2019/10/13 - 2019/10/14
325位(同エリア646件中)
河内温泉大学名誉教授さん
- 河内温泉大学名誉教授さんTOP
- 旅行記260冊
- クチコミ897件
- Q&A回答102件
- 409,438アクセス
- フォロワー19人
百寺巡礼の旅のはじめに
古いインドには、人生を四つの時期に分ける考えかたがあったという。 学生期。家住期。林住期。そして、遊行期。四住期というバラモンの教えらしい。
著者は
林住期 二回目の休筆をこの時期としている。龍谷大学で仏教史を学んでいた。
遊行期 百寺巡礼の旅のはじまりを遊行期としている。寺にも仏像にも建築にもほとんど無知のままに旅に出た・・・と北陸へ向かう飛行機の席で書いているから、百寺巡礼第二巻への取材の旅の途中だったのであろう。
以前に知人から戴いていた「新・法隆寺物語」を再読して五木寛之、巡礼の旅のヒントを得たような気がしました。そこで、「百寺巡礼」を手に彼の大和路での足跡を辿りつつこたえを見出せたらと思います。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 交通手段
- 自家用車 バイク
-
第一番 室生寺 女たちの思いを包みこむ寺
女人高野と言われるが尼寺ではない。室生寺近くに龍穴があり、この龍穴で光仁天皇の皇太子(山部親王後の桓武天皇)の病気平癒のためここで祈祷が行われたのが寺のはじまりと、白洲正子も「十一面観音巡礼 水神の里」の項で述べている。寺伝による天武天皇の勅願で役行者が創建という説(100年ほどひらきがある)も著者は紹介している。後に弘法大師の高野山開山(816嵯峨天皇より下賜)と共に周辺が真言宗に制覇されていく中で女人禁制になったのだろう。江戸時代に入り徳川の手が入り出すと女人禁制がとかれるようになった。
室生寺は十一面観音像が特に有名で、白洲もこれが目的で訪れているが、著者は軽く受け流して脇の「聖観音菩薩」へと話題を変えている。白洲が「甘美な天平の夢は醒める時が来た。醒めることの苦悩と、緊張を、この観音は身をもって示している。」と表すのと比べると素っ気ない。 -
この最初の章では諸先輩にも著者なりの仁義を切っている。和辻哲郎の仏像に関する記述、土門拳の「雪の室生寺」と行をさいて先輩を評価して紹介している。この辺りはプロデューサー五木らしいところです。
恥ずかしそうに紹介している作詞家五木の「女人高野」歌詞です。
「女性」という永遠の謎
と言う項を設けて「女性」について語るが、室生寺の項の最初に伏線がある。これは朝鮮半島で終戦時に非業の死を遂げた母への哀悼文であろう。
・・・敗戦後、間もなくして私の母親は亡くなった。私は少年のころから、人間の死、というものに慣れ親しんできた人間である。しかし、いつか自分の母親の死について、思いきって語りつくせる時期が来るのか、あるいは、そんな時は永久に来ないのだろうか、とずっと考えてきた。最近、やっとそのことを書けるようになったのは、私のこころの変化ではない。
「もう、書いていいのよ」
と、まるで夢のなかからきこえてくる声のように、どこからともなく母親の声がきこえるようになってきたからだ・・・と -
第二番 長谷寺 現世での幸せを祈る観音信仰
万葉集の枕詞「隠国(こもりく)の初瀬」とは。 白洲正子によると・・・ハセは泊瀬、初瀬、長谷とも書くが、いずれも正しい。それは瀬の泊(は)つる所であるとともに、はじまる所であり、長い谷をかたちづくっているからだ・・・寺から少し登った川中に「落神(おちがみ)」という巨石を祀っている。・・・いつの時か大嵐があって、神の岩座が転落し、その泊まった所が「泊瀬」と呼ばれたのであろう。その川は、やがて三輪山を巻いて、大和平野をうるおす清流となるが、同時に「初瀬流れ」ともいって、しばしば荒れる恐ろしい淵瀬(ふちせ)でもあった。・・・地形からいっても、三輪山の奥の院と呼ぶにふさわしい場所で、「こもくり」は神の籠もる国を示したものに他ならない。だから、上代の斎宮も、伊勢へおもむく前に、ここに籠もって、神聖な資格を得たので、そのことと切り離して「こもくり」という枕詞は考えられない・・・と彼女がいう場所に長谷寺は建つ。
