2020/11/21 - 2020/11/21
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旅人のくまさんさん
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蟹江城址の紹介です。蟹江城は永享年間(1429~1440年)に北条時任(ときとう)により築城されました。戦国時代には、本丸、二の丸、三の丸の三郭があり、大野、下市場、前田の三つの支城がありました。しかし、1584年(天正12年)に起きた蟹江城合戦と、翌年の大地震で壊滅しました。
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名古屋駅から到着したJR蟹江駅の光景です。蟹江駅から目的地の蟹江城跡までは歩いての移動です。下調べでは、資料を入手予定の蟹江町歴史民俗資料館までは10分の距離でした。そこから蟹江城址までは数分の距離のようです。
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JR蟹江駅前近くにあった蟹江町の観光案内地図です。電車を降りた蟹江駅が図面中央の上部に、目的地の蟹江町歴史民俗資料館が西南方面の川の支流の脇に記されていました。
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イチオシ
実は少し道を迷いましたが、目的地の蟹江町歴史民俗資料館らしい建物が前方に見えてきました。なかなか立派な造りです。その資料館は、『蟹江城』のキーワードでの検索で、『蟹江町歴史民俗資料館の受付で城跡の地図が貰える』と紹介されていました。それで、まずは資料館に向かいました。
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目的地の『蟹江町歴史民俗資料館』の近くで撮影した、『蟹江町観光案内図』の光景です。細かな道は省略されて、主要道か記してありませんでしたが、資料館のすぐ近くに『蟹江城址』も記されていました。
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『蟹江町歴史民俗資料館』の玄関脇の光景です。『旧・日光大橋・親柱飾り象』の立札と、石像らしいものが展示してありました。立札には『昭和初期・草案・黒川己喜氏』の文字がありました。名前は、『己』の文字でも、『巳』でもなく、その中間の文字のようでしたが、パソコン文字が見付かりませんでした。若い頃に『き(?)み(巳)こ(己)』で覚えた三文字です。
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『旧・日光大橋・親柱飾り象』のズームアップ光景です。『象』を表した抽象的な表現の石像のようでした。蟹江町は、善太川、日光川、佐屋川、蟹江川が流れ、その昔は水運や、漁業で栄え、『東海の潮来』とも呼ばれていましたから、橋の飾りにも力が入っていたようです。
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『蟹江町歴史民俗資料館』で案内図を入手した後、すぐに『蟹江城址』に向かいました。蟹江城は、永享年間(1429~1440年)に北条時任(ときとう)が城塞を築いたのがはじめと言われ、戦国時代には、本丸、二の丸、三の丸の三郭があり、大野、下市場、前田の三つの支城がありました。資料館の前にあった案内標識の光景です。
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資料館を出発して、数分で『蟹江城址』に到着しました。その場所にあった『地名のいわれ・蟹江町城』のタイトルがあった説明看板です。地名のいわれは、河口付近から沿岸部に多くの蟹が棲んでいたためと紹介されていました。江戸時代に描かれた風景には、『蟹江城が廃城となり、畑に代わった姿』と紹介されていました。
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入り口付近から眺めた、『蟹江城址』の光景です。右手前に見える門灯には、左向きの矢印で、『蟹江城本丸井戸跡・30m』の表示がありました。右奥に見えるのが『蟹江城址碑』です。
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『蟹江町観光案内マップ』のタイトルがあった大きな看板の光景です。写真入りで、9か所の名所などが紹介されていました。川に因むものが多くありました。左上の解説文では、川の面積が、総面積の五分の一を占めると紹介され、吉川英治さんが『東海の潮来(いたこ)』と褒め称えたようです。
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『見どころ』の中見出しがあった観光案内看板の光景です。写真入りで、国指定重要無形文化財の『須成祭』、『蟹江城址公園(城一丁目)』と『足湯かにえの郷(大字西之森字長瀬下)』の三つが紹介されていました。須成祭は、400年の歴史を持つ、須成地区の例祭です。9か所紹介されていたうちの3か所のピックアップでの紹介です。
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イチオシ
『蟹江城址』の文字が刻まれた、立派な石標の光景です。『愛知縣』の名前で建てられていました。ウィキペディアを参照して、蟹江城の歴史を紹介します。先に紹介しましたように、築城は北条時任による永享年間(1429~1440年)、1555年(弘治元年)、今川方の松平広忠によって攻略されました。その時の『蟹江七本槍』が有名です。その後、伊勢国の長島城主だった服部友貞の支配下に入り、織田氏と対立する戦いの場となりました。 1567年(永禄10年)、友貞の資金により、織田家家臣滝川一益によって再構築され、その後の北伊勢進攻(1568~1570年)、長島一向一揆(1570~1574年)鎮圧の拠点となりました。
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『蟹江城址』の石碑の裏面の光景です。長文の開設のようでしたが、逆光も相まって、読み取れませんでした。蟹江城の歴史紹介の続きです。1583年(天正11年)、滝川一益は賤ヶ岳の戦いの後に羽柴秀吉に敗れ、織田信雄の家臣、佐久間信栄が城主となりました。1584年(天正12年)、小牧長久手の戦いにおける蟹江城合戦では、秀吉方となった一益は、徳川家康・織田信雄の大軍に包囲され、篭城戦の末、半月後に落城しました。1585年(天正13年)、天正地震により蟹江城は壊滅し、廃城となりました。蟹江城合戦は、家康にとっては天下取りへの重要な戦いでした。
