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信長所縁の清洲城の紹介です。日本全土でも有数な弥生遺跡の『朝日遺跡』の見学の後、歩いて清洲城までやって来ました。『朝日遺跡』は別の紹介になりますが、『貝殻山貝塚』として知られた、縄文時代中期から弥生時代を経て、古墳時代以降に繋がる遺跡です。

2021早春、信長所縁の清洲城(1/5):朝日遺跡の次に清洲城、清洲城跡公園、信長・濃姫像

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2021/02/06 - 2021/02/06

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旅行記グループ 2021編集、尾張の城巡り

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旅人のくまさん

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信長所縁の清洲城の紹介です。日本全土でも有数な弥生遺跡の『朝日遺跡』の見学の後、歩いて清洲城までやって来ました。『朝日遺跡』は別の紹介になりますが、『貝殻山貝塚』として知られた、縄文時代中期から弥生時代を経て、古墳時代以降に繋がる遺跡です。

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  • 歩いても、20~30分の距離と下調べしていましたので、朝日遺跡の近くで昼食を済ませた後、方向と距離勘だけを頼りに清洲城の近くまでやって来ました。『川上神社』と『清州天満社』の表示があった地元の神社の鳥居光景です。まっすぐ伸びた参道の先に小さな社が見えていました。この後は、『川上神社』と呼ぶことにします。

    歩いても、20~30分の距離と下調べしていましたので、朝日遺跡の近くで昼食を済ませた後、方向と距離勘だけを頼りに清洲城の近くまでやって来ました。『川上神社』と『清州天満社』の表示があった地元の神社の鳥居光景です。まっすぐ伸びた参道の先に小さな社が見えていました。この後は、『川上神社』と呼ぶことにします。

  • 『川上神社』の石の鳥居の前に置かれていた、大きな石標の光景です。この後紹介する御由緒には、『創建年は明らかでないものの、承応3年(1654年)と伝わっている』と、紹介されていました。この巨石は、『幕末に川から引き揚げられたもので,清洲越しのときに名古屋に運ばれずに残された石垣の一部』であることが、ネット情報にありました。

    『川上神社』の石の鳥居の前に置かれていた、大きな石標の光景です。この後紹介する御由緒には、『創建年は明らかでないものの、承応3年(1654年)と伝わっている』と、紹介されていました。この巨石は、『幕末に川から引き揚げられたもので,清洲越しのときに名古屋に運ばれずに残された石垣の一部』であることが、ネット情報にありました。

  • 『川上神社』と『清洲天満社』の表示があった御由緒書きの光景です。御祭神は、『須佐之男命(すさのおのみこと)』であることも紹介されていました。昭和の初めまで行われていた花火祭は、『清洲天王祭』と呼ばれる、この神社の例祭とされます。7月の第二日曜と紹介されていました。

    『川上神社』と『清洲天満社』の表示があった御由緒書きの光景です。御祭神は、『須佐之男命(すさのおのみこと)』であることも紹介されていました。昭和の初めまで行われていた花火祭は、『清洲天王祭』と呼ばれる、この神社の例祭とされます。7月の第二日曜と紹介されていました。

  • 参道の先に見えていた『川上神社』の小さな社の光景です。この神社は、慶長17年(1612年)頃から元和2年(1616年)までの頃に行われた、『清洲越し(きよすごし)』と呼ばれる、名古屋城の築城に伴う清洲から名古屋への引っ越しの後に、この地に建てられた不思議な由緒を持つ神社です。

    参道の先に見えていた『川上神社』の小さな社の光景です。この神社は、慶長17年(1612年)頃から元和2年(1616年)までの頃に行われた、『清洲越し(きよすごし)』と呼ばれる、名古屋城の築城に伴う清洲から名古屋への引っ越しの後に、この地に建てられた不思議な由緒を持つ神社です。

  • 『川上神社』の小さな社のズームアップ光景です。清洲天王祭と言われた例祭は、津島天王祭と同じ日に行われ、当時の尾張藩内ではここだけに許された花火が打ち上げられ、『尾張名所図会』にも描かれています。神社の南東隅には、樹齢250年に及ぶとされるムクロジの大樹が聳えています。

    『川上神社』の小さな社のズームアップ光景です。清洲天王祭と言われた例祭は、津島天王祭と同じ日に行われ、当時の尾張藩内ではここだけに許された花火が打ち上げられ、『尾張名所図会』にも描かれています。神社の南東隅には、樹齢250年に及ぶとされるムクロジの大樹が聳えています。