隠国(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は 出で立ちの よろしき山 走(わし) り出の よろしき山の 隠国の 泊瀬の山は あやにうら麗(ぐわ)し あ やにうら麗し 雄略天皇
こもくりの泊瀬の少女が手に纏(ま)ける
玉は乱れてありといはずやも
こもくりの泊瀬の山の山の際(ま)に
いざよふ雲は妹にかもあらむ 柿本人麿
最後は挽歌だが、いずれも乙女を歌っている。初瀬の場所が聖地と定められていたからこそ、そこに長谷寺が建立され十一面観音像が奉られた。 -
花の寺としての長谷寺
花の寺 末寺一念 三千寺 高浜虚子
高浜虚子も詠んでいるが、花は桜を中心に枝垂れ桜、染井吉野、山桜、沈丁花、こぶし、もみじ、金木犀、牡丹、蝋梅、梅と四季を通じて山内や裏山に野の花が咲き乱れている。
近年「寺と花」か「花の寺」というフレーズがもてはやされるが、季節毎に植木鉢の花を運び込んでいる今風の花の寺が多いが、長谷寺を見ているとそれらが安っぽく見える。
寺の花は薬草として利用されていた。それらは、水銀などの鉱物も含めて、自然(神)のなす不思議な現象として人々のあこがれや願望を集めるものであった。長谷寺でも花を植えて生薬を作り人々に施し、そして信仰を集める手段であったと想像される。今や薬師のお湯もスーパー銭湯に、葛根湯も調剤薬局で健康保険で買える時代だが、著者が書くようにスニーカーを履いてお薬手帳のような朱印帳を持つ御利益を求める人々が長谷寺を訪れます。
本尊とされる十一面観音菩薩像は、日本でも最大級の木造仏で宝瓶(ほうびょう)と錫杖(しゃくじょう)と念珠を持つところから、観音と地蔵菩薩が合体したとも言われる。しかし、他の書物によると錫杖を持たせたのは後のことだとの説もあるようだ。
現世御利益の観音様が地蔵様にもなることで、益々庶民の信仰を集めるということは容易に想像がつく。しかしながら、今ではお供えの額に(拝観料)に応じて大きな観音様の足にもお触りできるという仕組みは、現世の仏の世界にも現世御利益思想が染みこんでいるようにも見え、正に仏の足も金次第という感もするがそれもまた良です。 -
第三番薬師寺 時をスイングする二つの塔
薬の効果を寺の名前にした「薬師寺」です。薬では無く塔から入りましょう。同寺は南都七大寺の一つで、興福寺と並んで法相宗の大本山。
本文では、再建(1981年)後20年経過した西塔という表現だが今ではその塔も更に枯れて見えます。逆に東塔には御簾(みす)のような覆いが被せられて再建中です。来年(2020年4月)には丁・半では無いが東西揃った風景が見ることが出来るとか。お寺や塔は近づく程に人間くさい匂いがするが、遠く眺めると余計なものが見えずただ美しい。 -
伽藍配置
お寺には伽藍配置という「しきたり」があって、時代と共に形式は変わっているという。薬師寺は「スイングする東西の塔」という流れるようなフレーズで表現される「薬師寺方式」です。秋篠川から眺めると、手前に東塔そして西塔がありその中心に南大門(中門)・金堂そして講堂が貫いている。同寺で詠んだ会津八一の「ころもでの乙女」か、佐佐木信綱の「一ひらの雲」が薬師寺クァルテットの間を旋律に乗って舞っているように見えます。時には矢田丘陵まで弾んだり、東の青垣まで跳ね返ったりする、ダイナミックなビッグバンドにもなります。
このようにも眺めることが出来る薬師寺も、千年昔の形で現存していたのは「東塔」とわずかな堂宇だけであった。それを復元・修復しようと発起したのが高田好胤師で「写経勧進」という新手法を編み出し、全国行脚して当初百万巻という目標を大きく上回る七百万巻(本書による、最終は870万巻)に達したと言う。