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『蟹江城址』のタイトルがあった蟹江町名の立札の光景です。永享年間(1429~1440年)に北条時任が築城したことが冒頭に記されていました。1584年(天正12年)に起きた蟹江城合戦と、翌年の大地震で壊滅し、入状になったことも記されていました。現在は石碑と本丸井戸が残るのみとも紹介されていました。
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『蟹江城址後円利用者のみなさまへ』のタイトルがあった看板の光景です。一般的な注意事項が、蟹江町名で記されていました。公園内にはトイレはないので、『蟹江町歴史民俗資料館』などのトイレを利用するよう、親切に案内されていました。
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蟹江城址で唯一残る遺跡の『本丸井戸』と、その説明立札の光景です。後世の蟹江合戦の評価は、江戸前期の儒医・江村専斎によれば、「賤ヶ岳の軍は、太閤一代の勝事、蟹江の軍は、東照宮一世の勝事也』と述べ、蟹江城合戦こそが徳川家康の生涯における最も重要な勝利であると評しています。
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イチオシ
蟹江城址で唯一残る遺跡の『本丸井戸』のズームアップ光景です。左脇の年代を経た石標には、『蟹江城本丸井戸』の文字が刻まれていました。頑丈な金属枠でおおわれていましたが、網目を透かして井戸の中を眺めることができました。
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『蟹江城本丸井戸跡』のタイトルがあった説明立札のズームアップ光景です。江戸時代の蟹江本町絵図にも、この位置に『古井』と記されていることが紹介されていました。蟹江町名での立札でした。
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蟹江城址公園の近くにあった小さな社の光景です。大正10年代(12年?)に設立された稲荷社のようでした。木製の鳥居が建っていました。蟹江城址との直接の関係はないかもしれませんが、百年ほどが経った本丸跡の神社です。
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蟹江城址公園の近くにあった、稲荷社らしい小さな社のズームアップ光景です。両脇に石灯篭が置かれていました。地元で大切にされているらしく、庭木などの手入れも行き届いていました。
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左斜め前から眺めた、稲荷社らしい小さな社の光景です。しっかりとした石製の柵で囲われた一角でした。推測で読んだ文字も入りますが、入り口右手の石標に『大正12年 古瀬有志』らしい文字がありました。
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付近を散策して、蟹江城址に所縁がありそうな景色を探してみましたが、結論から言えば、400年の歳月が、昔の面影を消し去ってしまったようでした。遺跡としての根拠は全くありませんでしたが、着目してみたのが、運び出すことが大変な石材です。廃城にされた後に、流用または廃棄されたと推測してみた石材の光景です。
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広場の片隅に積み上げられていた、かなり大きな石材の光景です。かつてな思い入れですが、歴史を語りだしそうな雰囲気がありました。乱雑に放置された姿ですが、庭石に使えそうな、赤石、青石や、石目が立派な白い石など、銘石も交じっていそうな雰囲気でした。
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石材が長い間放置されたことを物語っているような、石の間から顔を出して咲いていた花の光景です。咲いては枯れて、また翌年に花を咲かせているような雰囲気がありました。
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石の間から顔を出していたオレンジ色の花のズームアップ光景です。マリーゴールドの花のようでした。マリーゴールドは、キク科コウオウソウ属(マンジュギク属)のうち、草花として栽培される植物の総称とされます。
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咲き始めのガザニアの花の光景です。ガザニアは、南アフリカ原産のキク科ガザニア属(クンショウギク属)の植物の総称とされ、15種ほどの原種があるようです。花の名前は、アリストテレスなどのギリシャの古典書物をラテン語に翻訳したギリシャ人の『ガザ』に由来します。
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場所を変えて眺めた、広場の片隅に積み上げられていた、大きな石材の光景です。その中には、複数の石灯篭の残骸もありました。推測になりますが、この場所が、かつての屋敷跡であることを物語っているのかもしれません。
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同じく、庭石などが置かれていた広場の周りの光景です。城跡のイメージを抱きながら、裏通りを歩きました。狭い裏通りそのものにも、古い町並みの面影が残っているようでした。
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玉石垣を利用した石垣も目にしましたが、この玉石垣は、敷地境を示すように並べられていました。蟹江城や武家屋敷に、どんな石垣があったのかはわかりませんが、玉石が石垣の石材されているケースは、何度も目にしました。一番印象に残ったのが、静岡の掛川にある横須賀城の玉石垣です。家康が信玄の高天神城を攻略するために築いた城です。
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同じく、蟹江城址の見学を終えて、蟹江駅に向かう途中の光景です。大きな玉石が有効活用されていた光景の一つです。家の前に無断駐車を避けるための庭石か石垣石利用のようでした。
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