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お堀の外から眺めた名古屋城の紹介が続きます。名古屋城は、『総構え』または『総曲輪』と呼ばれる城と城下町を囲い込む計画がありました。西は枇杷島橋、南は古渡旧城下、東は矢田川橋に及ぶ広大な面積です。しかし、大坂夏の陣が終わると普請は中止されました。

2020秋、名古屋城と名城公園(3/4):名古屋城(2):お堀、コブ白鳥、天守、キンクロハジロ

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2020/10/18 - 2020/10/18

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旅行記グループ 2021編集、尾張の城巡り

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旅人のくまさん

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お堀の外から眺めた名古屋城の紹介が続きます。名古屋城は、『総構え』または『総曲輪』と呼ばれる城と城下町を囲い込む計画がありました。西は枇杷島橋、南は古渡旧城下、東は矢田川橋に及ぶ広大な面積です。しかし、大坂夏の陣が終わると普請は中止されました。

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  • 名古屋城の外堀光景です。水を湛えたお堀には『濠』の文字を使うのが正しいようですが、近年は『堀』と『濠』の使い分けは少なくなっているようです。ここまでも『堀』の文字を使いましたが、割り切って同じ表現にしておきます。また、必要な場合には、『空堀』、『水堀』等の表現とします。

    名古屋城の外堀光景です。水を湛えたお堀には『濠』の文字を使うのが正しいようですが、近年は『堀』と『濠』の使い分けは少なくなっているようです。ここまでも『堀』の文字を使いましたが、割り切って同じ表現にしておきます。また、必要な場合には、『空堀』、『水堀』等の表現とします。

  • 戦国時代からの名古屋城の簡単な歴史について、ウィキペディアを参照しての簡単な紹介です。16世紀の前半に駿河今川家9代当主の今川氏親(1473~1526年)が、尾張進出のために築いた『柳ノ丸』が名古屋城の起源とされます。この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられています。1532年(天文元年)、『織田信秀(1511~1551年)が今川氏豊から奪取し『那古野城』と改名しました。

    戦国時代からの名古屋城の簡単な歴史について、ウィキペディアを参照しての簡単な紹介です。16世紀の前半に駿河今川家9代当主の今川氏親(1473~1526年)が、尾張進出のために築いた『柳ノ丸』が名古屋城の起源とされます。この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられています。1532年(天文元年)、『織田信秀(1511~1551年)が今川氏豊から奪取し『那古野城』と改名しました。

  • 写真は名古屋城天守の紹介が続きます。信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男の織田信長(1534~1582年)はこの城で生まれたとされましたが、現在では勝幡城での生誕説が有力です。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となりました。1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、那古野城は廃城となりました。

    イチオシ

    写真は名古屋城天守の紹介が続きます。信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男の織田信長(1534~1582年)はこの城で生まれたとされましたが、現在では勝幡城での生誕説が有力です。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となりました。1555年(弘治元年)、信長が清須城(清洲城)に本拠を移したため、那古野城は廃城となりました。

  • 清須城は、長らく尾張の中心でしたが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、江戸時代に入って徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを定めました。1610年(慶長15年)、未だ大阪城には豊臣秀頼が健在でしたが、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始されました。

    清須城は、長らく尾張の中心でしたが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、江戸時代に入って徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを定めました。1610年(慶長15年)、未だ大阪城には豊臣秀頼が健在でしたが、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始されました。

  • 写真は、長大な名古屋城の石垣と、その右端に見える西北櫓、別名・清州櫓の光景です。普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行に大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられました。縄張は普請奉行の一人である牧長勝。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正が築きました。

    写真は、長大な名古屋城の石垣と、その右端に見える西北櫓、別名・清州櫓の光景です。普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行に大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられました。縄張は普請奉行の一人である牧長勝。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正が築きました。

  • 外堀に沿って西方向に歩き、『御深井丸(おふけまる)』の西北角に位置する清州櫓が大きく見える位置までやって来ました。清州櫓とも呼ばれる『西北隅櫓』は、名古屋城の天守閣や本丸御殿などが完成した数年後の1619年(元和5年)頃に建てられました。昭和37年から39年にかけての解体修理で、清洲城などの建物の古材を使用していることが判明しました。