本項で宮大工西岡常一氏の名が出るが、この方は代々法隆寺の大工棟梁を務め現在も法隆寺の西側「西里」地区にお住まいの方です。法隆寺昭和の大修理の中心人物であり、そこで培った技術が薬師寺や姫路城の工事に生かされています。(義)父または祖父のいずれかですが、「西岡楢光」と言う方が法隆寺金堂炎上(1949年1月26日)の現場にいて、焼け落ちた金堂に当時の管主佐伯定胤と最初に立ち入った人です。その後の再建にも携わります。聖徳太子以来、伝統の技術が斑鳩で培われてきたといえます。
東塔以外ほとんどが焼けたりした薬師寺ですが、千年の間天災・人災などに見舞われるたびに様々な人間模様が繰り広げられていたのでしょう。
来年東塔が完成すると、やや枯れてきた西塔と目にも鮮やかな東塔の姿に「アンドレ・マルロー」ならいかに表現するか楽しみです。 -
第四番 唐招提寺 鑑真の精神が未来へ受け継がれていく
お雇い外国人のはしりとも云える鑑真和尚の、蟄居させられたお寺・・・と書くとどのように評価されるか。
薬師寺と同じように秋篠川の流れに沿って立つこの寺は鑑真和上発願による私院(官寺で無い)であることが同時期の寺との違いと言えば前述の裏付けともとれなくはない。
-
唐招提寺偏額
山門の偏額は孝謙天皇の筆と伝わる。南都六宗の一つである律宗の総本山だが、鋭い塔が無いという風景が優しく見えるという意見もある。
松尾芭蕉、北原白秋(古賀政男)と著名人が並んだ後に、引き揚げ者という著者自らの境遇と鑑真とを並べているが、最後はダブルアイデンティティーと言う言葉で纏めている。
南都六宗:奈良時代に行われていた倶舎,成実,律,法相,三論,華厳の各仏教学派の総称
南都七大寺:奈良を中心とする地域にある7つの大寺院。一般に,東大寺,西大寺,法隆寺,薬師寺,大安寺,元興寺,興福寺をいう -
第五番 秋篠寺 市井にひっそりとある宝石のような寺
これまで数え切れないほど再訪しいる秋篠寺です。いつ行っても良いなと思うのは、門番なし、改札所なし、土産物屋なしの「三なし」です。寺域へ入る事のみなら無料という寺はかつては京都の仁和寺等もそうであったが、今や有名所ではこの秋篠寺以外では四天王寺、東大寺、大安寺等数えるばかりになった。余談だが「全国共通入場券」を仏教会に発行してもらえたら、年貢1万円程度でも一ヶ寺最低500円はかかる入場料をあまり気にせずに参拝・拝観出来ると思う。これも仏の道では無いかな。
さて、無料で入れる東門から南門までの間だけでも秋篠寺(表題はN氏作挿絵)らしい様子はうかがえます。今回も勿論この手法で楽しみました。
寺歴は著者に任せますが、1135年の大火で東西の塔や金堂が焼け落ち、焼け残った講堂を現在の本堂としている。この後鎌倉時代に再建された姿そのままで廃仏毀釈を迎えた秋篠寺は荒廃し堂守もいない時もあったようです。その荒廃した林に波のように苔むす姿を「苔の海」と著者が表現する、ある種の芸術的な雰囲気を漂わせています。 -
同じ秋篠寺を訪れた白洲正子は川から入る。秋篠川の源流、押熊を目指して歩く彼女の前に現れたのは数基の古墳です。オシクマから忍熊を連想した彼女が地元の人に聞くと、一つは忍熊皇子の古墳であった。皇子は応神(15代)天皇の腹違いの兄で、継母神功皇后(写真同稜)の軍と戦い破れて宇治川に身を投げたと伝わります。ここで、白洲はこの地を皇子の奥津城と表現し、南を眺めると狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのうえのみささぎ)を含む狭隘な場所に神功皇后(敵)や味方の墓が並ぶ黄泉の国だと表現している。秋篠川を地元では「さい川」とも呼ぶそうで、賽の河原だったのでしょうか。
「香水閣」については、著者は明治4年まで正月に汲まれた井戸水を朝廷に届けたと記しています。東門から入って突き当たりを左折した奥に清浄香水が今も湧いているという。白洲は井戸について更に突っ込んだ取材をしている。村では井戸水が若狭とつながっていると信じられていると言うところから、東大寺二月堂の若狭井と対角にあった神聖な水であったと推論した。今では後背地も宅地化されていて、分析すると飲用には不可と出るかもしれないと思うが、飲んで見たくなる雰囲気です。 -
