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中国西部の日本百名城巡りです。今回の城巡りのツアーで、最後に見学した、『岩国城』の紹介です。4階と6階が、下の階より張り出した外観は『南蛮造』と呼ばれ、1962年(昭和37年)3月に鉄筋コンクリート造りで再建されました。

2018春、中国西部の日本百名城(26/28):4月4日(12):岩国城(2):大釣井、南蛮天守

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2018/04/03 - 2018/04/04

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旅人のくまさん

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中国西部の日本百名城巡りです。今回の城巡りのツアーで、最後に見学した、『岩国城』の紹介です。4階と6階が、下の階より張り出した外観は『南蛮造』と呼ばれ、1962年(昭和37年)3月に鉄筋コンクリート造りで再建されました。

交通手段
観光バス 新幹線

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  • 巨大な『大釣井(おおつるい)』のズームアップ光景です。この大井戸は慶長13年(1609年)の築城と同時に掘られました。非常時の武器、弾薬等の収納の役目や敵に包囲された時の脱出口の機能をもった井戸との説もあります。その井戸の上を横断する蔓は、藤当たりでしょうか。

    巨大な『大釣井(おおつるい)』のズームアップ光景です。この大井戸は慶長13年(1609年)の築城と同時に掘られました。非常時の武器、弾薬等の収納の役目や敵に包囲された時の脱出口の機能をもった井戸との説もあります。その井戸の上を横断する蔓は、藤当たりでしょうか。

  • 大釣井の光景です。少し登った、小高い場所から振り返っての撮影です。この付近は『水の手』と呼ばれ、城の水場として重要な場所でした。峪筋下方には『小釣井』が設けられていたようです。

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    大釣井の光景です。少し登った、小高い場所から振り返っての撮影です。この付近は『水の手』と呼ばれ、城の水場として重要な場所でした。峪筋下方には『小釣井』が設けられていたようです。

  • ロープウェイは使用せず、麓から岩国城までは歩いて登ることにしました。登山道から見上げた、上空を覆う大樹の光景です。

    ロープウェイは使用せず、麓から岩国城までは歩いて登ることにしました。登山道から見上げた、上空を覆う大樹の光景です。

  • 通路脇の石垣光景です。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封となりました。同時に一族であり毛利家存続に注力した吉川広家も、米子城から当地に3万石で封じられました。

    通路脇の石垣光景です。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封となりました。同時に一族であり毛利家存続に注力した吉川広家も、米子城から当地に3万石で封じられました。

  • 『シャガ(射干、著莪、胡蝶花)』の花です。アヤメ科アヤメ属の多年草です。シャガは中国原産で、かなり古くに日本に入ってきた帰化植物とされます。三倍体のため種子が発生しませんので、日本に存在する全てのシャガは同一の遺伝子を持ちます。この点では、『ヒガンバナ(彼岸花)』と似ています。

    『シャガ(射干、著莪、胡蝶花)』の花です。アヤメ科アヤメ属の多年草です。シャガは中国原産で、かなり古くに日本に入ってきた帰化植物とされます。三倍体のため種子が発生しませんので、日本に存在する全てのシャガは同一の遺伝子を持ちます。この点では、『ヒガンバナ(彼岸花)』と似ています。

  • 『シャガ(射干、著莪、胡蝶花)』の花のズームアップ光景です。人為的影響の少ない自然林内にはあまり自生せず、スギ植林の林下に見られる場所などは、かつては人間が住んでいた場所である可能性が高いとされます。そういう場所には、チャノキなども見られることが多いとも言われます。(ウィキペディア)

    『シャガ(射干、著莪、胡蝶花)』の花のズームアップ光景です。人為的影響の少ない自然林内にはあまり自生せず、スギ植林の林下に見られる場所などは、かつては人間が住んでいた場所である可能性が高いとされます。そういう場所には、チャノキなども見られることが多いとも言われます。(ウィキペディア)

  • 平成7年(1995年)に復元された天守台の光景です。前身の横山城は8年の歳月をかけて、慶長13年(1608年)に完成しましたが、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に江戸幕府の一国一城令により、横山城は破却されて廃城となりました。

