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『本能寺の変』により、信長亡き後に清洲城で開かれた『清須会議』は、それまでの織田家の勢力図を大きく塗り替える結果になりました。柴田勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなど、新たな争いの目が生まれました。

2021早春、信長所縁の清洲城(3/5):2月6日(3):天守、石庭、五条川、オオバン、マガモ、名古屋市博物館所蔵品

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2021/02/06 - 2021/02/06

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旅行記グループ 2021編集、尾張の城巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

『本能寺の変』により、信長亡き後に清洲城で開かれた『清須会議』は、それまでの織田家の勢力図を大きく塗り替える結果になりました。柴田勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなど、新たな争いの目が生まれました。

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  • 石庭と清須城の模擬天守の光景です。清洲城の歴史紹介で簡単に触れましたが、信長亡き後の『清須会議』について少し補足しておきます。1582年、織田信長が『本能寺の変』で斃れた後、織田家の後継者を決めるための清洲城での会議でした。信長の嫡男として織田家の後継者となるはずだった信忠も、父とともに本能寺で亡くなりました。

    石庭と清須城の模擬天守の光景です。清洲城の歴史紹介で簡単に触れましたが、信長亡き後の『清須会議』について少し補足しておきます。1582年、織田信長が『本能寺の変』で斃れた後、織田家の後継者を決めるための清洲城での会議でした。信長の嫡男として織田家の後継者となるはずだった信忠も、父とともに本能寺で亡くなりました。

  • 石庭のズームアップ光景です。『本能寺の変』が起きたのが、天正10年6月2日(1582年6月21日)の早朝、『清洲会議』が開かれたのが、天正10年6月27日(1582年7月16日)のことです。織田家の継嗣問題と、領地再分配に関する会議でした。信長を討った明智光秀は、山崎の戦いで備中高松城の攻城戦から引き返した羽柴秀吉に敗れ、逃亡中に討たれていました。

    石庭のズームアップ光景です。『本能寺の変』が起きたのが、天正10年6月2日(1582年6月21日)の早朝、『清洲会議』が開かれたのが、天正10年6月27日(1582年7月16日)のことです。織田家の継嗣問題と、領地再分配に関する会議でした。信長を討った明智光秀は、山崎の戦いで備中高松城の攻城戦から引き返した羽柴秀吉に敗れ、逃亡中に討たれていました。

  • 『清洲城と歴代城主」のタイトルがあった説明看板の光景です。歴代城主については、後ほど紹介します。『清洲会議』の話しに戻ります。集まった織田家家臣は宿老の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人です。有力武将の一人、滝川一益は出席できませんでした。織田信雄・織田信孝の2人の信長の上位の遺子たちと徳川家康の3人も会議の決定に委任し、それに従う誓紙を交わしていました。

    『清洲城と歴代城主」のタイトルがあった説明看板の光景です。歴代城主については、後ほど紹介します。『清洲会議』の話しに戻ります。集まった織田家家臣は宿老の柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人です。有力武将の一人、滝川一益は出席できませんでした。織田信雄・織田信孝の2人の信長の上位の遺子たちと徳川家康の3人も会議の決定に委任し、それに従う誓紙を交わしていました。

  • 模擬天守の最上階付近のズームアップ光景です。結果として三法師が織田家家督を継ぎ、叔父の織田信雄と信孝が後見人となり、傅役として堀秀政が付き、これを執権として羽柴秀吉らの4重臣が補佐する体制ができました。清洲会議では、それまで織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭になるなど、勢力図が大きく塗り変えられました。

    模擬天守の最上階付近のズームアップ光景です。結果として三法師が織田家家督を継ぎ、叔父の織田信雄と信孝が後見人となり、傅役として堀秀政が付き、これを執権として羽柴秀吉らの4重臣が補佐する体制ができました。清洲会議では、それまで織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた勝家の影響力が低下し、代わりに秀吉が重臣筆頭になるなど、勢力図が大きく塗り変えられました。

