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三重県桑名市長島町にある長島城址の紹介です。長島は、もともと『七島(ななしま)』と呼ばれ、尾張国と伊勢国の国境にある木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中地帯を指しました。幾筋にも枝分かれした木曽三川によって、陸地から隔絶された地域でした。

2020秋、蟹江城・長島城(3/5):長島城(2):長島城址、長島川、道標、又木茶屋

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2020/11/21 - 2020/11/21

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旅行記グループ 2021編集、尾張の城巡り

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旅人のくまさん

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三重県桑名市長島町にある長島城址の紹介です。長島は、もともと『七島(ななしま)』と呼ばれ、尾張国と伊勢国の国境にある木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中地帯を指しました。幾筋にも枝分かれした木曽三川によって、陸地から隔絶された地域でした。

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  • 長島城の城址に建つ桑名市立の長島中部小学校・長島中学校の黄門光景です。本瓦を葺いた、立派な門でした。旧長島城の大手門は、明治9年(1876年)に蓮生寺の山門となり、現存しています。先に長島城の歴史を紹介しましたが、長島一向宗一揆についても、ウィキペディアを参照して紹介します。

    長島城の城址に建つ桑名市立の長島中部小学校・長島中学校の黄門光景です。本瓦を葺いた、立派な門でした。旧長島城の大手門は、明治9年(1876年)に蓮生寺の山門となり、現存しています。先に長島城の歴史を紹介しましたが、長島一向宗一揆についても、ウィキペディアを参照して紹介します。

  • 長島城の城址に建つ『桑名市立・長島中学校』のタイトルがあった案内看板の光景です。長島は、もともと『七島(ななしま)』とされ、尾張国と伊勢国の国境にある木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中地帯を指します。幾筋にも枝分かれした木曽川の流れによって、陸地から隔絶された地域です。その状況は今もあまり変わりません。

    長島城の城址に建つ『桑名市立・長島中学校』のタイトルがあった案内看板の光景です。長島は、もともと『七島(ななしま)』とされ、尾張国と伊勢国の国境にある木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中地帯を指します。幾筋にも枝分かれした木曽川の流れによって、陸地から隔絶された地域です。その状況は今もあまり変わりません。

  • 構内にあった大きな石です。石碑かと思って、文字を探しましたが、何も記載されていませんでした。庭石の役目だったようです。長島は、伊勢国桑名郡にありましたが、『信長公記』には『尾州河内長島』と記され、『尾張国河内郡』とも認識されていました。

    構内にあった大きな石です。石碑かと思って、文字を探しましたが、何も記載されていませんでした。庭石の役目だったようです。長島は、伊勢国桑名郡にありましたが、『信長公記』には『尾州河内長島』と記され、『尾張国河内郡』とも認識されていました。

  • 『長島城址』のタイトルがあった説明看板の光景です。これも学校構内に設置してありました。『長島一向宗一揆』の紹介を小休止し、説明看板の紹介です。左側の図面に記された古地図が、かつての長島城の縄張です。木曽、長良、揖斐の本川は記されていませんが、その支流の長島川と堀で護られた城です。

    『長島城址』のタイトルがあった説明看板の光景です。これも学校構内に設置してありました。『長島一向宗一揆』の紹介を小休止し、説明看板の紹介です。左側の図面に記された古地図が、かつての長島城の縄張です。木曽、長良、揖斐の本川は記されていませんが、その支流の長島川と堀で護られた城です。

  • 校庭に育っていた、青々とした松の光景です。『長島一向宗一揆』の説明に戻ります。1501年(文亀元年)、杉江の地に願証寺が創建され、蓮如(れんにょ)の六男・蓮淳が住職となりました。『蓮如(れんにょ):1415~1499年』は、室町時代の浄土真宗の僧で、浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首でした。本願寺中興の祖とされ、『蓮如上人』と尊称されます。