秋篠寺と言えば「伎芸天」に代表される仏像です。著者は、堀辰雄(大和路・信濃路)を引用する形で仏像を紹介すると共に、作家堀辰雄の生きた暗くて過酷な時代の知的な人々の姿を紹介している。その一人に「古寺巡礼」を常に脇に置きつつ、ついに大和路を訪れることが出来なかった著者の父がいるのだが。その時代は「古寺巡礼」の再販すら出来ない状況だった。戦時下に相応しくない本であるというのだ。
あきしのの みてらをいでて かへりみる いこまがたけに ひはおち むとす
秋篠寺にて会津八一 -
第六番 法隆寺 聖徳太子への信仰の聖地
今回読書後一番に訪れたかったのが法隆寺です。何ぜ・・・と問われるといくつもが重なっていて言い表しがたいのですが、先ずは通いやすさです。同じような寺として四天王寺もあり、どちらも山内入場無料です。
著者は法隆寺を梅原猛の「隠された十字架」から入っていきます。そして勝者・敗者の立場と、勝者にとって負の遺産である敗者の処理について持論を述べて「怨霊鎮魂」と「怨霊鎮撫」の違いと、斑鳩周辺に神社仏閣が多いのも、人びとの怨念が激しく渦巻いていた一つの証と法隆寺を見ている。
南大門に立つと前に松並木、後ろには中門、五重塔(上写真)と今の法隆寺の中心線に立っていることがわかる。 -
法隆寺は創建直後火災に遭い、元の寺はやや東の若草伽藍という場所にあったとされています。この再建論に関しては明治以降大きな論争を巻き起こしていましたが、若草伽藍の発掘調査で、そこにも大きな伽藍があって中心線が現在の伽藍と少しずれていたことから、再建論が確定したと云います。この若草伽藍跡から出土した礎石を持ち出した者がいたそうです。今も法隆寺脇に大きな(元)屋敷(写真)を構える北畠男爵です。
彼は法隆寺近くの煙管屋(きせるや)という商店の倅、名を平岡鳩平と言いました。江戸末期天誅組に加わり賊軍となり仲間はほぼ討伐されますが、鳩平はうまく生き残り、有栖川宮に仕えた頃から南朝の忠臣北畠親房の末裔と称して最後は大阪控訴院の院長となり男爵に叙せられていました。今は(元)屋敷の門屋に布穀園という洒落た喫茶店があります。 -
南大門を入ると中門とそれにつながる回廊、その中に五重塔、金堂そして大講堂があります。お寺が創られた元の信仰対象は釈迦の遺骨信仰です。これを納めたのが仏舎利とか塔で後に仏像が信仰対象となって金堂が寺院の中心となるといわれています。法隆寺の創られた頃には既に金堂が中心に据えられています。法隆寺の五重塔芯礎は史上二度だけ発掘されたことがあります。釈迦の遺骨が納められた云う物だけに発掘なんぞもっての外、いや宗教といえども歴史的な遺産ぜひ発掘調査をと世論が二分したのが大正15年1月。腐食によって舎利容器などの傷みが発見され、当時の佐伯管主と他数人が密かに塔の地下深く入り拓本を取りスケッチして元の場所に納め直した。しかし、これは当然ながら世の人の知ることとなります。しかし信仰の根源に関することだけに公開を拒んだ佐伯管主は糾弾されます。昭和24年10月「発掘するが公開はしないと」いう佐伯管主の気持ちをくんだ形で舎利容器は再び掘り起こされ学術的な調査が行われたのち元に納められた。今後万が一のことでも無い限り塔の地下深く封印された永遠の時を過ごすことでしょう。
写真は新・法隆寺物語(太田信隆・著)より。 -
回廊を中心にした区域を西院伽藍と呼んでいます。一廓には西円堂、三経院そして上御堂が立ち並んでいる、その角の茶店の前に会津八一の歌碑「ちとせ あまり みたび めぐれる ももとせを ひとひのごとく たてる この たふ」が建碑されています。
-
