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2020年7月20日(月)、城陽山背(やましろ)古道の後半。市辺(いちのべ)天満神社から丘陵下の山背古道に戻り、北に進む。青谷聖家族幼稚園の前から山際に回り込み、さらに北に上がり、道なりに東に方向を変えた辺りの道端に「建武役城氏館旧址」という碑が建っている(下の写真1)。<br /><br />この辺りは昔は中(なか)と云う村であったが、ここには中城と云う居館ないし陣屋があった。鎌倉時代に在地豪族により造られたもので、正安元年(1299年)に鎌倉幕府の京都の出先機関である六波羅探題が中城の悪党(在地豪族)を捕らえるよう山城・大和・伊賀の御家人に命令した記録がある。室町時代初期の建武年間(1334年から38年)に朝廷組織の太政官の官職である大外記であった城資茂(じょうすけもち)の居城となり、以後城氏が居館とした。現在はこの碑と地名以外に残るものはない。<br /><br />ここから北側の中ノ郷と云う地域を東に北に、ザクロ(下の写真2)やオニユリ(下の写真3)を見ながら進み、城陽特産で、この青谷地域でしか栽培されていない、大粒で果肉が柔らかく、まるで桃のような香りのする城州白の林(下の写真4)を過ぎると龍福寺がある。<br /><br />龍福寺は浄土宗のお寺で、山号は天沢山。1607年に曇誉(どんよ)が創建したのが始まりで、現在地に移転したのが1674年(延宝2年)と伝えられる。1690年に火災で焼失、奈良の東大寺から阿弥陀如来坐像を譲り受けご本尊とし、1837年に随誉が再建した。大正に入り、1923年に再び火災で焼失したが、翌年に再建され、現在に至る。<br /><br />山に向かった正面の階段を少し上がると、左手正面に本堂がある。1924年に再建されたもの。境内には難しい字を使っているが蚕の碑や江戸時代の宝箇印塔が建っている。かつてはこの地区は養蚕が盛んだったようだ。本堂の左手奥に豊川稲荷神社。大正時代の火災の後、二度と火災を起こさないようにという願いを込めて建てられた。<br /><br />正面の階段を上がったところ、本堂と反対側の墓地参道を少し上がると2つ小さな祠が並ぶ。手前の祠は歯痛地蔵尊が祀られている。左手で頬を抑える仕草の石造地蔵菩薩坐像で、そのお姿から歯痛で悩む人の身代りとされている。その奥は弘法大師。<br /><br />背後に山が迫っており、全体的に緑が濃い。時期が合わなかったが、春の桜が美しいそうだ。また、早春の梅、初夏の石楠花、秋のツワブキ、冬の葉ボタンも楽しめるそうだ。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4359548964115094&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />龍福寺の石段を下りて直ぐ、真っ直ぐに集落の方へは行かず右へ曲がって北へ辿ると、民家の脇の細い道を抜けた山際に中天満神社がある。旧中村の産土(うぶすな)神で、ご祭神は天満宮なので、当然菅原道真。中村は歴史の古い集落で、平安時代に編さんされた和名抄に、綴喜郡十郷の一つとしてその名が記されている。<br /><br />神社の創記・沿革は明らかでないが、社殿に残されている棟札で最も古いものが慶長11年(1606年)のもので、神社の成立はこれより早かったとも考えられる。江戸時代には、境内で雨乞いも行われ、1867年(慶応3年)のおかげ踊りを描いた絵馬が拝殿の正面の上に掲げられている。<br /><br />正面の立派な石灯籠に挟まれた石鳥居を抜けて石段を上がると境内に出る。境内には道真との縁のある牛の像があり、平成2年(1990年)の造営竣工記念の碑が建つ。階段の正面に立派な拝殿があり、割拝殿の通路の横には御輿や奉納された牛像、絵馬、古い瓦などが展示されている。拝殿から続く幣殿の階段を上ると本殿。檜皮葺の覆屋を持つ一間社流造で、正面の梁上の蛙股に古い様式を示す鳥獣の透彫が見られる。本殿の周りを回ることが出来、左側には蛭子神社、右側に須久称神社、正森社の末社がある。<br /><br />なかなか立派な神社だった。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4359556037447720&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />この神社周辺の丘陵端部および斜面や尾根上には、10基からなる古墳が存在して、黒土古墳群と呼ばれている。その中で最大のものが境内の北側にある1号墳で、直径約26m、高さ約5mの円墳。墳丘は丘陵の端を整形した盛り土で、埋葬部は南西方向に入口をもつ横穴式石室。城陽市域では最大規模で、6世紀後半頃に造られたものと考えられている。<br /><br />龍福寺、中天満神社を見て、山背古道を離れ、JR奈良線の山城青谷駅に向かって歩くと、途中に青谷梅工房がある。小学校で教師をされていた方が青谷梅林の里山の風景に魅せられて55歳で退職し、2011年にオープンした店。城州白などの梅の土産を購入できるほか、店内のテーブルで梅しらす丼や梅うどん、梅コロッケなどの食事や城州白ビールや梅ジュースを戴くことが出来る。我々は1個150円の梅ソフトクリームを食べる。酸っぱくて美味しかった。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4359563200780337&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />山城青谷駅の北側の踏切を渡ると城陽酒造。前にこの辺りを歩いた時にも書いたところ( https://4travel.jp/travelogue/11629598 )前は素通りしただけだったので、今回は直売所に寄って、日本酒と梅酒を購入した。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4359567707446553&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />以上

城陽 龍福寺・中天満神社(Ryufukuji Temple & Naka Tenman Shrine, Joyo, Kyoto, JP)