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    校庭に育っていた、青々とした松の光景です。『長島一向宗一揆』の説明に戻ります。1501年(文亀元年)、杉江の地に願証寺が創建され、蓮如(れんにょ)の六男・蓮淳が住職となりました。『蓮如(れんにょ):1415~1499年』は、室町時代の浄土真宗の僧で、浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首でした。本願寺中興の祖とされ、『蓮如上人』と尊称されます。

  • 蓮如上人の六男の『蓮淳(れんじゅん):1464~1550年)』は、兄の第9世法主・実如の命により近江大津近松の顕証寺(後の光応寺)に入り、伊勢国長島に願証寺を創建しました。以後、本願寺門徒は地元の国人領主層を取り込み、地域を完全に支配しました。後年、蓮淳は伊勢国の願証寺の第1世住持であることから、しばしば『願証寺蓮淳』とも表記されますが、実際には蓮淳の活動拠点は、近畿地方であり願証寺の住持である事には重きを置いていなかったとされ、その署名をしたことはほとんどなかったようです。

    蓮如上人の六男の『蓮淳(れんじゅん):1464~1550年)』は、兄の第9世法主・実如の命により近江大津近松の顕証寺(後の光応寺)に入り、伊勢国長島に願証寺を創建しました。以後、本願寺門徒は地元の国人領主層を取り込み、地域を完全に支配しました。後年、蓮淳は伊勢国の願証寺の第1世住持であることから、しばしば『願証寺蓮淳』とも表記されますが、実際には蓮淳の活動拠点は、近畿地方であり願証寺の住持である事には重きを置いていなかったとされ、その署名をしたことはほとんどなかったようです。

  • 先程の石碑のズームアップ光景です。残念ながら、苔などの影響で読み取れませんでした。『長島一向宗一揆』の説明に戻ります。後に長島の周りの防衛のため、中江砦・大鳥居砦などを増設し、守りを固めました。この一帯には、願証寺をはじめ数十の寺院・道場が存在し、本願寺門徒が大きな勢力を持っていました。伊勢尾張美濃の農民漁民10万人の信徒が勢力下とされ、その規模は10万石規模でした。一種の自治勢力を構築していました。

    先程の石碑のズームアップ光景です。残念ながら、苔などの影響で読み取れませんでした。『長島一向宗一揆』の説明に戻ります。後に長島の周りの防衛のため、中江砦・大鳥居砦などを増設し、守りを固めました。この一帯には、願証寺をはじめ数十の寺院・道場が存在し、本願寺門徒が大きな勢力を持っていました。伊勢尾張美濃の農民漁民10万人の信徒が勢力下とされ、その規模は10万石規模でした。一種の自治勢力を構築していました。

  • 『元長島藩有志』のタイトルがあった石碑の光景です。碑文の後に、元藩士の名前が数多く記されていました。『長島一向宗一揆』の説明の続きです。1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いの時には、今川義元に呼応して信長を攻撃しようと試みました。1561年(永禄4年)、織田信長は尾張を統一したと認識されていいますが、この長島は例外でした。織田軍による第1次の長島侵攻は、1571年(元亀2年)5月12日、信長は5万の兵を率いて伊勢に出陣、軍団は三手に分かれて攻め入りました。津島を布陣の信長本隊、中筋口の佐久間信盛軍団と、西河岸の太田口に布陣の柴田勝家軍団です。この戦は、雑賀衆の活躍などで、本願寺勢力の勝利でした。

    『元長島藩有志』のタイトルがあった石碑の光景です。碑文の後に、元藩士の名前が数多く記されていました。『長島一向宗一揆』の説明の続きです。1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いの時には、今川義元に呼応して信長を攻撃しようと試みました。1561年(永禄4年)、織田信長は尾張を統一したと認識されていいますが、この長島は例外でした。織田軍による第1次の長島侵攻は、1571年(元亀2年)5月12日、信長は5万の兵を率いて伊勢に出陣、軍団は三手に分かれて攻め入りました。津島を布陣の信長本隊、中筋口の佐久間信盛軍団と、西河岸の太田口に布陣の柴田勝家軍団です。この戦は、雑賀衆の活躍などで、本願寺勢力の勝利でした。

