2018/12/01 - 2018/12/02
1718位(同エリア6102件中)
旅人のくまさんさん
- 旅人のくまさんさんTOP
- 旅行記6398冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 5,409,889アクセス
- フォロワー204人
佐賀と福岡の名城巡りです。大宰府での見学を終えた後、電車で博多まで移動し、今晩の宿探しです。すでに12月に入った時期でしたから、博多の街には、クリスマスの飾りも賑やかになっていました。宿はすぐに見つかりました。
- 交通手段
- 新幹線 JRローカル 私鉄
-
宿が見つかったところで、宿に荷物を置いて、博多の街の散策です。街路樹の銀杏の黄葉が見頃になっていました。泊まるホテルが決まりましたので、次は今晩の晩酌のお店探しです。
-
路上に散り敷いた、公孫樹の洛陽の光景です。明るい街路ですから、歩道に散り敷いた黄葉を楽しむことが出来ました。日本の秋は、カエデやナナカマドなどの紅葉、公孫樹の黄葉など、見所が一杯です。
-
撮影する角度を変えて、できる限り公孫樹を引き立てた撮影のつもりです。地上には沢山の黄葉が散り敷いていましたが、それはまだほんの一部にすぎませんでした。これからが本番の黄葉の光景です。
-
表通りから、1本億に入った通りになるようでした。今日の晩酌は、ここら当りのお店も候補です。大宰府見学の時の和歌でも紹介しましたが、奈良の都から大宰府に赴任した人達も、お酒は何よりの楽しみだったようです。大伴旅人や山上憶良もその一人だったようです。(ウィキペディア)
-
大宰府の見学の時に少し触れましたが、もう少し紹介しておきたい歌人がいます。その筆頭が、『山上憶良(660?~733年?)』です。大宝元年(701年)、第八次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽しました。まだ無官の時代です。憶良が遣唐使に選ばれたのは、大宝の遣唐使の執節使である粟田真人が同族の憶良を引き立てたとする説があります。(同上)
-
和銅7年(714年)、憶良は正六位下から従五位下に叙爵し、霊亀2年(716年)伯耆守に任ぜられます。養老5年(721年)、佐為王・紀男人らと共に、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられました。神亀3年(726年)頃、筑前守に任ぜられ任国に下向、神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人と共に、筑紫歌壇を形成しました。(同上)
-
憶良の紹介が続きます。天平4年(732年)頃、筑前守任期を終えて帰京しました。天平5年(733年)6月に、老身に病を重ね、年を経て苦しみ、「児等を思ふ歌」を、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」を詠んでいます。以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したようです。(同上)
*写真は、この日の晩酌のお店の周りの光景です。 -
憶良の歌風です。仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していました。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に取られる夫を見守る妻など、家族への愛情、農民の貧しさなど、社会的な優しさや弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでいて、当時としては異色の社会派歌人として知られます。(同上)
-
憶良は、抒情的な感情描写に長けていて、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多くあります。代表的な歌に『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などがあります。『万葉集』には78首が撰ばれていて、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として高い評価があります。(同上)
*写真は、暗い中に浮かび上がった『ロシア料理・ツンドラ』の看板です。 -
憶良の代表的な短歌の紹介です。(同上)
〇『世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば』
『万葉集』巻5-893、貧窮問答歌の反歌
〇『いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ』
『万葉集』巻1-63、『新古今和歌集』巻10-898 -
憶良の代表的な短歌紹介の続きです。(同上)
〇『憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 吾(わ)を待つらむそ』
『万葉集』巻3-337 『宴を罷(まか)る歌』
〇『つばさなす あり通ひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ』