    平成7年(1995年)に復元された天守台の光景です。前身の横山城は8年の歳月をかけて、慶長13年(1608年)に完成しましたが、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に江戸幕府の一国一城令により、横山城は破却されて廃城となりました。

  • 平成7年に復元された天守台の光景です。岩国領は、本藩である長州藩より長期にわたって独立した支藩として認められず、陪臣として扱われました。明治維新の年、慶応4年(1868年)にようやく独立の藩として認められましたが、明治4年(1871年)には廃藩置県によって廃藩とされたため、正式に独立した藩庁として機能した時期は僅かでした。

    平成7年に復元された天守台の光景です。岩国領は、本藩である長州藩より長期にわたって独立した支藩として認められず、陪臣として扱われました。明治維新の年、慶応4年(1868年)にようやく独立の藩として認められましたが、明治4年(1871年)には廃藩置県によって廃藩とされたため、正式に独立した藩庁として機能した時期は僅かでした。

  • 復元された『南蛮天守』と呼ばれる岩国城の天守光景です。先ほど紹介したオリジナルの天守台から、50メートルほどの位置に再建されました。麓からの見栄えがよい場所を選んで築城されたようです。

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    復元された『南蛮天守』と呼ばれる岩国城の天守光景です。先ほど紹介したオリジナルの天守台から、50メートルほどの位置に再建されました。麓からの見栄えがよい場所を選んで築城されたようです。

  • 復元された『南蛮造』と呼ばれる岩国城の天守の周りの光景です。現在の模擬天守は、1962年(昭和37年)3月、本丸南側に『天守構造図』という絵図を元に鉄筋コンクリート構造により建てられました。設計は、東京工業大学教授の藤岡通夫(1908~1988年)です。近世建築史の権威だった人です。

    復元された『南蛮造』と呼ばれる岩国城の天守の周りの光景です。現在の模擬天守は、1962年(昭和37年)3月、本丸南側に『天守構造図』という絵図を元に鉄筋コンクリート構造により建てられました。設計は、東京工業大学教授の藤岡通夫(1908~1988年)です。近世建築史の権威だった人です。

  • 『錦帯橋』の新旧の構造の違いを説明したパネルのようです。左の図が、現在の『新しい橋脚』と題された断面図、右側がかつての『昔の橋脚』の断面図です。石垣の下には、基礎補強用の木材が表示してありました。

    『錦帯橋』の新旧の構造の違いを説明したパネルのようです。左の図が、現在の『新しい橋脚』と題された断面図、右側がかつての『昔の橋脚』の断面図です。石垣の下には、基礎補強用の木材が表示してありました。

  • かつての『横山城』の天守を飾った瓦製の鯱のようです。役割を終えて展示用になったのかも知れません。『横山城』が廃城にされたのが、元和元年(1615年)ですから、400年ほどが経過しましたので、オリジナルの鯱ではないかも知れませんが、歴戦の雄らしい傷が残った姿でした。

    かつての『横山城』の天守を飾った瓦製の鯱のようです。役割を終えて展示用になったのかも知れません。『横山城』が廃城にされたのが、元和元年(1615年)ですから、400年ほどが経過しましたので、オリジナルの鯱ではないかも知れませんが、歴戦の雄らしい傷が残った姿でした。

  • 岩国城の最上階からの眺めです。この方角には見るべきものがありませんでした。岩国城の再建時の設計者だった、東京工業大学教授の藤岡通夫(1908~1988年)市の紹介の続きです。近世建築史(城郭・住宅建築)研究に業績を残したほか、東洋建築史研究では、戦前にアンコールワットを調査し、その後はネパール王宮の建築研究と保存実施への道を拓いた人です。

    岩国城の最上階からの眺めです。この方角には見るべきものがありませんでした。岩国城の再建時の設計者だった、東京工業大学教授の藤岡通夫(1908~1988年)市の紹介の続きです。近世建築史(城郭・住宅建築)研究に業績を残したほか、東洋建築史研究では、戦前にアンコールワットを調査し、その後はネパール王宮の建築研究と保存実施への道を拓いた人です。