  • 1573年(天正元年)8月に、浅井長政・朝倉義景を滅亡させた織田家でしたが、9月には信長は二度目の長島攻めを各将に通達しました。初戦で負けた教訓が、水軍による伊勢湾の制海でした。9月24日、信長の数万の軍勢が北伊勢に出陣、25日に太田城に着陣、26日には一揆勢の篭る西別所城を佐久間信盛・羽柴秀吉らが陥落させました。

    1573年(天正元年)8月に、浅井長政・朝倉義景を滅亡させた織田家でしたが、9月には信長は二度目の長島攻めを各将に通達しました。初戦で負けた教訓が、水軍による伊勢湾の制海でした。9月24日、信長の数万の軍勢が北伊勢に出陣、25日に太田城に着陣、26日には一揆勢の篭る西別所城を佐久間信盛・羽柴秀吉らが陥落させました。

  • 『長島川遊歩道案内図』のタイトルがあった案内看板の光景です。柴田勝家・滝川一益らも坂井城を攻略し、10月6日に降服させ、二人は続けて近藤城を攻め、立ち退かせました。 10月8日には信長は本陣を東別所に移動し、この時には萱生城・伊坂城・赤堀城・桑部南城・千種城・長深城などが相次いで降服し、信長に人質を送って恭順の意を示しました。しかし、船の調達は難航していました。

    『長島川遊歩道案内図』のタイトルがあった案内看板の光景です。柴田勝家・滝川一益らも坂井城を攻略し、10月6日に降服させ、二人は続けて近藤城を攻め、立ち退かせました。 10月8日には信長は本陣を東別所に移動し、この時には萱生城・伊坂城・赤堀城・桑部南城・千種城・長深城などが相次いで降服し、信長に人質を送って恭順の意を示しました。しかし、船の調達は難航していました。

  • 長島川に架かる『城東橋』の光景です。大湊の船の調達作業はこの時期に至っても進捗状況が芳しくなく、今回は長島への直接攻撃は見送られました。信長は、北伊勢の諸城の中で最後まで抵抗する中島将監の白山城を佐久間信盛・羽柴秀吉らに攻め落とさせ、10月25日には矢田城に滝川一益を入れ、美濃への帰陣を開始しました。退く最中、門徒側が多芸山で待ち伏せるなど、苦難を強いられました。

    長島川に架かる『城東橋』の光景です。大湊の船の調達作業はこの時期に至っても進捗状況が芳しくなく、今回は長島への直接攻撃は見送られました。信長は、北伊勢の諸城の中で最後まで抵抗する中島将監の白山城を佐久間信盛・羽柴秀吉らに攻め落とさせ、10月25日には矢田城に滝川一益を入れ、美濃への帰陣を開始しました。退く最中、門徒側が多芸山で待ち伏せるなど、苦難を強いられました。

  • 『長島川』の下流方面の光景です。第二次長島侵攻時の本願寺勢力は北勢四十八家などの2万と推定され、攻めた織田軍は8万でした。この戦いの結果、織田軍が北伊勢を平定しました。大湊での船の調達が失敗した背景には、織田家より長島に肩入れをする会合衆の姿勢にも要因があったとし、信長は、自治組織の山田三方さんぽう)の福島親子を処刑し、伊勢の船主達を牽制しました。

    『長島川』の下流方面の光景です。第二次長島侵攻時の本願寺勢力は北勢四十八家などの2万と推定され、攻めた織田軍は8万でした。この戦いの結果、織田軍が北伊勢を平定しました。大湊での船の調達が失敗した背景には、織田家より長島に肩入れをする会合衆の姿勢にも要因があったとし、信長は、自治組織の山田三方さんぽう)の福島親子を処刑し、伊勢の船主達を牽制しました。

