2018/04/03 - 2018/04/04
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旅人のくまさんさん
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中国西部の日本百名城巡りです。旅行2日目は、3箇所目の萩城の見学を終えて、岩国城に向かいました。関ヶ原の戦いのあと、はじめ西軍だった吉川広家によって築かれた城です。
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萩の見学を終えて、岩国に向かう途中の車中光景です。川沿いの染井吉野らしい桜が満開でした。岩国市の公式HPによる、岩国藩の歴史紹介です。時代は関ヶ原の戦いの慶長5年(1600年)に戻ります。西軍の豊臣方だった毛利輝元に仕える吉川(きっかわ)広家は、この戦の勝者は東軍の徳川方になると予測し、関が原の戦いの前夜、広家は、毛利輝元の重臣と共に、徳川方と密約を結びました。
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岩国に到着しました。横山山頂に建つ再建された岩国城の光景です。吉川広家が結んだ密約は、『戦において毛利軍は中立を守り、動かない。だから、毛利氏の領国112万石はそのままにするように』といった内容でした。合戦は広家が予測した通り、東軍の勝利に終わりました。密約を守り、動くことのなかった毛利家は安泰と思われました。
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岩国の歴史を見詰めてきた、錦川の光景です。関ヶ原の戦いのあとの話しに戻ります。毛利輝元は、西軍の総大将として連判状に名を連ねていた身です。家康は密約を反故とし、毛利家のお家断絶を決めました。そして、吉川広家については、密約を守り、誠に律儀だったとして、周防国・長門国のニ国を与えることにしました。
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日本三大名橋に数えられる、錦川に架かる錦帯橋の光景です。家康の決定は、広家にとって本意ではないものでした。すぐに広家は、毛利家存続のために全力を尽くしました。その甲斐もあり、家康は毛利家の断絶を改め、輝元へ周防国・長門国を与えることにしました。 広家もまた、輝元より周防の東の要所となる岩国(3万石)を与えられ、出雲の富田(12万石)から移ることになりました。
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錦帯橋の麓に向かう途中の光景です。慶長6年(1601年)、岩国に入った広家は、すぐさま領内を検分し、城下町の造営に着手しました。合戦直後という不安定な情勢にあって、城下町は防御に重きをおく形となりました。横山の山頂を要害(砦・城塞)として城を、山の麓には御土居(おどい;藩主の居館・屋敷)を築くことにしました。
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イチオシ
錦川に架かる錦帯橋の光景です。そして、錦川を天然の外堀とし、内側の横山地区に諸役所や上級武士の居住区を、対岸の錦見地区に中下級武士や町民の居住区を置くことにしました。慶長7年(1602年)、上の御土居(広家の母の居館)と下の御土居(広家の居館)を築きました。
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錦川に架かる錦城橋の光景です。慶長8年(1603年)からは山上の要害を起工し、慶長13年((1608年)に竣工、森脇飛騨守、兼重杢之允、森脇新右衛門らに城番を命じています。しかし、この件は、元和元年(1615年)に出された一国一城令により破却されました。土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令しましたが、法令の立案者は大御所徳川家康でした。
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屋形船が係留された、錦川の河畔光景です。『一国一城令』により、安土桃山時代に3千近くあったといわれる城郭が、約170まで激減しました。陣屋を含めても約300です。結果として家臣団や領民の城下町集住が一層進んだとされます。 大名の軍事を統制して、徳川家による全国支配を強化することを目的としたもので、特に外様大名の多い西国に徹底されました。
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屋形船が係留された、錦川の河畔光景です。毛利家では長門国の萩城を残して岩国城などを破却し幕府に報告しましたが、幕府の反応は『毛利家は周防国、長門国の二国だから周防国の岩国城まで破却する必要はなかった』というものででした。幕府への遠慮や、毛利家内部の支藩統制上の思惑もあり、先走って破却が行われたと考えられているようです。
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錦川河畔の町並光景です。『一国一城令』は、『一国に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残して、その他の城はすべて廃城にする』というものです。この場合の『一国』は、『令制国』と『大名の領国』の両方の意味を持っていました。『 令制国(りょうせいこく)』とは、日本の律令制に基づいて設置された、地方行政区分です。飛鳥時代から明治時代初期までの地理的区分の基本単位でした。
