2018/12/01 - 2018/12/02
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旅人のくまさんさん
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佐賀と福岡の名城巡りです。大宰府の防衛のために天智天皇4年(665年)に築城された山城の『大野城(おおのじょう・おおののき)』の紹介です。大宰府政庁跡の北側背後に聳える、標高410メートルの四王寺山(大城山)に築かれました。
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太宰府は、九州の政治・文化の中心であり、日本の外交、対外防備の先端拠点でした。1300年前に設けられました。平城宮などと同じ朝堂院形式の政庁、周辺官衙、外国使節を迎えるため設けられた客館などで構成されています。大宰府の赴任者には遣唐使経験者など国際的に活躍した人物も多いことが知られています。その周りの紅葉光景です。(日本遺産・大宰府)
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現在は、国特別史跡に指定された『太宰府跡』です。この辺りは、その大宰府の中枢部分になるようです。大宰府政庁は、『都府楼』とも呼ばれる大宰府の中心的な場所です。ここは、奈良の都の宮殿等と同じような構造となっています。南から階段を上がると『南門跡』になります。元々は塀で囲われた空間でした。ここを進むと『中門跡』になります。(同上)
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さらに進むと、中門から延びる回廊で囲われた広い庭に入ります。ここで政務や儀礼が行われ、ときには外交儀礼も行われたと考えられています。その正面(北の中央)の高くなったところが『正殿跡』です。庭の東西には2棟づつ『脇殿跡』があります。正殿の背後に『後殿跡』があり、そこが大宰府の長官が執務した場所とみられます。
*写真は、舗装された部分が、回廊跡になるようです。 -
次に、政庁跡の周囲の紹介です。北の山上に『大野城』、南正面の山上に『基肄(きい)城』があります。665年に築かれた山城で、大宰府『西の都』の外郭を守っ
てきました。東は『月山(つきやま)」丘陵で、『漏刻台』、すなわち水時計が置かれ、時を告げたと伝えられています。西は『蔵司』丘陵で、巨大な礎石建物跡が残っています。南は官庁域です。その先は朱雀門から朱雀大路(南北大路)が延び、古代の街が広がっていました。現在は、礎石が往時を偲ばせます。(同上)
*写真は、回廊のズームアップ光景です。南北方向になるようです。 -
次に『正殿跡』の紹介です。この後紹介する、3本の大きな石碑が建つ場所が、大宰府政庁の中心建物があった『正殿跡』です。かつて基壇だったことをうかがわせる高まりと、建物の柱を据えた礎石が残っています。ここは、遺跡調査によって、三期に区分される遺跡が確認されています。(同上)
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先ほど紹介した、『三期に区分される遺跡』とは、次の区分です。
○Ⅰ期:7世紀末の掘立柱建物跡。
○Ⅱ期:8世紀初頭に建てられた大宰府政庁正殿跡。
○Ⅲ期:10世紀後半ころに再建された正殿跡。
*現在、地表に見えるのがⅢ期の正殿跡になります。(同上) -
イチオシ
Ⅱ期の建物は、唐の長安城を参考に平城京造営関係者によって建築されました。903年に大宰府で亡くなった菅原道真公が『都府楼』と呼んだ政庁の中心建物になります。これは941年の『藤原純友の乱』で焼失しましたが、その後ほぼ同様の姿で再建されました。(同上)
*写真は、大宰府政庁跡に残る建物礎石とその周りの光景です。 -
Ⅲ期の建物の礎石は、Ⅱ期正殿の礎石を再利用したものと考えられています。礎石の柱座は二重三重に盛り上がる壮麗なもので、他に例を見ません。この特別な礎石が、建物の格の高さを物語っています。正殿の前は、庭(空間)より若干高くなっています。宮殿の大極殿前にみられる『龍尾道』・『月壇』と呼ばれるものと同じと考えられています。ここにも宮殿構造を見ることができます。(同上)
