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織田信長所縁の清洲城の紹介です。清洲城での歴史的な出来事は、1560年(永禄3年)の『桶狭間の戦い』への信長の出陣、1562年(永禄5年)に信長と家康との間で結ばれた『清洲同盟』、本能寺の変で信長が斃れた後の1582年(天正10年)の『清洲会議』、1610年(慶長15年)の徳川家康による『清洲越し』など数々あります。

2021早春、信長所縁の清洲城(2/5):2月6日(2):大手橋、清洲城石標、大手門、天守、石落し、築地塀、石庭

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2021/02/06 - 2021/02/06

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旅行記グループ 2021編集、尾張の城巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

織田信長所縁の清洲城の紹介です。清洲城での歴史的な出来事は、1560年(永禄3年)の『桶狭間の戦い』への信長の出陣、1562年(永禄5年)に信長と家康との間で結ばれた『清洲同盟』、本能寺の変で信長が斃れた後の1582年(天正10年)の『清洲会議』、1610年(慶長15年)の徳川家康による『清洲越し』など数々あります。

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  • 目の前を流れる五条川の右岸から眺めた、左岸に建つ『清洲城』の光景です。かつての清州城は、こちら側の左岸に建っていたようです。ただし、1560年(永禄3年)に『桶狭間の戦い』へ信長が出陣した当時の清洲城には、天守はまだ建設されていなかったようです。1582年(天正10年)の『本能寺の変』のあと、この城を相続した信長の次男・織田信雄によって建てられました。

    目の前を流れる五条川の右岸から眺めた、左岸に建つ『清洲城』の光景です。かつての清州城は、こちら側の左岸に建っていたようです。ただし、1560年(永禄3年)に『桶狭間の戦い』へ信長が出陣した当時の清洲城には、天守はまだ建設されていなかったようです。1582年(天正10年)の『本能寺の変』のあと、この城を相続した信長の次男・織田信雄によって建てられました。

  • 『清洲城』の文字が刻まれた石標の光景です。現在の天守は、平成元年(1989年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して、清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内に建設された鉄筋コンクリート造の模擬天守です。その時に設置された石標のようです。現在の『清須市』の表記に対し、『清洲城』の表記を優先した根拠の一つが、この石標でした。背後に『信長塀』の呼び名もある築地塀がありました。

    イチオシ

    『清洲城』の文字が刻まれた石標の光景です。現在の天守は、平成元年(1989年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して、清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内に建設された鉄筋コンクリート造の模擬天守です。その時に設置された石標のようです。現在の『清須市』の表記に対し、『清洲城』の表記を優先した根拠の一つが、この石標でした。背後に『信長塀』の呼び名もある築地塀がありました。

  • 先ほど紹介した赤い橋は、『大手橋』の名前で呼ばれているようです。その橋を渡ってやって来た大手門の光景です。その背後に、模擬天守が控えていました。1586年(天正14年)に信雄(のぶかつ)によって二重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われた記録が残っています。

    先ほど紹介した赤い橋は、『大手橋』の名前で呼ばれているようです。その橋を渡ってやって来た大手門の光景です。その背後に、模擬天守が控えていました。1586年(天正14年)に信雄(のぶかつ)によって二重の堀の普請、大天守・小天守・書院などの造営が行われた記録が残っています。

  • 右斜め前から眺めた、通称『大手門』の光景です。織田信雄によって建てられた天守は、五条川の左岸と想定されていますので、『大手橋』や『大手門』も想像の上での再建になります。信雄による1586年の清洲城の大改修は、1586年1月18日(天正13年11月29日)の天正地震の被害を受けてのことと推定されています。

    右斜め前から眺めた、通称『大手門』の光景です。織田信雄によって建てられた天守は、五条川の左岸と想定されていますので、『大手橋』や『大手門』も想像の上での再建になります。信雄による1586年の清洲城の大改修は、1586年1月18日(天正13年11月29日)の天正地震の被害を受けてのことと推定されています。

  • 『信長塀』のことを解説した立札の光景です。『永禄3年(1560年)、織田信長公が桶狭間に出陣の途中熱田神宮に戦勝を祈願し、そのお礼に寄進した塀をモデルにした』ことが紹介されていました。その築地塀は、『信長塀』として熱田神宮の境内に残され、国の重要文化財に指定されています。