伽藍配置の東には正岡子規の句碑「柿くへば・・」があります。子規は明治28年秋日清戦争に記者として従軍したあと、郷里の松山に帰り、東京へ行く途中大和路に立ち寄った。伽藍の東の鏡池の脇には当時茶店があった。この茶店に腰を下ろして柿を喰ったのだろうか。回廊の中には鐘楼がある、偶然に鳴り響いても不思議では無い。大正3年秋、茶店を取り払うこととなり、何か残したいという有志の募金で集まった70円でこの句碑を建碑することとなった。句の原本は残っていなかったので、高浜虚子が子規自筆の句録から写真で文字を起こして碑にしたという。このあたりの南側が若草伽藍跡でしょう。
-
高浜虚子らが当時宿泊したのが大黒屋ですが、今も旅館業の看板がかかっています。
-
東大門をくぐり抜けると東院伽藍への参道が開けます。その先には夢殿の特徴的な屋根が見えてきます。奥には第七番として訪問する中宮寺があります。中宮寺の山門はどこ・・・と思われた方も多いでしょうが、この夢殿への入り口が中宮寺の入り口です。
-
第九番 當麻寺 浄土への思いがつのる不思議な寺
當麻寺と河内温泉大学立地の東大阪はただならぬ関係にあります。當麻寺の本尊は「當麻曼荼羅」と呼ばれる織物です。この織物の蓮糸を供給したのが東大阪市の大蓮に咲く蓮だったと伝わっています。
東大阪市大蓮にある中将姫の碑。 -
この様な本尊を持つ寺は我が国ではここだけらしい。これは、當麻寺に出家した中将姫の願いを叶えて、観音菩薩が蓮糸で一夜で織り上げたという。
中将姫に関して「大和のモナ・リザ」、「エロティック」とか、「情熱に身を焦がす」と言った表現を使っているが、作詞家“のぶひろし”の一面が出ているようで面白いと思う。
友人のN氏の挿絵「奥の院」 -
N氏のご紹介です。
本旅行記の巻頭の「苔の海」挿絵の作者でもあるN氏は幼少期の脳性麻痺と高齢になってからの脳梗塞により左手しか動きません。その唯一動く左手のみで描かれた世界は非常にすばらしい。前項の作品はこの写真を模写されたものです。 -
著者は當麻のお練りや絵解きに芸能の原点があり、その目的は宗教だという設定でこれらを紹介している。吉野の金峯山寺蓮華会の蛙飛びも教えを分かりやすく庶民に説くという手法は同じでしょう。宗教から芸能へとすれば、著者は芸能から入って宗教へと導かれたのか。
當麻寺の最後で、折口信夫「死者の書」を使って、大津皇子と大伯皇女との歌で終わっているが。この両者こそ、伊勢路、大和そして二上山と当時としては使える限りの大舞台で大芝居を演じて見せたのかもしれません。 -
第十番 東大寺 日本が日本となるための大仏
幾度もの航海における困難に遭いながらも日本を目指した鑑真和上の一番大切な仕事だったのが、正式な僧侶となる授戒をさずけることでありました。寺はあっても正式な坊主がいないという制度的な不備を整えることであります。
大仏開眼(752年)の翌年六度目の航海で薩摩の坊津へ上陸(写真)します。鑑真和上は戒壇を先ず東大寺に築き、その後太宰府観世音寺、下野薬師寺にも築きました。以降この三カ所が正式な戒壇の場とされ、ここで授戒を受けた者のみが正式な僧と認められることとなる。こうした授戒制度の整備と共に鑑真は授戒を行う僧の育成する律宗を興し、日本の仏教界に大きな変革をもたらしました。しかし、これらは既得権者にとっては迷惑な話で、彼等の圧力に押される形で大僧正の位を降り唐招提寺に入ります。
上陸地点の坊津の海岸に座して東海を望む -
太宰府観世音寺
-
東大寺については「大仏」に関する記述が多く、この開眼法要を持って日本は国家としての形をつくりあげたという。
幻の東西の塔と共にその大きさも様々論じているが、日本人は大も得意だが小も得意と匠の技と紹介しています。 -
人間くさい匂いがすると紹介するのが「大湯屋」といわれる「お風呂」。我が意を得たりという所で、この温泉の紹介で百寺巡礼第一巻の読後の疲れを癒やしていただくことにする。
神も仏も其処らへほっとけ・・・と坊主や大工そして土工の人夫達が裸で背中を流しあって、これが本当の極楽と言ったかどうかは正式な記録が残っていない。