*写真は、正殿跡に育った大樹の光景です。黄葉樹のようです。 -
イチオシ
三つ揃った大きな石標の光景です。現在は、『正殿跡』の目印になっています。石碑は、このあと個別に紹介します。左から大宰府由来を刻んだ『顕彰碑』、中央が『都督府古址』の石標、右端が福岡藩西学門所・甘棠館の亀井南冥の撰文による大宰府政庁跡の顕彰碑の『大宰府碑』です。(同上)
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三つ揃った大きな石標のズームアップ光景です。左側に位置する『顕彰碑』です。 明治13年(1880年)、地元の御笠郡の人々が、福岡県令・渡辺清に大宰府由来の文を撰してもらって建てました。渡辺県令は、西郷隆盛と勝海舟とで行われた江戸城無血開城の会談に立会った人とされます。(同上)
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2番目に紹介するのは、中央に建つ石標です。『都督府古址』の大きな5文字が読取れました。この石標は、1871年に現大野城市の大庄屋・高原善七郎美徳が建立したものと紹介されていました。江戸時代、福岡藩では礎石数調査を行い、礎石を取ることを禁じるなど史跡保存を図りますが、明治時代になっても標石などは建立されませんでした。そのため、乙金村大庄屋の高原善七郎が、自費で建立したものです。(同上)
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最後に紹介する右側の石碑は、 福岡藩西学門所『甘棠館(かんとうかん)』の学長・『亀井南冥(かめい・なんめい:1743~1814年)』が、大宰府政庁跡を顕彰するため碑文を作りましたが、その文章の中に勤皇精神を表した部分があるとの理由で、藩は建立を許可せず、南冥は甘棠館教授を罷免されました。大正3年(1914年)に門下生の尽力により建碑されました。『太宰府碑』と呼ばれています。
南冥は、最初に金印の謎を解いた人としても有名です。志賀島の金印は、江戸時代中期の天明4年(1784年)に発見されました。南冥は、太宰府に保管されていた『後漢書』の写しを読んだことがあり、漢より贈られた『金印』であると鑑定しました。その後、福岡藩主黒田家で大切に保存され、1931年(昭和6年)12月に国宝に指定されました。(同上) -
Ⅲ期の礎石は、Ⅱ期正殿の礎石を再利用したものと考えられていることを紹介しましたが、そのⅢ期の礎石の一つの光景になるようです。写真紹介が出来ませんでしたが、『朱雀門』の紹介です。政庁南門から真南へ230メートルの地点で大きな礎石が1982年に発見されました。 前を流れる御笠川の川底から見つかった、柱を据える円座をもつ礎石は、『朱雀門礎石』と呼ばれています。(同上)
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『朱雀門礎石』は、重さ7.5トンもあり、上流から流されてきたような痕跡もないことから、もとの場所からあまり動いていないと考えられています。このことから、この付近に政庁・官庁へ入るための南の正門『朱雀門』があったと考えられています。そのことからの礎石の名前の命名です。(同上)
*写真は、柱を据える円座をもつ礎石の光景です。 -
イチオシ
礎石が見付かった南には、政庁に至る大道『朱雀大路』がありました。路面幅は約36メートル(120尺、8世紀)あり、奈良・平城京の朱雀大路(約75メートル)に次ぐ広さがありました。この広さは、外国使節などを迎える儀礼の場の意味もあったと考えられています。朱雀大路沿いには、都から赴任した官人が住まう『館』や、外国使節が滞在する『客館』が並んでいました。(同上)
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三つ揃った大きな石標が中央、やや左寄りに見えていますから、概ね南方向の光景になるようです。『基肄(きい)城』は、大宰府政庁の南正面の山上に築かれた城砦です。総延長約6キロに及ぶ城壁(土塁・石塁)で囲われ、現在4ヶ所で城門跡が確認されています。有事の際の逃げ城として、また平時には稲穀などの集積地として機能しました。現在は、『続日本百名城』の184番に選ばれています。(同上)
