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信長所縁の清州城の紹介です。名古屋市博物館の展示品で紹介する、尾張・名古屋の歴史です。戦国時代に先駆ける荘園時代や、尾張の国統一の前後の状況も紹介します。

2021早春、信長所縁の清洲城(4/5):2月6日(4):名古屋市博物館所蔵品、荘園時代、尾張の統一、信長座像

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2021/02/06 - 2021/02/06

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旅行記グループ 2021編集、尾張の城巡り

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旅人のくまさん

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信長所縁の清州城の紹介です。名古屋市博物館の展示品で紹介する、尾張・名古屋の歴史です。戦国時代に先駆ける荘園時代や、尾張の国統一の前後の状況も紹介します。

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  • 『清洲城』関連の展示状況です。卓上に清洲城で出土した鯱瓦、飾瓦や木瓜文の棟飾瓦などが展示され、壁には江戸時代に作成された清洲城の『古城図』などが展示されていました。先に『清洲城』関連の展示を紹介しましたが、この後は荘園時代に戻って、時代を追って紹介します。

    イチオシ

    『清洲城』関連の展示状況です。卓上に清洲城で出土した鯱瓦、飾瓦や木瓜文の棟飾瓦などが展示され、壁には江戸時代に作成された清洲城の『古城図』などが展示されていました。先に『清洲城』関連の展示を紹介しましたが、この後は荘園時代に戻って、時代を追って紹介します。

  • 『6-1:荘園の世界』のタイトルがあった説明パネルの光景です。8世紀中頃に、律令制度の土地公有崩れると、中央の貴族や有力な寺院の私有地の『荘園』が各地に生まれました。尾張地区でも、摂関家や東大寺・醍醐寺の『荘園』ができ、国司が支配する『国衙領』とともに中世の基本的な土地単位となりました。南北朝時代には、地方の寺社にも所領が形成されました。

    『6-1:荘園の世界』のタイトルがあった説明パネルの光景です。8世紀中頃に、律令制度の土地公有崩れると、中央の貴族や有力な寺院の私有地の『荘園』が各地に生まれました。尾張地区でも、摂関家や東大寺・醍醐寺の『荘園』ができ、国司が支配する『国衙領』とともに中世の基本的な土地単位となりました。南北朝時代には、地方の寺社にも所領が形成されました。

  • 京都の醍醐寺の荘園の『安食荘(あじきしょう)』に関する古文書類の展示です。現在の名古屋市北区と春日井市の境界付近、庄内川と矢田川が合流する上流付近に位置しました。原資料は醍醐寺が所有している、上の資料が『官宣旨(康治2年:1142年)』、下の資料が『安食荘検注書(康治2年:1142年)』です。いずれも国の重要文化財です。

    京都の醍醐寺の荘園の『安食荘(あじきしょう)』に関する古文書類の展示です。現在の名古屋市北区と春日井市の境界付近、庄内川と矢田川が合流する上流付近に位置しました。原資料は醍醐寺が所有している、上の資料が『官宣旨(康治2年:1142年)』、下の資料が『安食荘検注書(康治2年:1142年)』です。いずれも国の重要文化財です。

  • 『足利義教画像(複製)』<br />年代:室町時代中期<br />所蔵:妙興寺蔵(重要文化財)<br />その他:禅宗寺院の保護に努めた、室町幕府の第6代将軍です。妙興寺が作成した、足利義教(1394~1441年)が40歳頃の画像です。一種の恐怖政治が敷いた人とも評価されています。

    『足利義教画像(複製)』
    年代:室町時代中期
    所蔵:妙興寺蔵(重要文化財)
    その他:禅宗寺院の保護に努めた、室町幕府の第6代将軍です。妙興寺が作成した、足利義教(1394~1441年)が40歳頃の画像です。一種の恐怖政治が敷いた人とも評価されています。

  • 『安食荘絵図』のタイトルがあった大きな図面の紹介です。隣接する『柏井荘』との境界も記されているようです。尾張国春部(かすがべ)郡の荘園です。和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)に載る同郡安食郷内に成立しました。荘域は庄内川・矢田川の合流点より上流域を主要部とし、現在の名古屋市北区、愛知県春日井市南西部、西春日井郡南東部一帯にあたります。1427年に春日部原をめぐって、等持院(現京都市北区)領柏井荘との境界紛争が起きています。

