の官人は数も分かりません。1000人は下らないでしょう。総司令官は正三位諱王(いみな・おう、のちの光仁天皇)
この大部隊が現在の県立高取国際高校近くを通過するとき、御前(みまえ)の騎兵将軍藤原縄麻呂、御後(みあと)の騎馬将軍百済王(くだらのこにしき)敬服の号令一下、308騎の騎兵が一斉に下馬しました。歩兵は旗や幟を半旗にし、弔意を表します。
「通過するとき」といっております。陵には詣でていません。この記述は、この記事が正確であることを物語っています。この大部隊があの狭い佐田の里に充満したら、身動き取れません。
これがなぜ謎なのか。
行幸のスケジュール。
10月13日平城京発、同日大和国高市郡小治田宮着。
14日大原・長岡をめぐり飛鳥川に臨んだ後、小治田宮に帰還した。 -
出典:飛鳥資料館(資料写真使用許可取得済み)
離宮小治田(小墾田に同じ)宮は、現在の雷丘(いかずちの・おか)東南の雷丘東方遺跡が有力候補地だそうです。手前が飛鳥川、現在も小川程度。わざわざ「臨む」までもなく、目の前です。
この飛鳥川とは、草壁皇子邸があった島の宮近くの飛鳥川ではないか。
なぜか天皇は亡きひいおじいさんを尋ねるセンチメンタル・ジャーニーを思い立った。皇子死後76年、島の宮はすでになく、往古を偲べるものは飛鳥川だけ。曲がりの池と方形の池はまだあって、野生の水鳥が浮いていたかもしれません。 -
翌15日、天皇一行は小治田宮を発って、大和国宇智郡に至りました。宇智郡は現在の五條市の一部。古代この道は巨勢道といわれておりました。
「日本古代道路辞典」によれば、飛鳥から宇智郡にいたる巨勢道は、きわめて大まかにですが、こんなものです。出発点を雷の丘とし、到着点をその名を残すJR和歌山線の北宇智駅としました。束明神古墳以南は県道120号線としました。 -
一部拡大しました。
小治田宮(雷の丘)から草壁陵(束明神古墳)に行く場合、途中称徳天皇は天武持統陵(ひいひいお祖父さんとお祖母さん)と文武陵(お祖父さん)のすぐ近くを通るはずです。ところがなにも挨拶していない。
ひいお祖父さんの草壁皇子だけに実に丁寧な敬意を表しています。
不思議なんですよね。草壁さんは天皇にもなっていない。
称徳天皇は、好き嫌いがはっきりした、非常に我の強い人です。「3人全部は時間が無い。ど・れ・に・し・よ・う・か・な、これ!」などと思う人ではない。なにか、ひいお祖父さんに強い思い入れがあった。
天皇に強い影響力をもつ人物が、「是非お墓参りをなさいませ」と強く勧めた。
12世紀の文書「東大寺要録」によると、
★天智天皇聞 食之 与日並智王子共令移岡宮。遂以宮賜僧正★
とあります。日並智王子(普通は日並皇子)は草壁皇子のこと。
「天智天皇これ(幼い義淵が優秀であること)を聞き、草壁皇子とともに義淵を育て、ともに岡宮に移させた。このようないきさつで宮を僧正に賜った」。いい加減な現代語訳で申しわけありません、大意はこんなものかと思います。
このあたりくわしくは、
「六国史の旅 飛鳥の姉弟13 大来皇女宮はどこに?」の「草壁さんちの坂下」を読んでください。
https://4travel.jp/travelogue/11688405
義淵は日本古代の仏教の基礎を築いた高僧です。草壁皇子はその幼なじみということになります。
生年・没年は、草壁皇子:662年-689年、義淵:生年不明-728年ですから、年代的にはありえます。
「三国仏法伝通縁起」という鎌倉時代の書物によれば、義淵の晩年の弟子の一人に、なんとあの道鏡の名があるのです。(出典ウイキペディア、原典確認しておりません)
道鏡の生没年は、700年-772年。
道鏡は、かつて師義淵より、草壁皇子の人となりを聞いていた。「物静かな、立派な人物であった」というようなことでしょう。
それを、称徳天皇に伝えた。「是非お墓参りをなさいませ」
このあとの称徳天皇の旅程。
10月19日、紀伊国玉津嶋着、25日同発、帰路につきました。この7日間、特に何もしていません。なんのために紀伊国に来たんだろう。
10月29日、
★(天皇は)弓削行宮(いまの八尾市)に至った。★
一書に曰く、
