2020/01/26 - 2020/02/13
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この旅行記のスケジュール
2020/01/26
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徒歩での移動
コンドミニアム→史跡→コンドミニアム
この旅行記スケジュールを元に
全部で24箇所あるという史跡を巡る計画を立てて、計画を実施することができて満足感と成就感が得られています。残念ながら「第7史跡 ウルニウ」は工事中でサーフィンボードのある場所はフェンスで囲まれていました。「第21史跡 水田とアヒル池の跡」の場所にはどこを探してもサーフィンボードはありませんでした。
日本へ帰ってきて、旅行記を書きながら疑問に思ったことを調べて見ると、歴史を知らないで見ていたことが分かり、一層興味をもつようになりました。また、歴史に仮定はありませんが、「もし…ならば」と考えてしまうことがあり、感慨深い旅行記になりました。
ハワイの歴史は18世紀後半から急速に発展し、わずか200年に西欧史の2000年分が圧縮されているそうです。その点でもとても興味深い歴史だと思います。
この旅行記は第1史跡から第12史跡までを記しました。第13史跡から第24史跡までの続編も書く予定です。
いつか必ずまたホノルルへ行くことができる日が来ると思います。
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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第1史跡 ザ・ビーチズ・オブ・ワイキキ
史跡の番号はカピオラニ公園から始まっています。地球の○き方によります。 -
第1史跡 ザ・ビーチズ・オブ・ワイキキ
拡大するとザ・ビーチズ・オブ・ワイキキと書かれています。 -
第1史跡 ザ・ビーチズ・オブ・ワイキキ
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第1史跡 ザ・ビーチズ・オブ・ワイキキ
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第1史跡 ザ・ビーチズ・オブ・ワイキキ
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第1史跡 ザ・ビーチズ・オブ・ワイキキ
記念撮影 -
第1史跡 ザ・ビーチズ・オブ・ワイキキ
ここにはサーファー・オン・ザ・ウェイブ像があります。ホノルル市民文化芸術協会によって2003年に建てられました。 -
第1史跡 ザ・ビーチズ・オブ・ワイキキ
動きがある像です。 -
第1史跡 ザ・ビーチズ・オブ・ワイキキ
周りの様子 -
第1史跡 ザ・ビーチズ・オブ・ワイキキ
目の前には大きな木がありました。 -
第1史跡 ザ・ビーチズ・オブ・ワイキキ
サーファー・オン・ザ・ウェイブ像の後ろに回って撮りました。前はこんな景色です。 -
第2史跡 ワイキキ・ビーチ
かつてはコオラウ山脈(オアフ島 の東側あるいは風上側にある山脈。 楯状火山 が侵食されて残ったもので、オアフ島の面積の約3分の2を占め、島内最大規模の山地を形成している)からの小川が流れ込む河口だった場所だそうです。
夏にはいい波が立つため、王族たちはワイキキに住居を構え、サーフィンを楽しんでいたそうです。 -
第2史跡 ワイキキ・ビーチ
サーフィンボードは現在の形とあまり変わっていないように見えます。 -
第2史跡 ワイキキ・ビーチ
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第2史跡 ワイキキ・ビーチ
アザラシと波に乗る少年の像
2001年にワイキキ・ビーチがお色直しされた際に作られました。アザラシはハワイ固有のハワイアン・モンクシール。
カラカウア通りとカパフル通りの交差点にあります。 -
第2史跡 ワイキキ・ビーチ
とても可愛いアザラシです。少年と心を通わせているように見えます。
ハワイアン・モンクシールについて調べてみました。