  • 『川上神社』の狛犬の紹介です。拝殿に向かって右手に置かれた、阿形の姿の雄獅子です。『川上神社』が位置する場所は、かつての清州城の縄張り内と推測されるようです。その清洲城の美濃路側には、馬出しがあったらしいことから、その『馬出し跡』らしいとのネット情報もありました。

    『川上神社』の狛犬の紹介です。拝殿に向かって右手に置かれた、阿形の姿の雄獅子です。『川上神社』が位置する場所は、かつての清州城の縄張り内と推測されるようです。その清洲城の美濃路側には、馬出しがあったらしいことから、その『馬出し跡』らしいとのネット情報もありました。

  • 『川上神社』の狛犬のもう片方の紹介です。拝殿に向かって左手に置かれた、吽形の姿の雌獅子です。後ほど、逢左文庫所蔵(原図)の『清州城古図』を紹介しますが、これは、江戸時代まで残っていた土塁や堀などを基に作成された絵図と紹介されていました。現在の川上神社の位置は、五条川に沿って長く伸びた縄張の西南端辺りになるようでした。

    『川上神社』の狛犬のもう片方の紹介です。拝殿に向かって左手に置かれた、吽形の姿の雌獅子です。後ほど、逢左文庫所蔵(原図)の『清州城古図』を紹介しますが、これは、江戸時代まで残っていた土塁や堀などを基に作成された絵図と紹介されていました。現在の川上神社の位置は、五条川に沿って長く伸びた縄張の西南端辺りになるようでした。

  • 『御神鐙』の文字が刻まれた石標の光景です。『鐙(あぶみ)』は、乗馬の時に足を載せる馬具です。『燈(灯)』の代わりの文字として使われていました。ネット樹生法によれば、八幡八幡宮参道にも『御神鐙』の表示がされているようです。『鐙』の文字は、元来、金属製の『高杯(たかつき)』を表す漢字でしたが、『あぶみ』の意に借りられました。

    『御神鐙』の文字が刻まれた石標の光景です。『鐙(あぶみ)』は、乗馬の時に足を載せる馬具です。『燈(灯)』の代わりの文字として使われていました。ネット樹生法によれば、八幡八幡宮参道にも『御神鐙』の表示がされているようです。『鐙』の文字は、元来、金属製の『高杯(たかつき)』を表す漢字でしたが、『あぶみ』の意に借りられました。

  • 逆光の撮影で読み難いですが、『嘉永三年』の文字が刻まれていました。嘉永3年は1851年になります。嘉永年間は、弘化の後、安政の前で、1848年から1855年までの期間です。この時代の天皇は第121代の孝明天皇(1831~1867年)、江戸幕府将軍は第11代将軍の徳川家慶(いえよし:1793~1853年)~第13代将軍の徳川家定(1824~1758年)でした。

    逆光の撮影で読み難いですが、『嘉永三年』の文字が刻まれていました。嘉永3年は1851年になります。嘉永年間は、弘化の後、安政の前で、1848年から1855年までの期間です。この時代の天皇は第121代の孝明天皇(1831~1867年)、江戸幕府将軍は第11代将軍の徳川家慶(いえよし:1793~1853年)~第13代将軍の徳川家定(1824~1758年)でした。

  • 同じく、『御神鐙』の文字が刻まれた石標の側面の文字の紹介です。『神明町氏子中』の文字が読み取れました。江戸時代、これを寄進した人たちのグループのようです。ネット検索で知ったことですが、『川上神社』の現在の住所は『古城1丁目』、『清州古城跡』に隣接する場所でした。

    同じく、『御神鐙』の文字が刻まれた石標の側面の文字の紹介です。『神明町氏子中』の文字が読み取れました。江戸時代、これを寄進した人たちのグループのようです。ネット検索で知ったことですが、『川上神社』の現在の住所は『古城1丁目』、『清州古城跡』に隣接する場所でした。

  • 『川上神社』の近くから眺めた『清洲城』の天守光景です。かつての清洲城の縄張りを分断する、JR東海道線の線路が走っています。江戸時代の初期までは、尾張国の中心部に位置し、尾張国の守護所として栄えた場所です。京鎌倉往還と伊勢街道が合流し、中山道にも連絡する交通の要所でした。

    『川上神社』の近くから眺めた『清洲城』の天守光景です。かつての清洲城の縄張りを分断する、JR東海道線の線路が走っています。江戸時代の初期までは、尾張国の中心部に位置し、尾張国の守護所として栄えた場所です。京鎌倉往還と伊勢街道が合流し、中山道にも連絡する交通の要所でした。

