1991/01/20 - 1991/01/25
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itaruさん
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1月半ばにゼミが終われば、3月中旬の内定先の研修までの約50日間を旅に充てることができる。さて行き先は? 社会人になったら長期の旅はなかなかできない。学生最後の旅、卒業旅行は手軽には行けないところにしよう。と、旅の計画を練り始めたのですが、行き先として頭に浮かんでいたのはアフリカでした。「野生動物を観てみたい」というのと、「アフリカ」という言葉が、少しばかり冒険をイメージさせ、20代の私には魅力的に響いたのです。ただ、当時は日本からアフリカへの航空券は高く、パキスタン航空やエアインディアで24万円くらい。便数が限られる上、いろいろ微妙な航空会社でこの価格はつらい。と思っていると、「歩き方」の情報の中にロンドンなどではナイロビ往復のチケットが日本円で10万円以下で買えるとの記述が。それならば、欧州経由でのアフリカもありか。ロンドンでチケットを買うなら、ついでにスコットランド、ウェールズを観るのもいい。せっかくだから、アイルランドも寄っていくか、などと構想を膨らませた結果、ざっと英国2週間、アフリカ2週間、欧州3週間くらいかな、と大雑把な計画をたてました。欧州往復は当時も安定の安さだったアエロフロート(10万4000円)を手配したのでした。
旅の日程
1月20日 SU582 成田→モスクワ(トランジット泊)
1月21日 SU333 モスクワ→シャノン バスでリムリックへ
1月22日 リムリック→ダブリン
1月23日 ダブリン→スライゴ
1月24日 スライゴ→ロンドンデリー→ベルファスト
1月25日 ベルファスト→グラスゴー
1月26日 グラスゴー→スターリング→エジンバラ
1月27日 エジンバラ(夜行バス)→
1月28~30日 ロンドン
1月31日 ロンドン→カーディフ
2月1~2日 カーディフ&スウォンジー
2月3日 MS778、759 ロンドン→カイロ→ナイロビ
2月4~7日 ナイロビ
2月8~10日 マサイマラ(サファリ)
2月11日 ナイロビ
2月12日 KQ490 ナイロビ→ザンジバル
2月13~14日 ザンジバル
2月15日 KQ491 ザンジバル→モンバサ
2月16日 モンバサ
2月17日 KQ625 モンバサ→ナイロビ
2月18日 MS760、779 ナイロビ→カイロ→ロンドン
2月19日 ロンドン→カーディフ
2月20日 カーディフ→ロンドン
2月21日 ロンドン(夜行バス)→
2月22日 アムステルダム
2月23日 アムルテルダム→デンハーグ→デルフト→ロッテルダム
2月24日 ロッテルダム→アントワープ→ブルージュ
2月25日 ブルージュ
2月26日 ブルージュ→ブリュッセル→ルクセンブルク
2月27日 ルクセンブルク→ストラスブール→バーゼル
2月28日 バーゼル→ローザンヌ→モントルー
3月1日 モントルー→ジュネーブ
3月2日 ジュネーブ(夜行列車)→
3月3日 バルセロナ
3月4日 バルセロナ(夜行列車)→
3月5~6日 マドリード&セゴビア
3月7日 マドリード→トレド
3月8日 トレド→マドリード
3月9日 SU300、581 マドリード→モスクワ→成田
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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1991年は世界的に激動の年でした。前年の8月にイラクにクウェートに侵攻、湾岸危機が発生。戦争危機が叫ばれる中、卒業旅行に行けるのか? 中東は論外として、欧州とか大丈夫? 大学の友人の中にも卒業旅行を中止、または目的地をオーストラリアなど湾岸危機とは無縁そうな地に変更したり、国内旅行に変更したりと、様々な動きがあったものです。その中で出発直前の1月17日にはアメリカ軍が空爆を開始、一気に戦争へと世界の動きは加速。位置的には離れているとはいえ、少しばかり不安を抱えつつの卒業旅行でした
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成田からモスクワへのアエロフロートはガラガラ。席は半分も埋まっていなかったように覚えています。モスクワでのトランジットは2度目。この年はトランジットホテルが改修中だったのか、バスでモスクワ郊外?に移動してアパート?のようなところに宿泊でした。ひどかった!食事が、そこそこ食べられるものになっていたのが印象に残っています。まあ、女子専用になっているはずの棟の部屋を割り振られ、右往左往したのはソ連らしいといえば、ソ連らしい経験でしたけど
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当時のアエロフロートが就航していたのアイルランドの都市はダブリンではなく、シャノン。しかも、この便はシャノン経由のキューバ・ハバナ行き。モスクワからの搭乗者でシャノンで降りたのはわずか2人だけ。なので入国審査もあっさり。バスでリマリックの街へ向かい、YHに荷物を置いたら街歩き開始です
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この頃はアイルランドに関する手頃なガイドはなし。リムリックが観光の起点ともなるモハーの断崖などの情報があれば寄ったのに。日本で手に入れた薄いパンフレットと観光案内所でもらった地図を元にシャノン川沿いをそぞろ歩き
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陽が落ちるのが早い1月のヨーロッパ。あっという間に陽が傾く。となると、フィルムカメラなので注意しないと写真がブレブレになってしまう。というわけで、ピンボケ写真は13世紀、ジョン王の城。中世の城は当時、博物館へ改装途中だった
ジョン王の城 城・宮殿
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アイルランド5大都市の一つといっても、人口は10万にも満たない静かな街。オフシーズンということもあって、YHに泊まっているのも2人だけと寂しいもの。なので夜は初パブでビールを1杯。旅の始まりを実感したものです