~アザラシといえば、海に流氷が浮いているような寒い地域に棲んでいるというイメージが一般的にあるので、ハワイにアザラシがいるなんて意外に思う人もいるかもしれない。ハワイモンクアザラシは、熱帯のハワイに生息する珍しいアザラシで、世界でハワイ諸島にしか生息していないハワイ固有種である。~ -
第2史跡 ワイキキ・ビーチ
周りの様子 -
第2史跡 ワイキキ・ビーチ
「アザラシと波に乗る少年の像」が見えます。 -
第2史跡 ワイキキ・ビーチ
カラカウア通りに面していて人通りは多いです。 -
第3史跡 リリウオカラニ女王の邸宅跡
ハワイ最後の女王のリリウオカラニ女王の邸宅があった場所です。アラワイ運河の最終点近くにありました。 -
第3史跡 リリウオカラニ女王の邸宅跡
リリウオカラニ女王
~ハワイ王国第8代(最後)の国王であり、唯一の女王。在位は1891年1月29日 - 1893年1月17日。1891年1月29日、カラカウアが渡米先のサンフランシスコで亡くなり、兄カラカウアの後を継いで53歳で即位した。1862年にアメリカ人のジョン・オーウェン・ドミニスと結婚した。~ -
第3史跡 リリウオカラニ女王の邸宅跡
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第3史跡 リリウオカラニ女王の邸宅跡
記念撮影です。 -
第3史跡 リリウオカラニ女王の邸宅跡
とても静かな所でした。脇にはアラワイ運河があります。魚がいました。 -
第3史跡 リリウオカラニ女王の邸宅跡
見上げると大きな椰子の木があり、鳥の巣がありました。 -
第3史跡 リリウオカラニ女王の邸宅跡
ここがアラワイ運河の終点です。「ここで終わり」という感じで止めてあります。 -
第3史跡 リリウオカラニ女王の邸宅跡
アラワイブルーバードを渡って撮りました。白く見えているのが史跡のサーフィンボードです。 -
第4史跡 クヒオ・ビーチ
クヒオビーチはカラカウア通りに面した所にあり賑やかな所にサーフィンボードがありました。 -
第4史跡 クヒオ・ビーチ
クヒオ王子は1871年生まれで、カウアイ島最後の王カウムアリイの曾孫。ハワイ王朝7代目カラカウア王妃《カピオラニ女王》が伯母にあたるため、カラカウア王夫妻の養子となります。 -
第4史跡 クヒオ・ビーチ
カラカウア王の妹でありハワイ王朝最後の君主リリウオカラニ女王からは第一王位継承者に指名されていました。 -
第4史跡 クヒオ・ビーチ
しかし、1893年リリウオカラニ女王時代に起こったクーデターによりハワイ王国が崩壊。王子は、リリウオカラニの王座復活を画策し逮捕され、1年間政治犯として投獄されました。 -
第4史跡 クヒオ・ビーチ
その後、1902年米国下院議員に選出され、ハワイアンの政治家として初めてアメリカ議会に出席。ハワイ人の血を50パーセント以上引く人たちに20万エーカーの土地を与えるという「ハワイアンホームズ委員会法」(Hawaiian Homes Commission Act of 1921)を立案したり、またハワイを米国の州に昇格する案を作ったりしています。アメリカの領土となったハワイで生涯ハワイアン擁護のために尽くした彼は「庶民の王子」と呼ばれ、今も人々に愛されています。 -
第4史跡 クヒオ・ビーチ
観光客がサーフィンボードを読んでいました。 -
第4史跡 クヒオ・ビーチ
王子の銅像が建つクヒオ・ビーチパーク付近は、プアレイラニ(ハワイ語で「天国のレイの花」)と呼ばれた王子の大邸宅があった場所。彼は生前、所有する一部のビーチを一般公開しています。 -
第4史跡 クヒオ・ビーチ
また、彼が亡くなった後には、ワイキキの所有地すべてを市に寄贈し、1940年にクヒオ・ビーチパークが誕生しました。この銅像は、2002年1月に建立されました。 -
第4史跡 クヒオ・ビーチ
王子の誕生日である3月26日は、彼の誕生と功績をたたえてハワイ州が定める祝日です。 -
第4史跡 クヒオ・ビーチ
毎年3月26日前後にワイキキのカラカウア通りで「プリンス・クヒオ・デー・パレード」が開催されます。 -
第4史跡 クヒオ・ビーチ
記念撮影
彼が手にしているものは何?どなた知っていらっしゃいますか?
