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佐賀と福岡の名城巡りです。福岡城に次いで、二番目に見学したのは、同じく日本百名城(第86番)の大野城です。天智天皇時代の663年、韓国・百済での白村江の戦いで敗れた大和朝廷が、大宰府の防衛のために築いた朝鮮式の山城です。

2018暮、佐賀と福岡の名城(4/12):12月1日(4):大野城(1):都府楼前駅、大宰府政庁

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2018/12/01 - 2018/12/02

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旅人のくまさん

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佐賀と福岡の名城巡りです。福岡城に次いで、二番目に見学したのは、同じく日本百名城(第86番)の大野城です。天智天皇時代の663年、韓国・百済での白村江の戦いで敗れた大和朝廷が、大宰府の防衛のために築いた朝鮮式の山城です。

交通手段
新幹線 JRローカル 私鉄
  • 西鉄電車の都府楼前駅の光景です。最初に『大宰府』と『都府楼』について説明しておきます。『大宰』という名称の文献上での初見は、『日本書紀』推古17年(609年)の筑紫大宰です。 外交と防衛を主任務とするとともに、西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐、対馬、多禰(現在の大隅諸島))などの行政・司法を所管していました。(九州名所一覧)

    西鉄電車の都府楼前駅の光景です。最初に『大宰府』と『都府楼』について説明しておきます。『大宰』という名称の文献上での初見は、『日本書紀』推古17年(609年)の筑紫大宰です。 外交と防衛を主任務とするとともに、西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐、対馬、多禰(現在の大隅諸島))などの行政・司法を所管していました。(九州名所一覧)

  • 同じく、西鉄電車の都府楼前駅の光景です。『大宰』の管轄区域は、沖縄を除く、今のほぼ九州全域です。与えられた権限の大きさから、『遠の朝廷(とおのみかど)』とも呼ばれていたようです。続日本紀の神護景雲三年(769年)十月甲辰に『大宰府言、此府人物殷繁、天下一都会也』と記され、『この府は人や物が多く賑やかで天下有数の都会』という意味とされます(同上)

    同じく、西鉄電車の都府楼前駅の光景です。『大宰』の管轄区域は、沖縄を除く、今のほぼ九州全域です。与えられた権限の大きさから、『遠の朝廷(とおのみかど)』とも呼ばれていたようです。続日本紀の神護景雲三年(769年)十月甲辰に『大宰府言、此府人物殷繁、天下一都会也』と記され、『この府は人や物が多く賑やかで天下有数の都会』という意味とされます(同上)

  • 大宰府は、西暦8世紀には相当な都市だったようです。律令制下の役所を指す場合は「大宰府」と「大」を用い、現在の行政名「太宰府市」や「太宰府天満宮」には「太」を用いています。大宰府政庁跡の場合は「大」を用いるのが正しいようです。『大宰府大宰府政庁(跡)』が、『都府楼(跡)』とも呼ばれます。(同上)<br />*写真は、『都府楼(跡)』に向かう途中で潜った鳥居の光景です。

    大宰府は、西暦8世紀には相当な都市だったようです。律令制下の役所を指す場合は「大宰府」と「大」を用い、現在の行政名「太宰府市」や「太宰府天満宮」には「太」を用いています。大宰府政庁跡の場合は「大」を用いるのが正しいようです。『大宰府大宰府政庁(跡)』が、『都府楼(跡)』とも呼ばれます。(同上)
    *写真は、『都府楼(跡)』に向かう途中で潜った鳥居の光景です。

  • 大宰府政庁は、発掘調査により創建時を含め三回の建て替えが行われたことが判明しています。展示室にある太宰府政庁復元模型は、10世紀に建てられた第三期の建造物で奈良の平城京を模した朝堂院形式という建物です。正面にあった正門の朱雀門(すざくもん)は、その模型の石段の場所になります。当時、ここでは警護の兵士が立ち、通る人をチェックしていたようです。(同上)

    大宰府政庁は、発掘調査により創建時を含め三回の建て替えが行われたことが判明しています。展示室にある太宰府政庁復元模型は、10世紀に建てられた第三期の建造物で奈良の平城京を模した朝堂院形式という建物です。正面にあった正門の朱雀門(すざくもん)は、その模型の石段の場所になります。当時、ここでは警護の兵士が立ち、通る人をチェックしていたようです。(同上)