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イチオシ
錦帯橋の上の光景です。令制国の成立時期は、早ければ大化元年(645年)、遅ければ大宝元年(701年)とされます。日本の古代には、令制国が成立する前に、土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階がありました。それに対して、令制国は、中央から派遣された国司(こくし、くにのつかさ)が治める国のことです。
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錦帯橋の踏み板のズームアップ光景です。『一国一城令』が発令されたのは、大坂の陣(1615年5月)のすぐ後であり、幕府に対する反乱はもちろん、大名同士の戦争も封じるためのものともされます。『 一つの令制国を複数の大名で分割して領有している場合は、各大名ごとに一城』 、『一つの大名家が複数の令制国に跨がって領有している場合は、各令制国ごとに一城』との考えだったようです。
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『一国一城令』の一番の目的は、大名、とくに西国諸大名の軍事力を削減するためとされ、数日のうちに約400の城が壊されたようです。幕府に対する反乱はもちろん、大名同士の戦争も封じるためのものでした。この法制に各大名はそれぞれに対応し、分家統制の目的で積極的に動いた藩や、本城以外をすべて破却したと報告したが、実は嘘だった藩など様々だったようです。
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ところで、岩国藩は城下町形成の過程で、防御に重きを置いたために、一つの不便な点がありました。それは、錦見地区に住む中下級武士は、藩政の中心である横山地区へ行くために、幅200m の錦川を渡る必要があったことです。橋は、城下町が造営された当初から架けられていたようですが、出水により度々流失し、藩政に与える影響は深刻でした。
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残された資料で橋の存在が確認できるのは寛永16年(1639年)です。9月17日に、河上源介などが連名で出した布令によれば『横山橋損候はゞ、不依多少、即時つくろひ可申候事』、『河狩之者など橋之下にて火燃せ申間敷く候事』とあります。また、『橋柱に舟筏一切つながせ申間敷候事』ともあり、橋の重要性が認識されていたことと、当時の橋は決して強固ではなかったことが想像されます。
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承応3年(1654年)の記録によれば、『橋がないため、6月より渡船は2艘、乗手4人とする』と記されていて、それまでは1艘だったようです。少々の出水や風では、渡船を止めることはなかったようですが、限度を超える水が出ると、渡船は危険となり、川を渡る手段はなくなりました。城下町は川で二分され、政治もままならない状況に陥りました。
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侍屋敷の光景が続きます。この武家屋敷門には『淡窓庵』の扁額がありました。二代目藩主・吉川広正は、明暦3年(1657年)3月から架橋にとりかかり、9月16日に渡り初めを行いました。しかし、この橋もまた、万治2年(1659年)5月19日の洪水により流失しました。橋が度々流失する最大の要因は、約200mという広い川幅と、急流になりやすい川の形状にありました。
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侍屋敷の長塀の光景です。城下町付近で流れの向きは、何度も大きく変化していました。また、川床には砂利が深く堆積し、そこに建てられた橋脚は、激しい流水に耐えることができませんでした。また、当時の藩の技術者は大きな橋を架設した経験に乏しく、砂利にしっかりした橋脚を築く技術もなかったようです。流れない橋の実現、それが藩の悲願になっていました。
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『旧岩国藩家老・吉川氏屋敷跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。第3代領主の吉川広純(後の広嘉)は、早くから流れない橋への研究を始めています。家臣の小河内玄可に橋の模型を作らせ、真田正臣にも橋についての相談をしています。また、有能な技術者であった児玉六郎左衛門と児玉九郎右衛門兄弟に命じて、橋の検討や創意工夫をさせました。
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花筏の渋滞状況です。吉川広純は、藩内外の橋の研究もしていたようです。錦帯橋創建の1年前にあたる寛文12年(1672年)には、九郎右衛門を長崎に派遣しています。名目は広嘉の薬を買うためでした。しかし、技術者である九郎右衛門をそのためだけに派遣するとは考え難いこと。眼鏡橋など長崎の石造アーチ橋を研究させたとも考えられています。橋脚のないアーチ橋なら、橋は流されることはないと考えたからです。