「ハワイアンホームズ委員会法」でしょうか? -
第5史跡 デューク・カハナモク像
デューク・カハナモクの生誕100年であった1990年に記念として建てられ、現在ではフォトスポットとして多くの観光客の集まる場所になっています。
ここには史跡のサーフィンボードはありません。デュークの背中にサーフィンボードがあります。海を背にして立っているのは不思議です。 -
第5史跡 デューク・カハナモク像
デューク・パオア・カハナモク(1890~1968)はハワイ初のオリンピック金メダリストであり、キリスト教宣教師によって迫害されていたサーフィンの復活に貢献しました。「近代サーフィンの父」と呼ばれたハワイの英雄です。 -
第5史跡 デューク・カハナモク像
デュークはダウンタウンで生まれ、ワイキキで育ちました。幼い頃から水泳やサーフィンが得意でした。十代の頃は、ワイキキビーチで旅行者にサーフィンを教えたり、ビーチの監視や救助をするビーチボーイでした。 -
第5史跡 デューク・カハナモク像
1911年、20歳の時に地元の競泳大会で世界記録を更新したことをきっかけに、翌年開催されたオリンピックのストックホルム大会ヘ出場。デュークは、100メートル自由形で金メダル、自由形で参加した800メートルリレーでも銀メダルを獲得しました。 -
第5史跡 デューク・カハナモク像
さらに、1920年アントワープ大会では、両競技ともに金メダル。1924年パリ大会では、100メートル自由形で銀メダルを獲得。その後、競泳界を引退したものの、1932年ロサンゼルス大会には水球の選手として出場し、銅メダルを獲得しています。
オリンピックで有名になると、ハンサムだったデュークは、ハリウッド俳優としても活躍。当時、まだ無声だったハリウッド映画約30本に出演しました。また、サーフィン普及のため、アメリカ本土、オーストラリアなど世界各地でサーフィンの妙技を披露し、「近代サーフィンの父」と呼ばれるようになりました。晩年は、ホノルル市郡の保安官を勤めながら、「ハワイのアロハ大使」(親善大使)として活躍しました。 -
第6史跡 カパエマフの魔法石
16世紀、タヒチからやってきたカパエマフ、カプニ、カハロア、キナヒという4人の祈祷師が、病に伏した人たちを治療するためにオアフ島を巡っていました。男女両性のエネルギーを持ち合わせるとても穏やかな治療のエネルギーが人々を癒し、安らぎを与え、その優れたパワーは、たちまち島中に響き渡ったと言われています。 -
第6史跡 カパエマフの魔法石
彼らは島中を旅した後、現在のモアナ・サーフライダー・ホテルのあたりに腰を落ち着け、家を構えたといいます。
やがて彼らがハワイを去る日が近づいて来ると、彼ら祈祷師の4人がハワイを去った後も、島民が治療のエネルギーを受け取れるようにと、パワーを封じ込めた巨石を安置することにしたのだそうです。 -
第6史跡 カパエマフの魔法石
ワイキキ地区の開発で石は何度も場所を移され、一時は行方不明になり、その後、著しく破損した状態で発見されました。
1980年に今の場所に安置されたました、何も知らない観光客が石に腰かけたり、タオルを干したりしていたので、1997年に柵を作って保護するようになったということです。 -
第7史跡 ウルニウ(カラカウア王の邸宅跡)
カラカウア王の邸宅があった場所。
残念ながら工事中でフェンスに囲まれて中は見えません。サーフィンボードは勿論ありませんでした。何ができるのかは分かりませんが、できあがった時が楽しみです。
カラカウア王はフラダンスやワルツを好み、よく邸宅でパーティーを開いたそうです。 -
第8史跡 カイウラニ王女の邸宅跡
カイウラニ王女は(1875年10月16日 - 1899年5月6日)はハワイ王国の王女。 1875年にカラカウア王の妹であるリケリケ王女を母に、スコットランド人アーチボルド・クレグホーン(リリウオカラニ女王の統治期間オアフ州知事)アーチボールド・スコット・クレッグホーンを父として生まれ、生後すぐにカラカウア家へ養女に出されました。カラカウア王はプリンセス・カイウラニのゴッド・ファーザー、そしてプリンセス・ルースが彼女のゴッド・マザーになりました。 -
第8史跡 カイウラニ王女の邸宅跡
スコットランド人の父親を持ち、美貌のプリンセスで国民的人気も高かったそうです。
カラカウア王が日本を訪れた時に王位継承者のカイウラニ王女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮依仁親王)との縁組の話がありましたが実現しませんでした。 -