    『安食荘絵図』のタイトルがあった大きな図面の紹介です。隣接する『柏井荘』との境界も記されているようです。尾張国春部(かすがべ)郡の荘園です。和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)に載る同郡安食郷内に成立しました。荘域は庄内川・矢田川の合流点より上流域を主要部とし、現在の名古屋市北区、愛知県春日井市南西部、西春日井郡南東部一帯にあたります。1427年に春日部原をめぐって、等持院(現京都市北区)領柏井荘との境界紛争が起きています。

  • 『富田荘絵図(とみたのしょうえず)』のタイトルがあった大きな図面の紹介です。原図は、国の重要文化財に指定されています。尾張国海東郡(現:名古屋市中川区富田町、海部郡蟹江町、七宝町、大治町、甚目寺町辺り)の荘園です。『とだ』ともいい『戸田』とも書きます。11世紀後半に成立したと思われ、のち近衛家領になりました。

    『富田荘絵図(とみたのしょうえず)』のタイトルがあった大きな図面の紹介です。原図は、国の重要文化財に指定されています。尾張国海東郡(現:名古屋市中川区富田町、海部郡蟹江町、七宝町、大治町、甚目寺町辺り)の荘園です。『とだ』ともいい『戸田』とも書きます。11世紀後半に成立したと思われ、のち近衛家領になりました。

  • 『尾張の荘園』と題された地図の紹介です。『尾張』の範囲は、現在の名古屋市を中心に、その近隣や知多半島です。西の境が概ね伊勢国(三重県)、北の境界が概ね美濃国(岐阜県)、東の境界が概ね三河国(愛知県)です。濃尾平野の肥沃な地域や、古い寺社に関わる名前が多くありました。

    『尾張の荘園』と題された地図の紹介です。『尾張』の範囲は、現在の名古屋市を中心に、その近隣や知多半島です。西の境が概ね伊勢国(三重県)、北の境界が概ね美濃国(岐阜県)、東の境界が概ね三河国(愛知県)です。濃尾平野の肥沃な地域や、古い寺社に関わる名前が多くありました。

  • 『6-2:仏教と民間信仰』のタイトルがあった説明パネルの光景です。平安時代末から鎌倉時代にかけて、新しい仏教宗派が次々と生まれました。浄土宗系では、浄土宗・浄土真宗・時宗、禅宗系では臨済宗・曹洞宗、その他に法華宗などです。いずれも民衆の救済を唱える点で共通し、布教にも分かり易い方法がとられました。また、地蔵菩薩に対する信仰が民間に広まりました。

    『6-2:仏教と民間信仰』のタイトルがあった説明パネルの光景です。平安時代末から鎌倉時代にかけて、新しい仏教宗派が次々と生まれました。浄土宗系では、浄土宗・浄土真宗・時宗、禅宗系では臨済宗・曹洞宗、その他に法華宗などです。いずれも民衆の救済を唱える点で共通し、布教にも分かり易い方法がとられました。また、地蔵菩薩に対する信仰が民間に広まりました。

  • 『一遍上人立像(いっぺんしょうにんりゅうぞう):複製』<br />年代:江戸時代<br />原像:円福寺蔵<br />その他:「旅ごろも木の根かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき』とは、その生涯をかけて一生不住の旅から旅を続け全国に念仏を流布させた時宗宗祖・一遍上人(1239~1289年)の和歌です。

    イチオシ

    『一遍上人立像(いっぺんしょうにんりゅうぞう):複製』
    年代:江戸時代
    原像:円福寺蔵
    その他:「旅ごろも木の根かやの根いづくにか 身の捨られぬ処あるべき』とは、その生涯をかけて一生不住の旅から旅を続け全国に念仏を流布させた時宗宗祖・一遍上人(1239~1289年)の和歌です。