  • 『長島川』の上流方面の光景です。1574年(天正2年)6月23日、信長は美濃から尾張国津島に移り、三度目の長島攻めの大動員令を発しました。織田領の全域から兵を集め、7月には陣容が固まり陸と海からの長島への侵攻作戦が開始されました。 本願寺勢力は10万人以上、攻める織田軍は12万人の軍勢でした。その戦いでの本願寺勢力の損害は3万人以上、織田軍が700~1,000人とされます。

    『長島川』の上流方面の光景です。1574年(天正2年)6月23日、信長は美濃から尾張国津島に移り、三度目の長島攻めの大動員令を発しました。織田領の全域から兵を集め、7月には陣容が固まり陸と海からの長島への侵攻作戦が開始されました。 本願寺勢力は10万人以上、攻める織田軍は12万人の軍勢でした。その戦いでの本願寺勢力の損害は3万人以上、織田軍が700~1,000人とされます。

  • 同じく、『長島川』の上流方面の光景です。春には桜の見所のようでした。第二次長島侵攻は、信長本隊の陸の三隊のほか、海には九鬼嘉隆などが動員されました。畿内で政務にあたる明智光秀や、越前方面の抑えに残された羽柴秀吉など一部を除いて主要な将のほとんどが参陣しました。7月14日、まず陸から攻める三部隊が兵を進め、賀鳥口の部隊が松之木の対岸の守備の一揆勢を一蹴しました。

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    同じく、『長島川』の上流方面の光景です。春には桜の見所のようでした。第二次長島侵攻は、信長本隊の陸の三隊のほか、海には九鬼嘉隆などが動員されました。畿内で政務にあたる明智光秀や、越前方面の抑えに残された羽柴秀吉など一部を除いて主要な将のほとんどが参陣しました。7月14日、まず陸から攻める三部隊が兵を進め、賀鳥口の部隊が松之木の対岸の守備の一揆勢を一蹴しました。

  • 翌7月15日には、九鬼嘉隆の安宅船を先頭とした大船団が到着しました。織田信雄も大軍を乗せて到着し、長島を囲む大河は織田軍の軍船で埋め尽くされました。海陸、東西南北四方からの織田軍の猛攻を受けた諸砦は次々と落とされ、一揆衆は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の五つの城に逃げ込みました。織田軍は兵糧攻めを行いました。

    翌7月15日には、九鬼嘉隆の安宅船を先頭とした大船団が到着しました。織田信雄も大軍を乗せて到着し、長島を囲む大河は織田軍の軍船で埋め尽くされました。海陸、東西南北四方からの織田軍の猛攻を受けた諸砦は次々と落とされ、一揆衆は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の五つの城に逃げ込みました。織田軍は兵糧攻めを行いました。

  • 兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者たちは、9月29日、降伏を申し出て長島から船で退去しようとしましたが、信長は許さず鉄砲で攻撃し、この時に顕忍や下間頼旦を含む門徒衆多数が射殺、あるいは斬り捨てられました。一揆衆800余が、織田軍に捨て身の反撃を仕掛け、織田軍は信長の庶兄である織田信広や弟の織田秀成など、多くの織田一族が戦死しました。

    兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者たちは、9月29日、降伏を申し出て長島から船で退去しようとしましたが、信長は許さず鉄砲で攻撃し、この時に顕忍や下間頼旦を含む門徒衆多数が射殺、あるいは斬り捨てられました。一揆衆800余が、織田軍に捨て身の反撃を仕掛け、織田軍は信長の庶兄である織田信広や弟の織田秀成など、多くの織田一族が戦死しました。

  • ここで包囲を突破した者は、多芸山や北伊勢方面経由で大坂へと逃亡しました。この失態を受けて信長は、残る長島・中江の2城は幾重にも柵で囲み、火攻めにしました。城中の2万の男女が焼け死んだといいます。9月29日、信長は岐阜に向け帰陣しました。こうして、門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊し、長島城は滝川一益に与えられました。以上で、『長島一向宗一揆』の説明はお終いです。