第8史跡 カイウラニ王女の邸宅跡
プリンセス・ルースはプリンセス・カイウラニを大変可愛がり、ワイキキにある彼女の所有地の一部10エーカーの土地、「アイナハウ庭園」をプリンセス・カイウラニに与えました。そしてその敷地内に、プリンセス・カイウラニの父アーチボールド・スコット・クレッグホーンは、家族のために2階建ての家を建てました -
第8史跡 カイウラニ王女の邸宅跡
「アイナハウ」は英語で「ハウ・ツリーの土地」という意味で、シェラトン・プリンセス・カイウラニ・ホテルは、その土地の入り口付近に建っています。 -
第8史跡 カイウラニ王女の邸宅跡
1889年13歳から、カラカウア王の指示で父のクレグホーン同行でイギリスの女子寄宿学校に留学します。もともと美しい顔立ちだった彼女は、ヨーロッパ社交界の教養も身につけ、イギリスだけ でなく、フランスでも社交界の華になっていました。政変が続くハワイの事情から、彼女 の帰国は延び続けていましたが、ついにハワイ王朝そのものの崩壊のしらせが入ります。カラカウアは死去し、王の妹(カイウラニの叔母)のリリウオカラニから王位継承権第1位を指名されます。
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第8史跡 カイウラニ王女の邸宅跡
暫定政府が樹立宣言を行ったのは1893年1月17日ですが、カイウラニが事件の知らせを受けたのは1月31日。彼女は即断即決、イギリスを発って アメリカに向かったのです。このとき、ニューヨーク港では、事件を知った記者たちが、 「野蛮なハワイ人の娘」が嘆願にやってくるらしい、ということで待ち構えていました。 ところが、カイウラニの洗練された容姿と感動的なスピーチに、記者達は度肝を抜かれます。 ニューヨークのマスコミは一気にハワイ王朝の味方になったのです。
カイウラニから事情を聞いた大統領はその日のうちに、事情を正式に徹底調査する旨約束してくれたのです。 カイウラニ18歳のときのできごとです。 -
第8史跡 カイウラニ王女の邸宅跡
1897年11月、カイウラニは8年ぶりにハワイに帰国しました。ホノルル港は黒山の 出迎えです。演奏禁止となっていた「国歌」ハワイ・ポノイがカイウラニの前では何度 も 演奏されました。しかし1898年、米西戦争の影響で、太平洋防備を焦ったアメリカは、急遽ハワイ併合 を決意し、王政復古は成立しなかったのです。
1899年、友人の結婚式に出かけた際に風邪をこじらせ23歳で死去しました。 -
第9史跡 エムマ女王の邸宅跡
インターナショナル・マーケット・プレイス入り口にあるサーフィンボードです。カメハメハ4世の妃・エムマ女王の邸宅があった場所です。
女王は完璧なイギリス英語を話し、乗馬技術に優れ、すばらしい歌声の持ち主でピアニストやダンサーとしても一目置かれた才女だったそうです -
第9史跡 エムマ女王の邸宅跡
ハワイ王朝の中で最も華やかな生涯を送ったとされているエムマ女王です。 -
第9史跡 エムマ女王の邸宅跡
記念撮影 -
第9史跡 エムマ女王の邸宅跡
インターナショナル・マーケット・プレイスは夜もたくさんの人でにぎわっています。 -
第10史跡 モアナ・ホテル
ワイキキが現在のような観光地となる23年も前に現在と同じ場所で開業したモアナホテル( 1901年創業)。ワイキキビーチ一帯の土地を持っていたウォルター・ピーコックという人物が、自分の別荘地にリゾートホテルを建設したのがその歴史のスタートだそうです。 -
第10史跡 モアナ・ホテル
「モアナホテル/Moana Hotel」と名付けられたそのホテルは、現在も正面入口がある「ヒストリック・バニヤン・ウィング/Historic Banyan Wing」の建物のみだったそうです。
(海風がそよぐメインロビー。吹き抜けの天井から下がる豪華なシャンデリアです。) -
第10史跡 モアナ・ホテル
しかし経営がうまくいかず、数々のオーナーの手を渡り、ハワイがアメリカ合衆国の50番目の州になった1959年にシェラトンに買収されました。
シェラトン経営の元で大規模な改修工事が行われ、ヒストリック・バニヤン・ウィングの東側にダイヤモンドウイングが、西側にタワーウィングがそびえる現在の姿になったそうです。白い円柱、ゴールドに輝くクラシカルなエレベーターが印象的です。 -
第10史跡 モアナ・ホテル
2階にはモアナ サーフライダーの歴史が学べるヒストリカル・ルームもあり、こちらは誰でも自由に見学できます。 -