  • 『一遍聖絵(複製)』:国宝<br />年代:西安元年(1299年)<br />原本:清浄光寺所蔵<br />その他:甚目寺参詣の場面です。

    『一遍聖絵(複製)』:国宝
    年代:西安元年(1299年)
    原本:清浄光寺所蔵
    その他:甚目寺参詣の場面です。

  • 『一遍聖絵(複製)』:国宝<br />年代:西安元年(1299年)<br />原本:清浄光寺所蔵<br />その他:甚目寺参詣の場面の説明書きです。

    『一遍聖絵(複製)』:国宝
    年代:西安元年(1299年)
    原本:清浄光寺所蔵
    その他:甚目寺参詣の場面の説明書きです。

  • 周りの照明の映り込みが激しく、見づらい写真となりましたが、現在も『尾張の四観音』の一つとして今も信仰が篤い『甚目寺参詣図』です。他の三観音は、荒子観音(名古屋市中川区荒子町)、龍泉寺観音(名古屋市守山区竜泉寺)、と笠寺観音(名古屋市南区笠寺町)です。いずれのお寺も、開基から千数百年以上を経た古刹です。甚目寺には、一遍上人が京に上る途中に立寄りました。

    周りの照明の映り込みが激しく、見づらい写真となりましたが、現在も『尾張の四観音』の一つとして今も信仰が篤い『甚目寺参詣図』です。他の三観音は、荒子観音(名古屋市中川区荒子町)、龍泉寺観音(名古屋市守山区竜泉寺)、と笠寺観音(名古屋市南区笠寺町)です。いずれのお寺も、開基から千数百年以上を経た古刹です。甚目寺には、一遍上人が京に上る途中に立寄りました。

  • 『沙石(させき・しゃせき)集(写本)』<br />年代:鎌倉時代中期:17世紀の写本<br />著者:無住道暁(号は一円)<br />その他:仮名まじり文で書かれた仏教説話集、全十巻です。無住は、長母寺(ちょうぼじ)の住職でした。鎌倉の生まれとされます。

    『沙石(させき・しゃせき)集(写本)』
    年代:鎌倉時代中期:17世紀の写本
    著者:無住道暁(号は一円)
    その他:仮名まじり文で書かれた仏教説話集、全十巻です。無住は、長母寺(ちょうぼじ)の住職でした。鎌倉の生まれとされます。

  • 『無住和尚座像(複製)』<br />年代:鎌倉時代<br />原資料:長母寺蔵(重要文化財)<br />その他:無住和尚は、『日本・中国・インドの諸国に題材を求め、霊験談・高僧伝から、各地を遊歴した無住自身の見聞を元に書いた諸国の事情、庶民生活の実態、芸能の話、滑稽譚・笑話まで実に多様な内容を持つ。その通俗で軽妙な語り口は、『徒然草』をはじめ、後世の狂言・落語に多大な影響を与えた』(ウィキペディア)

    『無住和尚座像(複製)』
    年代:鎌倉時代
    原資料:長母寺蔵(重要文化財)
    その他:無住和尚は、『日本・中国・インドの諸国に題材を求め、霊験談・高僧伝から、各地を遊歴した無住自身の見聞を元に書いた諸国の事情、庶民生活の実態、芸能の話、滑稽譚・笑話まで実に多様な内容を持つ。その通俗で軽妙な語り口は、『徒然草』をはじめ、後世の狂言・落語に多大な影響を与えた』(ウィキペディア)

  • 『石造六地蔵菩薩(複製)』<br />年代:大永7年(1527年)<br />原資料:安栄寺蔵(名古屋市指定文化財)<br />その他:元々は、名古屋市北部の志賀公園の墓地にあったもののようです。

    『石造六地蔵菩薩(複製)』
    年代:大永7年(1527年)
    原資料:安栄寺蔵(名古屋市指定文化財)
    その他:元々は、名古屋市北部の志賀公園の墓地にあったもののようです。

  • 『地蔵菩薩立像(複製)』<br />年代:寛喜2年(1230年)<br />原資料:法蔵寺蔵(重要文化財)<br />その他:鎌倉時代(1185~1333年)に造られた地蔵菩薩像です。<br />

    『地蔵菩薩立像(複製)』
    年代:寛喜2年(1230年)
    原資料:法蔵寺蔵(重要文化財)
    その他:鎌倉時代(1185~1333年)に造られた地蔵菩薩像です。