義淵という人は、言うならば、その時代を代表する知識人だったのでしょう。
この人は、天智天皇から聖武天皇まで生きていた人です。
ということは、私たちがたどっている人々のドラマ。
例えば天智、天武の確執。壬申の乱。大来皇女の伊勢行き、大津皇子の刑死、そして草壁皇子の死。以後の女帝達の即位。
すべてを知っていた人だったのですね。ときには批判し、ときにはアドバイスしたのかもしれない。
明治、大正、昭和、平成を生き抜いて、その時々の権力者に近いところで、かといって巻き込まれずに第三者として生き抜いた人っていますかね。ちょっと例を見ない人物なのですね。
尊敬されないはずがない人物です。
その人が、愛を込めて、敬意を払った人物が、草壁皇子だとしたら、私はずっと間違っていたのかもしれません。
実は、いじけたマザコン坊やは、沢山の妻がいて、思い通りにならない天武との日々に苛立つ母親を、哀れんでいたわっていた息子だったのかもしれません。
草壁皇子の子供達の母親は阿陪皇女、のちの元明天皇ただひとりです。
妻に母親と同じ苦しみを与えたくなかったのかもしれません。
少年の日には、事あるごとにいきり立つ母親を、そっと抱きしめ、心が静まるまで胸で泣かせたのかもしれません。
「ママ、ママ、大丈夫。大丈夫だよ。」
優しく低い声でなだめたのかもしれません。
母親は泣くだけ泣いたら、さっぱりして、もう元の「持統天皇」になって、
「あなたがしっかりしないからいけないのよ。」
なんてののしって、政治にもどったかもしれません。
天武も持統も黙っていてはなにも手に入らなかった。無かったから欲しがった。だから必死に獲りにいった。
けれど、草壁皇子は、なんでもあった。
欲しいものはなんでも。
だから、欲しがらない。
だから、満ち足りすぎて、何ごとからも一歩引いていた。
勝たなくていい。名誉もいらない。
ただただ諍いにならないように、他人を傷つけないように周囲に気を使って生きたのではないか。
そのことを、義淵は分かっていた。
死んで、ホっと楽になるような草壁の人生を、愛と敬意といたわりをもって、晩年の弟子に語ったのかもしれませんね。
若い有能な弟子の心に刻まれた草壁のエピソードは、どのようなことだったのでしょうか。
語った師が歴史に残る知識人なら、それを聞いた弟子もただ者ではないのです。響き合う心と心。
草壁皇子の生涯は、この二人に生涯をかけるほどの何かを刻んだのです。
草壁くん、長いことあなたのことを、お間抜けな青びょうたんだと思っていてごめんなさい。
目立たないけれど、陰だけれど、あなたはそこにいたのですね。
飛鳥という時代の舞台に。
そして、あなたの影は、長く大きく、いつまでも、その舞台の上に残っているのですね。
By妻 -
八尾市由義寺(弓削寺)跡。
30日には弓削寺に行幸。弓削は道鏡の故郷。
その2日後、ここでこの行幸の目的があきらかになります。
閏10月2日(宣命体)、
★天皇は次のように詔した。
(前略)それ故に(道鏡に)太政大臣禅師の位をお授けすると、仰せになるお言葉をみな承れと申しつける、★
宣命体という持って回った言い方なのですが、要するに道鏡を太政大臣禅師に任命しました。
この詔は非常に変なもので、天皇が臣下である道鏡に敬語を使っております。
「わが師の大臣禅師が朕を守って下さり、助けて下さるのを見れば(以下略)」
「この位をお授けすると申したならば、きっとその重責に耐えられませんと、いわれるであろうと思われるので、何も本人には申さないで、太政大臣禅師の位をお授けする(以下略)」
称徳天皇は道鏡に心酔していたのであります。
同日続き、
★天皇は文武百官に詔して、太政大臣禅師を礼拝させた。★
道鏡はこの行幸に同行していました。
その道鏡のすすめなら従います。
称徳天皇の檀の丘陵への表敬の理由となりえます。
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この旅行記へのコメント (6)
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- kummingさん 2021/09/13 20:50:52
- 新説草壁皇子?
