2019/04/05 - 2019/04/05
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しにあの旅人さん
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(このアッピア街道の地図はアメリカ航空宇宙局(NASA)によって作成されたものです。NASAの著作権ポリシーでは、特記事項が無い場合NASAの資料はパブリックドメインとなります)
アッピア街道、古代ローマ帝国が作った最初の街道。ローマを起点にしてBC312より建設が始まり、BC190年にブリンディジまで開通しました。「街道の女王」といわれます。
ローマの船はブリンディジからギリシャ、エジプトなど、オリエントに向かったのです。アッピア街道はローマ帝国の大動脈でした。
ローマを起点にはしますが、「すべての道はローマに通ず」と言います。私たちは、終点であるブリンディジからアッピア街道を訪ねることにしました。
今回は、塩野七生著「すべての道はローマに通ず」(新潮社電子版)を道案内にしています。引用は、僭越ながら敬称略で「塩野」とさせていただきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
ブリンディジのアッピア街道終点の塔。
振り向くと、 -
海です。
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東方からの旅人はここで船をおり、ローマへの旅を始めます。
かつては、円柱は2本あり、もう1本は現在レッチェにあるそうです。
この円柱も地震などで倒壊、再建を繰り返し、オリジナルではなく、レプリカです。オリジナルの柱頭部分はここから徒歩数分のグラナフェイ・ネルヴェーニャ邸にあります。 -
グラナフェイ・ネルヴェーニャ邸のオリジナル。
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これが海を見下ろしていたのです。BC48年、エジプトに向かったシーザーはこの塔を見上げたでしょうか。2年後、シーザーの子供と言われるカエサリオンをつれたクレオパトラも、この塔の下を通ったのです。
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現在のブリンディシにもアッピア通り(Via Appia)という名の道路があります。
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カルミエ通りよりカルロ5世城(Bastione Carlo V)という、城というより堡塁を抜けると、
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Via Appiaです。
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拡大。
この道路を直進すると、 -
鉄道線路に阻まれます。しかし左に地下道があり、くぐり抜けると、
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ロータリーに出ます。
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ここからまっすぐな道路が西南に向かいます。
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アッピア通りでした。
この道路は郊外で国道7号(SS7)となります。メザーニェまで約12.3キロ、完全な直線です。ローマの街道の特徴は、可能な限り直線に作る。
NASAの地図では、アッピア街道はこのあとオーリアを経てターラントに向かいます。そして北西に向きを変え、ローマに至ります。ローマ郊外の国道7号線です。
塩野によれば、「二千年前のローマ街道を、少しばかり手を加えたにしろほぼ同じ道筋をアスファルト舗装しただけで使っているのが、イタリアの国道(SS)なのである」 -
かつて、車道幅4メートル、両側の歩道3メートルの敷石舗装の道路がまっすぐ続いておりました。
この道をシーザーもクレオパトラも行き来したのです。 -
一気にローマ郊外にワープします。
クインティーリのヴィラを通り抜け、北西の角のサンタ・マリア・ノヴァからアッピア・アンティカ(アッピア旧道)に出ました。以降アッピア・アンティカをアッピア街道と表記します。ここから南東に1キロほど歩き、Uターンして、ローマに向かいました。ブリンディジから来てローマに近づいた旅人の気分を味わいます。 -
アッピア街道も、ここまで来る観光客はめったにいません。地元の方が犬を連れて散歩していました。「この先には、すてきなPalazzoがあるよ。是非行ってご覧なさい」Palazzo(館)以外のイタリア語は聞き取れませんでしたが、多分こう勧めてくれたと思います。でもこの方、どこから来てどこに行くのでしょう。周りに家はありません。
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この敷石舗装はオリジナルではありません。
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これがオリジナルに近い。
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一辺が70センチの大石を隙間なく敷きつめていました。
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車道は幅員4メートル、両側に3メートルの歩道がありました。歩幅で計ってみました。車道はきっちり4メートル。歩道は、どこからどこまでかは明確ではありませんが、優に3メートルはあります。
塩野によるローマの街道の素晴らしさを要約します。