  • 『地蔵菩薩立像(複製)』の説明パネル<br />年代:寛喜2年(1230年)<br />原資料:法蔵寺蔵(重要文化財)<br />その他:尾張違法に伝わる在銘鉄地蔵としては、最古のものと紹介されていました。

    『地蔵菩薩立像(複製)』の説明パネル
    年代:寛喜2年(1230年)
    原資料:法蔵寺蔵(重要文化財)
    その他:尾張違法に伝わる在銘鉄地蔵としては、最古のものと紹介されていました。

  • 『7-1:統一への動き』のタイトルがあった説明パネルの光景です。その後も織田氏の分裂は続き、清洲城を拠点とした織田氏が尾張の南部を、岩倉城の織田氏が北部を、分割して支配しました。16世紀中頃、清須方織田氏に仕える奉行の一人だった織田信秀は実力を蓄え、津島地方から熱田に進出し、統一への足がかりを築きました。信長の父に当たる人です。

    『7-1:統一への動き』のタイトルがあった説明パネルの光景です。その後も織田氏の分裂は続き、清洲城を拠点とした織田氏が尾張の南部を、岩倉城の織田氏が北部を、分割して支配しました。16世紀中頃、清須方織田氏に仕える奉行の一人だった織田信秀は実力を蓄え、津島地方から熱田に進出し、統一への足がかりを築きました。信長の父に当たる人です。

  • 『尾張の統一と信長・秀吉』のタイトルがあった説明パネルの光景です。<br />7-1:統一への動き<br />7-2:信長と秀吉<br />7-3:在地武士たち<br />7-4:清須<br />の四項目に分けて説明されていました。『7-4:清須』は先に紹介しましたので、それ以外の項目を順次紹介します。時代区分は、概ね織豊期になります。織田氏は守護代として尾張を支配していましたが、応仁の乱が始まると、東軍方と西軍方に分かれて争いました。

    『尾張の統一と信長・秀吉』のタイトルがあった説明パネルの光景です。
    7-1:統一への動き
    7-2:信長と秀吉
    7-3:在地武士たち
    7-4:清須
    の四項目に分けて説明されていました。『7-4:清須』は先に紹介しましたので、それ以外の項目を順次紹介します。時代区分は、概ね織豊期になります。織田氏は守護代として尾張を支配していましたが、応仁の乱が始まると、東軍方と西軍方に分かれて争いました。

  • 『織田敏定画像(複製)』<br />年代:室町時代<br />原資料:実成寺蔵<br />その他:織田敏定(としさだ:1452~1592年)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将で、尾張国下四郡の守護代です。室町幕府の管領斯波氏の家臣です。

    『織田敏定画像(複製)』
    年代:室町時代
    原資料:実成寺蔵
    その他:織田敏定(としさだ:1452~1592年)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将で、尾張国下四郡の守護代です。室町幕府の管領斯波氏の家臣です。

  • 『織田敏定画像』の上半身のズームアップ光景です。清洲織田氏(織田大和守家)の当主です。清洲三奉行の一家『織田弾正忠家』の織田信定(織田信長の祖父)の父とする系図もありますが、仮冒の可能性も指摘されていて、真偽は不明です。合戦中に矢が当たり、片目の姿です。<br /><br />

    『織田敏定画像』の上半身のズームアップ光景です。清洲織田氏(織田大和守家)の当主です。清洲三奉行の一家『織田弾正忠家』の織田信定(織田信長の祖父)の父とする系図もありますが、仮冒の可能性も指摘されていて、真偽は不明です。合戦中に矢が当たり、片目の姿です。

  • 『織田信秀判物(はんもつ):複製』<br />年代:天文8年(1539年)<br />所蔵:個人(加藤氏)<br />説明:商業活動によって手に入れた金銭、田畑などを徳政(売買・貸借関係の破棄)の対象としないことを熱田の有力な商人の加藤氏に保証した書き物です。

    『織田信秀判物(はんもつ):複製』
    年代:天文8年(1539年)
    所蔵:個人(加藤氏)
    説明:商業活動によって手に入れた金銭、田畑などを徳政(売買・貸借関係の破棄)の対象としないことを熱田の有力な商人の加藤氏に保証した書き物です。