第10史跡 モアナ・ホテル
1935年から37年の間、ホテル中庭のバニヤンツリー(菩提樹)の下で、ラジオ番組「ハワイ・コールズ」の生放送がスタート。ワイキキビーチの波の音とハワイアンミュージックを世界750局を通して届け、世界中の人々が楽園ハワイへの憧れを募らせた人気番組でした。ハワイの中古レコード店などでは番組が収録された当時のレコードを今も見かけることができるようです。 -
第10史跡 モアナ・ホテル
アメリカ合衆国の歴史的建造物に登録されているそうです。宿泊者を対象にヒストリカルツアーが開催されています。
コロニアル様式のエレガントな佇まいから「ワイキキのファーストレディ」とたたえられているこのホテルに宿泊する機会が持てたらよいと思います。 -
第11史跡 アプアケハウ川とビーチボーイズ
かつてここにはアプアケハウ川があり、昔のハワイ人は海で泳いだあとに川で体の塩水を流したそうです。また多くのビーチボーイズたちが集う場所でもあったそうです。
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第11史跡 アプアケハウ川とビーチボーーズ
現在は、アウトリガー・ワイキキ・オン・ビーチのビーチサイドにあります。 -
第11史跡 アプアケハウ川とビーチボーーズ
ここにはかっては川が流れていたようです。 -
第11史跡 アプアケハウ川とビーチボーーズ
そこに少年たちが集まっていたという場所。 -
第11史跡 アプアケハウ川とビーチボーーズ
今はこのように様変わりしています。 -
第11史跡 アプアケハウ川とビーチボーーズ
アウトリガー・ワイキキ・オン・ビーチ -
第11史跡 アプアケハウ川とビーチボーーズ
よく見ないと見落としてしまいそうな場所にありました。 -
第12史跡 カメカメハ王の邸宅跡
ここは有名なカメハメハ王の邸宅があったところです。今はロイヤル・ハワイアンラグジュワリーリゾートが建っています。
カメハメハ1世(Kamehameha I、1758年 - 1819年、生年は諸説あり)はハワイ諸島を初めて統一して1810年にハワイ王国を建国し、初代国王となった人物です。カメハメハ大王の名でも親しまれています。 -
第12史跡 カメカメハ王の邸宅跡
「カ・メハメハ」はハワイ語で「孤独な人」、「静かな人」の意。なお、ハワイ語は文字を持たない言語であった関係で、古い文献などではハメハメハ (Hamehameha) と表記される例も見られる。 -
第12史跡 カメカメハ王の邸宅跡
ハワイ王朝の所有地であった「ヘルモア」に、マトソン社(アメリカ合衆国の太平洋上、特にハワイ州内外の海上輸送に携わる会社。1882年に創業して、現在はホノルルに本社がある)の創立者のウィリアム・マトソンによって、同社の「マロロ号」(同社所有の新豪華客船)の旅客宿泊施設として建てられ、1927年2月1日に開業した。 -
第12史跡 カメカメハ王の邸宅跡
ヘルモアとは、ハワイ語で「鶏が引っかいた跡」という意味で、16世紀頃にオアフ島を統治していたと言われる酋長カクヒヘヴァは、不思議な力を持つ鶏カアウヘレモアが引っかいたその地に1万本のヤシの木を植え、「ヘルモア」と名付けました。その時に植えたとされるヤシの木の子孫たちが、今でもロイヤル・ハワイアン・ホテルの周りや中庭で見られます。 -
第12史跡 カメカメハ王の邸宅跡
太平洋のピンク・パレス”と呼ばれ、数あるハワイのホテルの中でも独特な存在感を放つホテルです。その由来は、マトソンの親友夫妻がポルトガルへ旅行した際、リスボンの街にあるピンクの家を見て気に入り、自分たちの別荘をピンクに塗り替えました。それを見たマトソンの娘夫婦がその別荘の色に感激し、ホテルをピンク色に仕上げたという逸話が残っているそうです。 -
第12史跡 カメカメハ王の邸宅跡
ロイヤル ハワイアンの客室天井はほかのホテルに比べるとだいぶ高くなっているそうです。これは、狭い船のキャビンで数日間も過ごしたゲストに少しでも開放感を味わってもらうための配慮とのことです。 -
第12史跡 カメカメハ王の邸宅跡
ここのカフェでダイヤモンドヘッドを見ながら昨年アイスクリームを食べたことを思い出しました。さすがカメハメハ王の邸宅は一番ワイキキの眺めのよいところにあります。
~第13史跡へと続きます。~
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