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パブでビールを飲んでいい気持ちになって寝坊したからという訳ではないけれど、翌朝もたもたしていたら乗るつもりでいた8時45分のダブリン行きのバスに乗り遅れてしまった。仕方ない、もう少しリムリックの街を散策しましょう。94mとアイルランドで最も高い尖塔を持つ聖ジョンズ大聖堂や
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かつては全長3マイルあったというリムリックのシティウオール。朽ちた城壁という感じが渋い。ついでに博物館も寄ったりと観光していたら
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気づけば次のバスの出発時間、少しゆっくりしすぎた。危うくバスを逃すところだったけど、何とか滑り込んだ。ダブリンまでは確か4時間ほどの旅でした
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ということでアイルランドの首都ダブリン到着は昼過ぎのいい時間。予定では1泊しかしないので、さっさと荷物をYHに置いて街を歩きましょう。とりあえずオコンネル通りから
オコンネル通り 散歩・街歩き
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ダブリンの中心街を散策します
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オフシーズンの1月ということもあって街中に観光客はほとんどいません
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アイルランドの守護聖人、聖パトリックの名を冠した聖パトリック大聖堂。子供の頃に読んだ「ガリバー旅行記」の作者、ジョナサン・スウィフトが司祭を務め、墓もあるダブリン最古の教会
聖パトリック大聖堂 寺院・教会
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せっかくなので大聖堂をバックに記念の1枚を撮ろうと思って、通りすがりの現地の人に「写真を撮って」と頼んだら…、全くどこの写真なのか分からないものになってしまった
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夕暮れ迫る中、聖パトリック大聖堂からダブリン城へ。10世紀のバイキングの砦を元に築かれた城とはいえ、現存する建物は18,19世紀のもの。ガイドツアーでしか見学できないし、時間も時間なのでここは外観だけ
ダブリン城 城・宮殿
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リフィ川沿いに佇むフォーコーツ。フィルム写真にしてはいい感じで撮れた
フォーコーツ 建造物
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途中、旅行代理店にも寄ってアフリカ行きチケットの料金をチェック。思ったよりも高そう、とは思ったもののロンドンに行けばもう少し安くなるだろうと期待してダブリンの街歩きを終えたのでした
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アイルランド3日目の23日はダブリンから北西の田舎町スライゴへ。一気に北アイルランドのベルファーストに向かうのも一つだけど、アイルランドならではの牧歌的な景色を見るのも面白い。ダブリンを8時45分のバスで出て、途中Longfordで乗り換えて4時間ほど。詩人イエーツゆかりの地として知られる古い街に到着です
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スライゴに着いたものの、イエーツゆかりの地ということのほか、あまり予備知識がない。さてどう動くか、とりあえず観光案内所に行こう。インフォの親切なお姉さんに地図をもらい、見所を聞いてから歩き出します。Sligo Abbeyはこの街で最も古い建物。創建は1252年とのことだけど、火災や戦乱を経た今は往時の繁栄を伝える移籍という感じ
スライゴー修道院 寺院・教会
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インフォでは中を見学したいなら、「ここに頼めば鍵を開けてもらえるよ」と修道院の鍵の管理者を教えたもらったのだけれども、外からでも内部の様子はだいたいうかがえる。わざわざ鍵を借りるほどでもないか
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ところでイエーツゆかりの地、といっても実のところイエーツについてはほとんど知識なし。とりあえずアイルランドの有名な詩人でノーベル賞を受賞したことくらい。とりあえず記念館には立ち寄ったものの、こんなものって感じで正直なところあまり印象には残ってなかったりする(写真はスライゴの自治区の庁舎)
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軽く街中を歩いたら、案内所で薦められたカアロウモア遺跡を観に郊外へ。ゆったり歩く羊たち、長閑だなあ
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紀元前3000年以上前のものとされる遺跡ですが、正直なところ微妙です。石組みの痕跡は分かるものの、観て面白いというにはちょっと厳しい。夏の間はビジターセンターがオープンしているので、状況は違うのだろうけど、閑散とした冬は寂しい限り。考古学的には貴重なものなのだろうけど、ある程度予備知識がないと……。とりあえず遺跡で記念の1枚のはずが、セットしたカメラの位置が良くなかったようで
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情報不足のままやってきたスライゴ。牧歌的で思いのほか居心地がよさそう
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駆け足でアイルランドを巡ったらバスで英国の北アイルランドに向かいます。一応、国際バスではあるけれど、地元の学生(高校生くらい?)の通学にも使われているくらいで、ローカル色満載の鈍行バス。途中でドライバーが交代し、乗客もどんどん入れ替わっていく。このバス、本当にロンドンデリーまで行くの?