  • 大宰府政庁模型紹介の続きです。『朱雀門(すざくもん)』から少し入ったところに中門がありました。太宰府政庁復元模型では広場を挟んで両脇に脇殿という建物があり、その礎石が残っています。復元模型では脇殿は正門に比べて質素な建物ですが、残っている礎石から推測すると、 もっと大きな建物だったようです。正門と同じような豪華な建物だった可能性があるようです。(同上)<br /><br />

    大宰府政庁模型紹介の続きです。『朱雀門(すざくもん)』から少し入ったところに中門がありました。太宰府政庁復元模型では広場を挟んで両脇に脇殿という建物があり、その礎石が残っています。復元模型では脇殿は正門に比べて質素な建物ですが、残っている礎石から推測すると、 もっと大きな建物だったようです。正門と同じような豪華な建物だった可能性があるようです。(同上)

  • 大宰府政庁跡には、桜の木が100本ほどあり、春には花見ができる桜の名所になっています。大人は花の下で花見を行い、子供は広場を走り回る光景が良く見られます。ここは車も来ないので安全です。例年の見頃は3月末頃です。<br />(追記)2019年は満開が3~4日遅れ、雨も風も吹かなかったので見頃の時期が長く4月8日頃まで花見が楽しめたようです。(同上)

    大宰府政庁跡には、桜の木が100本ほどあり、春には花見ができる桜の名所になっています。大人は花の下で花見を行い、子供は広場を走り回る光景が良く見られます。ここは車も来ないので安全です。例年の見頃は3月末頃です。
    (追記)2019年は満開が3~4日遅れ、雨も風も吹かなかったので見頃の時期が長く4月8日頃まで花見が楽しめたようです。(同上)

  • 『菅原道真(みちざね:845~903年)』公に因む、梅の文様があったマンホール蓋の光景です。道真公は、平安時代の貴族、学者、漢詩人で、政治家でした。参議・菅原是善の三男です。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めました。しかし謀反を計画したとして讒言され、大宰府へ大宰員外帥として左遷されこの地で没しました。(同上)

    『菅原道真(みちざね:845~903年)』公に因む、梅の文様があったマンホール蓋の光景です。道真公は、平安時代の貴族、学者、漢詩人で、政治家でした。参議・菅原是善の三男です。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めました。しかし謀反を計画したとして讒言され、大宰府へ大宰員外帥として左遷されこの地で没しました。(同上)

  • 大陸外交や軍事拠点としての大宰府は、前身は三角縁神獣鏡などが出土する那珂遺跡群(福岡市)だったと考えられています。また、『魏志倭人伝』に記述される倭国の『伊都国(いとこく)』の官命である『一大率(いちだいそつ、いちたいすい)』は、後の大宰府と良く似たシステムとして指摘されています。現在の福岡県糸島市の一部と福岡市西区の一部に比定している研究者が多いようです。(同上)

    大陸外交や軍事拠点としての大宰府は、前身は三角縁神獣鏡などが出土する那珂遺跡群(福岡市)だったと考えられています。また、『魏志倭人伝』に記述される倭国の『伊都国(いとこく)』の官命である『一大率(いちだいそつ、いちたいすい)』は、後の大宰府と良く似たシステムとして指摘されています。現在の福岡県糸島市の一部と福岡市西区の一部に比定している研究者が多いようです。(同上)

  • 天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、『白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)』の紹介です。百済復興を目指す百済遺民と日本(倭国)の連合軍と、唐・新羅連合軍との間の戦いでした。『日本書紀』(720年成立)には、崇神天皇条~天武天皇条に「任那」が多く記されています。(同上)

    天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、『白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)』の紹介です。百済復興を目指す百済遺民と日本(倭国)の連合軍と、唐・新羅連合軍との間の戦いでした。『日本書紀』(720年成立)には、崇神天皇条~天武天皇条に「任那」が多く記されています。(同上)

  • 当時の韓半島の政治情勢の紹介が続きます。倭国が繋がりを持っていたとされる『任那(みまな)』は、562年以前に新羅に滅ぼされました。6世紀から7世紀の朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していましたが、『白村江の戦い』は、力関係で新羅が二国に圧迫されていた頃の出来事です。このため新羅は、中国の『唐(618~907年)』に支援を求めていました。(同上)