    外堀に沿って西方向に歩き、『御深井丸(おふけまる)』の西北角に位置する清州櫓が大きく見える位置までやって来ました。清州櫓とも呼ばれる『西北隅櫓』は、名古屋城の天守閣や本丸御殿などが完成した数年後の1619年(元和5年)頃に建てられました。昭和37年から39年にかけての解体修理で、清洲城などの建物の古材を使用していることが判明しました。

  • 清州櫓のズームアップ光景です。戦災を免れた建物の一つで、国の重要文化財に指定されています。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭は中井正清と伝えられ、1612年(慶長17年)までに大天守が完成しました。小堀政一(1579~1647年)は、『遠州(えんしゅう)』の呼び名で知られる茶人で、建築家でもあった大名です。作庭家としても名を残しました。

    イチオシ

    清州櫓のズームアップ光景です。戦災を免れた建物の一つで、国の重要文化財に指定されています。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭は中井正清と伝えられ、1612年(慶長17年)までに大天守が完成しました。小堀政一(1579~1647年)は、『遠州(えんしゅう)』の呼び名で知られる茶人で、建築家でもあった大名です。作庭家としても名を残しました。

  • 左が清州櫓、右が名古屋城を眺望する絶好の位置にあるウエスティン・キャッスルホテルの光景です。遠州の父の小堀正次は、縁戚だった浅井氏に仕えていましたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡後は、羽柴秀吉の弟・秀長の家臣となりました。秀吉直参となって伏見に移り、ここで政一は古田織部に茶の湯を学びました。

    左が清州櫓、右が名古屋城を眺望する絶好の位置にあるウエスティン・キャッスルホテルの光景です。遠州の父の小堀正次は、縁戚だった浅井氏に仕えていましたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡後は、羽柴秀吉の弟・秀長の家臣となりました。秀吉直参となって伏見に移り、ここで政一は古田織部に茶の湯を学びました。

  • 写真は、外堀に姿を映した清州櫓の光景です。多くの大名が石垣工事を受け持ち、4カ月余で石垣は完成しました。清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から、徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたようです。この移住は『清須越し(きよすごし)』と呼ばれ、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清須城小天守も移る徹底的なものでした。

    写真は、外堀に姿を映した清州櫓の光景です。多くの大名が石垣工事を受け持ち、4カ月余で石垣は完成しました。清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から、徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたようです。この移住は『清須越し(きよすごし)』と呼ばれ、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清須城小天守も移る徹底的なものでした。

  • 尾張徳川家の歴史は、1607年(慶長12年)、家康の九男・義直が藩主となり始まりました。義直、光友、綱誠、吉通、五郎太、継友、宗春、宗勝、宗睦、斉朝、斉温、斉荘、慶臧、慶勝、茂徳、義宜の16人の藩主によって260年余りの治世が続きました。 写真は、外堀とその西北角にある、現在の取水口の光景です。<br />

    尾張徳川家の歴史は、1607年(慶長12年)、家康の九男・義直が藩主となり始まりました。義直、光友、綱誠、吉通、五郎太、継友、宗春、宗勝、宗睦、斉朝、斉温、斉荘、慶臧、慶勝、茂徳、義宜の16人の藩主によって260年余りの治世が続きました。 写真は、外堀とその西北角にある、現在の取水口の光景です。

  • 随分と広い外堀と、その西北角に立つ清州櫓の光景です。堀は、お城の防御の基本で、弥生時代の環濠集落から使われていました。環濠集落の周囲を囲う堀は、敵の侵入ではなく、害獣などから食料などを守るためだったと言われています。鎌倉や室町時代の中世では、山城が基本でしたから、堀は水のない空堀がほとんどでした。幅が広くなったのは、鉄砲の時代からになるようです。

    随分と広い外堀と、その西北角に立つ清州櫓の光景です。堀は、お城の防御の基本で、弥生時代の環濠集落から使われていました。環濠集落の周囲を囲う堀は、敵の侵入ではなく、害獣などから食料などを守るためだったと言われています。鎌倉や室町時代の中世では、山城が基本でしたから、堀は水のない空堀がほとんどでした。幅が広くなったのは、鉄砲の時代からになるようです。

