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 鎌倉市二階堂には獅子岩(ししいわ)や獅子巖(ししがん)と呼ばれる獅子が臥った姿に見える岩があった。今もあるのかと探してみたが、探し出すことは難しいようだ。<br /> Webを検索すると、近年(2017年)に天園峠の上り口に設けられた「獅子岩(ししいわ)」は獅子には見えないという多くの意見や感想がある。それはおそらくは小岩であるからかも知れない。この狭い谷周辺では峠の崖にある大岩(https://4travel.jp/travelogue/11575287)や中腹の銀杏の木の傍らに転がっている岩(https://4travel.jp/travelogue/10526639)の方が獅子の姿に見えるというブログも複数件見付かった。<br /> あるいは、瑞泉寺の北に獅子舞ヶ峰があり、獅子巖があるとするブログも何件は見付かった。これが本当ならば、近年(2017年)に天園峠の上り口に設けられた「獅子岩(ししいわ)」が相応しくなる。しかし、瑞泉寺には開山の夢窓疎石が十境致を定めたと云われており、それが紅葉ヶ谷、天台山、獅子窟(あるいは獅子巖)(https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/69/580/69_KJ00004229273/_pdf)、羅漢石、睡虎石、寒山石、拾得石、葆光窟、天女窟、貯清池であるという。獅子巖ではなく、座禅する獅子窟のようだ。この十境致に「大亀石」(https://4travel.jp/travelogue/11196618)は含まれてはいないが、おそらくは全てが瑞泉寺の近くにあったのではないか?そうだとすれば、天台山が最北であろう。<br /> 時代が下がって、江戸時代になると徳川光圀(水戸黄門)が「新編鎌倉志」(貞享2年(1685年))に「獅子巖(ししがん)は、永福寺舊跡の北、山の嶺(みね)にあり。」「昔は永福寺の内なり。」と紹介している。それは、 江戸時代の絵地図「相州鎌倉之図」(https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2321315100/2321315100100010/137-019-00/)に記載されている「獅子に似たる石(獅子岩)」が相当しようか?<br /> 国土地理院の地図にある山道を頼りに亀ヶ淵奥の東電変電所から竹林になっている裏山を目指して、尾根伝いにこの竹林の最奥まで上ってみたが、この舌状の尾根には鉄塔近くに1ヶ所しか岩は見られなかった。戻って、天園ハイキングコースを目指すと、尾根の手前で山道が終わり、低く石垣が積まれているように見える場所を台にしたような大岩が立ちはだかる。この大岩が獅子岩?とするブログもある。もし、この石垣状に見えるのが人工物であるなら、この大岩が獅子巖である可能性も高くなろうか。そして、この山道を下った亀ヶ淵奥の東電変電所から下流の低地は江戸時代の「獅子舞谷」、その後の小字「獅子舞」である。<br /> 江戸時代までは神社仏閣の木鼻にあるように、唐獅子は身近な存在であり、百獣の王・ライオンやエジプトのスフィンクスが日本に紹介される以前には、獅子が伏せたような姿の岩などはそこここに存在したのであろう。それに似た存在としては他に「亀石」が挙げられようか。<br /> おそらくは、江戸時代以前には永福寺の北、瑞泉寺の周辺、そして、六国峠の下辺りにも獅子巖や獅子岩、あるいは獅子窟があったと考えると、こうした獅子岩と獅子巖の謎は解消できそうな気がする。あるいは、「獅子舞谷」の地名が山中奥の谷にダブって付けられた理由についてもその端緒が掴めそうな気がしてくる。<br />(表紙写真は山道が途絶える場所にある大岩)

獅子岩と獅子巖(鎌倉市二階堂)

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2019/12/16 - 2019/12/16

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 鎌倉市二階堂には獅子岩(ししいわ)や獅子巖(ししがん)と呼ばれる獅子が臥った姿に見える岩があった。今もあるのかと探してみたが、探し出すことは難しいようだ。
 Webを検索すると、近年(2017年)に天園峠の上り口に設けられた「獅子岩(ししいわ)」は獅子には見えないという多くの意見や感想がある。それはおそらくは小岩であるからかも知れない。この狭い谷周辺では峠の崖にある大岩(https://4travel.jp/travelogue/11575287)や中腹の銀杏の木の傍らに転がっている岩(https://4travel.jp/travelogue/10526639)の方が獅子の姿に見えるというブログも複数件見付かった。
 あるいは、瑞泉寺の北に獅子舞ヶ峰があり、獅子巖があるとするブログも何件は見付かった。これが本当ならば、近年(2017年)に天園峠の上り口に設けられた「獅子岩(ししいわ)」が相応しくなる。しかし、瑞泉寺には開山の夢窓疎石が十境致を定めたと云われており、それが紅葉ヶ谷、天台山、獅子窟(あるいは獅子巖)(https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/69/580/69_KJ00004229273/_pdf)、羅漢石、睡虎石、寒山石、拾得石、葆光窟、天女窟、貯清池であるという。獅子巖ではなく、座禅する獅子窟のようだ。この十境致に「大亀石」(https://4travel.jp/travelogue/11196618)は含まれてはいないが、おそらくは全てが瑞泉寺の近くにあったのではないか?そうだとすれば、天台山が最北であろう。
 時代が下がって、江戸時代になると徳川光圀(水戸黄門)が「新編鎌倉志」(貞享2年(1685年))に「獅子巖(ししがん)は、永福寺舊跡の北、山の嶺(みね)にあり。」「昔は永福寺の内なり。」と紹介している。それは、 江戸時代の絵地図「相州鎌倉之図」(https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2321315100/2321315100100010/137-019-00/)に記載されている「獅子に似たる石(獅子岩)」が相当しようか?
 国土地理院の地図にある山道を頼りに亀ヶ淵奥の東電変電所から竹林になっている裏山を目指して、尾根伝いにこの竹林の最奥まで上ってみたが、この舌状の尾根には鉄塔近くに1ヶ所しか岩は見られなかった。戻って、天園ハイキングコースを目指すと、尾根の手前で山道が終わり、低く石垣が積まれているように見える場所を台にしたような大岩が立ちはだかる。この大岩が獅子岩?とするブログもある。もし、この石垣状に見えるのが人工物であるなら、この大岩が獅子巖である可能性も高くなろうか。そして、この山道を下った亀ヶ淵奥の東電変電所から下流の低地は江戸時代の「獅子舞谷」、その後の小字「獅子舞」である。
 江戸時代までは神社仏閣の木鼻にあるように、唐獅子は身近な存在であり、百獣の王・ライオンやエジプトのスフィンクスが日本に紹介される以前には、獅子が伏せたような姿の岩などはそこここに存在したのであろう。それに似た存在としては他に「亀石」が挙げられようか。
 おそらくは、江戸時代以前には永福寺の北、瑞泉寺の周辺、そして、六国峠の下辺りにも獅子巖や獅子岩、あるいは獅子窟があったと考えると、こうした獅子岩と獅子巖の謎は解消できそうな気がする。あるいは、「獅子舞谷」の地名が山中奥の谷にダブって付けられた理由についてもその端緒が掴めそうな気がしてくる。
(表紙写真は山道が途絶える場所にある大岩)

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