    当時の韓半島の政治情勢の紹介が続きます。倭国が繋がりを持っていたとされる『任那(みまな)』は、562年以前に新羅に滅ぼされました。6世紀から7世紀の朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していましたが、『白村江の戦い』は、力関係で新羅が二国に圧迫されていた頃の出来事です。このため新羅は、中国の『唐(618~907年)』に支援を求めていました。(同上)

  • 『任那(みまな)日本府』は、朝鮮半島南部に存在したとされる倭国の統治機関ですが、日本と韓国の歴史関連学会では、見解が大きく異なっていますので、少し捕捉しておきます。韓国学会では、朝鮮半島に倭の領土があったことを否定していますが、日本の学会や識者は、3世紀の卑弥呼の時代から倭の五王の時代にかけて、朝鮮半島南岸が倭の統治下にあったとするのが主流のようです。(同上)

    『任那(みまな)日本府』は、朝鮮半島南部に存在したとされる倭国の統治機関ですが、日本と韓国の歴史関連学会では、見解が大きく異なっていますので、少し捕捉しておきます。韓国学会では、朝鮮半島に倭の領土があったことを否定していますが、日本の学会や識者は、3世紀の卑弥呼の時代から倭の五王の時代にかけて、朝鮮半島南岸が倭の統治下にあったとするのが主流のようです。(同上)

  • 日本の歴史学会や識者が、『任那日本府』が存在したとする代表的な文献では『日本書紀』等に記されていますが、考古学的根拠を、代表的な3点だけ紹介します。<br />(1) 日本固有の前方後円墳が韓国南部に存在する。<br />(2) 日本の糸魚川周辺産出するヒスイ製勾玉が、韓国南部で大量出土する。<br />(3) 日本の楠部材が、韓国南部で出土する。(同上)

    日本の歴史学会や識者が、『任那日本府』が存在したとする代表的な文献では『日本書紀』等に記されていますが、考古学的根拠を、代表的な3点だけ紹介します。
    (1) 日本固有の前方後円墳が韓国南部に存在する。
    (2) 日本の糸魚川周辺産出するヒスイ製勾玉が、韓国南部で大量出土する。
    (3) 日本の楠部材が、韓国南部で出土する。(同上)

  • また、中国吉林省通化市集安市に存在する『好太王碑』には、『好太王』が倭の侵略を撃退したことを好太王の功績として誇示していますが、それは、倭が5世紀の初めには、帯方郡に侵入するほどの、朝鮮半島で活躍していたということを、図らずも後世に伝えることとなりました。『好太王』は、『広開土大王』とも呼ばれる、古代韓国・高句麗の最大の英雄とされます。(同上)

    また、中国吉林省通化市集安市に存在する『好太王碑』には、『好太王』が倭の侵略を撃退したことを好太王の功績として誇示していますが、それは、倭が5世紀の初めには、帯方郡に侵入するほどの、朝鮮半島で活躍していたということを、図らずも後世に伝えることとなりました。『好太王』は、『広開土大王』とも呼ばれる、古代韓国・高句麗の最大の英雄とされます。(同上)

  • 『白村江の戦い』の紹介に戻ります。475年、百済は高句麗の攻撃を受けて、首都・韓城(現在のソウル)が陥落しました。その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗沘へ遷都しました。当時の百済は、倭国と関係が深く、倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していたようです。また、高句麗との戦いでは、百済が要請したのでしょうか、度々倭国から援軍が送られています。(同上)

    『白村江の戦い』の紹介に戻ります。475年、百済は高句麗の攻撃を受けて、首都・韓城(現在のソウル)が陥落しました。その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗沘へ遷都しました。当時の百済は、倭国と関係が深く、倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していたようです。また、高句麗との戦いでは、百済が要請したのでしょうか、度々倭国から援軍が送られています。(同上)