  • 再び、コブハクチョウさんの登場です。ハクチョウの中でも優雅な姿が好まれ、古代ローマの頃から飼育が始まっていたようです。中世では『王の鳥』と讃えられました。マコモなどの植物が餌になるようです。この姿は、水中の餌を探しているようでした。

    再び、コブハクチョウさんの登場です。ハクチョウの中でも優雅な姿が好まれ、古代ローマの頃から飼育が始まっていたようです。中世では『王の鳥』と讃えられました。マコモなどの植物が餌になるようです。この姿は、水中の餌を探しているようでした。

  • イギリスでは伝統的に、高級料理としてハクチョウの肉が供されていたようです。12世紀にはイングランドに生息するハクチョウは全て王家の財産とする法律が成立し、ハクチョウを傷つけた者は反逆罪に問われました。この法律は現在でもイギリス王室に引き継がれ、イギリス国内のコブハクチョウを含む野生のハクチョウは、すべて王室の所有物とされています。(ウィキペディア)

    イギリスでは伝統的に、高級料理としてハクチョウの肉が供されていたようです。12世紀にはイングランドに生息するハクチョウは全て王家の財産とする法律が成立し、ハクチョウを傷つけた者は反逆罪に問われました。この法律は現在でもイギリス王室に引き継がれ、イギリス国内のコブハクチョウを含む野生のハクチョウは、すべて王室の所有物とされています。(ウィキペディア)

  • 名前:『コブハクチョウ(瘤白鳥)』<br />分類:カモ科ハクチョウ属<br />原産:ヨーロッパ、中央アジアを中心に生息<br />その他:日本では、北海道から九州まで、各地で観察されています。

    名前:『コブハクチョウ(瘤白鳥)』
    分類:カモ科ハクチョウ属
    原産:ヨーロッパ、中央アジアを中心に生息
    その他:日本では、北海道から九州まで、各地で観察されています。

  • 名前:『コブハクチョウ(瘤白鳥)』<br />分類:カモ科ハクチョウ属<br />原産:ヨーロッパ、中央アジアを中心に生息<br />その他:くちばしの上部の付け根に、コブ状の黒い部分があり、それが名前の由来となっています。

    名前:『コブハクチョウ(瘤白鳥)』
    分類:カモ科ハクチョウ属
    原産:ヨーロッパ、中央アジアを中心に生息
    その他:くちばしの上部の付け根に、コブ状の黒い部分があり、それが名前の由来となっています。

  • 名前:『キンクロハジロ(金黒羽白)』<br />分類:カモ科ハジロ属<br />原産:繁殖地は、シベリア、ヨーロッパ北部など<br />その他:日本には、越冬のために冬季に九州以北に渡来します。この羽の色は雌のようです。

    名前:『キンクロハジロ(金黒羽白)』
    分類:カモ科ハジロ属
    原産:繁殖地は、シベリア、ヨーロッパ北部など
    その他:日本には、越冬のために冬季に九州以北に渡来します。この羽の色は雌のようです。

  • 『キンクロハジロ(金黒羽白)』<br />分類:カモ科ハジロ属<br />原産:繁殖地は、シベリア、ヨーロッパ北部など<br />その他:かなり離れていましたが、気配を感じたらしく、薄眼を開けました。

    『キンクロハジロ(金黒羽白)』
    分類:カモ科ハジロ属
    原産:繁殖地は、シベリア、ヨーロッパ北部など
    その他:かなり離れていましたが、気配を感じたらしく、薄眼を開けました。

  • 名前:『コイ(鯉)』<br />分類:コイ科コイ属<br />原産:ニシキゴイ(錦鯉)は、日本で品種改良されました。<br />その他:ニシキゴイ(錦鯉)は、イスラエルなどでも生産されているようです。

    名前:『コイ(鯉)』
    分類:コイ科コイ属
    原産:ニシキゴイ(錦鯉)は、日本で品種改良されました。
    その他:ニシキゴイ(錦鯉)は、イスラエルなどでも生産されているようです。

  • 名前:『コイ(鯉)』<br />分類:コイ科コイ属<br />原産:ニシキゴイ(錦鯉)は、日本で品種改良されました。<br />その他:原種は『マゴイ(真鯉)』、野生種は『ノゴイ(野鯉)』とも呼ばれます。