  • 先程紹介した『川上神社』の場所は、ネット情報によれば、かつての清洲城の縄張り内だったようです。清洲公園に隣接した場所でした。清洲公園は、五条川を挟み清洲城の対岸に位置します。1922年(大正11年)に開園した公園です。その公園内にあった『清須市観光案内MAP』です。清洲城をはじめ、12箇所が写真入りで紹介されていました。

    先程紹介した『川上神社』の場所は、ネット情報によれば、かつての清洲城の縄張り内だったようです。清洲公園に隣接した場所でした。清洲公園は、五条川を挟み清洲城の対岸に位置します。1922年(大正11年)に開園した公園です。その公園内にあった『清須市観光案内MAP』です。清洲城をはじめ、12箇所が写真入りで紹介されていました。

  • 高い台座の上に建つ、織田信長公の武者姿の像です。視線の先は、これから向かおうとしている桶狭間を向いています。織田信長公26歳の1560年(永禄3年)、『桶狭間の戦い』に出陣する姿を模した銅像です。ところで、『清洲』、『清州』と『清須』の表示が混在しますが、古い時代から混用されてきたようです。現代にもその影響が残っていますので、このブログでも『清須』と『清洲』を混用しています。ただし、『清須市』は現在の正式名ですから、この表記とし、また、お城の表記は『清洲城』の表記を優先することとします。

    高い台座の上に建つ、織田信長公の武者姿の像です。視線の先は、これから向かおうとしている桶狭間を向いています。織田信長公26歳の1560年(永禄3年)、『桶狭間の戦い』に出陣する姿を模した銅像です。ところで、『清洲』、『清州』と『清須』の表示が混在しますが、古い時代から混用されてきたようです。現代にもその影響が残っていますので、このブログでも『清須』と『清洲』を混用しています。ただし、『清須市』は現在の正式名ですから、この表記とし、また、お城の表記は『清洲城』の表記を優先することとします。

  • 『桶狭間の戦い』を前にした、若き日の織田信長公像のズームアップ光景です。清洲公園では、毎年6月2日の命日に郷土の英傑を讃え、信長公を祠る小社の社前で『織田信長公顕彰祭」が行われています。<br /><br />

    イチオシ

    『桶狭間の戦い』を前にした、若き日の織田信長公像のズームアップ光景です。清洲公園では、毎年6月2日の命日に郷土の英傑を讃え、信長公を祠る小社の社前で『織田信長公顕彰祭」が行われています。

  • 台座にあった『織田信長公』の名前プレートの光景です。『清洲公園』は、『清洲村古城地図』(旧尾張藩文庫・名古屋市蓬左文庫蔵)により、清洲城本丸・天守台の地域(東西40間半・南北101間半)を包含する約5千坪(16,500平方メートル) を保存し、織田信長公顕彰を目的として、大正11年に開園されました。<br />

    台座にあった『織田信長公』の名前プレートの光景です。『清洲公園』は、『清洲村古城地図』(旧尾張藩文庫・名古屋市蓬左文庫蔵)により、清洲城本丸・天守台の地域(東西40間半・南北101間半)を包含する約5千坪(16,500平方メートル) を保存し、織田信長公顕彰を目的として、大正11年に開園されました。

  • 濃姫像のズームアップ光景です『濃姫』の呼び名は、広く知られた『絵本太閤記』や『武将感状記』で、濃姫として登場していることからこの名が有名になりました。これは美濃からきた姫、つまり『美濃姫』というのを省略して濃姫と呼んだとする説が有力なようです。また、江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』では『蝶/歸蝶(きちょう)』だったとされ、『武功夜話』では『胡蝶(こちょう)』と記されているようです。(ウィキペディア)

    イチオシ

    濃姫像のズームアップ光景です『濃姫』の呼び名は、広く知られた『絵本太閤記』や『武将感状記』で、濃姫として登場していることからこの名が有名になりました。これは美濃からきた姫、つまり『美濃姫』というのを省略して濃姫と呼んだとする説が有力なようです。また、江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』では『蝶/歸蝶(きちょう)』だったとされ、『武功夜話』では『胡蝶(こちょう)』と記されているようです。(ウィキペディア)

  • 台座にあった『濃姫之像』の銅板プレートの光景です。『美濃国諸旧記』では、天文17年(1548年)、斉藤道三が稲葉山城を子の義龍に譲って出家して、再び、道三と号して鷺山城に退きました。その翌年、この城から古渡城の信長のもとに嫁いだために、『鷺山殿(さぎやまどの)』と呼ばれていたと書かれていますが、これは当時の習慣に則したもので筋が通るとされます。(ウィキペディア)