ローマ帝国の常備軍はたった20万。それであの広大な帝国を維持できたのは、アッピア街道をはじめ帝国領内に張り巡らされた街道でした。
必要があれば迅速に軍団を移動させられるこの街道は、アッピア街道クラスの公道が8万キロ、支線を併せると30万キロでした。
ローマ帝国の衰亡とともに、さすがの帝国もアッピア街道のメンテナンスに手が回らなくなります。3世紀のことです。
それでも6世紀にビザンチン帝国の重臣が通った、300年間放置されていたアッピア街道は、彼らを驚嘆させるものがありました。(要約おわり) -
それから1300年後のアッピア街道が、これです。
かつてはびっしり敷きつめられた敷石は角が取れ、雑草が生えました。陥没したところも多く、水たまりができていました。水たまりを飛び石で歩くような所もありました。
しかし、塩野は言います。
「現代の我々が見るのは、一貫した政治を支える国家が消滅した後長く放置され(中略)いかに快適な自動車に乗っていようとも腸捻転を起こしそうな状態のローマ街道である。だからそれを見て、ローマ街道はこれかと、誤解しないでほしいのだ」
このアッピア街道に面して個人の家があります。自動車の通行も禁止されてはいません。
完成後二千数百年、メンテナンスが放棄されてから1700年、それでも現代の自動車が走ることができる道路というのは、むしろ驚異です。
基本設計が優れ、それを施工した土木技術がいかに高かったかを証明しています。
現代のイタリアでも、日本でも、たかだか数十年の使用でぼこぼこになった道路は珍しくありません。
なお、この道路を実際に作ったのは、この道路を通ることになる軍団の兵士だそうです。その費用を負担したのは政府です。ローマ軍以外、一般人も無料で通ることができました。費用自己負担ですが、街道から自分の屋敷に至る私道を作ることも許されていました。 -
ローマに向かってしばらく進むと、右側に見えてくるのが、「Aquedotto del Grande Ninfeo. Aquedotto」
詳しくは
「イタリア2019春-4 クインティーリ荘(Villa dei Quintili ) 、水はどこから? 入口は?」
https://4travel.jp/travelogue/11500381
をご覧下さい。
建物の左端、白い円柱が立っています。 -
アッピア街道の旅程標、第5マイルストーンでした。帰国してから気がつきました。正面からちゃんと写真を撮っておけばよかった。
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Mausoleo piramidale、ピラミッド状の霊廟だそうですが、だれがなんのために造ったのでしょう。命名した人もなんだか分かっていないじゃないかという名称です。
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カランカラン音がします。なにかと思ったら、羊の群れがアッピア街道を横切ります。首に下げている鈴です。こういう群れが十くらい通りました。何百頭いたか分かりません。アッピア街道の両側は緑の農地なのです。その間、ごらんのように自転車も歩行者もただ待ちます。
この道を3列縦隊で行軍したローマの軍団も、羊の群れには進軍をとめたのでしょう。「ラッキー、休めるぜ」とラテン語で兵士が言ったに違いない。 -
羊の群れも終わりかけ、歩行者は前に進みます。
軍団の隊長「前へ、すすめ!」
兵士「チェ、もう終わりかよ」 -
ローマの騎兵、ではありません。馬でアッピア街道を散策しているのです。贅沢な趣味です。
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塩野によれば、ローマ時代のアッピア街道歩道のすぐ近くにはこのような木はなかった。木の根が敷石の下に這い込んで、道路の基礎を毀損するのを防ぐためだそうです。
炎天下、日陰のない街道を行進する兵士たちは大変だったでしょう、 -
Sepolcro dei Festoni e del Frontespizio(FestoniとFrontespizioの墓、ということらしい)
そのかわり、こうした墓碑があちこちにありました。多少は太陽の光を防いでくれたでしょうか。
アッピア街道の建設を企画し、工事を始めたのはアッピウスです。その名をとってアッピア街道と名づけられました。
「公道に面して墓碑や墓標を建てるローマ人の慣例の先鞭をつけたのもアッピウスで、自分の墓はアッピア街道筋に建てよと遺言して死んだのである」(塩野) -
こうした墓碑が点々と続きます。
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2人の墓碑だったのですね。夫婦でしょうか、親子でしょうか。
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立像を墓碑にしたのでしょう。衣装は女性のようです。最愛の妻だったのでしょうか。
残念なことに、墓碑で破壊を免れたものはありませんでした。
ゲーテはイタリア紀行1786年11月11日の条で、こう記述しています。
「アッピア通りに沿った破壊された墓地、メテッラの墓などを見物した。(中略)これらを作った人々は永遠を目的として働いたのであって、万全を期したのであったが、ただ破壊者の狼藉ということだけは、計算の中へ入っていなかった」(古典教養文庫電子版 岩崎真澄訳/上妻純一郎改訳編集)
18世紀後半には、これらの墓碑は現状のように破壊されていたのです。記念碑を破壊したのは、時の流れと自然の風雨ではなく、人間でした。 -
こういうようなものがあちこちにありました。くたびれたので座っていました。お墓の一部かもしれません。罰当たりでした。でも、ローマ市観光局、年寄りの観光客向けにベンチくらい用意してくれてもいいんじゃないかな。
石垣の向こうは農場です。 -
街道の両側は、農地か、豪勢な邸宅でした。