    『信長塀』のことを解説した立札の光景です。『永禄3年(1560年)、織田信長公が桶狭間に出陣の途中熱田神宮に戦勝を祈願し、そのお礼に寄進した塀をモデルにした』ことが紹介されていました。その築地塀は、『信長塀』として熱田神宮の境内に残され、国の重要文化財に指定されています。

  • 『大手門』を入って右手にあった土蔵のような建物の光景です。防火や防災を目的に造られた、実用的な土蔵のように見えました。出入り口には、頑丈な扉と、錠前も施設されていました。貴重な資料などが仕舞い込まれている雰囲気でした。

    『大手門』を入って右手にあった土蔵のような建物の光景です。防火や防災を目的に造られた、実用的な土蔵のように見えました。出入り口には、頑丈な扉と、錠前も施設されていました。貴重な資料などが仕舞い込まれている雰囲気でした。

  • 正面から眺めた模擬天守の光景です。少しくどくなりますが、清須市の公式HPにおける『清洲と清須』に関する解説です。『「きよす」の表記は、文献その他歴史的にも「清須」「清洲」の両方の記載が見られます。古くは「清須」の表記が多く後に「清洲」の表記が多くなっています。そこで、今回の展示リニューアルに際しては、慶長15年(1610年)の「清須越」を境目に清須越以前を「清須」、「清須城」と表記し、それ以降の宿名、町名を「清洲」と表記しています。また、現在の施設固有の名称としては「清洲城」として表記しております』と紹介されていました。

    イチオシ

    正面から眺めた模擬天守の光景です。少しくどくなりますが、清須市の公式HPにおける『清洲と清須』に関する解説です。『「きよす」の表記は、文献その他歴史的にも「清須」「清洲」の両方の記載が見られます。古くは「清須」の表記が多く後に「清洲」の表記が多くなっています。そこで、今回の展示リニューアルに際しては、慶長15年(1610年)の「清須越」を境目に清須越以前を「清須」、「清須城」と表記し、それ以降の宿名、町名を「清洲」と表記しています。また、現在の施設固有の名称としては「清洲城」として表記しております』と紹介されていました。

  • 豪壮な造りの石庭と、その背後の書院の光景です。この後、簡単に清洲城歴史を紹介しておきます。その歴史は古く、1405年(応永12年)に室町幕府管領・斯波義重(1371~1418年)により築城されました。清洲城が尾張の守護所となったのは1478年(文明10年)のことです。それまでの下津城(おりづじょう:現稲沢市)が、守護代・織田家の内紛によって焼失したことによる移転でした。

    豪壮な造りの石庭と、その背後の書院の光景です。この後、簡単に清洲城歴史を紹介しておきます。その歴史は古く、1405年(応永12年)に室町幕府管領・斯波義重(1371~1418年)により築城されました。清洲城が尾張の守護所となったのは1478年(文明10年)のことです。それまでの下津城(おりづじょう:現稲沢市)が、守護代・織田家の内紛によって焼失したことによる移転でした。

  • 同じく、豪壮な造りの石庭と、その背後の書院と本丸石垣の光景です。清洲城の歴史に戻ります。一時期、弾正忠家の織田信秀が奉行として入りましたが、基本的には守護代・織田大和守家の居城でした。これを信長が手にしたのは1555年(弘治元年)のことです。主家の織田信友を退けての尾張掌握でした。

    同じく、豪壮な造りの石庭と、その背後の書院と本丸石垣の光景です。清洲城の歴史に戻ります。一時期、弾正忠家の織田信秀が奉行として入りましたが、基本的には守護代・織田大和守家の居城でした。これを信長が手にしたのは1555年(弘治元年)のことです。主家の織田信友を退けての尾張掌握でした。

  • 写真は、先に紹介した、土蔵方面の光景です。その後、信長は家督をめぐって弟の信勝と対立し、戦になりました。最終的に1558年(永禄元年)、清洲城で謀殺し弾正忠家当主の座を制しました。1562年(永禄5年)には徳川家康との同盟条約を清洲城で締結し、翌年には美濃との決戦に備えて拠点を小牧山城に移転しました。清洲城は城主を置かずに、将が守備する番城となりました。