  • 『隋:ずい(581~618年)』は中国大陸を統一し、『文帝(541~604年):在位584~604年)』と『煬帝(在位604~618年)』の治世に4度の大規模な高句麗遠征を行いました。しかし、いずれも失敗しました。その後隋は、国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅びました。その10年後に建国されたのが『唐:とう(628~907年)』です。日本が、遣隋使、遣唐使での繋がりもあった時代です。(同上)

    『隋:ずい(581~618年)』は中国大陸を統一し、『文帝(541~604年):在位584~604年)』と『煬帝(在位604~618年)』の治世に4度の大規模な高句麗遠征を行いました。しかし、いずれも失敗しました。その後隋は、国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅びました。その10年後に建国されたのが『唐:とう(628~907年)』です。日本が、遣隋使、遣唐使での繋がりもあった時代です。(同上)

  • 中国の隋の時代には、4度の高句麗遠征が失敗しましたが、唐の時代の二代太宗・高宗の時に高句麗へ3度(644年・661年・667年)に亘って侵攻し、高句麗を征服しました。韓国では、紀元前1世紀から7世紀を高句麗、新羅と百済が激しく争う三国時代と呼びますが、日本の史学では4世紀~7世紀を三国時代と呼ぶようです。(同上)<br />*写真は、数多くの見どころが記された観光案内標識です。

    イチオシ

    中国の隋の時代には、4度の高句麗遠征が失敗しましたが、唐の時代の二代太宗・高宗の時に高句麗へ3度(644年・661年・667年)に亘って侵攻し、高句麗を征服しました。韓国では、紀元前1世紀から7世紀を高句麗、新羅と百済が激しく争う三国時代と呼びますが、日本の史学では4世紀~7世紀を三国時代と呼ぶようです。(同上)
    *写真は、数多くの見どころが記された観光案内標識です。

  • 663年、『白村江の戦い』で、百濟・倭国の連合軍が、唐・新羅連合軍に大敗しました。韓国の『三国時代の終わりの始まり』ともいえる出来事でした。韓国の三国時代は、韓国南部の馬韓(マハン)、弁韓(ピョナン)、辰韓(チナン)と呼ばれる『三韓』が、それぞれ百済、伽耶、新羅に発展し、北部の高句麗とで『三国時代』へと変容しました。(同上)

    663年、『白村江の戦い』で、百濟・倭国の連合軍が、唐・新羅連合軍に大敗しました。韓国の『三国時代の終わりの始まり』ともいえる出来事でした。韓国の三国時代は、韓国南部の馬韓(マハン)、弁韓(ピョナン)、辰韓(チナン)と呼ばれる『三韓』が、それぞれ百済、伽耶、新羅に発展し、北部の高句麗とで『三国時代』へと変容しました。(同上)

  • 663年の『白村江の戦い』での敗戦が、日本(倭国)に与えた影響です。敗戦直後は、倭国での防衛拠点を置くために、吉備大宰(天武天皇8年:679年)、周防総令(天武天皇14年:685年)、伊予総領(持統天皇3年:689年)なども築かれました。唐・新羅連合軍による、倭国侵攻を深刻に憂慮したようです。結果としては、倭国侵攻はなく、776年には、新羅が唐の勢力を追い出し、韓国統一を成し遂げました。(同上)

    663年の『白村江の戦い』での敗戦が、日本(倭国)に与えた影響です。敗戦直後は、倭国での防衛拠点を置くために、吉備大宰(天武天皇8年:679年)、周防総令(天武天皇14年:685年)、伊予総領(持統天皇3年:689年)なども築かれました。唐・新羅連合軍による、倭国侵攻を深刻に憂慮したようです。結果としては、倭国侵攻はなく、776年には、新羅が唐の勢力を追い出し、韓国統一を成し遂げました。(同上)

  • 朝鮮の歴史区分では、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代を『統一新羅時代』、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を『後三国時代』と呼びます。ただし、1970年代以降の韓国では、渤海(パレ)を朝鮮民族の歴史に組み込む意図から、統一新羅時代を『南北国時代(なんぼくこくじだい)』と呼ぶようです。渤海は、現在の中国、韓国、ロシアの一部を領有していました。(同上)