    ここで包囲を突破した者は、多芸山や北伊勢方面経由で大坂へと逃亡しました。この失態を受けて信長は、残る長島・中江の2城は幾重にも柵で囲み、火攻めにしました。城中の2万の男女が焼け死んだといいます。9月29日、信長は岐阜に向け帰陣しました。こうして、門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊し、長島城は滝川一益に与えられました。以上で、『長島一向宗一揆』の説明はお終いです。

  • 道案内標識の光景です。右向きに矢印が一向一揆準拠運費がある『願證寺』、『水辺の安らぎパーク』と、『又木茶屋』、左向きが旧長島城大手門がある『蓮往寺』と『旧東海道』方面でした。手前方面に『長島城跡・0.2キロ』の表示もありました。次に向かったのは『又木茶屋』です。

    道案内標識の光景です。右向きに矢印が一向一揆準拠運費がある『願證寺』、『水辺の安らぎパーク』と、『又木茶屋』、左向きが旧長島城大手門がある『蓮往寺』と『旧東海道』方面でした。手前方面に『長島城跡・0.2キロ』の表示もありました。次に向かったのは『又木茶屋』です。

  • 『おおてはし(大手橋)』の袂から眺めた長島川の光景です。用水のように一直線の川でした。『大手橋』は、かつては『大手門』に通じる橋のようですが、直ぐ近くに城東橋もありました。

    『おおてはし(大手橋)』の袂から眺めた長島川の光景です。用水のように一直線の川でした。『大手橋』は、かつては『大手門』に通じる橋のようですが、直ぐ近くに城東橋もありました。

  • 古い道標の前からの眺めです。前方に、木々がこんもりとした場所が見えていましたが、その辺りが目指している『又木茶屋』がある場所のようでした。そちらに向かう前に、古い道標の文字を読み解かないといけません。

    古い道標の前からの眺めです。前方に、木々がこんもりとした場所が見えていましたが、その辺りが目指している『又木茶屋』がある場所のようでした。そちらに向かう前に、古い道標の文字を読み解かないといけません。

  • 古い道標の光景です。右側が『前ケ浜(頃・項?)津島』、左側が『宮・名古屋』の文字で、この二つの下に『道』が付いているようでした。『宮』は、熱田神宮を指しているようです。

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    古い道標の光景です。右側が『前ケ浜(頃・項?)津島』、左側が『宮・名古屋』の文字で、この二つの下に『道』が付いているようでした。『宮』は、熱田神宮を指しているようです。

  • 同じ道標の、右側面の光景です。こちらには『左・くは(巴?)なみち(桑名道)』の文字が刻まれているようでした。

    同じ道標の、右側面の光景です。こちらには『左・くは(巴?)なみち(桑名道)』の文字が刻まれているようでした。

  • 同じ道標の、左側面の光景です。『右・くは奈ミち(桑名道)』の文字が記されているようでした。当時(江戸時代頃)としては分かり易く書かれているようでしたが、クイズを解いているような感覚になりました。右も左も『桑名道』で、三叉路で名古屋・津島方面が分岐した場所の標識のようです。<br />

    同じ道標の、左側面の光景です。『右・くは奈ミち(桑名道)』の文字が記されているようでした。当時(江戸時代頃)としては分かり易く書かれているようでしたが、クイズを解いているような感覚になりました。右も左も『桑名道』で、三叉路で名古屋・津島方面が分岐した場所の標識のようです。

