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佐賀と福岡の城巡りです。続日本百名城(185番)の唐津城紹介の続きです。築城に際しては、豊臣秀吉が大陸侵攻(唐入り)の前進基地として築城した、名護屋城(佐賀県唐津市)の解体資材が使われました。

2018暮、佐賀と福岡の名城(9/12):12月2日(2):唐津城(2):天守、修復中の石垣、紅葉

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2018/12/01 - 2018/12/02

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

佐賀と福岡の城巡りです。続日本百名城(185番)の唐津城紹介の続きです。築城に際しては、豊臣秀吉が大陸侵攻(唐入り)の前進基地として築城した、名護屋城(佐賀県唐津市)の解体資材が使われました。

交通手段
新幹線 JRローカル 私鉄
  • 少し説明が重複しますが、唐津城の歴史の紹介です。唐津城は、豊臣秀吉の家臣だった寺沢志摩守広高が、慶長7年(1602年)から慶長13年(1608年)にかけて築城した城です。築城に際しては、秀吉が大陸侵攻(唐入り)の前進基地として築城した、名護屋城(佐賀県唐津市)の解体資材が使われました。(ウィキペディア)<br />*写真は、天守に向かう途中、振り返って眺めた麓の光景です。

    少し説明が重複しますが、唐津城の歴史の紹介です。唐津城は、豊臣秀吉の家臣だった寺沢志摩守広高が、慶長7年(1602年)から慶長13年(1608年)にかけて築城した城です。築城に際しては、秀吉が大陸侵攻(唐入り)の前進基地として築城した、名護屋城(佐賀県唐津市)の解体資材が使われました。(ウィキペディア)
    *写真は、天守に向かう途中、振り返って眺めた麓の光景です。

  • 初代・広高、二代・堅高(かたたか)ともに、天草地方のキリシタン弾圧には厳しい姿勢で臨んでいました。これが島原の乱勃発の原因となったといわれます。乱鎮圧後、二代・堅高は失政の責任を取らされ、天草領4万石を幕府に召し上げられました。面目を失った堅高は江戸で自裁し、跡取りがなく寺沢家は断絶しました。(同上)<br />*写真は、天守に向かう途中、振り返って眺めた登り口付近の光景です。

    イチオシ

    初代・広高、二代・堅高(かたたか)ともに、天草地方のキリシタン弾圧には厳しい姿勢で臨んでいました。これが島原の乱勃発の原因となったといわれます。乱鎮圧後、二代・堅高は失政の責任を取らされ、天草領4万石を幕府に召し上げられました。面目を失った堅高は江戸で自裁し、跡取りがなく寺沢家は断絶しました。(同上)
    *写真は、天守に向かう途中、振り返って眺めた登り口付近の光景です。

  • 唐津城のその後は、譜代大名が入れ替わり、大久保・松平・土井・水野・小笠原の各藩主が、唐津城の城主を務めていきました。あの天保の改革を主導した、のちの老中だった『水野忠邦(1794~1851年)』は、第3代の唐津城主の水野忠光の次男として唐津で生まれました。(同上)<br />*写真は、唐津城の高石垣と楓の紅葉光景です。

    唐津城のその後は、譜代大名が入れ替わり、大久保・松平・土井・水野・小笠原の各藩主が、唐津城の城主を務めていきました。あの天保の改革を主導した、のちの老中だった『水野忠邦(1794~1851年)』は、第3代の唐津城主の水野忠光の次男として唐津で生まれました。(同上)
    *写真は、唐津城の高石垣と楓の紅葉光景です。

  • 麓から天守まで、高低差が43メートルあり、有料の斜行エレベーターも施設されているようでしたが、ひたすら石段を登りました。紅葉や石垣を眺めながらの登山ですから、一向に苦にはなりませんでした。右手正面の石積は、乱積みの『打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)』になるようです。(同上)

    麓から天守まで、高低差が43メートルあり、有料の斜行エレベーターも施設されているようでしたが、ひたすら石段を登りました。紅葉や石垣を眺めながらの登山ですから、一向に苦にはなりませんでした。右手正面の石積は、乱積みの『打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)』になるようです。(同上)