    朝鮮の歴史区分では、新羅が朝鮮半島唯一の国家であった時代を『統一新羅時代』、新羅から後高句麗と後百済が分裂した10世紀の時代を『後三国時代』と呼びます。ただし、1970年代以降の韓国では、渤海(パレ)を朝鮮民族の歴史に組み込む意図から、統一新羅時代を『南北国時代(なんぼくこくじだい)』と呼ぶようです。渤海は、現在の中国、韓国、ロシアの一部を領有していました。(同上)

  • 日本の『城』についての紹介です。弥生時代の日本には、集落に外敵が攻めにくいように、濠をめぐらせた環濠集落や、山などの高いところにつくられた高地性集落が数多く存在しましたが、ヤマト政権に至る政治的統一が進むにつれて衰退しました。ところで、日本における『城』の文献上の初見は、664年に『天智天皇(626~672年)』が築かせた『水城(みずき)』とされます。(同上)

    日本の『城』についての紹介です。弥生時代の日本には、集落に外敵が攻めにくいように、濠をめぐらせた環濠集落や、山などの高いところにつくられた高地性集落が数多く存在しましたが、ヤマト政権に至る政治的統一が進むにつれて衰退しました。ところで、日本における『城』の文献上の初見は、664年に『天智天皇(626~672年)』が築かせた『水城(みずき)』とされます。(同上)

  • 『水城(みずき)』は、現在は日本城郭協会の『続日本百名城』の182番に登録されています。その解説文からの紹介です。『筑紫に大堤を築き水を貯へ、名づけて水城と曰(い)う(日本書紀)』、『天智天皇3年(664年)の築城で、前年の白村江の戦いで敗れた倭国(日本)が、国土防衛のために築いた』、と紹介されています。『鬼ノ城:岡山県)』、『基肄城・大野城:福岡県)』も同時期の城です。(同上)

    『水城(みずき)』は、現在は日本城郭協会の『続日本百名城』の182番に登録されています。その解説文からの紹介です。『筑紫に大堤を築き水を貯へ、名づけて水城と曰(い)う(日本書紀)』、『天智天皇3年(664年)の築城で、前年の白村江の戦いで敗れた倭国(日本)が、国土防衛のために築いた』、と紹介されています。『鬼ノ城:岡山県)』、『基肄城・大野城:福岡県)』も同時期の城です。(同上)

  • 『蔵司地区官衙』のタイトルがあった説明パネルの光景です。遺跡の正式名は、『大宰府政庁周辺官衙跡(蔵司地区)』と紹介されていました。昭和45年(1970年)から数次にわたって発掘調査された場所で、礎石建物跡をはじめ、工房跡、築地、遺物として木簡や唐三彩陶枕、金属生産関連遺物、多量の瓦類や輸入陶磁器類が出土しています。(同上)

    『蔵司地区官衙』のタイトルがあった説明パネルの光景です。遺跡の正式名は、『大宰府政庁周辺官衙跡(蔵司地区)』と紹介されていました。昭和45年(1970年)から数次にわたって発掘調査された場所で、礎石建物跡をはじめ、工房跡、築地、遺物として木簡や唐三彩陶枕、金属生産関連遺物、多量の瓦類や輸入陶磁器類が出土しています。(同上)

  • 『大宰府政庁周辺官衙跡?ー蔵司地区 平地部編 1ー』の発掘調査報告書は、大宰府史跡ではじめて木簡が出土したことで学史的にも知られ、特別史跡大宰府跡(蔵司地区平地部)』の名称で、正式報告書(A4版・261頁)が公刊されています。推測ですが、発掘調査の後、埋め戻されて平らになった土地のように見えました。(同上)

    『大宰府政庁周辺官衙跡?ー蔵司地区 平地部編 1ー』の発掘調査報告書は、大宰府史跡ではじめて木簡が出土したことで学史的にも知られ、特別史跡大宰府跡(蔵司地区平地部)』の名称で、正式報告書(A4版・261頁)が公刊されています。推測ですが、発掘調査の後、埋め戻されて平らになった土地のように見えました。(同上)

  • 先程の写真は、概ね西方向の光景、こちらはその反対側の概ね東方面の光景になります。『大宰府政庁跡』がある方面です。 多くの歴史的な宮殿建築と同様に、大宰府政庁跡も南側を正面とした構造になっています。先ほどとは反対方向の光景です。大宰府政庁跡方面になります。(同上)