    台座にあった『濃姫之像』の銅板プレートの光景です。『美濃国諸旧記』では、天文17年(1548年)、斉藤道三が稲葉山城を子の義龍に譲って出家して、再び、道三と号して鷺山城に退きました。その翌年、この城から古渡城の信長のもとに嫁いだために、『鷺山殿(さぎやまどの)』と呼ばれていたと書かれていますが、これは当時の習慣に則したもので筋が通るとされます。(ウィキペディア)

  • 『始まりの地~二人の愛と希望の丘~』のタイトルがあった、パワースポットの紹介の看板の光景です。桶狭間の戦いに向けて、信長公の天下統一への第一歩が記された場所です。信長公と清洲城の細かい年表が添えてありました。

    『始まりの地~二人の愛と希望の丘~』のタイトルがあった、パワースポットの紹介の看板の光景です。桶狭間の戦いに向けて、信長公の天下統一への第一歩が記された場所です。信長公と清洲城の細かい年表が添えてありました。

  • 『織田信長公桶狭間出陣之歌』のタイトルがあった石標の光景です。『人生50年』でも知られるこの歌を紹介します。幸若舞の演目の一つ、『敦盛(あつもり)』の一部分です。『人生50年 下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか』の揮毫が、愛知県知事だった桑原幹根氏(1895~1991年)の落款で刻まれていました。

    『織田信長公桶狭間出陣之歌』のタイトルがあった石標の光景です。『人生50年』でも知られるこの歌を紹介します。幸若舞の演目の一つ、『敦盛(あつもり)』の一部分です。『人生50年 下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか』の揮毫が、愛知県知事だった桑原幹根氏(1895~1991年)の落款で刻まれていました。

  • 信長公像と濃姫像の光景です。信長公は、桶狭間の戦い前夜、今川義元軍の尾張侵攻を聞き、清洲城の信長は、まず『敦盛』のこの一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したという、『信長公記』の伝記が残ります。

    信長公像と濃姫像の光景です。信長公は、桶狭間の戦い前夜、今川義元軍の尾張侵攻を聞き、清洲城の信長は、まず『敦盛』のこの一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したという、『信長公記』の伝記が残ります。

  • 『清洲公園の概要』のタイトルがあった説明パネルの光景です。細かな文字で、びっしりと記されていました。大正11年(1922年)の公園設立からの歴史などが紹介されていました。『清洲越し』に因む臼引歌も紹介されていました。『思いがけない名古屋が出来て 花の清洲は野となろう』という歌詞です。

    『清洲公園の概要』のタイトルがあった説明パネルの光景です。細かな文字で、びっしりと記されていました。大正11年(1922年)の公園設立からの歴史などが紹介されていました。『清洲越し』に因む臼引歌も紹介されていました。『思いがけない名古屋が出来て 花の清洲は野となろう』という歌詞です。

  • 撮影場所を変えて、もう一度、信長公・濃姫(歸蝶)像の紹介です。信長公の像が石柵に中にあり、濃姫(歸蝶)像が、その外にあるのは、制作年代が異なるためです。濃姫(歸蝶)像が、後に造られたようです。信長公の正室であったことは間違いないようですが、濃姫の詳しいことについては分かっていません。

    撮影場所を変えて、もう一度、信長公・濃姫(歸蝶)像の紹介です。信長公の像が石柵に中にあり、濃姫(歸蝶)像が、その外にあるのは、制作年代が異なるためです。濃姫(歸蝶)像が、後に造られたようです。信長公の正室であったことは間違いないようですが、濃姫の詳しいことについては分かっていません。

  • 平成17年(2005年)7月に、西枇杷島町、清洲町と新川町が合併して『清須市』となった時、旧町にあった、忠魂碑などの石碑がこの場所に集められたことが紹介されていました。平成21年(2009年)には、春日村も清須市に加わりました。

    平成17年(2005年)7月に、西枇杷島町、清洲町と新川町が合併して『清須市』となった時、旧町にあった、忠魂碑などの石碑がこの場所に集められたことが紹介されていました。平成21年(2009年)には、春日村も清須市に加わりました。

  • JR東海道線を背にして立ち並ぶ石碑群の光景です。明治時代以降の忠魂碑や、慰霊碑のようでした。明治時代には日清戦争(1894年:明治27年7月25日から1895年:明治28年4月17日)と、日露戦争(1904年:明治37年2月8日から1905年:明治38年9月5日)の二つの戦争が、現在の中国とロシアとの間で起きました。

    JR東海道線を背にして立ち並ぶ石碑群の光景です。明治時代以降の忠魂碑や、慰霊碑のようでした。明治時代には日清戦争(1894年:明治27年7月25日から1895年:明治28年4月17日)と、日露戦争(1904年:明治37年2月8日から1905年:明治38年9月5日)の二つの戦争が、現在の中国とロシアとの間で起きました。