  • これで模擬天守と、再建された庭園などの紹介はお終いです。振り返って眺めた『大手門』の光景です。清洲城に関わる歴史的な出来事は、ほかのお城に対して全く遜色はありませんが、なぜか、日本百名城や続日本百名城に選定されていません。極めて残念なことですが、余りに立派な模擬天守が仇になったのかも知れません。

    これで模擬天守と、再建された庭園などの紹介はお終いです。振り返って眺めた『大手門』の光景です。清洲城に関わる歴史的な出来事は、ほかのお城に対して全く遜色はありませんが、なぜか、日本百名城や続日本百名城に選定されていません。極めて残念なことですが、余りに立派な模擬天守が仇になったのかも知れません。

  • 名前:『オオバン(大鷭)』<br />分類:ツル目クイナ科オオバン属<br />分布:アフリカ大陸、ユーラシア大陸を始め広く分布。日本各地で繁殖し、本州以南で越冬します。<br />その他:額の部分が赤いのがバン、こちらは白いオオバンです。

    名前:『オオバン(大鷭)』
    分類:ツル目クイナ科オオバン属
    分布:アフリカ大陸、ユーラシア大陸を始め広く分布。日本各地で繁殖し、本州以南で越冬します。
    その他:額の部分が赤いのがバン、こちらは白いオオバンです。

  • 名前:『マガモ(真鴨)』<br />分類:カモ目カモ科<br />分布:北半球の冷帯から温帯に広く分布。日本では、亜種マガモが冬鳥として北海道から南西諸島まで全国に渡来。<br />その他:アヒルの先祖はマガモとされます。写真は『アオクビ』と呼ばれる雄です。

    名前:『マガモ(真鴨)』
    分類:カモ目カモ科
    分布:北半球の冷帯から温帯に広く分布。日本では、亜種マガモが冬鳥として北海道から南西諸島まで全国に渡来。
    その他:アヒルの先祖はマガモとされます。写真は『アオクビ』と呼ばれる雄です。

  • 名前:『マガモ(真鴨)』<br />分類:カモ目カモ科<br />分布:北半球の冷帯から温帯に広く分布。日本では、亜種マガモが冬鳥として北海道から南西諸島まで全国に渡来。<br />その他:少しスピードを上げて泳ぎ去りました。

    名前:『マガモ(真鴨)』
    分類:カモ目カモ科
    分布:北半球の冷帯から温帯に広く分布。日本では、亜種マガモが冬鳥として北海道から南西諸島まで全国に渡来。
    その他:少しスピードを上げて泳ぎ去りました。

  • 名前:『マガモ(真鴨)』<br />分類:カモ目カモ科<br />分布:北半球の冷帯から温帯に広く分布。日本では、亜種マガモが冬鳥として北海道から南西諸島まで全国に渡来。<br />その他:左が雄、右が雌のようです。

    名前:『マガモ(真鴨)』
    分類:カモ目カモ科
    分布:北半球の冷帯から温帯に広く分布。日本では、亜種マガモが冬鳥として北海道から南西諸島まで全国に渡来。
    その他:左が雄、右が雌のようです。

  • 名前:『ヌートリア』<br />分類:ネズミ目ヌートリア科ヌートリア属の小型哺乳類。<br />分布:南アメリカ原産。<br />その他:別名は『沼狸』などです。日本には本来分布していなかった外来種です。

    名前:『ヌートリア』
    分類:ネズミ目ヌートリア科ヌートリア属の小型哺乳類。
    分布:南アメリカ原産。
    その他:別名は『沼狸』などです。日本には本来分布していなかった外来種です。

  • 名前:『ヌートリア』<br />分類:ネズミ目ヌートリア科ヌートリア属の小型哺乳類。<br />分布:南アメリカ原産。<br />その他:ヌートリアは、スペイン語で『カワウソ(の毛皮)』の意味です。

    名前:『ヌートリア』
    分類:ネズミ目ヌートリア科ヌートリア属の小型哺乳類。
    分布:南アメリカ原産。
    その他:ヌートリアは、スペイン語で『カワウソ(の毛皮)』の意味です。

  • 名前:『ヌートリア』<br />分類:ネズミ目ヌートリア科ヌートリア属の小型哺乳類<br />分布:南アメリカ原産。<br />その他:特定外来生物の指定第一次指定種です。