『万葉集』巻2-145 『有間皇子の挽歌』 -
憶良の代表的な短歌紹介の締め括りです。(同上)
〇『ひさかたの 天道(あまぢ)は遠し なほなほに 家に帰りて 業(なり)を為(し)まさに』『万葉集』巻5-801)『惑へる情を反さしむる歌』の反歌
〇春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ』
『万葉集』巻5-818) 大宰府「梅花の宴」で詠んだ和歌 -
山上憶良の紹介が終わったところで、次は万葉歌人の中でも最高峰の一人、柿本人麻呂の和歌の紹介です。人麻呂、憶良、虫麻呂には、紹介したい長歌がいくつもあります。中学生の時に暗記した人麻呂の長歌『玉襷 畝傍の山の 橿原の 日知(ひじり)の御代ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いやつぎつぎに 天の下』で始まる長歌(巻1-29)は、リズムが良く、今でも時々口ずさみます。(同上)
-
人麻呂の紹介が続きます。先ほどの長歌は、『近江の荒れたる都を過ぎし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌』の前書きがあり、畝傍山の部分は神武天皇時代を、その後の近江の都は天智天皇時代を詠んだものです。『万葉集』には柿本人麻呂の作と明記した歌が七十七首、『人麻呂歌集』から採ったとする歌が三百七十首ほど収められています。四千五百余首のほぼ一割を人麻呂作品が占めています。(同上)
-
『万葉集・第一の歌人』といわれる人麻呂の歌風は、枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高いものです。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどです。また短歌では、140種あまりの枕詞を使いましたが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないもので、彼の独創性を表しています。(同上)
*写真は、夜の博多の繁華街光景が続きます。 -
人麻呂の代表的な短歌の紹介です。(同上)
〇『天離(あまざか)る 夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ』『万葉集』巻3-255
〇『東(ひむがし)の 野にかきろひの 立つ見えて かへり見すれば 月西渡(かたぶ)きぬ』『万葉集』巻1-48 -
〇『ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し』
『万葉集』巻1-47
〇『淡海(あふみ)の海(み) 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ』
『万葉集』巻3-266
まだまだ紹介したい作品がありますが、人麻呂の和歌はここまでです。(同上) -
人麻呂と並ぶ万葉集の代表的な歌人、『山部赤人(やまべのあかひと:生年不詳~736年)』の紹介です。『万葉集』には長歌13首と短歌37首が選ばれ、後年に『拾遺和歌集』に3首、勅撰和歌集に49首が入首しています。人麻呂とともに歌聖と呼ばれ、。紀貫之も『古今和歌集』の仮名序で、『人麿(柿本人麻呂)は、赤人が上に立たむこと難く、赤人は人麿が下に立たむこと難く』、と高く評価しています。(同上)
-
赤人の出自と歌風の紹介です。山部氏(山部連・山部宿禰)は、天神系氏族である久米氏の一族・久味国造の後裔で、職業部の一つである山部の伴造家とされます。また、天武天皇13年(684年)、八色の姓の制定により、山部連から山部宿禰への改姓が行われています。行幸などに随行した際の天皇讃歌が多いことから、聖武天皇時代の宮廷歌人だったようです。叙事歌に優れた歌人です。(同上)
-
赤人の代表作の紹介です。(同上)
〇『田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺(たかね)に 雪は降りける』
『万葉集』3巻-318番
〇『若の浦に 満ち来れば 潟をなみ 葦辺(あしべ)をさして 鶴(たづ)鳴き渡る』
『万葉集』6巻-919番 -
〇『み吉野の 象山(きさやま)の際(ま)の 木末(こぬれ)には ここだも騒く 鳥の声かも』 『万葉集』6巻-924番
〇『ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木(ひさぎ)生(お)ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く』
『万葉集』6巻-925番 中学校の国語の先生に、赤人の最高作品と教えて貰った2作品との記憶があります。ずい分と昔の話です。(同上) -
〇『百済野(くだらの)の 萩の古枝(ふるえ)に 春待つと 居りし鴬 鳴きにけむかも』
『万葉集』8巻-1431
〇『春の野の すみれ摘みにと こしわれそ 野を懐かしみ 一夜寝にける』
『万葉集』8巻-1424 春先の『若菜摘』を詠んだ歌と言われますが、隠し味もありそうな歌です。これで赤人の和歌の紹介はおしまいです。(同上) -