  • 眼下に、階下の甍の先が見える光景です。樹々に半ば隠れた場所に街並み光景があり、その先には、幾重にも重なった小高い山並みが連なっていました。藤岡通夫氏は、1969年(昭和44年)から日本工業大学教授(1973年から1977年まで学長)となり、その時代にネパール調査建築調査団を組織し、カトマンズ盆地に三つある王宮の調査を行い、後に報告書を出版しました。

    眼下に、階下の甍の先が見える光景です。樹々に半ば隠れた場所に街並み光景があり、その先には、幾重にも重なった小高い山並みが連なっていました。藤岡通夫氏は、1969年(昭和44年)から日本工業大学教授(1973年から1977年まで学長)となり、その時代にネパール調査建築調査団を組織し、カトマンズ盆地に三つある王宮の調査を行い、後に報告書を出版しました。

  • 藤岡通夫氏が、国内で行った城郭の再建時の実績の紹介です。西南戦争で失われた熊本城(1960年)や、アメリカ軍の空襲で焼失した和歌山城の外観復元(1958年)を行いました。また、小倉城(1960年)、岩国城、大多喜城、中津城などを担当したほか、真城寺(1951年)、長浜城(1982年)なども手掛けました。文化庁の文化財保護委員会委員なども務めました。 <br />

    藤岡通夫氏が、国内で行った城郭の再建時の実績の紹介です。西南戦争で失われた熊本城(1960年)や、アメリカ軍の空襲で焼失した和歌山城の外観復元(1958年)を行いました。また、小倉城(1960年)、岩国城、大多喜城、中津城などを担当したほか、真城寺(1951年)、長浜城(1982年)なども手掛けました。文化庁の文化財保護委員会委員なども務めました。

  • 藤岡通夫氏は、1979年(昭和54年)に日本工業大学を退官された後、同年に藤岡建築研究室ー級建築士事務所を開設されています。人物は温厚で、議論は声を荒げてするようなことはなかったとされ、議論が堂々めぐりになって収拾がつかなくなる場合、穏やかな口 調ではあるものの、きっぱりと結論を出され、確固たる学問的信念には、反論を許さない厳しさがあったと伝わります。

    藤岡通夫氏は、1979年(昭和54年)に日本工業大学を退官された後、同年に藤岡建築研究室ー級建築士事務所を開設されています。人物は温厚で、議論は声を荒げてするようなことはなかったとされ、議論が堂々めぐりになって収拾がつかなくなる場合、穏やかな口 調ではあるものの、きっぱりと結論を出され、確固たる学問的信念には、反論を許さない厳しさがあったと伝わります。

  • 岩国城から眺めた眼下の光景です。桜が咲き揃った付近は『吉香(きっこう)公園』の背後辺りになるようです。『吉香公園』は、『錦帯橋』と共に『日本さくら名所100選』に選定されています。

    岩国城から眺めた眼下の光景です。桜が咲き揃った付近は『吉香(きっこう)公園』の背後辺りになるようです。『吉香公園』は、『錦帯橋』と共に『日本さくら名所100選』に選定されています。

  • 岩国城から眺めた、錦帯橋(きんたいきょう)の光景です。錦川に架かる、木造のアーチ橋です。初代の橋は、江戸時代の1673年に完成しています。日本三名橋や日本三大奇橋に数えられていて、名勝に指定されています。右上に、バスの駐車場が見えていました。

    イチオシ

    岩国城から眺めた、錦帯橋(きんたいきょう)の光景です。錦川に架かる、木造のアーチ橋です。初代の橋は、江戸時代の1673年に完成しています。日本三名橋や日本三大奇橋に数えられていて、名勝に指定されています。右上に、バスの駐車場が見えていました。

  • 錦川に架かる錦帯橋より、上流方面のズームアップ光景です。右端に錦帯橋に近い上流側の橋が見えていました。錦帯橋葉車が通れませんから、この橋が交通の要になっているようでした。白っぽく見える広場は、大駐車場のようですが、地図には、『横山河川敷・運動公園』と記されていました。

    錦川に架かる錦帯橋より、上流方面のズームアップ光景です。右端に錦帯橋に近い上流側の橋が見えていました。錦帯橋葉車が通れませんから、この橋が交通の要になっているようでした。白っぽく見える広場は、大駐車場のようですが、地図には、『横山河川敷・運動公園』と記されていました。