  • 同じく、JR東海道線を背にして立ち並ぶ石碑群の光景です。日本の大正時代(元年:1912年~14年:1925年)には、第一次世界大戦(1914年:大正3年7月28日から1918年:大正7年11月11日)がヨーロッパを主戦場に、ドイツ・オーストリアを中心とした同盟国とイギリス・ロシア・フランスの三国協商の間で戦われました。人類が初めて経験した世界戦争でした。

    同じく、JR東海道線を背にして立ち並ぶ石碑群の光景です。日本の大正時代(元年:1912年~14年:1925年)には、第一次世界大戦(1914年:大正3年7月28日から1918年:大正7年11月11日)がヨーロッパを主戦場に、ドイツ・オーストリアを中心とした同盟国とイギリス・ロシア・フランスの三国協商の間で戦われました。人類が初めて経験した世界戦争でした。

  • 全数の石碑が並んだ光景です。左端のグループが、旧新川町から移設された『英霊之碑』、中央のグループが、旧枇杷島町から移設された『忠魂碑』、右端のグループが、旧春日村から移設された『忠魂碑』です。昭和の時代に起きた、『第二次大戦』に関する石碑もあるようです。

    全数の石碑が並んだ光景です。左端のグループが、旧新川町から移設された『英霊之碑』、中央のグループが、旧枇杷島町から移設された『忠魂碑』、右端のグループが、旧春日村から移設された『忠魂碑』です。昭和の時代に起きた、『第二次大戦』に関する石碑もあるようです。

  • すぐ近くですが、清洲城に向かう途中、振り返って眺めた清州公園と、右奥に並んだ石碑群の光景です。弘治元年(1555年)、那古屋城にあった織田信長は、清洲城を攻め織田信友を討ち、清洲城に入城し、尾張支配の本拠地としました。桶狭間の戦い(1560年)の5年前のことです。

    すぐ近くですが、清洲城に向かう途中、振り返って眺めた清州公園と、右奥に並んだ石碑群の光景です。弘治元年(1555年)、那古屋城にあった織田信長は、清洲城を攻め織田信友を討ち、清洲城に入城し、尾張支配の本拠地としました。桶狭間の戦い(1560年)の5年前のことです。

  • 五条川越しに見えてきた清洲城の天守光景です。清洲城は、室町時代応永12年(1405年)、尾張国の守護職だった斯波義重が、守護所だった『下津城(稲沢市)』の別郭として建てたのが清洲城の始まりとされます。(清洲城公式HP)

    五条川越しに見えてきた清洲城の天守光景です。清洲城は、室町時代応永12年(1405年)、尾張国の守護職だった斯波義重が、守護所だった『下津城(稲沢市)』の別郭として建てたのが清洲城の始まりとされます。(清洲城公式HP)

  • 五条川の手前からズームアップした模擬天守の光景です。清洲城は、尾張の英傑・織田信長公の天下取りの出発点であり、戦国の世を終結させ天下平定を目指す武将が重要拠点としていました。平成元年に現在の場所に『清洲城』として再建整備されました。金色に輝く鯱を屋根にいただく『清洲城天主閣』は、御殿の内部に「黒木書院」「芸能の間」を配した『芸能文化館』、五条川に架かる赤い『大手橋』とともに、清須市のシンボルとなっています。(清洲城公式HP)

    五条川の手前からズームアップした模擬天守の光景です。清洲城は、尾張の英傑・織田信長公の天下取りの出発点であり、戦国の世を終結させ天下平定を目指す武将が重要拠点としていました。平成元年に現在の場所に『清洲城』として再建整備されました。金色に輝く鯱を屋根にいただく『清洲城天主閣』は、御殿の内部に「黒木書院」「芸能の間」を配した『芸能文化館』、五条川に架かる赤い『大手橋』とともに、清須市のシンボルとなっています。(清洲城公式HP)

  • かつての清洲城の天守の位置は代わりました。現在の天守は、想像して造られた、鉄筋コンクリート製の模擬天守です。手前の橋は『大手橋』と呼ばれているようですが、資料に残されたものではないようです。『清洲越し』の際には、橋も名古屋に引っ越してしまったようです。

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    かつての清洲城の天守の位置は代わりました。現在の天守は、想像して造られた、鉄筋コンクリート製の模擬天守です。手前の橋は『大手橋』と呼ばれているようですが、資料に残されたものではないようです。『清洲越し』の際には、橋も名古屋に引っ越してしまったようです。

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