    名前:『ヌートリア』
    分類:ネズミ目ヌートリア科ヌートリア属の小型哺乳類
    分布:南アメリカ原産。
    その他:特定外来生物の指定第一次指定種です。

  • 五条川の改修工事の差に見つかった、清洲城時代の石垣です。背後の詰石も使って石垣が再現してあるようでした。石垣の最下部に木材が使用されているのは、軟弱な地盤でも耐えうるように工夫された松材を用いた『梯子胴木』と呼ばれる遺構です。石垣は野面積でした。

    イチオシ

    五条川の改修工事の差に見つかった、清洲城時代の石垣です。背後の詰石も使って石垣が再現してあるようでした。石垣の最下部に木材が使用されているのは、軟弱な地盤でも耐えうるように工夫された松材を用いた『梯子胴木』と呼ばれる遺構です。石垣は野面積でした。

  • 『清洲城の石垣』のタイトルがあった説明看板の光景です。発見された石垣は、平成8年(1996年)の河川事業に伴う遺跡調査で見付かったものと紹介されていました。見つかった場所は、五条川の右岸で、この場所より200メートルほどの下流とされ、清州越し直前の本丸南側と考えられています。

    『清洲城の石垣』のタイトルがあった説明看板の光景です。発見された石垣は、平成8年(1996年)の河川事業に伴う遺跡調査で見付かったものと紹介されていました。見つかった場所は、五条川の右岸で、この場所より200メートルほどの下流とされ、清州越し直前の本丸南側と考えられています。

  • 『清洲城周辺』のタイトルがあった観光案内図の光景です。現在地が、『大手橋』の右岸の袂付近に記されていました。先程の石垣の展示場所の近くでした。この地図では、本丸があった場所は、東海道線の西側の五条川右岸になります。この後紹介する逢左文庫の江戸時代に記された『清洲古城図』とも矛盾しない場所です。

    『清洲城周辺』のタイトルがあった観光案内図の光景です。現在地が、『大手橋』の右岸の袂付近に記されていました。先程の石垣の展示場所の近くでした。この地図では、本丸があった場所は、東海道線の西側の五条川右岸になります。この後紹介する逢左文庫の江戸時代に記された『清洲古城図』とも矛盾しない場所です。

  • 『清須の散策路』のタイトルがあった観光案内パネルの光景です。12箇所が写真入りで紹介されていました。最上段だけを紹介しますと、左上から、清洲城、清洲公園、あいち朝日遺跡ミュージアムと、日吉神社です。

    『清須の散策路』のタイトルがあった観光案内パネルの光景です。12箇所が写真入りで紹介されていました。最上段だけを紹介しますと、左上から、清洲城、清洲公園、あいち朝日遺跡ミュージアムと、日吉神社です。

  • 少し読み難くなっていましたが、『清洲古城趾』の文字が刻まれた石碑の光景です。織田信長以降の清洲城の歴代城主は次の通りです。(一部確認中)<br /> 一、織田信長:1555年(天文22年)~1563年(永禄6年)<br /> 二、織田信忠:1575年(天正3年)に信長から家督を譲られる<br /> 三、織田信雄:1585年(天正13年)~1590年(天正18年)<br /> 四、豊臣秀次:1591年(天正19年)~1595年(文禄4年):秀吉による死罪<br /> 五、福島正則:1595年(文禄4年)~1600年(慶長5年)?<br /> 六、松平忠吉:1600年(慶長5年)~1607年(慶長12年)<br /> 七、徳川義直:1607年(慶長12年)?~1609年(慶長14年)の清洲越しで廃城

    少し読み難くなっていましたが、『清洲古城趾』の文字が刻まれた石碑の光景です。織田信長以降の清洲城の歴代城主は次の通りです。(一部確認中)
     一、織田信長:1555年(天文22年)~1563年(永禄6年)
     二、織田信忠:1575年(天正3年)に信長から家督を譲られる
     三、織田信雄:1585年(天正13年)~1590年(天正18年)
     四、豊臣秀次:1591年(天正19年)~1595年(文禄4年):秀吉による死罪
     五、福島正則:1595年(文禄4年)~1600年(慶長5年)?
     六、松平忠吉:1600年(慶長5年)~1607年(慶長12年)
     七、徳川義直:1607年(慶長12年)?~1609年(慶長14年)の清洲越しで廃城