(写真はスライゴから自宅宛に出したポストカード) -
とはいえ、国境が近づくにつれ緊張感が高まってくる。下火になっていたとはいえ、北アイルランドの帰属を巡って時には暴力事件も起きていた時代。実際、国境では兵士による検問も行われていた。ただ、想像していたような物々しいものではなく、何となく拍子抜けという感じでロンドンデリーへ
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と思っていたら、「IRA」の文字が……。やっぱりここは紛争地帯なんだと再確認
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1972年、ロンドンデリーでは「血の日曜日事件」という悲惨な出来事がありました。90年代初め、観光客が巻き込まれることはまずない、とは言われていたものの、西欧の中では異例ともいえるテロなどの危険がある場所と思われていた場所でした。ロンドンデリーの観光時間は短時間にとどめ、さっさとベルファスト移動しよう。フォイル川沿いのバスターミナルでバスを降り、サクッと街歩きを始めます
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ただ重い荷物を持ったまま思いのほか、アップダウンのある街を歩くのは厳しい。ベルファーストへは鉄道で移動するつもりだったので、列車の時刻を確認するついでに手荷物預かりか、コインロッカーでもないかとデリー駅へ。でも、考えれば分かることだけど、爆弾テロとかの可能性があるわけだから、そんなものありません。なのに駅員に「ロッカーとかないですか」と脳天気に聞いてしまう。普通なら「ないよ」の一言で終わってしまうところだけど、親切にも「いいよ、ここで預かってあげるよ」との優しい言葉。本来預かっちゃダメなんでしょうけど、臨機応変ね対応をしてくれた駅員さんに感謝です
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身軽になってロンドンデリーの街を歩きます。聖コロンバ大聖堂は宗教改革以降にアイルランドで初めてできたプロテスタントの教会です。街の中心ともいえる場所にプロテスタントの大聖堂があるというのは、北アイルランドの様々な問題を表しているような気がします。が、当時のガイドブックにはロンドンデリーの記述は非常にあっさりしたもの。なので、「立派な大聖堂で見応えがある」以上には深く考えたりはしませんでした
聖コロンバ大聖堂 寺院・教会
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こちらは教会で売られていたポストカード
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さてロンドンデリーはアイルランドで唯一城壁が残る街。何度も攻撃を受けたものの、一度も破られたことはないんだとか
城壁 史跡・遺跡
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それだけに街は想像していた以上に趣がある。紛争の影響もあってか、観光客もほとんどやってこないから、自分のペースで街歩きができた
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情報が少ないので、城壁からはあまり離れず
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現在は市庁舎として使われているギルドホールなどを観ただけ
ギルドホール 寺院・教会
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それでも歴史を感じさせる街並み。テロの心配がなければゆっくり滞在するのもいいなあと思わせる場所でした
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2時間ほどの街歩きを終え、列車でベルファストを目指します。写真は海沿いを走る列車の車窓からの眺め。今考えると、ポートラッシュで降りて、ジャイアントコーズウェイに寄れば良かったのだけれど、情報不足でそこまで頭が回らなかった
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北アイルランド最大の街、ベルファスト。ここのYHでは旅に出てから初めて日本人に旅行者に遭遇。メジャーな国ではないとはいえ、アイルランド本土ではなく北アイルランドで、っていうのも面白いなと思ったら、この人1989年11月から旅を続けているとのこと。途中、アルバイトして旅の資金を稼ぎつつ、世界一周を目指しているんだとか。この後のケニアでも出会ったけれど、当時は1年以上旅している人も意外と多かった気がする。まあ、それはともかく、午後にはスコットランドを目指して移動するので午前中はベルファストの街歩きです
アルバート 時計塔 建造物
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この頃のベルファスト、街中には防弾チョッキにライフル?、完全武装の兵士が警備にあたっていました。89年の夏にこの街を訪れた友人は夜間の到着で、兵士が巡回する姿に肝を冷やしたそうです。その時は「夜にうろつくと危ないから」と、英軍の装甲車でYHまで送り届けてもらったんだそうで、今度はYHの関係者が「一体どうしたの」と驚いていたとのこと。その頃に比べれば、情勢も安定してはいたんでしょうが、湾岸戦争もあってシティホール周辺など中心部の警戒感はそれなりに高い。そこら中に兵がいるというわけではないけれど、日本では目にすることのない光景に緊張感が増したものです
シティホール (ベルファスト) 建造物
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今では曲がりなりにも落ち着きを取り戻したという北アイルランド。次に訪れるときには変な緊張することなく、町歩きを楽しみたい
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さて、北アイルランドを離れて次は英国本土のスコットランドへ向かいます。1992年に閉鎖されたヨークロード駅から港まで移動し、そこからェリー&鉄道でグラスゴーまで。通しのチケット代は一般35ポンドのところ、学割?で30ポンドでした
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