1991/02/18 - 1991/02/23
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itaruさん
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2週間ほどのケニア、タンザニア(ザンジバル)の旅を終えて、再びロンドンへ。アフリカ滞在中は宿にはテレビもなく、今のようにスマホでニュースを手に入れられるような環境もなし。ただ、湾岸戦争の真っ只中、戦争が拡大したらロンドンに戻れなくなるかもしれない。情報は必要です。英字紙やナイロビ市内で売っていた2日遅れで宿代より高い70シリング(約390円)の朝日新聞を買ったりして情報を手に入れていました。とはいえ、基本的には楽観的に事態を捉えていたので、私のフライトの1週前にエジプト航空で飛ぶ予定だった人がフライトキャンセルとなり、ルフトハンザに振り替えになったと聞いたときは、自分のフライトも欧州の一流キャリアになってくれればいいな、なんてお気楽なことを考えたりもしていました
旅の日程
1月20日 SU582 成田→モスクワ(トランジット泊)
1月21日 SU333 モスクワ→シャノン バスでリムリックへ
1月22日 リムリック→ダブリン
1月23日 ダブリン→スライゴ
1月24日 スライゴ→ロンドンデリー→ベルファスト
1月25日 ベルファスト→グラスゴー
1月26日 グラスゴー→スターリング→エジンバラ
1月27日 エジンバラ(夜行バス)→
1月28~30日 ロンドン
1月31日 ロンドン→カーディフ
2月1~2日 カーディフ&スウォンジー
2月3日 MS778、759 ロンドン→カイロ→ナイロビ
2月4~7日 ナイロビ
2月8~10日 マサイマラ(サファリ)
2月11日 ナイロビ
2月12日 KQ490 ナイロビ→ザンジバル
2月13~14日 ザンジバル
2月15日 KQ491 ザンジバル→モンバサ
2月16日 モンバサ
2月17日 KQ625 モンバサ→ナイロビ
2月18日 MS760、779 ナイロビ→カイロ→ロンドン
2月19日 ロンドン→カーディフ
2月20日 カーディフ→ロンドン
2月21日 ロンドン(夜行バス)→
2月22日 アムステルダム
2月23日 アムルテルダム→デンハーグ→デルフト→ロッテルダム
2月24日 ロッテルダム→アントワープ→ブルージュ
2月25日 ブルージュ
2月26日 ブルージュ→ブリュッセル→ルクセンブルク
2月27日 ルクセンブルク→ストラスブール→バーゼル
2月28日 バーゼル→ローザンヌ→モントルー
3月1日 モントルー→ジュネーブ
3月2日 ジュネーブ(夜行列車)→
3月3日 バルセロナ
3月4日 バルセロナ(夜行列車)→
3月5~6日 マドリード&セゴビア
3月7日 マドリード→トレド
3月8日 トレド→マドリード
3月9日 SU300、581 マドリード→モスクワ→成田
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 船 徒歩 飛行機
- 航空会社
- ケニア航空 エジプト航空 アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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欧州キャリアへのフライト振り替えという密かな期待は実現することなく、予定通りエジプト航空でロンドンに戻ります。ナイロビ→カイロのMS760便の出発時間は朝8時。ナイロビのダウンタウンで早朝にタクシーを探すのは嫌だし、寝過ごしてしまうのも危険性もある。それなら空港で夜明かしすればいい。宿代も浮く。Iqbalで日本人旅行者と語り合った後、タクシーを拾って空港へ。260シリング(約1450円)は、まあ深夜だし悪くなかったかな
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空港にはほかにも夜明かししようという旅行者がぽつりぽつり。さて、どうやって時間潰そうかなと思っていたら空港の係員が話しかけてきた。話をしながら感じたのは、彼らが日本など豊かな国への憧れのような気持ちを抱いていること。同時に現地に赴任している欧米人に対する複雑な感情(嫌悪感)も感じたものです。そんなこんなで5時過ぎにはカウンターがオープンしたのですぐさまチェックイン。がら空きかと思った飛行機もそこそこ埋まっていたので、横になってとはいきませんでした
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往路はゆるゆるだったカイロでのトランジットも、戦争が激化していたからかかなり厳しかった。日記や絵はがきもチェック。もちろん彼らに日本語は分かりませんが、絵はがきにCairo→Londonなんてルートを記していたら、「これは何? 説明して」なんて質問してくるし、カメラも念入りにチェック。で、1人の係員がポケットカメラを開けてしまうということも。わずかな時間でほとんど露光しなかったから良かったものの、台無しになるところでした。そんなこんなで乗り込んだロンドン行きのMS779便、本来なら直行便のはずがロンドンにローマ経由便となっていました。実際、ほとんどローマで降りて、ロンドンに向かう乗客はわずかでした
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アイルランド経由だった前回はノーチェック(出国の際はなぜ入国印がないと聞かれたものの、アイルランド経由と答えたらOKだった)でしたが、今回は面倒な英国の入国審査でいろいろ質問された上で入国。そのまま前回泊まったSwiss Cotage Lodgeへ。「良くここ知っていたね?」「だって2週間前に泊まったんだけど」「そうか、じゃあ1泊6ポンドね」。あれ、前回7ポンドだったのに、ホントは6ポンドなの。なんて思ったけれど、特に何も言うことはなく6ポンドで泊まりました。オージーとデンマーク人の2人はもういなかったけれど、仕事を探しに来ていたイタリア人の彼はまだいたので、久しぶりって感じで再会を喜びました(彼はあまり英語話せなかったけれど)
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さて、友人に預けていた荷物を受け取ろうとヴィクトリア・コーチステーションからカーディフへ。ただ、この時に爆弾騒ぎ、実際には爆弾はなかったのですが、があって乗るつもりでいたバスには乗れず、カーディフ入りは遅れました
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しかも、ここで行き違い。ホストファミリーに電話したものの、留学先の行事か何かで友人は不在に。カーディフに長居をしては計画が狂ってしまう。勝手で申し訳ないけれど、荷物を送ってもらうことにして旅を続けます。1泊したので前回は外から眺めるしかなかったカーディフ城を
カーディフ城 城・宮殿
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軽く見学してからロンドンへ戻りました