  • ここからは、名古屋市博物館の展示物からの紹介です。フラッシュや三脚を用いず、動画でなければ撮影OKです。ただし、一部の書画などには撮影禁止の表示があることを受付でお聞きしました。写真は、『7-4:清須』の展示タイトルの光景です。『応仁の乱(1467~1477年)以降、清須は次第に尾張支配の中心地となったことなどが記されていました。

    ここからは、名古屋市博物館の展示物からの紹介です。フラッシュや三脚を用いず、動画でなければ撮影OKです。ただし、一部の書画などには撮影禁止の表示があることを受付でお聞きしました。写真は、『7-4:清須』の展示タイトルの光景です。『応仁の乱(1467~1477年)以降、清須は次第に尾張支配の中心地となったことなどが記されていました。

  • 『豊臣秀吉朱印状(複製)』<br />原資料:秀吉清正記念館蔵<br />年代:天正18年(1590年)<br />その他:清須町に対する三箇条の掟です。

    『豊臣秀吉朱印状(複製)』
    原資料:秀吉清正記念館蔵
    年代:天正18年(1590年)
    その他:清須町に対する三箇条の掟です。

  • 『豊臣秀吉朱印状』のタイトルがあった説明パネルの光景です。秀吉が関東の後北条氏を滅ぼした後、帰路に立寄り清須町宛てに出された三箇条の掟です。織田信雄は、小田原征伐で戦功を上げましたが、戦後の論功賞で東海地方の家康旧領への移封命令を、父祖の地の尾張からの移動をいやがり拒否しました。これが秀吉の怒りを買い、改易されました。

    『豊臣秀吉朱印状』のタイトルがあった説明パネルの光景です。秀吉が関東の後北条氏を滅ぼした後、帰路に立寄り清須町宛てに出された三箇条の掟です。織田信雄は、小田原征伐で戦功を上げましたが、戦後の論功賞で東海地方の家康旧領への移封命令を、父祖の地の尾張からの移動をいやがり拒否しました。これが秀吉の怒りを買い、改易されました。

  • 『織田信雄朱印状』と、その解読と説明書きです。<br />原資料:稲沢市教育委員会所蔵<br />年代:天正17年(1589年)<br />その他:清須町奉行に対して出した、家屋敷の売買や他国者の宿泊等を規制する命令書です。

    『織田信雄朱印状』と、その解読と説明書きです。
    原資料:稲沢市教育委員会所蔵
    年代:天正17年(1589年)
    その他:清須町奉行に対して出した、家屋敷の売買や他国者の宿泊等を規制する命令書です。

  • 『菊・桐文・飾瓦』:館所蔵<br />出土:清須城跡<br />年代:安土・桃山時代

    『菊・桐文・飾瓦』:館所蔵
    出土:清須城跡
    年代:安土・桃山時代

  • 『鯱瓦(複製)』<br />出土:清須城跡<br />原資料:崇福寺蔵<br />年代・安土・桃山時代

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    『鯱瓦(複製)』
    出土:清須城跡
    原資料:崇福寺蔵
    年代・安土・桃山時代

  • 『清洲古城図(複製)』<br />原資料:逢左文庫所蔵<br />その他:『清須における河川跡の研究(愛知県埋蔵文化財研究センター・研究紀要第14号(2013年5月)』を参照しましたが、清州城付近での五条川の流路は、現在と比べて、ほとんど変化がないようでした。五条川は、清須川と記されています。図の中央の堀に囲まれた部分が清須城で、本丸の位置のほか、廃城後の畑地も記されていました。

    イチオシ

    『清洲古城図(複製)』
    原資料:逢左文庫所蔵
    その他:『清須における河川跡の研究(愛知県埋蔵文化財研究センター・研究紀要第14号(2013年5月)』を参照しましたが、清州城付近での五条川の流路は、現在と比べて、ほとんど変化がないようでした。五条川は、清須川と記されています。図の中央の堀に囲まれた部分が清須城で、本丸の位置のほか、廃城後の畑地も記されていました。