  • 同じ場所から、少しだけズームアップした、小山と、その先の光景です。瀬戸内海に浮かぶ島の姿もぼんやりと見えました。手元の地図での確認ですが、『阿多田島』辺りになるようです。

    同じ場所から、少しだけズームアップした、小山と、その先の光景です。瀬戸内海に浮かぶ島の姿もぼんやりと見えました。手元の地図での確認ですが、『阿多田島』辺りになるようです。

  • 先程より、更に左側方面の光景です。小山でその先の視界が塞がりました。次第に北側方面の光景になって来たようです。錦川は、その山の麓を巡っていました。

    先程より、更に左側方面の光景です。小山でその先の視界が塞がりました。次第に北側方面の光景になって来たようです。錦川は、その山の麓を巡っていました。

  • 岩国城の目前で、大きく蛇行する錦川の光景です。左下が川上方面、蛇行した先が瀬戸内海の安芸灘に注ぐ川下方面になるようです。

    岩国城の目前で、大きく蛇行する錦川の光景です。左下が川上方面、蛇行した先が瀬戸内海の安芸灘に注ぐ川下方面になるようです。

  • 目線を岩国城の近くに戻して、緑に覆われた近くの山並み光景です。右下に、岩国城のライトアップ用の照明器具が見えていました。左下には、修景用らしい石垣風の屋根付きの塀が見えました。

    目線を岩国城の近くに戻して、緑に覆われた近くの山並み光景です。右下に、岩国城のライトアップ用の照明器具が見えていました。左下には、修景用らしい石垣風の屋根付きの塀が見えました。

  • 眼下に岩国城の甍が見える光景です。先ほど紹介した、修景用らしい石垣風に塀が、甍の延長線上に見えていました。

    眼下に岩国城の甍が見える光景です。先ほど紹介した、修景用らしい石垣風に塀が、甍の延長線上に見えていました。

  • 天守から眺めた、眼下の光景が続きます。先程よりは、反時計回りに移動した場所からの光景です。

    天守から眺めた、眼下の光景が続きます。先程よりは、反時計回りに移動した場所からの光景です。

  • 同じく、天守から眺めた、眼下の光景です。事務所のような建物光景がありましたが、写真を拡大して名札を確認しましたら、『休憩所』の建物でした。

    同じく、天守から眺めた、眼下の光景です。事務所のような建物光景がありましたが、写真を拡大して名札を確認しましたら、『休憩所』の建物でした。

  • 天井に表示してあった、東西南北の方向表示です。四方の写真を撮る時に、方向表示は参考になりますが、眺望と一緒に撮影することは出来ませんでした。

    天井に表示してあった、東西南北の方向表示です。四方の写真を撮る時に、方向表示は参考になりますが、眺望と一緒に撮影することは出来ませんでした。

  • 岩国城の最上階に置かれていた、見学用の望遠鏡の光景です。お子さん用の台座も置かれていました。

    岩国城の最上階に置かれていた、見学用の望遠鏡の光景です。お子さん用の台座も置かれていました。

  • 最上階から眺めた眺望です。遠くに瀬戸内海が見えていましたから、東側方面の光景になるようです。岩国市は、東側が安芸灘に面しています。安芸灘の奥が広島湾です。

    最上階から眺めた眺望です。遠くに瀬戸内海が見えていましたから、東側方面の光景になるようです。岩国市は、東側が安芸灘に面しています。安芸灘の奥が広島湾です。

  • 同じく、最上階から眺めた麓の光景です。大きく蛇行する錦川と、その周りの市街光景です。錦川は、山口県藍を流れる最も大きな川で、山口県の北東部、周南市(旧都濃郡鹿野町)を水源としています。右手前に錦帯橋、左手前に錦城橋が見えていました。先程と同じ、東側方面の光景です。

    同じく、最上階から眺めた麓の光景です。大きく蛇行する錦川と、その周りの市街光景です。錦川は、山口県藍を流れる最も大きな川で、山口県の北東部、周南市(旧都濃郡鹿野町)を水源としています。右手前に錦帯橋、左手前に錦城橋が見えていました。先程と同じ、東側方面の光景です。

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