1991/02/03 - 1991/02/18
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itaruさん
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アイルランド、英国の4地域を巡ったら湾岸戦争渦中のエジプト航空に乗ってケニアへ。東アフリカの玄関口、ナイロビには日本人の長期旅行者が集まる場所。日本人宿には、ひと味違った旅人たちが集う。喧噪に包まれた首都には多くの人々が集まり、不思議な熱気を帯びている。初めてのアフリカの大地、少しの緊張とともに第一歩を踏み出します
旅の日程
1月20日 SU582 成田→モスクワ(トランジット泊)
1月21日 SU333 モスクワ→シャノン バスでリムリックへ
1月22日 リムリック→ダブリン
1月23日 ダブリン→スライゴ
1月24日 スライゴ→ロンドンデリー→ベルファスト
1月25日 ベルファスト→グラスゴー
1月26日 グラスゴー→スターリング→エジンバラ
1月27日 エジンバラ(夜行バス)→
1月28~30日 ロンドン
1月31日 ロンドン→カーディフ
2月1~2日 カーディフ&スウォンジー
2月3日 MS778、759 ロンドン→カイロ→ナイロビ
2月4~7日 ナイロビ
2月8~10日 マサイマラ(サファリ)
2月11日 ナイロビ
2月12日 KQ490 ナイロビ→ザンジバル
2月13~14日 ザンジバル
2月15日 KQ491 ザンジバル→モンバサ
2月16日 モンバサ
2月17日 KQ625 モンバサ→ナイロビ
2月18日 MS760、779 ナイロビ→カイロ→ロンドン
2月19日 ロンドン→カーディフ
2月20日 カーディフ→ロンドン
2月21日 ロンドン(夜行バス)→
2月22日 アムステルダム
2月23日 アムルテルダム→デンハーグ→デルフト→ロッテルダム
2月24日 ロッテルダム→アントワープ→ブルージュ
2月25日 ブルージュ
2月26日 ブルージュ→ブリュッセル→ルクセンブルク
2月27日 ルクセンブルク→ストラスブール→バーゼル
2月28日 バーゼル→ローザンヌ→モントルー
3月1日 モントルー→ジュネーブ
3月2日 ジュネーブ(夜行列車)→
3月3日 バルセロナ
3月4日 バルセロナ(夜行列車)→
3月5~6日 マドリード&セゴビア
3月7日 マドリード→トレド
3月8日 トレド→マドリード
3月9日 SU300、581 マドリード→モスクワ→成田
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩 飛行機
- 航空会社
- エジプト航空 アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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カーディフからヒースローまでは直通バス。そして乗り込んだエジプト航空のカイロ便はびっくりするほど乗客がいなかった。機材はワイドボディー、エアバスのA300なんですが、エコノミークラスには数えるぐらいしか乗客がいない。東京からモスクワのアエロフロートもガラガラだったけれど、それはナローボディーのイリューシン。比較にならないほどの搭乗率の低さ。20~30人くらいしか乗っていなかったのでは? 湾岸戦争の影響は大きかった。私も実家に電話したときは、「旅を早めに切り上げて帰ってこい」と言われました。おかげで横になって寝られたのは良かったのですが
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ヒースローでも、乗り継ぎのカイロでもセキュリティーチェックは厳重でした。そのためか、エジプト航空だからか、は微妙なところですが、ともに出発は1時間半ほど遅れました。何かあったらシャレにならないので、厳重な検査は当然のこと。カイロで長い乗り継ぎ時間はあったものの、順調に飛行機は飛んでアフリカの大地へ
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ケニアのVISAはページ数の少なかった当時のパスポートを増補して日本であらかじめ取得済み。VISA代は2400円でした。初のアフリカということで、VISA以外にも感染症対策で黄熱病(タンザニアはイエローカード必須)、破傷風、コレラのワクチンを接種したほか、A型肝炎対策で免疫グロブリン(当時はワクチンがなかった)を接種といくつも注射をしたものです
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空港からは市内まではカイロで知り合った日本人夫婦の旅行者とともに路線バスで。料金は6.5ケニアシリング(約35円)と格安でしたが、なかなかの混雑(カオス)ぶり。普通に当時の歩き方に市内からの足として紹介されていたんですが、後で聞いてみるといろいろ旅行者が被害にあっているようで、現地に長く滞在している旅人たちには「路線バスで来たの?」と驚かれた。スリ、強盗etc……。長期旅行者も荷物が多い、空港などへの移動には路線バスは避けるとのこと。ナイロビの治安って! 今では南アのヨハネスブルク、ナイジェリアのラゴスと並んで治安の悪さで有名なナイロビですが、当時はそこまで危険という情報はありませんでした。気を引き締めなければ、と思ったものです
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治安とともに気になったのは急激な気温の変化。何しろ、真冬の英国から高原(標高約1800m)とはいえ、ほぼ赤道直下のナイロビへ移動したわけです。体調を崩さないように気をつけなければ。ただでさえ、日本にはない感染症のオンパレードという国です。予防接種はしているものの、単純な食あたりもあるでしょう。抗原のナイロビでは、それほど気にしなくてもいいけれど、サファリなどに行ったときのためにマラリアの予防薬も買わなければ