- 酷暑の中の古墳巡り、お疲れさまでした。
いつものように、ご自分の脚と車で測っての実地検分、そうやって“たぶんここだったんじゃないか”と推定されるスゴ技は、研究者かはたまに学者さん?とみまがうほど。
文武天皇陵は、宮内庁知定の“ひのくまのあこのおかのえのみささぎ”、ではなくて、中尾山古墳、なのですね。学問的に裏付けられた真墓、宮内庁の管轄下に入って近寄れなくなるくらいなら、現状維持に賛成♪
邪魔者を全て排除し、愛息子の為に用意した皇位も、肝心の草壁くんが病弱で、天武崩御の僅か3年後にいなくなってしまうとは、何というめぐりあわせ(TT)持統天皇は、母親としてはやはり、息子かわいいの一心だったのでは?出来の悪い子ほど可愛い、とも言います。皇位を担う能力がない、と分かっていても、血を分けた息子に継がせたい。古今東西、トップの後継問題は一大事で、特に自分の血、血統の継続にこだわる程に、結果は芳しくないような気がします。息子がダメなら、孫、それも叶わないならひ孫、と望みを託した持統さんもすごいですが、初代ローマ皇帝アウグストスの自分の血の継承へのこだわりに比べたら、かわいいもんで♪
称徳天皇にひいおじいちゃんのお墓詣でを進言したのが道鏡なので?孝謙天皇(称徳天皇)と道鏡、というと、どうしてもただらなぬ関係、心酔していた、なんてやわな表現では納得出来ないものを連想してしまう、下賤な私…。(←高校生の時に刷り込まれ)ですが、ひ孫に表敬されるという光栄を得た草壁皇子は、やはり徳のある方だったのでしょう。
私的草壁くん評♪
2代目にありがちな野心はないけど育ちが良く、人並み以上でも以下でもない能力で側近には慕われ、両親の庇護の元素直で純なまま大人になって、ただ1人の妻と3人の子宝に恵まれ、幸せな一生を送りましたとさ。
3分割できそな時代的スパンとオールスターキャスティング、のブログ、消化不良のコメントになりましたm(_ _)m
- しにあの旅人さん からの返信 2021/09/14 06:31:50
- Re: 新説草壁皇子?
- 3分割する手はありました。でも今回どころか、昨年11月のやつでまだ未完成がありまして、賞味期限を心配しております。
3分割するとまたまたそれぞれに時間がかかるし、生産能力月産3−4本ですから、急いでおります。ネタ箱の中でネタの色が変わってきたような感じが・・・
「初代ローマ皇帝アウグストスの自分の血の継承へのこだわり」っていうのは、塩野本にありますか。「ローマ人の物語」かな、書名自信なし、ものすごく長いのがありますよね。あのどの辺りでしょう。
称徳天皇の道鏡のお話はずーと後の方でやります。これもネタの色が変わり始めている。
この2人へのkummingさんのうら若き乙女時代の想像、多分あっていると思います。続日本紀の作者は、そう思わせるように書いている。この行幸だって、どう読んでも2人はただならないですよね。
でもその作者には、悪意がある。わざとそう思わせるように書いている感じがします。
この話は、後日また。
草壁くんのイメージは、このシリーズをはじめて、ずいぶん変わりました。大津くんと違って、本人は何も言っていないし、有名なお姉さんもいなかった。でも周りから、いい人だ、いい人だ、って言われてる。
東大寺要録が書かれるのは家持のずっと後ですが、似たような話が、家持の時代語り継がれていたのかも、などと、妄想をたくましくする、今日この頃。
- kummingさん からの返信 2021/09/14 10:18:23
- Re: 新説草壁皇子?
- ローマ人の物語VI パスクロマーナp260~あたり、執筆活動の傍ら、気が向かれたらご覧下さい。塩野さんは、執念を超え妄執と述べておられる。
今後、大木に巻き付きその本体を超える繁栄を極めた藤、についてのお話もありますか?フツー過ぎてネタとしてつまらない?
はて、賞味期限切れる、とは?時間経過で新たなネタ、情報が加わり、しにあさん構想の展開が変わりかねない、って事でしょうか。
週1ペースのプログ、楽しみにしております♪
- しにあの旅人さん からの返信 2021/09/14 12:17:25
- Re: 新説草壁皇子?