    名前:『コイ(鯉)』
    分類:コイ科コイ属
    原産:ニシキゴイ(錦鯉)は、日本で品種改良されました。
    その他:原種は『マゴイ(真鯉)』、野生種は『ノゴイ(野鯉)』とも呼ばれます。

  • もう一度、ズームアップで紹介する清州櫓の光景です。『総構え(そうがまえ)』の計画が中止されますと、西の防備に建設されたのが、国境の木曾川左岸に設けられた『御囲堤(おかこいつつみ)』の築造です。 尾張国は、度々木曽川の洪水で被害を受けていましたので、御囲堤の原型は、文禄3年(1593年)、豊臣秀吉によって築かれたと言われます。

    もう一度、ズームアップで紹介する清州櫓の光景です。『総構え(そうがまえ)』の計画が中止されますと、西の防備に建設されたのが、国境の木曾川左岸に設けられた『御囲堤(おかこいつつみ)』の築造です。 尾張国は、度々木曽川の洪水で被害を受けていましたので、御囲堤の原型は、文禄3年(1593年)、豊臣秀吉によって築かれたと言われます。

  • 写真は、清州櫓付近から眺めた、西方面の光景です。幅広い外堀が続いています。天正14年(1590年)6月の木曽川の大洪水により、木曽川の本流は大きく流路を変え、それまでの葉栗郡、中島郡、海西郡は木曽川によって2分されました。木曽川の右岸となった地域は、尾張国から美濃国に編入されました。右岸とは、川下に向かって、右手になりますから、この場合には西側方面です。

    写真は、清州櫓付近から眺めた、西方面の光景です。幅広い外堀が続いています。天正14年(1590年)6月の木曽川の大洪水により、木曽川の本流は大きく流路を変え、それまでの葉栗郡、中島郡、海西郡は木曽川によって2分されました。木曽川の右岸となった地域は、尾張国から美濃国に編入されました。右岸とは、川下に向かって、右手になりますから、この場合には西側方面です。

  • 当時、尾張は豊臣秀次(1568~1595年)の所領でしたが、秀吉は文禄2年(1592年)11月末から12月初旬まで洪水で荒廃した尾張に滞在し、自ら振興策の遂行を指導しています。これにより、翌文禄3年正月(1593年)には築堤が開始されました。しかし、秀吉が堤を築かせた理由は、洪水の対策の他に別の目的がありました。

    当時、尾張は豊臣秀次(1568~1595年)の所領でしたが、秀吉は文禄2年(1592年)11月末から12月初旬まで洪水で荒廃した尾張に滞在し、自ら振興策の遂行を指導しています。これにより、翌文禄3年正月(1593年)には築堤が開始されました。しかし、秀吉が堤を築かせた理由は、洪水の対策の他に別の目的がありました。

  • 秀吉による築堤の別の目的とは、幾筋にも分かれていた木曽川の流路を固定し、水流や水量を安定させることにありました。このことにより渇水期でも木曽川を使って、大坂城や城下町の建設に使用する木曽檜等の木材を運び出す事を考えました。伊奈備前守忠次(1550~1610年)の指揮により、1608年(慶長13年)に御囲堤の築堤が始まり、翌年に完成しました。

    秀吉による築堤の別の目的とは、幾筋にも分かれていた木曽川の流路を固定し、水流や水量を安定させることにありました。このことにより渇水期でも木曽川を使って、大坂城や城下町の建設に使用する木曽檜等の木材を運び出す事を考えました。伊奈備前守忠次(1550~1610年)の指揮により、1608年(慶長13年)に御囲堤の築堤が始まり、翌年に完成しました。

  • 清州櫓の前から眺めた、東方面の光景です。この場所から反時計回りに外周を見学したことがありますから、今回は、名古屋城の北方面と東方面の散策です。名古屋城の城地は、濃尾平野に注ぐ庄内川が形作った名古屋台地の西北端に位置します。築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、崖下は低湿地と、誠に防御に適した地勢でした。