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『基肄城』の紹介の続きです。政庁の中軸線は基肄城を縦断していて、これに沿って城内からの道が北斜面を下り、次田の湯(二日市温泉)を経由して朱雀大路を通り、大宰府政庁まで南北一直線で結ばれています。政庁から見ると、基肄城の二つの頂の間を、政庁からの南北道や政庁中軸線が通っていきます。これは唐の都長安・洛陽、奈良の平城京でもみられる造りとされます。(同上)
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大宰府展示館の建物光景です。ここに、日本百名城巡りのスタンプも置いてありました。大野城は大宰府の守りの一つとなった朝鮮式の山城です。スタンプ押印の後に館内を見学しました。昭和55年に開館され、(公財)古都大宰府保存協会が事務局を置き、広く大宰府史跡の整備地の維持管理や広報普及、史跡の解説・案内などを行っています。(展示館公式サイト)
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左上に『史跡とロマンの町・大宰府』のタイトルがあった、イラスト入りの観光案内図です。左端に、大宰府の守りの一つ、『水城(みずき)』の位置も破線で記してありました。『大野城跡』の表示はありませんでしたが、城跡、石垣跡、土塁跡が記してありました。(同上)
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『推定・金光寺跡』のタイトルがあった説明文と発掘調査場所の写真の光景です。江戸時代に著わされた『筑前国続風土記』の中に、『観世音寺』の中に49の子院があり、その中に『金光寺』があったことが紹介されていました。発掘調査により推定された『金光寺跡』の光景です。現在の地名が『今光寺(こんこうじ)』であることも有力な傍証とされます。(同上)
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『大野城跡・アクセスマップ』のタイトルがあった観光案内図です。『大野城』は、『四王寺山(しおうじやま)とも呼ばれる『大城山(おおきやま)』に築かれた、朝鮮式の山城です。660年に滅んだ百済の遺臣は倭国に滅亡を伝え、救援軍の派遣を要請してきました。これに応じたのが女帝の『斉明(さいめい)天皇(594~661年)』です。斉明天皇は皇太子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)らを率いて飛鳥を発ち661年3月に現在の博多港に着きましたが、7月に亡くなりました。その後の663年の白村江の戦いで、日本・百済連合軍が新羅・唐連合軍に大敗したことにより、倭国の防衛に造られた城の一つが『大野城』です。(同上)
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『国分・水城地区・文化遺産巡りマップ』のタイトルがあった観光案内資料の紹介です。『文化遺産から始まるまちづくり』の添え字がありました。(同上)
○作成者:大宰府文化遺産調査ボランティア国分小学校班
○発行者:公益財団法人・古都大宰府保存協会
○作成日:平成30年(2018年)3月 -
『国分・水城地区・文化遺産巡りマップ』の記載内容の紹介です。(同上)
○タイトル:『太宰府市・国分(こくぶ)・水城(みずき)地区
○紹介文概要
*国分・水城地区は、大宰府市北西部に位置し、四王寺山に抱かれた自然豊かな地区です。
*地名の『水城』は、天智3年(664年)に築かれた水城に、『国分』は、天平13年(741年)に建立された筑前国分寺に由来します。
*1300年余の史跡のみならず、由緒ある寺社、石碑、洞などが見所です。 -
<関連年表(その1)> (同上)
○古代
*239年:邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを送る。