- 「ローマ人の物語」了解しました。塩野本は電子書籍ですから、置き場所の心配なし。
賞味期限が切れるとは、こっちの興味が薄れるということです。なんでここ行ったんだっけ・・と、その時の現場の興奮を忘れちゃうケースがあります。冒頭だけでも書いて、忘れないようにはしているのですが。
不比等という人物は、この時代では珍しく男中心にものを考えなかったのではないかと思います。女心がわかっていた。糟糠の妻はまさこ、天平の猛女三千代が後妻で、怒らせたら怖い持統天皇の懐刀とくれば、当然といえば当然。
天平ブンシュンの記者になったつもりで、続日本紀を根性悪読みして、発言小町風、週刊誌的ネタをやってみようかと思っています。菟野さんと阿部皇女(草壁の嫁さん、元明天皇)の、日本最初の嫁姑問題、などというの。そこに巻き込まれて右往左往する不比等さん、などというのはいかがですか。
続日本紀も読み方によってはこうなります。
問題は、写真をどうするか。
興味ワクワクですから、賞味期限の問題なし。
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- 前日光さん 2021/09/13 00:23:03
- 持統の執念(^^;)
- こんばんは、しにあさん&by妻さん
事実と妄想が、凄まじい勢いで混ざり合い、ついに道鏡にまで至りましたね(~_~;)
持統さんは、辛うじて文武の誕生を知ってから崩御されたのでしたね。
大宝2年(702)の10月から11月の一ヶ月以上にも及ぶ諸国視察を成し遂げ、さて。。という12月に病を得、その下旬には崩御という猛スピードで人生に終止符を打つ。
何事にも性急で、決断力に満ちた女性、持統さんらしいですね。
夫天武の死後自ら即位し、息子の草壁に皇位を継承するべく巡らした策略の数々、息子亡き後は、孫の文武が成長するまでの間を草壁妃の阿倍を元明天皇として即位させた。
そして孫の文武が即位、考えてみればこのあたりまで、持統さんの執念は続いていたのか。。。
氷高皇女は聖武天皇即位までの中継ぎ天皇の色合いが濃いですね。
この人はどんな女性だったのだろう?
気になる人です。「氷」という文字のせいか、透き通った美しい人というイメージがあります。しかし女性としてはあまり幸せではなかったような?
この人と高市の皇子との間にロマンスがあったりしたら、ドラマ的には面白いですね。
あ、でも高市はこの時、生存していたのかな?
吉備内親王は長屋王に嫁いだが為に、悲惨な目に遭ってしまいましたね。
草壁皇子の3人の皇子、皇女たちも数奇な運命を辿りましたねぇ。
それにしても、こういった皇子や皇女たちが巻き込まれていく歴史の流れというものの中に、持統さんの執念のようなものを感じてしまいます。
死してなお、私は大和国を支配し続けるわよ。
息子だって孫だって、私の目の届く範囲に葬ることができたし、私の思いはずっとこの国を支配しているのだから、その支配下にある国民は、私の意志からは逃れられない。
それは1300年経っても、家持が「万葉集」の中に残してくれてるのよ(爆)
そう、○○○の旅人とか○日光なんかが、妄想してくれるので、とても面白いお話になってるようだわ。
なんだか持統さんのオンステージになってきたようですので、本日の妄想はこの辺にて(^_^;)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/09/14 05:42:39
- Re: 持統の執念(^^;)
- おはようございます。朝方ですので、起きてきました。
氷高内親王は生年680年、高市皇子は654年ー696年です。42歳のおっさんが16歳に恋した。飛鳥の熱血不良おっさん高市皇子ですからね。考えてもいいかも。あるいはその逆、あり得なくはないですが、こっちは氷高さんの趣味が若干不気味。ウラヤマけしからん。
「私の孫に何すんのよ!」と菟野さんが激怒したこと間違いなし。
氷高さんは国史がはっきり美人「艶麗」と書いている唯一の女帝です。推古さんはやや遠回しに「端麗」そのほかは容姿無視。
持統さんは、書紀続紀を通して、すごい人ですね。ただ、容姿に関しては、By妻の推察が多分正しい。怖い顔していたでしょうね。白粉を愛好していたとわざわざ書紀に書いてある。気をつけてはいたらしいけれど、そんな怖い顔で白粉塗ったら、もっと怖くなるんじゃないかな。
でもこの辺りを、後世「○○○の旅人とか○日光なんか」が読み取ってくれると期待していたか、どうか、むにゃむにゃ。大いに読み取ってあげましょう。
そういえば、もうすぐお彼岸ですね。1300年越しにお線香をあげましょう。そもそもあの頃そういう習慣があったのかな。「何、この、煙いの」とかいったりして。
飛鳥旅は一応卒業のつもりなのですが、島の宮から束明神古墳まで、電動自転車で、のんびり行ってみたいな、とまた思うようになりました。絶対電動ですよ、googlさんは、徒歩道ほぼ平坦なんて書いているけど、嘘ですからね。
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