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2020/07/20 - 2020/07/20

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年7月20日(月)、城陽山背(やましろ)古道の後半。市辺(いちのべ)天満神社から丘陵下の山背古道に戻り、北に進む。青谷聖家族幼稚園の前から山際に回り込み、さらに北に上がり、道なりに東に方向を変えた辺りの道端に「建武役城氏館旧址」という碑が建っている(下の写真1)。

この辺りは昔は中(なか)と云う村であったが、ここには中城と云う居館ないし陣屋があった。鎌倉時代に在地豪族により造られたもので、正安元年(1299年)に鎌倉幕府の京都の出先機関である六波羅探題が中城の悪党(在地豪族)を捕らえるよう山城・大和・伊賀の御家人に命令した記録がある。室町時代初期の建武年間(1334年から38年)に朝廷組織の太政官の官職である大外記であった城資茂(じょうすけもち)の居城となり、以後城氏が居館とした。現在はこの碑と地名以外に残るものはない。

ここから北側の中ノ郷と云う地域を東に北に、ザクロ(下の写真2)やオニユリ(下の写真3)を見ながら進み、城陽特産で、この青谷地域でしか栽培されていない、大粒で果肉が柔らかく、まるで桃のような香りのする城州白の林(下の写真4)を過ぎると龍福寺がある。

龍福寺は浄土宗のお寺で、山号は天沢山。1607年に曇誉(どんよ)が創建したのが始まりで、現在地に移転したのが1674年(延宝2年)と伝えられる。1690年に火災で焼失、奈良の東大寺から阿弥陀如来坐像を譲り受けご本尊とし、1837年に随誉が再建した。大正に入り、1923年に再び火災で焼失したが、翌年に再建され、現在に至る。

山に向かった正面の階段を少し上がると、左手正面に本堂がある。1924年に再建されたもの。境内には難しい字を使っているが蚕の碑や江戸時代の宝箇印塔が建っている。かつてはこの地区は養蚕が盛んだったようだ。本堂の左手奥に豊川稲荷神社。大正時代の火災の後、二度と火災を起こさないようにという願いを込めて建てられた。

正面の階段を上がったところ、本堂と反対側の墓地参道を少し上がると2つ小さな祠が並ぶ。手前の祠は歯痛地蔵尊が祀られている。左手で頬を抑える仕草の石造地蔵菩薩坐像で、そのお姿から歯痛で悩む人の身代りとされている。その奥は弘法大師。

背後に山が迫っており、全体的に緑が濃い。時期が合わなかったが、春の桜が美しいそうだ。また、早春の梅、初夏の石楠花、秋のツワブキ、冬の葉ボタンも楽しめるそうだ。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4359548964115094&type=1&l=223fe1adec

龍福寺の石段を下りて直ぐ、真っ直ぐに集落の方へは行かず右へ曲がって北へ辿ると、民家の脇の細い道を抜けた山際に中天満神社がある。旧中村の産土(うぶすな)神で、ご祭神は天満宮なので、当然菅原道真。中村は歴史の古い集落で、平安時代に編さんされた和名抄に、綴喜郡十郷の一つとしてその名が記されている。

神社の創記・沿革は明らかでないが、社殿に残されている棟札で最も古いものが慶長11年(1606年)のもので、神社の成立はこれより早かったとも考えられる。江戸時代には、境内で雨乞いも行われ、1867年(慶応3年)のおかげ踊りを描いた絵馬が拝殿の正面の上に掲げられている。

正面の立派な石灯籠に挟まれた石鳥居を抜けて石段を上がると境内に出る。境内には道真との縁のある牛の像があり、平成2年(1990年)の造営竣工記念の碑が建つ。階段の正面に立派な拝殿があり、割拝殿の通路の横には御輿や奉納された牛像、絵馬、古い瓦などが展示されている。拝殿から続く幣殿の階段を上ると本殿。檜皮葺の覆屋を持つ一間社流造で、正面の梁上の蛙股に古い様式を示す鳥獣の透彫が見られる。本殿の周りを回ることが出来、左側には蛭子神社、右側に須久称神社、正森社の末社がある。

なかなか立派な神社だった。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4359556037447720&type=1&l=223fe1adec

この神社周辺の丘陵端部および斜面や尾根上には、10基からなる古墳が存在して、黒土古墳群と呼ばれている。その中で最大のものが境内の北側にある1号墳で、直径約26m、高さ約5mの円墳。墳丘は丘陵の端を整形した盛り土で、埋葬部は南西方向に入口をもつ横穴式石室。城陽市域では最大規模で、6世紀後半頃に造られたものと考えられている。

龍福寺、中天満神社を見て、山背古道を離れ、JR奈良線の山城青谷駅に向かって歩くと、途中に青谷梅工房がある。小学校で教師をされていた方が青谷梅林の里山の風景に魅せられて55歳で退職し、2011年にオープンした店。城州白などの梅の土産を購入できるほか、店内のテーブルで梅しらす丼や梅うどん、梅コロッケなどの食事や城州白ビールや梅ジュースを戴くことが出来る。我々は1個150円の梅ソフトクリームを食べる。酸っぱくて美味しかった。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4359563200780337&type=1&l=223fe1adec

山城青谷駅の北側の踏切を渡ると城陽酒造。前にこの辺りを歩いた時にも書いたところ( https://4travel.jp/travelogue/11629598 )前は素通りしただけだったので、今回は直売所に寄って、日本酒と梅酒を購入した。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4359567707446553&type=1&l=223fe1adec


以上

  • 写真1 建武役城氏館旧址の碑

    写真1 建武役城氏館旧址の碑

  • 写真2 ザクロ

    写真2 ザクロ

  • 写真3 オニユリ

    写真3 オニユリ

  • 写真4 中ノ郷のウメ

    写真4 中ノ郷のウメ

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