    イチオシ

    清州櫓の前から眺めた、東方面の光景です。この場所から反時計回りに外周を見学したことがありますから、今回は、名古屋城の北方面と東方面の散策です。名古屋城の城地は、濃尾平野に注ぐ庄内川が形作った名古屋台地の西北端に位置します。築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、崖下は低湿地と、誠に防御に適した地勢でした。

  • 名前:『アベリア』<br />分類:スイカズラ科ツクバネウツギ属<br />原産:19世紀中期にイタリアで作出された交配種です。<br />その他:赤色の花のアベリアです。

    名前:『アベリア』
    分類:スイカズラ科ツクバネウツギ属
    原産:19世紀中期にイタリアで作出された交配種です。
    その他:赤色の花のアベリアです。

  • 『アベリア』<br />分類:スイカズラ科ツクバネウツギ属<br />原産:19世紀中期にイタリアで作出された交配種です。<br />その他:普段目にする、白色の花のアベリアです。

    『アベリア』
    分類:スイカズラ科ツクバネウツギ属
    原産:19世紀中期にイタリアで作出された交配種です。
    その他:普段目にする、白色の花のアベリアです。

  • 写真は、『御深井丸』を囲う石垣の光景です。名古屋城は、伊勢湾に面した港の南に位置する熱田神宮門前町から、台地の西端に沿って堀川が掘削されて、築城物資の輸送とともに名古屋城下町の西の守りの機能を果たしました。1610年(慶長15年)、家康は名古屋城の築城と同時に、福島正則(1561~1624年)に熱田湊と名古屋城下を結ぶ人工の川の掘削を命じました。今日に残る『堀川』です。

    写真は、『御深井丸』を囲う石垣の光景です。名古屋城は、伊勢湾に面した港の南に位置する熱田神宮門前町から、台地の西端に沿って堀川が掘削されて、築城物資の輸送とともに名古屋城下町の西の守りの機能を果たしました。1610年(慶長15年)、家康は名古屋城の築城と同時に、福島正則(1561~1624年)に熱田湊と名古屋城下を結ぶ人工の川の掘削を命じました。今日に残る『堀川』です。

  • 『堀川』は、名古屋城の西側の巾下、辰之口を起点に、広井、日置、古渡、そして熱田へと南下していく全長7.24kmのルートです。川幅は23.6mから94.6mありました。工事は翌年の1611年(慶長16年)に完了しました。川の名は、当初は福島の官名になぞらえて『太夫堀』と呼ばれていましたが、下流の白鳥辺りで呼ばれた『堀川』の名前が定着していったようです。

    『堀川』は、名古屋城の西側の巾下、辰之口を起点に、広井、日置、古渡、そして熱田へと南下していく全長7.24kmのルートです。川幅は23.6mから94.6mありました。工事は翌年の1611年(慶長16年)に完了しました。川の名は、当初は福島の官名になぞらえて『太夫堀』と呼ばれていましたが、下流の白鳥辺りで呼ばれた『堀川』の名前が定着していったようです。

  • 歩道に敷設された、名古屋城天守が描かれたカラータイル光景です。残念ながら、見せ所の金鯱も屋根の色と一緒でした。天守は第二次大戦時に焼失しましたが、加藤清正が積んだ天守台は昔のままです。1891年(明治24年)に発災した推定マグニチュード8.0の濃尾地震にも耐えました。ただし、戦災時の熱で表面がかなり傷んでいます。

    歩道に敷設された、名古屋城天守が描かれたカラータイル光景です。残念ながら、見せ所の金鯱も屋根の色と一緒でした。天守は第二次大戦時に焼失しましたが、加藤清正が積んだ天守台は昔のままです。1891年(明治24年)に発災した推定マグニチュード8.0の濃尾地震にも耐えました。ただし、戦災時の熱で表面がかなり傷んでいます。

  • 『フイリヤブラン(斑入り藪蘭)』<br />分類:キジカクシ科ヤブラン属<br />原産:日本全土を始め東アジアに分布。<br />その他:和名は、『ハナツクバネウツギ(花衝羽根空木)』です。<br />

    『フイリヤブラン(斑入り藪蘭)』
    分類:キジカクシ科ヤブラン属
    原産:日本全土を始め東アジアに分布。
    その他:和名は、『ハナツクバネウツギ(花衝羽根空木)』です。

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