こちらは、間違いなく屋外のクリスマスツリーの飾りです。ツリーの天辺に、一番大きなイルミの飾りがありました。その背後には、広場を覆い尽くすようなイルミの飾りがありました。いやがうえにも、お祭り気分が盛上げられます。
-
イチオシ
かなりの高さがあった、クリスマスツリーを連想させるイルミネーションの飾りです。広がった裾の方にも、いろいろと飾りがありました。大きなビルの吹き抜けに飾られていたような記憶もありましたが、右手前に車が見えていますので、屋外の飾りだったようです。
-
イチオシ
広場を覆い尽くすようなイルミ飾りのズームアップ光景です。4本の柱が、司法に広がるイルミ飾りの支えどころになっていました。この後紹介する広場での音楽イベントと合わせ、今晩の暇つぶしの場所になりました。
-
広場で行われていたイベントの紹介です。それぞれに熱演のバンドとボーカルでしたから『暇つぶし』の表現は撤回させて頂きます。大いに楽しませていただきました。サックス、トロンボーン、トランペットなど、それぞれにソロ演奏の聞かせどころがありました。
-
イチオシ
左端赤い服服の女性の方が、ソロを聞かせてくれました。その演奏の区切りで手を振り上げてのアピール光景です。クリスマスの賛歌などの静かな曲ではなく、会場を盛り上げる曲が演奏されていました。
-
トランぺッターの聞かせどころの光景です。隣で、クラリネットかトロンボーン奏者の方が、楽器の先端部分だけで合いの手を入れていたようです。観客が多重に取り巻いて、中々の盛り上がりでした。
-
広場での演奏を聞き終えたところで、ホテルに戻ることにしました。今日の旅行ブログの締め括りは、万葉集の概要の紹介です。『万葉集(まんようしゅう、まんにょうしゅう)』は、奈良時代末期に成立した日本に現存する最古の和歌集です。天皇、貴族から下級官人、防人、大道芸人、農民、東国民謡(東歌)など、さまざまな身分の人々が詠んだ歌のほか、作者不詳の和歌も2100首以上あります。(ウィキペディア)
-
7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録され、成立は759年から780年(宝亀11年)頃とされます。編纂には大伴家持が何らかの形で関わったとされます。完本では鎌倉時代後期と推定される西本願寺本万葉集がもっとも古いとされます。万葉集は、時代を超えて読み継がれながら、後世の作品にも影響を与えていて、日本文学における第一級の史料ともなっています。(同上)
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2018暮、佐賀と福岡の名城巡り
-
前の旅行記
2018暮、佐賀と福岡の名城(6/12):12月1日(6):大野城(3):展示館、小野老歌碑
2018/12/01~
太宰府
-
次の旅行記
2018暮、佐賀と福岡の名城(8/12):12月2日(1):唐津城(1):博多から唐津へ、唐津神社
2018/12/01~
唐津・虹の松原
-
2018暮、佐賀と福岡の名城(1/12):12月1日(1):福岡城(1):名古屋から博多へ、福岡城
2018/12/01~
博多
-
2018暮、佐賀と福岡の名城(2/12):12月1日(2):福岡城(2):鴻臚館、祈念櫓、扇坂御門
2018/12/01~
博多
-
2018暮、佐賀と福岡の名城(3/12):12月1日(3):福岡城(3):礎石、紅葉、打込み接ぎ
2018/12/01~
博多
-
2018暮、佐賀と福岡の名城(4/12):12月1日(4):大野城(1):都府楼前駅、大宰府政庁
2018/12/01~
太宰府
-
2018暮、佐賀と福岡の名城(5/12):12月1日(5):大野城(2):大宰府政庁、礎石、石碑
2018/12/01~
太宰府
-
2018暮、佐賀と福岡の名城(6/12):12月1日(6):大野城(3):展示館、小野老歌碑
2018/12/01~
太宰府
-
2018暮、佐賀と福岡の名城(7/12):12月1日(7):博多:公孫樹の落葉、宿探しと晩酌
2018/12/01~
博多
-
2018暮、佐賀と福岡の名城(8/12):12月2日(1):唐津城(1):博多から唐津へ、唐津神社
2018/12/01~
唐津・虹の松原
-
2018暮、佐賀と福岡の名城(9/12):12月2日(2):唐津城(2):天守、修復中の石垣、紅葉
2018/12/01~
唐津・虹の松原
-
2018暮、佐賀と福岡の名城(10/12):12月2日(3):唐津城(3):天守閣、本丸、二ノ曲輪
2018/12/01~
唐津・虹の松原
-
2018暮、佐賀と福岡の名城(11/12):12月2日(4):名護屋城:呼子へ、名護屋城博物館
2018/12/01~
呼子・玄海
-
2018暮、佐賀と福岡の名城(12/12):12月2日(5):佐賀城:唐津から佐賀へ、雨予報
2018/12/01~
佐賀市
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
博多(福岡) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2018暮、佐賀と福岡の名城巡り
0
30