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ロンドンに戻ったら、まずは翌21日のドーバーを渡る夜行バスのチケットを購入。再び、Swiss Cottage Lodgeに荷物を置いて一休み。で、翌日はバスの時間まで最後のロンドン観光。グリニッジとか、郊外に行くことも考えてはいたけれど、何気なしに入ったナショナルギャラリーの収蔵作品の素晴らしさに時間を忘れました。ギャラリーを出たらネルソン記念柱を通ってテムズ川へ
ネルソン記念柱 モニュメント・記念碑
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テムズ川を水上バスで
テムズ川 滝・河川・湖
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Charing CrossからLondon Bridgeまで(1.2ポンド)気軽にクルージング
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モノクロでのタワーブリッジとの記念写真を撮りました。この日はそのほか、日本よりプリントサイズが大きなロンドンで2本ほどフィルムを同時プリント(16ポンド)したり、歩き方のヨーロッパ編とトーマスクックの時刻表(併せて19.42ポンド)を購入。さらに週刊少年ジャンプ(2.2ポンド)があったので、それも買うなど(学生としては)散財したのでした
タワーブリッジ 建造物
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ということで、ロンドン散策を終えて18時30分発の夜行バスでオランダのアムステルダムへ。料金は23ポンド(約6000円)でした
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初海外でベルギーのオステンデからドーバー海峡を渡った際は冬の海の揺れにグロッキーとなったのですが、今回は思ったほどの揺れもなく海を渡ることができました。とはいえ、フェリーに乗り込んでのバス移動なんで熟睡とはいかず、眠い目をこすりながらアムステルダムに到着。ストリート・オルガンの調べを聞きながら
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国土の4分の1が海抜0m以下。「世界は神が造ったが、オランダはオランダ人が造った」とも言われる低地の国の首都を歩きます
アムステルダム、シンゲル運河の17世紀環状運河地域 旧市街・古い町並み
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大都市なんで、こんな落書きもありますが
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国立美術館やゴッホ美術館などをオランダが世界に誇るミュージアムの収蔵作品の素晴らしさはさすがでした。その一方で一番強く印象に残ったのがアンネ・フランクの家。今では予約必須とのことですが、オフシーズンだったこともあり訪れる人はまばら。写真はアンネたち家族の隠れ家につながる回転式の本棚。たまたまモノクロの写真となりましたが、その分、ナチスの狂気とそれに従った大衆の愚かさが強く迫ってくるような気がします
アンネ フランクの家 建造物
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美術館・博物館巡りの合間には
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運河の街アムステルダムを満喫しながら街歩き
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かつてアムステルダムを囲んでいた城壁の名残、ムント塔なども印象深かった
ムント塔 建造物
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暗闇に包まれるアムステルダムで
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記念の1枚
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翌日はアムステルダムからベルギーのブルージュまでのチケット(46.5ギルダー)を購入し
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まずはオランダの行政の中心地
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デンハーグへ
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観光の中心地はビネンホフ。2本の塔を持つレンガ造りの建物は国会議事堂を見学したら、マウリッツハウス美術館で芸術鑑賞
ビネンホフ 城・宮殿
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その後はハーグから鉄道で10分ほどのデルフトへ
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駅から町の中心の丸くと広場までそぞろ歩き
デルフト新教会 寺院・教会
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オランダ一美しい町ともいわれるデルフト
運河 (デルフト) 滝・河川・湖
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町を走る馬車
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オランダらしい風情のある運河沿いの道を歩いた先には東門。中世風の門はかつての城壁の名残なのだとか
東門 建造物
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運河でカヌーの練習はオランダならでは?
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古い街並みと運河が絶妙なバランスを保っています。ただ、ロッカーが使えず重いバックパックを背負いながらの観光はなかなか大変です
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デルフト観光を終え、最後はロッテルダムへ
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ロッテルダムは第二次世界大戦中にドイツ軍の爆撃を受け、壊滅的な被害を受けた。両手を大空に差し伸べている男の象は「心臓を抜き取られた男」。反戦の願いを込めた像を観ながら、今起きている戦争のことをふと考える。自分と同じような年齢の若者が戦争の渦中にいる現実。様々な思いが頭をよぎったのを覚えている
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