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そんなことを考えながら、まずは宿探しです。最初は当時の歩き方で「日本人旅行者の合宿所?」と紹介されていたRiver Houseに情報を仕入れるつもりで、向かおうと思っていたのですが、どうやら(警察の手入れで?)閉鎖されたとのこと。それでLatema RoadにあるIqbal Hotelに向かうもあいにく満室。ということで、近くにある欧米の旅行者が多いNew Kenya Lodgeに投宿。1泊65シリング(約350円)でした。写真はチェックイン翌日の宿からの街の眺めです。値段相応といえば、そうなんですが、部屋はお世辞にもきれい、とはいえません。シャワーもお湯出たっけって感じ。Iqbal に空きが出ないか、と期待したけど出なかった
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安宿が集まっていたのはTom Mboya St.(写真)を越えて北東に位置するダウンタウン。地元の小さな商店やバー、青空市に乗り合いタクシーのマタトゥや長距離バスの発着所etc……、ナイロビの下町?といったところ。ではあるのだけれど、貧富の差が激しい街だけに今ほどではないけれど、治安は決して良くはない
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地元の商店の窓は鉄格子入り。店や宿にはアスカリというガードマンがいて不審者がいないか、警戒している。いやいや、大変なところに来たんだ、っていうのが正直な感想でしたね。それはともかく、ナイロビではやるべきことはサファリツアーを探す、タンザニアのVISAを取る、ザンジバル行きのチケットを確保すること
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4日にナイロビに入り、翌日から早速タンザニアのビザを取ろうと領事館へ行くも、「Holidayだから明日来い」。ポレポレ(スワヒリ語でのんびり)の東アフリカ、焦ったってうまくいきません。実際、Iqbalなど安宿に集う日本人もせかせか動いたりしません。卒業旅行で2ヶ月弱旅するのって、一般的には長いはずですが、彼らは1年旅していたって特別長くもないって世界にいる。圧倒される感じ。5日に街中で会った日本人の女の子は卒業旅行(4週間アフリカ)だったけれど、中近東、中米、中国などを過去8回も旅している猛者。中でも内戦中だったエルサルバドルを旅したと聞いて目が点になったものです
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まあ、VISA取得が空振りになった5日は国立博物館(国際学生証で割引になった!)に寄ったりしましたが、ナイロビって大都市ってだけで観るべきものはそれほどない。で、6日には改めて領事館に行ってタンザニアのVISAを申請(440シリング=約2400円)。その後、宿に戻ってサファリの客引きにあう。相場は確認できたけど、どこかうさんくさい、と思っていたところ日本人の2人組が通りがかったので適当な理由をつけて巻いてしまう。で、その2人を博物館に案内するがてら話をするとキリマンジャロに登ってきたという
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キリマンジャロに登った人には前日にも会っていた。その人に聞いた話では高山病になってレスキューを利用した日本人がいたということだったんだけど、話しかけた2人のうちの1人がまさに倒れた人だという。世間は狭いな、と思うと同時に5000mを越える世界というのはシャレにならないほど、危険が伴うというのを知りました。で、彼らと別れた後に向かったのがウフルパーク。「ナイロビの日比谷公園」と歩き方に評されていた公園からは円形のお椀を載せたようなコンファレンスセンターをはじめ、ナイロビの高層ビルがよく見える
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ここでは地元の日本人クラブで働いている?現地の方としばし歓談し、記念の1枚を撮ってもらう。長閑な公園という感じですが、夕方ともなると木の上から人が突然飛び降りてきて……、などということもあるらしく、決して油断はできないらしい
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ウフルパークについては歩き方にも「日が暮れたら行かないこと」という注意は載っていた。一方でお勧めポイントとしてクチコミが掲載されていたNgong Hill。行ってみようかと思っていたら、この後で訪れた日系の旅行社DoDoWorldで「身ぐるみ剥がされた日本人がいるから行かないで。歩き方に削除するように頼んでいる」と言われてびっくり。当時の歩き方は読者からの投稿が今より大きな比重を占めていた。生きた情報ではあるものの、玉石混交で「迷い方」と揶揄された理由の一つでもあるわけです
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もちろん旅行社なんでDoDoWorldではサファリやザンジバル行きのチケット情報も聞いてみた。サファリも日系の旅行社ならある程度の質は確保できるはず、ってのがあったわけですが、ドル払いってのが引っかかった。それなりにシリングに両替しているので、それを無駄にはしたくない(まだ学生だったんで)。飛行機代はいいとして、サファリはほかを探した方がいいかなって