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菫の花の光景です。吉川広嘉は、橋脚のないアーチ橋なら、橋は流されることはないと考えいました。彼の努力により、アーチ橋の研究は進みました。しかし、どうしても解決できない問題がありました。それが約200mという錦川の川幅で、この川幅を一つのアーチで跨ぐのは、当時の技術では困難でした。実際、当時の橋脚のないはね橋は、川幅の短いところに架かるものばかりでした。
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桜の落花が浮かぶ堀跡の光景です。そんな広嘉には27歳の頃から患う持病がありました。一時は回復したものの、40歳頃から再発し、療養に専念していました。その時、明の帰化僧・独立(どくりゅう)の名医としての評判を聞きました。広嘉は早速、侍医佐伯玄東を長崎に遣わすなどして、寛文4年(1664年)4月、独立は岩国を訪れ、広嘉の治療をすることになりました。
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イチオシ
麓から見上げた岩国城天守の光景です。ある時、独立の故郷、中国の杭州に話は及びました。杭州には名勝西湖があり、西湖について書かれた本『西湖志』を独立は所有していると言います。広嘉はそれを見たいと望み、独立はわざわざ飛脚を長崎へ遣わし、本を取り寄せました。
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麓の公園の噴水光景です。2ヶ月ほどが過ぎた6月、飛脚が持ち帰った『西湖志』を開いた広嘉は、机をたたいて大いに喜んだといいます。そこには、五つの小島にかかる小さなアーチ橋が描かれていました。広嘉は閃きました。錦川にいくつかの島を築いて、これにアーチ橋を架ければいいのだと。『西湖志』の絵にヒントを得たアイデアは、すぐに実現に向けて進むこととなりました。
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武家屋敷の冠木門の光景です。『国指定重要文化財・旧目加田家住宅』の標識がありました。アーチ橋の実現のため、絵にある小島のような頑強な橋脚が築かれることになりました。橋脚は、水流方向に尖った角を持つ紡錘形とし、水の抵抗を最小限にとどめる形状にするなど、様々な工夫がなされました。そして、寛文13年(1673年)6月28日、橋脚の鍬初めが行われました。
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同じく、『国指定重要文化財・旧目加田家住宅』の光景です。橋脚の構築と同時に橋梁の建設も進められ、延宝元年(1673年)10月1日に、長年の夢だった『流れない橋』が完成し、関係者には褒美が与えられました。しかし、この橋は、翌年5月28日に洪水によって流失しました。橋はこれ以降、本当に『流れない橋』の実現のため、様々な改良を加えられることになりました。
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岩国城天守に向かう、山登りの途中の光景です。あと300メートルの標識でした。橋は、流失した年内に再建され、その翌年の延宝3年(1675年)、流失の一因と思われた橋脚下部を固定する工法改良のため、湯浅七右衛門と米村茂右衛門が近江(滋賀県)の戸波駿河のもとへ派遣されました。両名は要害石垣の築造法などを学び、延宝4年9月に免状を得て岩国に帰国しました。
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岩国城天守への階段の登り道の光景です。帰国した二人は、延宝5年に敷石の補強をし、錦帯橋周辺の河床に捨石を施し、敷石の補強を重ねました。天和2年(1682年)には、人が渡るときの揺れを抑える働きをもつ鞍木(くらぎ)と助木(たすけぎ)が考案されました。近年の強度実験でも、これらの部材によって、人が渡るときの初期微動が抑えられていることが、実証されています。つまり、それまでの錦帯橋は人の歩行によって、上下左右の揺れが激しかったと考えられます。
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築城と同じ時期に掘られた大井戸の『大釣井』の光景です。鞍木と助木の考案は、それまでの錦帯橋は人の歩行によって、上下左右の揺れが激しかったと考えらています。度重なる改良や定期的な架け替え、橋板の張り替え等を足し合わせると、その回数は100回を超えました。並々ならぬ工夫と努力の積み重ねです。
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『大釣井』の囲いと看板のズームアップ光景です。延宝2年(1674年)の再建以来、276年の間、流失することなく横山・錦見間を繋いできた錦帯橋に悲劇が起こったのは、昭和25年(1950年)9月13日、キジア台風です。洪水の背景には、戦争中に松根油を採るなど、山を荒らしたのが原因とされます。昭和の再建から約50年が経過した平成13年(2001年)、『平成の架替』が行われました。
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