    写真は、先に紹介した、土蔵方面の光景です。その後、信長は家督をめぐって弟の信勝と対立し、戦になりました。最終的に1558年(永禄元年)、清洲城で謀殺し弾正忠家当主の座を制しました。1562年(永禄5年)には徳川家康との同盟条約を清洲城で締結し、翌年には美濃との決戦に備えて拠点を小牧山城に移転しました。清洲城は城主を置かずに、将が守備する番城となりました。

  • 立派な庭木が植栽された前庭の光景です。その右後ろに大手門、左に信長塀が見えていました。1582年(天正10年)、信長亡き後の織田家の継承問題などを決める清州会議が清洲城で行われました。1586年(天正14年)には、城主となった信長の次男の信雄(のぶかつ)によって大改修されました。先に紹介した、1586年1月18日(天正13年11月29日)の天正地震の被害を受けてのことです。

    立派な庭木が植栽された前庭の光景です。その右後ろに大手門、左に信長塀が見えていました。1582年(天正10年)、信長亡き後の織田家の継承問題などを決める清州会議が清洲城で行われました。1586年(天正14年)には、城主となった信長の次男の信雄(のぶかつ)によって大改修されました。先に紹介した、1586年1月18日(天正13年11月29日)の天正地震の被害を受けてのことです。

  • 写真は、豪壮な造りの石庭と、その背後の大手門の光景です。豊臣政権時代(1585年(天正13年)/1590年(天正18年)~1603年(慶長8年)では、1595年(文禄4年)、福島正則(1561~1624年)が清洲城主となりました。1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いでは、東軍の拠点の一つとして使われました。東軍が勝利した戦後は、家康の四男・松平忠良が城主となりました。

    写真は、豪壮な造りの石庭と、その背後の大手門の光景です。豊臣政権時代(1585年(天正13年)/1590年(天正18年)~1603年(慶長8年)では、1595年(文禄4年)、福島正則(1561~1624年)が清洲城主となりました。1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いでは、東軍の拠点の一つとして使われました。東軍が勝利した戦後は、家康の四男・松平忠良が城主となりました。

  • 写真は、石庭の外れの部分の光景です。1607年(慶長12年)には、家康の九男・徳川義直が城主となりますが、1610年(慶長15年)の遷府命令により清洲城下が名古屋へと移転しました。いわゆる『清州越し』の始まりです。1613年(慶長18年)に名古屋城が完成し、城下移転も滞りなく完了しました。清洲城はその役目を終え、廃城となりました。これで、清洲城の略史の紹介はおしまいです。

    写真は、石庭の外れの部分の光景です。1607年(慶長12年)には、家康の九男・徳川義直が城主となりますが、1610年(慶長15年)の遷府命令により清洲城下が名古屋へと移転しました。いわゆる『清州越し』の始まりです。1613年(慶長18年)に名古屋城が完成し、城下移転も滞りなく完了しました。清洲城はその役目を終え、廃城となりました。これで、清洲城の略史の紹介はおしまいです。

  • 正確な方角は分かりませんでしたが、五条川が南北に流れていると仮定しますと、概ね西を向いた表門になるようです。最下層は黒く塗色された下見板張りで、その上が漆喰塗の外観でした。二階部分も類似の造りに見えました。廃城となった清洲城ですが、その建物は名古屋城へと運ばれ、現在の『戌亥隅櫓(西北隅櫓)』は、『清州櫓』とも呼ばれています。3重3階の大きな櫓で、平面規模は桁行8間、梁間7間、高さは約16.3mあります。国の重要文化財に指定されています。

    正確な方角は分かりませんでしたが、五条川が南北に流れていると仮定しますと、概ね西を向いた表門になるようです。最下層は黒く塗色された下見板張りで、その上が漆喰塗の外観でした。二階部分も類似の造りに見えました。廃城となった清洲城ですが、その建物は名古屋城へと運ばれ、現在の『戌亥隅櫓(西北隅櫓)』は、『清州櫓』とも呼ばれています。3重3階の大きな櫓で、平面規模は桁行8間、梁間7間、高さは約16.3mあります。国の重要文化財に指定されています。