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結局、DoDoWorldではナイロビ→ザンジバル→モンバサのチケットだけを手配してもらいました。6日以上の日程ならエクスカーションで割引があったのだけれども、残念ながら日程はそれより短いので176ドルでした。で、サファリの方はIqbal に出入りしていた青年ジェフに頼むことにした。スワヒリ語を学ぶために長期滞在している日本人が「彼なら大丈夫」とのことだったので。前金1000に当日2000の計3000シリング(約16500円)で2泊3日、テントでのキャンプサファリです。だいたい、当時は3000前後が相場でしたが、当たり外れはかなりあったみたい
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サファリ、航空券を手配したのは7日のこと。サファリに出発するのは8日の朝で、ザンジバルには12日に飛ぶ。サファリに出発する前の1日、どこに足を伸ばしてみようか。「ドロボー市が面白いらしい」。そんな話を聞いたので、ナイロビ川沿いに向かうことにする。ただ「ドロボー市」って、いろいろと治安が心配なわけで。宿に貴重品は置き(宿での盗難も心配なのですが…)、最小限の現金とポケットカメラ(今では生産が終わっているようです)だけを持って。向かう途中でも中心部とは違う光景が目の前に広がるわけで、青空理髪店に驚いたり
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ガソリンスタンドが「Mobile」ではなく「Kobile」なのを面白がったりしながら
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ドロボー市(青空市場)へ
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地元の人たちの活気に溢れているのを感じつつ、「何かあったらどうしよう」と心中かなりびびっています。カメラも目立たないようにしながらの撮影です
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魅力的な商品があるって訳ではなく、東洋人の旅行者がこんなところを歩いていては思い切り浮いてしまう。良からぬことを考えている輩がいたら、瞬く間に囲まれて身ぐるみ剥がされてしまう
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サブサハラのアフリカの街の中では格段に物資が豊富だったナイロビ(当時の南アフリカはアパルトヘイト時代で、いろいろ微妙でした)。当然、周辺から多くに人々が集まってくるわけで
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このような場所もあちらこちらにできている。当然、治安も悪くなるわけですが、まだ1990年代前半は今に比べれば、かなりましだったのではないでしょうか。何しろ、銃器による強盗とかは聞かなかったので(路上でいきなり後ろから殴りつけられる、なんて話はありましたが)
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物価も当時は日本と比べてかなり安く、「沈没」している日本人旅行者も多くいました。短期(数週間から1、2ヶ月)で訪れているBP旅行者としては、彼らからいろいろ面白い話も聞けるのですが、旅の感覚が違っているので違和感も感じたものです
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8~10日とサファリを楽しみ、ザンジバルに飛び立つ前の11日はブラリとナイロビ駅から少し離れた鉄道博物館へ。ここで妙な東洋人の集団がいるなと思ってよく見ると、テレビカメラで撮影している。タレントはいなかったものの、テレビの撮影かと聞いたら、そうだという。そのときは相手も迷惑そうだったし、番組名とか聞かなかったけれど、「世界の車窓から」だったのかも
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鉄道博物館からの帰り道、「学生なんだけど」と声をかけられた。この時に限らないけれど、ナイロビでは自称学生からよく声をかけられた。南アフリカだったり、ウガンダだったり、曰く、「国が大変なことになっている、戻って国のために働きたいんだけど金がない」とか、「強盗に遭って金を取られてしまった」とか、要は金を貸してくれ(寄付してくれ)といったもの。もちろん、これは詐欺なので適当にあしらうんだけど、まとわりつくのもいてかなり煩わしいものだった
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ところでサファリの最中は問題なかったのですが、戻ってからの思いっきり体調を崩してしまったです。夜から腹痛と下痢に悩まされ、特に午前中はぐったり状態。幾分か体調が回復したので午後からは鉄道博物館に行ったのだけれども、翌日からザンジバルに行くのに大丈夫か、って不安になったものです。真偽のほどは定かでないのですが、腸チフス?か何かに感染して日本に搬送された学生がいたんだとか。何でもアフリカ各国を回るチケットを日本で用意してきたものの、無駄になった上、日本の新聞にも載ったとか。「ナイロビだから、それなりに病院も整っていたけれど、ほかの医療が貧弱な国だったら大変」とか、言われたもので