    先程の写真は、概ね西方向の光景、こちらはその反対側の概ね東方面の光景になります。『大宰府政庁跡』がある方面です。 多くの歴史的な宮殿建築と同様に、大宰府政庁跡も南側を正面とした構造になっています。先ほどとは反対方向の光景です。大宰府政庁跡方面になります。(同上)

  • 大宰府政庁跡に到着しました。その政庁跡の脇の小川の光景です。推測も入りますが、『御笠川(みかさがわ)』の支流になるようでした。御笠川は、太宰府市の宝満山を源とし、鷺田川(筑紫野市)、大佐野川(太宰府市)、牛頸川(大野城市・春日市)、諸岡川、上牟田川(福岡市博多区)などの川が合流し福岡市から博多湾に注いでいます。『水城(みずき)』の水源にもなっているようです。(同上)

    大宰府政庁跡に到着しました。その政庁跡の脇の小川の光景です。推測も入りますが、『御笠川(みかさがわ)』の支流になるようでした。御笠川は、太宰府市の宝満山を源とし、鷺田川(筑紫野市)、大佐野川(太宰府市)、牛頸川(大野城市・春日市)、諸岡川、上牟田川(福岡市博多区)などの川が合流し福岡市から博多湾に注いでいます。『水城(みずき)』の水源にもなっているようです。(同上)

  • 名前:『カエデ(楓、鶏冠木、蛙手)』<br />分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属<br />分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生。<br />その他:日本は世界有数の多品種のカエデが見られる国で、自生種は27種が存在するようです。

    イチオシ

    名前:『カエデ(楓、鶏冠木、蛙手)』
    分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属
    分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生。
    その他:日本は世界有数の多品種のカエデが見られる国で、自生種は27種が存在するようです。

  • 名前:『カエデ(楓、鶏冠木、蛙手)』<br />分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属<br />分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生。<br />その他:これまでに見学した中では、楓の紅葉が綺麗な国は、韓国が一番でした。

    名前:『カエデ(楓、鶏冠木、蛙手)』
    分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属
    分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生。
    その他:これまでに見学した中では、楓の紅葉が綺麗な国は、韓国が一番でした。

  • 名前:『カエデ(楓、鶏冠木、蛙手)』<br />分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属<br />分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生。<br />その他:綺麗に紅葉した葉のズームアップ光景です。

    名前:『カエデ(楓、鶏冠木、蛙手)』
    分類:ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属
    分布:世界におよそ130種が存在し、その多くはアジアに自生。
    その他:綺麗に紅葉した葉のズームアップ光景です。

  • 大宰府政庁跡の礎石群の光景です。7世紀後半から12世紀後半までの間、大宰府は行政機関として九州を統括し、西の都としての役割を果たしました。地理的に日本の外交と防衛の最前線、アジア大陸の窓口としても機能したことから、重要な政治の中核として、大宰府の中心地にかつての政庁が建設されました。広々とした政庁跡の敷地です。(同上)

    イチオシ

    大宰府政庁跡の礎石群の光景です。7世紀後半から12世紀後半までの間、大宰府は行政機関として九州を統括し、西の都としての役割を果たしました。地理的に日本の外交と防衛の最前線、アジア大陸の窓口としても機能したことから、重要な政治の中核として、大宰府の中心地にかつての政庁が建設されました。広々とした政庁跡の敷地です。(同上)

  • 数多く残る、大宰府政庁跡の礎石のズームアップ光景です。歴史遺跡としての雰囲気が残されていた礎石でした。長い時を経て政庁の建物は失われましたが、古い建築基礎は今も健在でした。政庁跡は、現在は史跡公園として開放されています。公園の入り口からほど近い「大宰府展示館」では、考古資料の展示をはじめ、西の都・大宰府の歴史と文化が紹介されていました。(同上)

    数多く残る、大宰府政庁跡の礎石のズームアップ光景です。歴史遺跡としての雰囲気が残されていた礎石でした。長い時を経て政庁の建物は失われましたが、古い建築基礎は今も健在でした。政庁跡は、現在は史跡公園として開放されています。公園の入り口からほど近い「大宰府展示館」では、考古資料の展示をはじめ、西の都・大宰府の歴史と文化が紹介されていました。(同上)

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