  • 『古い道標』の文字を読み解けたところで『又木茶屋』の方面にやって来ました。現地ですぐに読み解けたわけではなく、実は写真を持ち帰ってから、読み解きました。

    『古い道標』の文字を読み解けたところで『又木茶屋』の方面にやって来ました。現地ですぐに読み解けたわけではなく、実は写真を持ち帰ってから、読み解きました。

  • 又木茶屋の入口規格の光景です。木漏れ日と落葉が出迎えてくれました。桑名市の観光ガイドには、『又木茶屋は佐藤昌胤画伯の生前の屋敷であり、情報交流施設として皆さんに親しまれてきました』と紹介されていました。『佐藤昌胤(さとう・しょういん:1907~1970年)』は、伊勢湾台風を題材にした絵画などで知られます。町会議員も務めた人です。<br />

    又木茶屋の入口規格の光景です。木漏れ日と落葉が出迎えてくれました。桑名市の観光ガイドには、『又木茶屋は佐藤昌胤画伯の生前の屋敷であり、情報交流施設として皆さんに親しまれてきました』と紹介されていました。『佐藤昌胤(さとう・しょういん:1907~1970年)』は、伊勢湾台風を題材にした絵画などで知られます。町会議員も務めた人です。

  • 『和風レストラン又木茶屋』の建物光景です。お案軸桑名市の観光ガイドには、『お食事をしていただきながら、佐藤画伯の愛した多種のツバキや、旧長島城の庭園の石で組んだ枯山水の庭園をお楽しみいただけます』と紹介されていました。

    『和風レストラン又木茶屋』の建物光景です。お案軸桑名市の観光ガイドには、『お食事をしていただきながら、佐藤画伯の愛した多種のツバキや、旧長島城の庭園の石で組んだ枯山水の庭園をお楽しみいただけます』と紹介されていました。

  • 左側が『和風レストラン又木茶屋』の建物側面光景です。両側からの石垣に挟まれた、狭い道が通っていました。その先に見えているのが『長島川』になります。又木茶屋の佐藤昌胤画伯が、伊勢湾台風を描かれたのは、1959年(昭和34年)9月26日の記憶が生涯消えなかったためかも知れません。

    左側が『和風レストラン又木茶屋』の建物側面光景です。両側からの石垣に挟まれた、狭い道が通っていました。その先に見えているのが『長島川』になります。又木茶屋の佐藤昌胤画伯が、伊勢湾台風を描かれたのは、1959年(昭和34年)9月26日の記憶が生涯消えなかったためかも知れません。

  • ここからは、『長島城址』の見学の後、『又木茶屋』に立寄り、長島駅に向かう途中の光景です。津や四日市方面に電車で出かける時、長島駅はよく通りましたが、下車したのは今回が初めてでした。

    ここからは、『長島城址』の見学の後、『又木茶屋』に立寄り、長島駅に向かう途中の光景です。津や四日市方面に電車で出かける時、長島駅はよく通りましたが、下車したのは今回が初めてでした。

  • 長島城に縁が深い願證寺と蓮生寺を探しながら長島駅に向かいましたが、探し当てることは出来ませんでした。その代わりに目にしたのが、このお寺です。残念ながら、寺の名前は確認できませんでした。蓮生寺には長島城の大手門が移築され、願證寺には、長島一向一揆殉教の碑があります。

    長島城に縁が深い願證寺と蓮生寺を探しながら長島駅に向かいましたが、探し当てることは出来ませんでした。その代わりに目にしたのが、このお寺です。残念ながら、寺の名前は確認できませんでした。蓮生寺には長島城の大手門が移築され、願證寺には、長島一向一揆殉教の碑があります。

  • お寺の建物の破風と鬼瓦のズームアップ光景です。見応えがある造りでした。鬼瓦の最上部は、屋根の棟端を飾る瓦の『御所』または『経の巻』と呼ばれる造りです。その下に、桃も幼な造りと、波模様らしいものがありました。

    お寺の建物の破風と鬼瓦のズームアップ光景です。見応えがある造りでした。鬼瓦の最上部は、屋根の棟端を飾る瓦の『御所』または『経の巻』と呼ばれる造りです。その下に、桃も幼な造りと、波模様らしいものがありました。

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