  • 天守がある本丸への最後の石段になるようです。その石段の上に藤棚らしいものが見えてきました。最後の石段脇の石垣は、大きさが一定程度に揃えられ、表面が平らに加工された石材が使われた『打ち込み接ぎ』でした。左角の石積は、石材を揃えた『算木積み(さんぎづみ)』です。見せることを意識した石積みのようです。(同上)

    天守がある本丸への最後の石段になるようです。その石段の上に藤棚らしいものが見えてきました。最後の石段脇の石垣は、大きさが一定程度に揃えられ、表面が平らに加工された石材が使われた『打ち込み接ぎ』でした。左角の石積は、石材を揃えた『算木積み(さんぎづみ)』です。見せることを意識した石積みのようです。(同上)

  • 今は洛陽の時期ですが、春先には見事な花を咲かせてくれそうな藤棚の光景になるようです。天守への石段を登り切った場所にありました。『フジ(藤)』は、『ノダフジ(野田藤)』とも呼ばれる、マメ科フジ属のつる性落葉木本で、日本の固有種です。日本には、同属の『ヤマフジ(山藤)』もあります。この藤は、唐津市の天然記念物のようです。(同上)

    今は洛陽の時期ですが、春先には見事な花を咲かせてくれそうな藤棚の光景になるようです。天守への石段を登り切った場所にありました。『フジ(藤)』は、『ノダフジ(野田藤)』とも呼ばれる、マメ科フジ属のつる性落葉木本で、日本の固有種です。日本には、同属の『ヤマフジ(山藤)』もあります。この藤は、唐津市の天然記念物のようです。(同上)

  • 広々とした本丸の光景です。唐津城本丸跡からは、名護屋城で使われたs瓦と同じ文様の瓦が出土しています。これが、名護屋城(佐賀県唐津市)の廃材を利用したとの考古資料になっているようです。文献資料としては、『松浦要略記』に、石垣を除名護屋城の城の廃材を使用したことが記されているようです。(同上)

    広々とした本丸の光景です。唐津城本丸跡からは、名護屋城で使われたs瓦と同じ文様の瓦が出土しています。これが、名護屋城(佐賀県唐津市)の廃材を利用したとの考古資料になっているようです。文献資料としては、『松浦要略記』に、石垣を除名護屋城の城の廃材を使用したことが記されているようです。(同上)

  • 唐津城の模擬天守の光景です。元々の唐津城は、豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高が、慶長7年(1602年)から7か年の歳月を費やして同13年に完成したと言われています。築城には、九州諸大名の加勢を受け、名護屋城の解体資材を用いたともいわれています。城は、本丸、二の丸、三の丸、外曲輪に分かれていて、現在の天守閣は、昭和41年(1966年)に完成したもので、展示室、展望所等があり、展望所からは、松浦潟の全景が一望できます。また、別名舞鶴城とも言われ、観光唐津のシンボ ルとなっています。(同上)

    唐津城の模擬天守の光景です。元々の唐津城は、豊臣秀吉の家臣、寺沢志摩守広高が、慶長7年(1602年)から7か年の歳月を費やして同13年に完成したと言われています。築城には、九州諸大名の加勢を受け、名護屋城の解体資材を用いたともいわれています。城は、本丸、二の丸、三の丸、外曲輪に分かれていて、現在の天守閣は、昭和41年(1966年)に完成したもので、展示室、展望所等があり、展望所からは、松浦潟の全景が一望できます。また、別名舞鶴城とも言われ、観光唐津のシンボ ルとなっています。(同上)

  • 『乱積み』の『打ち込み接ぎ』の高石垣のズームアップ光景です。推測ですが、苔類や草木が全く見当たりませんので、近年に積み直された石垣のようです。石材は流用されたものが多いようにも見えました。縦に長い間詰石を使った個所は隙間が多く、意図的に排水を考慮しているようにも見えました。(同上)

    『乱積み』の『打ち込み接ぎ』の高石垣のズームアップ光景です。推測ですが、苔類や草木が全く見当たりませんので、近年に積み直された石垣のようです。石材は流用されたものが多いようにも見えました。縦に長い間詰石を使った個所は隙間が多く、意図的に排水を考慮しているようにも見えました。(同上)