  • 『清洲古城図』のタイトルがあった説明パネルです。江戸時代に作成された絵図で、残されていた清須城の堀や土塁を基に描かれたと紹介されていました。また、近年の発掘調査により、この絵図の堀が正確に描かれていたことが判明したことも紹介されていました。

    『清洲古城図』のタイトルがあった説明パネルです。江戸時代に作成された絵図で、残されていた清須城の堀や土塁を基に描かれたと紹介されていました。また、近年の発掘調査により、この絵図の堀が正確に描かれていたことが判明したことも紹介されていました。

  • (左):『木瓜文・棟飾瓦(複製)』:個人蔵<br />年代等:安土・桃山時代<br /><br />(右):『木瓜文・鳥襖(複製)』:個人蔵<br />年代等:安土・桃山時代

    (左):『木瓜文・棟飾瓦(複製)』:個人蔵
    年代等:安土・桃山時代

    (右):『木瓜文・鳥襖(複製)』:個人蔵
    年代等:安土・桃山時代

  • 『清須越(きよすごし)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。慶長12年(1607年)に家康の四男の松平忠吉が没し、九男の徳川義直が、新しい清須城主なったことが尾張藩の始まりと紹介されていました。家康は白を清須から名古屋に移すことを決め、慶長15年(1610年)から名古屋城の築城が始まりました。清須の町ごと名古屋に引っ越しましたので、後に『清須越』と呼ばれ、語り継がれました。

    『清須越(きよすごし)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。慶長12年(1607年)に家康の四男の松平忠吉が没し、九男の徳川義直が、新しい清須城主なったことが尾張藩の始まりと紹介されていました。家康は白を清須から名古屋に移すことを決め、慶長15年(1610年)から名古屋城の築城が始まりました。清須の町ごと名古屋に引っ越しましたので、後に『清須越』と呼ばれ、語り継がれました。

  • 『松平忠吉画像(複製)』:原画:性高院所蔵<br />(名古屋市指定文化財)<br />『松平忠吉(ただよし:1580~1607年)』は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将で、大名。東条松平家第4代当主で尾張清洲藩主でした。江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の同母弟で、徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿にあたります。

    『松平忠吉画像(複製)』:原画:性高院所蔵
    (名古屋市指定文化財)
    『松平忠吉(ただよし:1580~1607年)』は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将で、大名。東条松平家第4代当主で尾張清洲藩主でした。江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の同母弟で、徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿にあたります。

  • 『松平忠吉画像』の説明パネルの光景です。関ヶ原の戦い後に尾張に入封されましたが、僅か7年、20代で亡くなりました。忠吉の遺骨の一部が尾張『大雄山正覚寺』と三河『稲荷山隣松寺』に送られ、それぞれの寺院にて墓石が建立されました。正覚寺は、『清州越』で名古屋城の南に位置する『南寺町』に移設され、この移設時に、寺号である正覚寺から院号である『性高院』に改称されました。

    『松平忠吉画像』の説明パネルの光景です。関ヶ原の戦い後に尾張に入封されましたが、僅か7年、20代で亡くなりました。忠吉の遺骨の一部が尾張『大雄山正覚寺』と三河『稲荷山隣松寺』に送られ、それぞれの寺院にて墓石が建立されました。正覚寺は、『清州越』で名古屋城の南に位置する『南寺町』に移設され、この移設時に、寺号である正覚寺から院号である『性高院』に改称されました。

  • (左):『丸瓦(複製)』:愛知県埋蔵文化センター蔵<br />年代等:安土・桃山時代、へら書きで『清□』の文字。<br /><br />(右):『軒丸瓦・三巴文(3点)』<br />年代等:安土・桃山時代

    (左):『丸瓦(複製)』:愛知県埋蔵文化センター蔵
    年代等:安土・桃山時代、へら書きで『清□』の文字。

    (右):『軒丸瓦・三巴文(3点)』
    年代等:安土・桃山時代

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