  • 赤い望楼がある最上階付近のズームアップ光景です。以前に内部は見学したことがありますので、今回は天守への登城は端折りました。名古屋城の『清州櫓』は、名古屋城の解体修理の際に、移築や転用の痕跡も見つかっています。実際に清洲城から移築されてきた可能性が指摘されています。

    赤い望楼がある最上階付近のズームアップ光景です。以前に内部は見学したことがありますので、今回は天守への登城は端折りました。名古屋城の『清州櫓』は、名古屋城の解体修理の際に、移築や転用の痕跡も見つかっています。実際に清洲城から移築されてきた可能性が指摘されています。

  • 表門が西向きとしますと、こちらの面は南向きになるようです。1階部分に大掛かりな石落しが設けてありました。余りに立派過ぎる造りですから、戦国時代の城郭としてはリアリティを欠く面もあります。しまし、破風と石落し部分は、名古屋城の『清州櫓』の石落しと規模は同じくらいにみえました。

    表門が西向きとしますと、こちらの面は南向きになるようです。1階部分に大掛かりな石落しが設けてありました。余りに立派過ぎる造りですから、戦国時代の城郭としてはリアリティを欠く面もあります。しまし、破風と石落し部分は、名古屋城の『清州櫓』の石落しと規模は同じくらいにみえました。

  • 天守台の南面の石垣のズームアップ光景です。乱済みの打込み接ぎで積まれていました。時代考証した上での石積みですと、野面積みの方が相応しかったかも知れません。バブル絶頂期で、金回りがよい時代の再建工事です。

    天守台の南面の石垣のズームアップ光景です。乱済みの打込み接ぎで積まれていました。時代考証した上での石積みですと、野面積みの方が相応しかったかも知れません。バブル絶頂期で、金回りがよい時代の再建工事です。

  • 清洲城天守の東南角付近の光景です。この天守が建設されたのが、元年(1989年)ですから、日本のバブル崩壊の直前になるようです。バブル崩壊は、1991年(平成3年)3月から1993年(平成5年)10月までの景気後退期を指します。その時代を反映した清洲城の模擬天守のようです。

    清洲城天守の東南角付近の光景です。この天守が建設されたのが、元年(1989年)ですから、日本のバブル崩壊の直前になるようです。バブル崩壊は、1991年(平成3年)3月から1993年(平成5年)10月までの景気後退期を指します。その時代を反映した清洲城の模擬天守のようです。

  • 天守の南面に設けられた石落しのズームアップ光景です。『石落とし(いしおとし)』は、日本の城の建築に設置された防御用開口部のことです。下方に開口し、おもに真下方向にいる標的を攻撃する用途で使われます。『塵落とし(ちりおとし)』とも呼ばれます。ヨーロッパの城にも、同様の装備があるようです。

    天守の南面に設けられた石落しのズームアップ光景です。『石落とし(いしおとし)』は、日本の城の建築に設置された防御用開口部のことです。下方に開口し、おもに真下方向にいる標的を攻撃する用途で使われます。『塵落とし(ちりおとし)』とも呼ばれます。ヨーロッパの城にも、同様の装備があるようです。

  • 南東側から眺めた、清洲城天守と天守台の東面の光景です。明治以降に再建された天守は、復元天守、外観復元天守、復興天守、模擬天守などに分類されますが、清洲城は、この中の『模擬天守』に該当します。模擬天守とは、位置や規模も外観も史実と異なって再建したものを指します。最も古いものは、昭和3年(1927年)に建設された洲本城(兵庫県)とされます。<br />

    南東側から眺めた、清洲城天守と天守台の東面の光景です。明治以降に再建された天守は、復元天守、外観復元天守、復興天守、模擬天守などに分類されますが、清洲城は、この中の『模擬天守』に該当します。模擬天守とは、位置や規模も外観も史実と異なって再建したものを指します。最も古いものは、昭和3年(1927年)に建設された洲本城(兵庫県)とされます。