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「私有地」とあります。監視カメラがあるぞ、ということでしょう。
☆アッピア街道で古代ローマの面影をわずかでも感じられるのは、街道に交差するトール・カルボーネ通りくらいまででした。
ここを過ぎて墓碑が並び始めると、観光客が目立ち始めます。
ティチーリア・メッテラの墓、セバスティアーノのカタコンべからは、完全な観光地となります。
カタコンベを過ぎてからは、アッピア街道は現代の自動車道となり、歩く意味はありません。それよりも、歩道が狭く、疾走する自動車が危険で歩けません。 -
カタコンベの少しローマ寄り、左に曲がる坂道を登ると、静かな歩道があります。
これをしばらく進み、坂を下りると右手に小さな教会がありました。 -
ドミネ・クオ・ヴァディス教会です。
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Domine quo vadis? ラテン語で「主よ、どこへ行くのですか?」
キリストの高弟ペテロが、キリスト教徒への迫害の激しいローマを逃れてここまで来ると、キリストが現れた。ペテロは、Domine quo vadis?「主よ、どこへ行くのですか?」と問いかけます。「十字架へかかるためにもう一度ローマへ」ペテロはそれを聞いて自分の行いを恥じ、ローマに戻り、現在のバチカン、サンピエロ大聖堂の前の広場で処刑されたという伝説があります。
その言葉そのままの教会です。
私たちはもっと大きな、たとえばパリのノートルダム大聖堂のようなものを想像していました。しかし、小さな村の小さな教会でした。
私たちは好ましく思いました。 -
私たちのアッピア街道はここで終わります。
これから先、ローマへの街道は、ただの自動車道です。
ドミネ・クオ・ヴァディス教会の先に、赤い標識の118番のバス停がありました。これでローマ市内、コロセオに戻ります。 -
バス停の前の水道です。
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ただの水道です。しかし・・・
塩野は、ローマ帝国の2大インフラとして、街道と水道をあげました。
ローマ市内には、無数に水道がありました。水道は、無料、このように栓がなく、垂れ流しだったそうです。水道栓を造る技術がなかったわけではありません。
水は滞れば腐ります。流しっぱなしのほうが衛生的なのです。ローマ市民はここに来て、好きなだけ、無料で、新鮮な水を汲んでいったのです。
中世ヨーロッパは、ローマ人があれほど愛好した入浴の習慣を失い、清らかな水の供給もなく、不潔、不衛生で、悪疫の流行に悩まされた時代でした。
「歴史は進歩しない、変化するのみ」というようなことを言ったのは小林秀雄だと思います。その見本みたいです。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 前日光さん 2020/07/24 23:49:01
- これがアッピア街道!
- こんばんは、しにあの旅人さん。
高校時代、「アッピア街道の松」という曲が、高校の吹奏楽部などでも演奏され、その時に「アッピア街道」というのを認識しました。
それにしてもローマからではなく、終点のブリンディジからアッピア街道を辿るというのは、4トラの数あるアッピア街道旅行記の中でも唯一無二なのでは?
街道も気になりますが、私はブリンディジという場所に惹かれます。
なぜかというと、ここは森鴎外の「舞姫」の主人公太田豊太郞が初めてヨーロッパの地を踏んだその場所だからです。
舞姫は、高3の現代文教科書には常連の教材でした。(今は分かりませんが)
ですから教えるに当たって、イタリアのどの辺りなのか?と地図で確認した記憶があるのです。
おそらくは漱石も英国留学の際は、ここからドーバー海峡を渡ったのでしょう。
近代文学に関しては、あまり詳しくないのですが、はるばる横浜港を出発してやっとここに辿り着き、ヨーロッパを最初に感じる場所だったのだろうと思うと感無量です。アッピア街道終点の塔などを、あの文豪たちも眺めたに違いありませんよね!
そしてローマまでアッピア街道を辿ったのでしょうか?
ドミネ・クオ・ヴァディス教会が、ノートルダムのように巨大な建物ではなかったという点に好ましさを感じたとのこと、共感します。
小さな村の小さな教会だったなんて、素敵なことです。
最後の小林秀雄の言葉、「歴史は進歩しない、変化するのみ」にも、ああ、いかにも小林が言いそうと思いながら、悔しいけれど、共感する自分がいます。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2020/07/25 07:43:51
- Re: これがアッピア街道!
- 読んでいただきましてありがとうございます。
森鴎外がブリンディジ上陸とは知りませんでした。てっきりマルセイユだと思っておりました。
この街はフェデリーコ2世がイスラエル王の娘、ヨランダと、ローマ法王のお節介で結婚式をあげた街です。政略結婚で、当時14歳のヨランダはかわいそうでした。
イタリアは、フェデリーコ2世紀行の続きで、もう一度行きたいのですが、コロナ騒ぎで、これじゃダメでしょうね。来年はだめ、その次はこっちの体力がもつか。
新聞に奈良に観光客が戻ったと書いてありました。写真では、東大寺の参道は鹿より人間の方が多くなりました。奈良にはありがたい話でしょうが、第2波が心配。
地元九十九里でも観光客が戻ってきました。マスクをしていない、サーファーと思われる人たちもいました。大きな魚屋で、多分バーベキューの材料を買いにきたのでしょうが、完全に緩んでいます。店の入り口の消毒液も空でした。2週間前、同じ魚屋で、客は我々地元民だけでした。
うちの町周辺では今までコロナ感染者0できましたが、これでは危ない。我が家だけでももう一度気を引き締めようと思っています。
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