2003年に書かれた本書「百寺巡礼」第一巻の〆に著者は横文字化、ネット化を嘆き「アメリカ超帝国主義」の時代だとお嘆きです。その後歴史は少し先へ巡り、また元通りの「中国」の時代になりつつあります。国際政治では「一帯一路」、コンピュータでは「ファーウェイ」、消費では「アリババ」と八世紀の唐時代に戻りつつあるような気がします。これこそが著者のいう「大変な時代」がやってきたのかも知れません。 -
なぜ五木は百寺巡礼を目差したのか
五木は太田氏の著書「新・法隆寺物語」の序の最後に次のヒントを記している。
私の父親の・・・そして当時の多くの若者たちもまた「古寺巡禮」の一冊をたずさえて、戦争の時代に斑鳩の地へ情熱的な巡礼の旅を行ったのだろう。しかし、はたして和辻氏の見たものは、私の見たものと同一のものであったのか。「古寺巡禮」の名著であることを確認した上で、さらに私は父親より遠くまで歩いてみたかった。・・・そしていまだに明確な結論をえないまま、くり返し斑鳩の地を訪れつづけている。そこで太田さんにお目にかかっては、果てしない議論を吹きかけ、氏の無数の蔵書を読みちらし、休筆三年目の無為な日々の埋め合わせをつけようともがいている。
父親の法隆寺への道は、はるかに遠いものだった。しかし、夢殿を目の前にする誓興寺を訪れていてさえも、私の法隆寺への道は、まだ遥かかなたにあるかのようだ。
著者の百寺巡礼の旅は戦時下「古寺巡礼」を常に座右に置きつつ大和を訪れることの出来なかった父と朝鮮で無念の死を迎えた母、そして両親と同世代の若人への鎮魂の旅でもあるのかも知れません。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
大和を旅する その2
-
奈良 平城宮跡周辺万葉サイクリング伴走記
2019/10/13~
奈良市
-
五木寛之著「百寺巡礼」第一巻と行く なぜ五木は百寺巡礼を目差したのか
2019/10/13~
斑鳩・法隆寺周辺
-
紅葉と光そして苔の秋篠寺へ 神功皇后と光仁天皇の選択とは
2019/11/13~
奈良市
-
西吉野 柿と南朝の史跡を行く
2019/11/21~
五條
-
晩秋の斑鳩路から薬師寺あたりを 今後千年間は見られない東塔の改修工事
2019/11/28~
奈良市
-
河内温泉大学 除夜の鐘ガイド ゆく年 ゆく年
2019/12/23~
御所・葛城
-
法隆寺 鐘が鳴るのは柿か苺か
2019/12/24~
斑鳩・法隆寺周辺
-
まぼろしの「ペリカンの家」平城宮周辺ハイキングをMTBで行く
2020/03/13~
奈良市
-
お墓参りにかこつけて コロナ騒動下の天理「淡水 鰻重」も食す
2020/03/22~
大和郡山・田原本
-
コロナ禍を避け花見かな 大和金剛・葛城・二上山麓九桜花見の旅
2020/04/03~
御所・葛城
-
完全非武装・非接触越境サイクリング 歌姫越えの道
2020/04/17~
奈良市
-
金魚とねこ
2020/05/29~
斑鳩・法隆寺周辺
-
明神(山)さんへ go to 登山 途中断念も得ること多き
2020/07/29~
斑鳩・法隆寺周辺
-
斑鳩 歴史の「どこでも」ドアかな
2020/08/26~
斑鳩・法隆寺周辺
-
コロナに負けず 内需拡大に協力して行ったわけでも無いのだが
2020/09/03~
奈良市
-
寅2号の点検を兼ね 大和奥飛鳥へ季節の花を求めて行くも
2020/09/17~
飛鳥
-
赤とんぼをさがして飛鳥路へ
2020/10/13~
飛鳥
-
斑鳩のコスモス嬌艶
2020/10/21~
斑鳩・法隆寺周辺
-
イケメンだった怪僧道鏡修行の葛城山で「鬼滅の刃」パワースポットも訪問
2020/10/26~
御所・葛城
-
平城宮跡はススキでした
2020/11/04~
奈良市
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
斑鳩・法隆寺周辺(奈良) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 大和を旅する その2
0
27