  • 『織田信秀座像』<br />原資料:万松寺で保蔵、戦災で焼失<br />年代:16世紀<br />その他:信長の父です。

    『織田信秀座像』
    原資料:万松寺で保蔵、戦災で焼失
    年代:16世紀
    その他:信長の父です。

  • 『7-2:信長と秀吉』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。岩倉城を攻略し、尾張の統一をほぼ完成させた信長は、美濃攻略に着手しました。これ以後信長の目標は全国制覇に向かい、楽市楽座や交通路の整備などの新しい政策を打ち出していきます。信長の没後、秀吉がその後を継ぐ形となり、天下取りの道を進む。検地・刀狩などの政策を取り、主要な都市や金山・銀山を支配下におさめ、ほぼ全国統一をはたした。

    『7-2:信長と秀吉』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。岩倉城を攻略し、尾張の統一をほぼ完成させた信長は、美濃攻略に着手しました。これ以後信長の目標は全国制覇に向かい、楽市楽座や交通路の整備などの新しい政策を打ち出していきます。信長の没後、秀吉がその後を継ぐ形となり、天下取りの道を進む。検地・刀狩などの政策を取り、主要な都市や金山・銀山を支配下におさめ、ほぼ全国統一をはたした。

  • 『織田信長座像(複製)』<br />原資料:京都・総見院蔵<br />年代:天正11年(1583年)

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    『織田信長座像(複製)』
    原資料:京都・総見院蔵
    年代:天正11年(1583年)

  • 『織田信長座像(複製)』の説明文<br />原資料:総見院蔵<br />年代:天正11年(1583年)

    『織田信長座像(複製)』の説明文
    原資料:総見院蔵
    年代:天正11年(1583年)

  • 『織田信長座像(複製)』の説明文<br />原資料:京都・総見院蔵<br />年代:天正11年(1583年):信長死後1年<br />その他:秀吉が信長の菩提を弔うために建てた、京都・総見院に伝わる座像。

    『織田信長座像(複製)』の説明文
    原資料:京都・総見院蔵
    年代:天正11年(1583年):信長死後1年
    その他:秀吉が信長の菩提を弔うために建てた、京都・総見院に伝わる座像。

  • 『織田信長判物(はんもつ):複製』<br />年代:永禄9年(1566年)<br />原資料:名古屋市秀吉清正記念館蔵<br />その他:兼松正吉の一族の兼松弥四郎の領地を没収し、正吉に与えた時の証文です。麒麟の麟の文字を反転した花押です。

    『織田信長判物(はんもつ):複製』
    年代:永禄9年(1566年)
    原資料:名古屋市秀吉清正記念館蔵
    その他:兼松正吉の一族の兼松弥四郎の領地を没収し、正吉に与えた時の証文です。麒麟の麟の文字を反転した花押です。

  • 左のパネルに『長篠合戦』、右のパネルに『長篠合戦図屏風』のタイトルがありました。天正3年(1575年)、三河の国長篠城(現:新城市)を巡って、武田勝頼軍と、織田信長・徳川家康連合軍が戦った、歴史上有名な戦いです。『長篠合戦図屏風』は、後ほど紹介します。

    左のパネルに『長篠合戦』、右のパネルに『長篠合戦図屏風』のタイトルがありました。天正3年(1575年)、三河の国長篠城(現:新城市)を巡って、武田勝頼軍と、織田信長・徳川家康連合軍が戦った、歴史上有名な戦いです。『長篠合戦図屏風』は、後ほど紹介します。

  • 『愛知周辺の城跡と合戦場跡』のタイトルがあった図面の紹介です。主な合戦場を西側から抜き書きしますと、長島一向一揆、小牧山合戦場、桶狭間合戦場、長久手合戦場、三河一向一揆、長篠合戦場と三方ヶ原合戦場が記されていました。城跡も50箇所ほど記されていました。

    『愛知周辺の城跡と合戦場跡』のタイトルがあった図面の紹介です。主な合戦場を西側から抜き書きしますと、長島一向一揆、小牧山合戦場、桶狭間合戦場、長久手合戦場、三河一向一揆、長篠合戦場と三方ヶ原合戦場が記されていました。城跡も50箇所ほど記されていました。

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