  • 箇条書きで紹介する唐津城の概要です。『山城攻略記』を参照しました。<br />〇城名:唐津城、別名:舞鶴城<br />〇標高:42m、比高:38m<br />〇築城年:慶長13年(1608年)<br />〇場所:佐賀県唐津市東城内 (同上)

    箇条書きで紹介する唐津城の概要です。『山城攻略記』を参照しました。
    〇城名:唐津城、別名:舞鶴城
    〇標高:42m、比高:38m
    〇築城年:慶長13年(1608年)
    〇場所:佐賀県唐津市東城内 (同上)

  • 〇歴代城主:寺沢氏、大久保氏、(大給)松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏。<br />〇唐津市街地北東の唐津湾に面し、松浦川の左岸に位置する。<br />〇築城以前は地切とよばれ、満島山とよぶ陸繋島の砂州地だった。<br />〇文禄2年(1593年)~文禄3年、寺沢志摩守広高は唐津藩主に封ぜられた。(同上)<br />*写真は、『天守台石垣の修復』のタイトルがあった説明パネルです。

    〇歴代城主:寺沢氏、大久保氏、(大給)松平氏、土井氏、水野氏、小笠原氏。
    〇唐津市街地北東の唐津湾に面し、松浦川の左岸に位置する。
    〇築城以前は地切とよばれ、満島山とよぶ陸繋島の砂州地だった。
    〇文禄2年(1593年)~文禄3年、寺沢志摩守広高は唐津藩主に封ぜられた。(同上)
    *写真は、『天守台石垣の修復』のタイトルがあった説明パネルです。

  • 〇広高は、慶長の役終結後に名護屋城も受領した。<br />〇広高は、波多氏の旧城の田中城(現東松補郡北被多村)に居城して築城した。<br />〇築城には、慶長7年(1602年)から同13年までの7ヵ年を要した。<br />〇『松浦要略記』に、石垣を除いて名護屋の資材を移したと記す。(同上)<br />*写真は、随分とミニタイプの鳥居の光景です。

    〇広高は、慶長の役終結後に名護屋城も受領した。
    〇広高は、波多氏の旧城の田中城(現東松補郡北被多村)に居城して築城した。
    〇築城には、慶長7年(1602年)から同13年までの7ヵ年を要した。
    〇『松浦要略記』に、石垣を除いて名護屋の資材を移したと記す。(同上)
    *写真は、随分とミニタイプの鳥居の光景です。

  • 〇『寺沢広高公以来御代々記』 に、「諸大名御加勢前後五か年に当城 御築立慶長年中被移居」と記される。<br />〇『松浦記集成』に、「唐津城普請の事慶長七壬寅年より同十三戊申 年迄七年に成就也」と記される。<br />〇『「松浦要略記』には、「本城山は満島山と申所より続き鏡村の支配にて有之 候。山東の裾低く大汐の時は汐越程に有之候を堀切今の 川口に相成申候、以前の川口は只今二の御門御堀より北 の御門外に流出居申候。(中略)満島山へ神仏有之候を所々 に御移り被成候」と記される。(同上)

    イチオシ

    〇『寺沢広高公以来御代々記』 に、「諸大名御加勢前後五か年に当城 御築立慶長年中被移居」と記される。
    〇『松浦記集成』に、「唐津城普請の事慶長七壬寅年より同十三戊申 年迄七年に成就也」と記される。
    〇『「松浦要略記』には、「本城山は満島山と申所より続き鏡村の支配にて有之 候。山東の裾低く大汐の時は汐越程に有之候を堀切今の 川口に相成申候、以前の川口は只今二の御門御堀より北 の御門外に流出居申候。(中略)満島山へ神仏有之候を所々 に御移り被成候」と記される。(同上)

  • 〇広高は、築城にあたり隣接の大 名の加勢を受けたが、薩摩堀・肥後堀・肥前堀の名称に、その間の事情が物語られている。<br />〇唐津城は、鏡村と切り離された満島山を本丸とし、東側は松浦川を外堀とする。<br />〇本丸の城地は東西62間、南北73間。(同上)<br />*写真は、直近から見上げた、模擬天守の光景です。

    〇広高は、築城にあたり隣接の大 名の加勢を受けたが、薩摩堀・肥後堀・肥前堀の名称に、その間の事情が物語られている。
    〇唐津城は、鏡村と切り離された満島山を本丸とし、東側は松浦川を外堀とする。
    〇本丸の城地は東西62間、南北73間。(同上)
    *写真は、直近から見上げた、模擬天守の光景です。