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日本人旅行者の溜まり場って感じだったIqbal。1階がレストランになっていて、行けば誰かしら旅行者が何をするでもなく時間を潰していたもの。時には「航空券売ります」なんて提示もあったりした。セキュリティーがゆるゆるだった時代、名前が違っていても飛行区に乗れたりしたらしい。さすがに湾岸戦争もあって、この時はうまくできたかどうかは分からないけど。ザンジバル、モンバサの旅から戻った17日も空港から向かったのはIqbal。昼過ぎに到着した時には誰もいなかったけれど、いつの間にか日本人旅行者でわいわいガヤガヤ
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当時Iqbalから目と鼻の先にあったのがGreen Bar。いわゆる庶民のバーで、冷蔵庫とかないんでビールはいつも常温。というか、ケニアでは冷えたビールは体に悪い、ってことで他でも頼まないと冷えたビールは飲めなかった。で、バーにはマラヤさんという夜のお仕事をする女性もいたりする。ただ、彼女たちは一般的にイメージする夜のお姉さんとはちょっと違う。例えば、旅人と仲良くなるとその人がこの地を去るまで他の人とは付き合わない。まあ、さすがに旅先で女性関係のトラブルは避けたいので私は距離を置きましたが、長期旅行者の中にははまってしまい、疑似恋愛関係というか、ホントに恋人のような感じになっている人もいたもんです。一緒にいる日本人の男性は現地でスワヒリ語を学んでいた人で、日本の度ぶつドキュメンタリーの手伝いもしているとか。女の子のうちの1人は耳が不自由で話せなかったけど、明るい子だったのを覚えている
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ところで、私がマラヤさんから迫られた際にこけたことがあったんですが、その話を卒業旅行で南米を旅していた友人が知ってたんです。なぜ?と思ったら、アフリカから南米に渡った旅行者がいて話が伝わったらしい。思いのほか、世界は狭いなあ、なんて思った瞬間です。まあ、それはそれとして、この日はナイロビ最終日。最後は皆で日本食堂の日本人倶楽部に行ってカツ丼を食べたました。面白いのがフルはカツが4切れで80シリング(約440円)、ハーフが3切れで40シリング(約220円)。しかし、海外の日本食って高いもんだけど、この値段は破格でしたね
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1991年、湾岸戦争の真っ只中に卒業旅行
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1991年、湾岸戦争の真っ只中、卒業旅行③(ロンドンでチケット探し、ウエールズで友人に会って頼み事)
1991/01/28~
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1991年、湾岸戦争の真っ只中に卒業旅行⑤(マサイマラで初のサファリ)
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マサイマラ国立保護区周辺
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1991年、湾岸戦争の真っ只中に卒業旅行で欧州、東アフリカへ①(アイルランド&北アイルランド)
1991/01/20~
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1991年、湾岸戦争の真っ只中に卒業旅行②(スコットランド駆け足でを)
1991/01/25~
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1991年、湾岸戦争の真っ只中、卒業旅行③(ロンドンでチケット探し、ウエールズで友人に会って頼み事)
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1991年、湾岸戦争の真っ只中に卒業旅行④(混沌のナイロビ、日本人BPの集まるイクバルホテル)
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1991年、湾岸戦争の真っ只中に卒業旅行⑤(マサイマラで初のサファリ)
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1991年、湾岸戦争の真っ只中に卒業旅行⑥(長閑なザンジバルからケニアの沿岸都市モンバサへ)
1991/02/12~
ザンジバル
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1991年、湾岸戦争の真っ只中に卒業旅行⑦(アフリカ旅行を終え、運河の国オランダへ)
1991/02/18~
アムステルダム
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1991年、湾岸戦争の真っ只中に卒業旅行⑧(アントワープで定番の名画を見てブルージュへ)
1991/02/24~
ブルージュ
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1991年、湾岸戦争の真っ只中に卒業旅行⑨(ルクセンブルクからスイスへ、気がつけば戦争は終わってた)
1991/02/26~
ルクセンブルク
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1991年、湾岸戦争の真っ只中に卒業旅行⑩(最後はスペインの古都を巡って帰国です)
1991/03/03~
トレド
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