○飛鳥時代(593~710年)
*593年(推古天皇元年):聖徳太子が推古天皇の摂政になる。(~622年)
*604年(推古天皇12年):聖徳太子、十七条の憲法を制定する。
*607年(推古天皇15年):聖徳太子、小野妹子らを隋に遣隋使に。
*630年(舒明天皇2年):犬上御田鍬を唐に遣唐使に。(第一回遣唐使~893年)
*660年(斉明天皇6年):唐と新羅の連合軍に百済が滅ぼされる。
*663年(天智天皇2年):白村江の戦い、日本・百済連合軍が新羅・唐連合軍に大敗。
○奈良時代(710~794年)
*710年(和銅3年):元明天皇、奈良平城京に都を移す。
*712年(和銅5年):古事記が編纂される。
*720年(養老4年):日本書紀が編纂される。
*752年(天平勝宝4年):東大寺大仏が完成。
*759年(天平宝字3年):754年に来日した鑑真が、唐招提寺を建立。 -
○平安時代(794~1185年頃) (同上)
*794年(延暦13年):桓武天皇が平安京に都を移し、平安時代が始まる。
*869年(貞観11年):貞観地震、陸奥国などで甚大な津波被害。
*894年(寛平6年):遣唐使廃止。
*999年(長徳5年):富士山噴火。
*1167年(仁安2年):平清盛、太政大臣に(平家時代)。
*1185年(元暦2年):壇ノ浦の戦いにより平家が滅ぶ。
○鎌倉時代(1185~1333年頃)
*1192年(建久3年):後白河法皇崩御、源頼朝が征夷大将軍に。
*1274年(文永11年):元寇(文永の役)
*1281年(弘安1年):元寇(弘安の役) -
右上に『国分・水城地区』のタイトルがあった観光案内地図です。左手に、9箇所の写真が添えてありました。(同上)
○見学推奨コースは、次の3ルートでした。
①史跡めぐりコース:約5キロ、所要時間約3時間
②水城城と菅公伝説巡り:約3.5キロ、所要時間約3時間半
③筑前国分寺・国分尼寺巡り:約2.3キロ、所要時間約2時間 -
『文化遺産巡りマップ』のタイトルがあった観光案内地図です。右側に『姿見井戸』や『稲子地蔵・宝満隠し』などを始めとする7箇所の写真も添えてありました。地図の右下に200メートルの縮尺が記してありましたが、全部見学するには、優に一日はかかりそうでした。(同上)
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12枚の写真で紹介された観光名所案内です。一覧で名前を紹介します。(同上)
(1) 特別史跡・水城跡
(2) 旧日田街道跡
(3) 老松神社
(4) 水城館
(5) 水城東門の礎石
(6) 衣掛天満宮
(7) 筑前国分尼寺跡
(8) 市史跡・陣ノ尾古墳
(9) 国分天満宮
(10) 国史跡・筑前国分寺跡
(11) 国史跡・国分瓦窯跡
(12) 太宰府市文化ふれあい館 -
1番~2番と、4番~5番の観光名所の紹介です。(同上)
(1) 特別史跡・水城跡(左上):天智天皇時代の633年の白村江の戦いに負け、その防御のために築かれた朝鮮式の山城です。
(2) 旧日田街道跡(左下):水城大堤には、福岡と大宰府を結ぶ古代街道が通っていましたが、江戸時代には日田街道として賑わいました。
(4) 水城館(右上):水城跡が国の特別史跡になったことから、水城の東門近くに設けられた施設です。
(5) 水城東門の礎石(右下):水城大堤の東西2箇所に設置された城門のうち、東門の礎石の紹介です。 -
7番~8番と、10番~11番の観光名所の紹介です。(同上)
(7) 筑前国分尼寺跡:筑前国分寺と同時期に建立された尼寺です。8世紀後半から、約100年間存続したようです。
(8) 市史跡・陣ノ尾古墳:四王寺山から南西に延びる丘陵に築造された四基の古墳群です。陣ノ尾1号墳は、6世紀後半に造られた直径約12メートルの古墳です。
(10) 国史跡・筑前国分寺跡:天平13年(741年)、聖武天皇の命により、全国に建立された国分寺の一つです。
(11) 国史跡・国分瓦窯跡:新池そばにある窯跡です。筑前国分寺や大宰府政庁、観世音寺等の瓦を焼いたとされます。
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