  • 〇本丸には、城主の居住する御殿と米蔵等があった。<br />〇二の丸には、城地は東西247間、南北122間で政庁があった。<br />〇二の丸には、藩校盈科堂や江戸在勤者の宿泊所や重臣の屋敷があった。<br />〇三の丸は、城地東西311間、南北325間、二の丸と内堀で隔てられていた。(同上)<br />*写真は、模擬天守のズームアップ光景です。

    〇本丸には、城主の居住する御殿と米蔵等があった。
    〇二の丸には、城地は東西247間、南北122間で政庁があった。
    〇二の丸には、藩校盈科堂や江戸在勤者の宿泊所や重臣の屋敷があった。
    〇三の丸は、城地東西311間、南北325間、二の丸と内堀で隔てられていた。(同上)
    *写真は、模擬天守のズームアップ光景です。

  • 〇三の丸には、唐津神社や城下に時を告げる時太鼓櫓があった。<br />〇三の丸には、中堅武士の多くが居住していた。<br />〇城内は、石垣を廻らし海岸を除き濠堀が掘られた。<br />〇本丸には、天守台が築かれたが詳細は不明。(同上)<br />*写真は、天守1階の出入口からの本丸の光景です。

    〇三の丸には、唐津神社や城下に時を告げる時太鼓櫓があった。
    〇三の丸には、中堅武士の多くが居住していた。
    〇城内は、石垣を廻らし海岸を除き濠堀が掘られた。
    〇本丸には、天守台が築かれたが詳細は不明。(同上)
    *写真は、天守1階の出入口からの本丸の光景です。

  • 〇出入口としては、三の丸の南側に大手門、西側に西の門、 北側に北の門と埋門が設けられ、本丸には船手門が松浦川岸に設けられた。<br />〇寛永4年(1627年)のものと思われる隠密探索書では天守閣は存在していない。<br />〇明治4年(1871年)廃城となる。(同上)<br />*写真は、『大老の松』と呼ばれる展示品です。

    〇出入口としては、三の丸の南側に大手門、西側に西の門、 北側に北の門と埋門が設けられ、本丸には船手門が松浦川岸に設けられた。
    〇寛永4年(1627年)のものと思われる隠密探索書では天守閣は存在していない。
    〇明治4年(1871年)廃城となる。(同上)
    *写真は、『大老の松』と呼ばれる展示品です。

  • 〇明治9年(1876年)までに、隅櫓のほ とんどは取り去られた。<br />〇本丸跡は、廃城後に舞鶴公園となった。<br />〇城主石高は、はじめ12万3千石。廃藩前は6万石。<br />〇本丸出段のホルトノキと藤は市指定の天然記念物。(以上)<br />*写真は、天守1階の室内光景です。

    〇明治9年(1876年)までに、隅櫓のほ とんどは取り去られた。
    〇本丸跡は、廃城後に舞鶴公園となった。
    〇城主石高は、はじめ12万3千石。廃藩前は6万石。
    〇本丸出段のホルトノキと藤は市指定の天然記念物。(以上)
    *写真は、天守1階の室内光景です。

  • 右端に『フロアガイド』のタイトルがあった、5階建ての天守の室内案内図です。階ごとに表示された、右端が1階、左端が最上階の5階です。お城案内に『天守閣は5層5階、地下1階』と紹介されていましたから、地階もあるようです。(同上)

    右端に『フロアガイド』のタイトルがあった、5階建ての天守の室内案内図です。階ごとに表示された、右端が1階、左端が最上階の5階です。お城案内に『天守閣は5層5階、地下1階』と紹介されていましたから、地階もあるようです。(同上)

  • 『唐津城』のタイトルがあった、大きな入場案内の看板光景です。ところで、『唐津(からつ)』の呼び名についての紹介です。『大陸とのつながりが古く、唐(大陸・韓半島)への津(みなと)から「唐津」となったといわれる。(都市データパック(市章)・東洋経済新報社)』と説明されているようです。他には、『唐津の古代の説話として、神功皇后の朝鮮出兵に伴う物語や大伴狭手彦の新羅出兵の折の佐用姫伝説がある。これらは唐津の地が大陸への渡航地であったことを示すものであろう。しかし、大和朝廷の確立期以降は、大陸への渡航地が筑前博多地方に移り、歴史の舞台に上る機会は少なくなった』、との説明もあります。(同上)