  • 南東側から眺めた、清洲城天守のズームアップ光景です。洲本城以外の『模擬天守』には、郡上八幡城(岐阜県)、伊賀上野城(三重県)、富山城(富山県)、浜松城(静岡県)、中津城(大分県)、平戸城(長崎県)、伏見城(京都府)、横手城(秋田県)、唐津城(佐賀県)、今治城(愛媛県)、長浜城(滋賀県)、忍城(埼玉県)、清洲城(愛知県)、関宿城(千葉県)などがあります。

    南東側から眺めた、清洲城天守のズームアップ光景です。洲本城以外の『模擬天守』には、郡上八幡城(岐阜県)、伊賀上野城(三重県)、富山城(富山県)、浜松城(静岡県)、中津城(大分県)、平戸城(長崎県)、伏見城(京都府)、横手城(秋田県)、唐津城(佐賀県)、今治城(愛媛県)、長浜城(滋賀県)、忍城(埼玉県)、清洲城(愛知県)、関宿城(千葉県)などがあります。

  • 東面から眺めた長塀と、その塀の上から顔を覗かせた書院の屋根の光景です。天守の話しに戻ります。『外観復元天守』とは、天守の位置や規模は史実とおおよそ同じで、外観のみほぼ同じ姿で再建されたものを指します。外観復元天守の中で最も古いのは、昭和33年(1958年)に建てられた和歌山城(和歌山県)と広島城(広島県)です。この両城とも第二次大戦の空襲によって焼失した天守です。

    東面から眺めた長塀と、その塀の上から顔を覗かせた書院の屋根の光景です。天守の話しに戻ります。『外観復元天守』とは、天守の位置や規模は史実とおおよそ同じで、外観のみほぼ同じ姿で再建されたものを指します。外観復元天守の中で最も古いのは、昭和33年(1958年)に建てられた和歌山城(和歌山県)と広島城(広島県)です。この両城とも第二次大戦の空襲によって焼失した天守です。

  • 清洲城天守台の東面の石垣光景です。殆ど隙間のない、切込み接ぎと呼んでいいような石積光景でした。間詰の小さな石は見当たらず、一定程度以上の大きさの石で、隙間なく積み上げられていました。また、乱積と布積がミックスしたような積み方にもなっていました。

    清洲城天守台の東面の石垣光景です。殆ど隙間のない、切込み接ぎと呼んでいいような石積光景でした。間詰の小さな石は見当たらず、一定程度以上の大きさの石で、隙間なく積み上げられていました。また、乱積と布積がミックスしたような積み方にもなっていました。

  • 東北方面から眺めた清洲城天守の光景です。四方に破風が設けられた豪華な造りの天守です。また、天守の話しに戻ります。先に紹介した二城のほかに、名古屋城(愛知県)、大垣城(岐阜県)、松前城(北海道)、熊本城(熊本県)、岩国城(山口県)、会津若松城(福島県)、岡山城(岡山県)、福山城(広島県)、高島城(長野県)、福知山城(京都府)などがあります。

    東北方面から眺めた清洲城天守の光景です。四方に破風が設けられた豪華な造りの天守です。また、天守の話しに戻ります。先に紹介した二城のほかに、名古屋城(愛知県)、大垣城(岐阜県)、松前城(北海道)、熊本城(熊本県)、岩国城(山口県)、会津若松城(福島県)、岡山城(岡山県)、福山城(広島県)、高島城(長野県)、福知山城(京都府)などがあります。

  • 同じく、東北方面から眺めた清洲城天守と、それに続く長塀の光景です。鉄砲狭間が設けてありました。次のケースは、『復興天守』です。天守の位置や規模は史実と凡そ同じですが、外観が異なっているものを指します。最も古く再建されたのは岐阜城(岐阜県)です。明治43年(1910年)に観光目的の天守再建として建てられましたが、昭和18年(1943年)に焼失してしまいました。

    イチオシ

    同じく、東北方面から眺めた清洲城天守と、それに続く長塀の光景です。鉄砲狭間が設けてありました。次のケースは、『復興天守』です。天守の位置や規模は史実と凡そ同じですが、外観が異なっているものを指します。最も古く再建されたのは岐阜城(岐阜県)です。明治43年(1910年)に観光目的の天守再建として建てられましたが、昭和18年(1943年)に焼失してしまいました。

  • 北側から眺めた清洲城天守のズームアップ光景です。最も古い『復興天守』の岐阜城天守はその後、昭和31年(1956年)に2代目が建てられ、現在も歴史資料館として使われています。現在最も古い復興天守としては、大阪城(大阪府)が挙げられます。昭和6年(1931年)に鉄筋コンクリートで建てられました。太閤の城ではなく、徳川時代の天守台の上に建ち、外観も大きく異なる復興天守です。

    北側から眺めた清洲城天守のズームアップ光景です。最も古い『復興天守』の岐阜城天守はその後、昭和31年(1956年)に2代目が建てられ、現在も歴史資料館として使われています。現在最も古い復興天守としては、大阪城(大阪府)が挙げられます。昭和6年(1931年)に鉄筋コンクリートで建てられました。太閤の城ではなく、徳川時代の天守台の上に建ち、外観も大きく異なる復興天守です。

  • 北面から、長塀越しに眺めた天守最上階付近の光景です。最後に紹介するのが『再建天守』です。復元天守は、文化庁が定めた再建についての基準を満たし、史実と全く同じ位置に、同じ外観と内部構造で木造再建したものを指します。復元天守で最も古いのは白河小峰城(福島県)です。平成3年(1991年)に、木造による本格的な復元天守として建てられました。

    北面から、長塀越しに眺めた天守最上階付近の光景です。最後に紹介するのが『再建天守』です。復元天守は、文化庁が定めた再建についての基準を満たし、史実と全く同じ位置に、同じ外観と内部構造で木造再建したものを指します。復元天守で最も古いのは白河小峰城(福島県)です。平成3年(1991年)に、木造による本格的な復元天守として建てられました。

  • 北面から、長塀越しに眺めた天守最上階付近のズームアップ光景です。この白河小峰城の復元を皮切りに、掛川城(静岡県)が平成6年(1994年)に、白石城(宮城県)が平成7年(1995年)に、大洲城(愛媛県)が平成16年(2004年)に、新発田城(新潟県)が平成16年(2004年)に、それぞれ再建されました。これ以降再建された復元天守はまだありません。

    北面から、長塀越しに眺めた天守最上階付近のズームアップ光景です。この白河小峰城の復元を皮切りに、掛川城(静岡県)が平成6年(1994年)に、白石城(宮城県)が平成7年(1995年)に、大洲城(愛媛県)が平成16年(2004年)に、新発田城(新潟県)が平成16年(2004年)に、それぞれ再建されました。これ以降再建された復元天守はまだありません。

  • 清洲城の周りを一回りして、西面に戻って来ました。大手門に続く、赤い橋の『大手橋』の光景です。現存天守の紹介です。1940年代までは20城の天守が現存し、戦前・敗戦直後までは国宝保存法で国宝などの文化財に指定され現存天守と呼ばれていました。これらのうち1945年(昭和20年)にアメリカ軍の攻撃によって水戸城、大垣城、名古屋城をはじめ、7城の天守が焼失しました。

    清洲城の周りを一回りして、西面に戻って来ました。大手門に続く、赤い橋の『大手橋』の光景です。現存天守の紹介です。1940年代までは20城の天守が現存し、戦前・敗戦直後までは国宝保存法で国宝などの文化財に指定され現存天守と呼ばれていました。これらのうち1945年(昭和20年)にアメリカ軍の攻撃によって水戸城、大垣城、名古屋城をはじめ、7城の天守が焼失しました。

  • 銅葺屋根の書院の建物光景です。小さいながら唐破風も設けられた豪華な造りです。現存天守は7城の天守が戦災で焼失し、1949年(昭和24年)に失火によって松前城天守が焼失しました。現在、文化財として見ることができる天守は12城の天守のみとなっており、『現存12天守』と総称されます。その内の5箇所が国宝天守です。

    銅葺屋根の書院の建物光景です。小さいながら唐破風も設けられた豪華な造りです。現存天守は7城の天守が戦災で焼失し、1949年(昭和24年)に失火によって松前城天守が焼失しました。現在、文化財として見ることができる天守は12城の天守のみとなっており、『現存12天守』と総称されます。その内の5箇所が国宝天守です。

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