    『唐津城』のタイトルがあった、大きな入場案内の看板光景です。ところで、『唐津(からつ)』の呼び名についての紹介です。『大陸とのつながりが古く、唐(大陸・韓半島)への津(みなと)から「唐津」となったといわれる。(都市データパック(市章)・東洋経済新報社)』と説明されているようです。他には、『唐津の古代の説話として、神功皇后の朝鮮出兵に伴う物語や大伴狭手彦の新羅出兵の折の佐用姫伝説がある。これらは唐津の地が大陸への渡航地であったことを示すものであろう。しかし、大和朝廷の確立期以降は、大陸への渡航地が筑前博多地方に移り、歴史の舞台に上る機会は少なくなった』、との説明もあります。(同上)

  • 大きな入場案内の看板は、天守1階の入口脇にありました。『唐津』についての説明の続きです。1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた、小国々の伽耶(かや)、加羅(から)、または加羅諸国(からしょこく)との関係も歴史的には、気になります。ところで、日本の古代史で最も不思議で、議論も多様なのが、邪馬台国と卑弥呼等を巡る問題と思います。(同上)

    大きな入場案内の看板は、天守1階の入口脇にありました。『唐津』についての説明の続きです。1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた、小国々の伽耶(かや)、加羅(から)、または加羅諸国(からしょこく)との関係も歴史的には、気になります。ところで、日本の古代史で最も不思議で、議論も多様なのが、邪馬台国と卑弥呼等を巡る問題と思います。(同上)

  • 1967年(昭和42年)1月に出版された、宮崎康平(1917~1980年)さんの『まぼろしの邪馬台国』が、私が興味を持った契機でした。1965年(昭和40年)から『九州文学』に連載開始され、1967年(昭和42年)、講談社から出版されました。これにより同年、妻和子さんの二人で第一回吉川英治文化賞を受賞されました。過労で目を悪くされた康平さんの著述を助けたのが和子さんでした。(同上)

    1967年(昭和42年)1月に出版された、宮崎康平(1917~1980年)さんの『まぼろしの邪馬台国』が、私が興味を持った契機でした。1965年(昭和40年)から『九州文学』に連載開始され、1967年(昭和42年)、講談社から出版されました。これにより同年、妻和子さんの二人で第一回吉川英治文化賞を受賞されました。過労で目を悪くされた康平さんの著述を助けたのが和子さんでした。(同上)

  • 手元の蔵書を調べてみましたら、『昭和42年(1968年)1月25日第1刷発行』、購入したのが同年3月18日の第6刷でした。3か月弱で第6刷ですから、すさまじい勢いで邪馬台国ブームが沸き起こりました。1980年に改訂版が出されましたが、その後、廃刊になりましたが、2008年(平成20年)8月に講談社より新装版が発売され、吉永小百合さんが和子さん役を主演する同名の映画が封切られました。(同上)

    手元の蔵書を調べてみましたら、『昭和42年(1968年)1月25日第1刷発行』、購入したのが同年3月18日の第6刷でした。3か月弱で第6刷ですから、すさまじい勢いで邪馬台国ブームが沸き起こりました。1980年に改訂版が出されましたが、その後、廃刊になりましたが、2008年(平成20年)8月に講談社より新装版が発売され、吉永小百合さんが和子さん役を主演する同名の映画が封切られました。(同上)

  • その前後にも各種の邪馬台国関係の書籍に目を通しましたが、その一つが、松本清張さんの一連の著作等です。『邪馬台国・清張通史(1)昭和51年(1976年)11月30日第1刷で、手元には同年12月付けの第2刷等があります。また、『中央公論』に1966年(昭和41年)6月から1967年3月まで連載され、1968年(昭和43年)3月に中央公論社から刊行された『古代史疑』もブームの火付け役になったようです。(同上)

    その前後にも各種の邪馬台国関係の書籍に目を通しましたが、その一つが、松本清張さんの一連の著作等です。『邪馬台国・清張通史(1)昭和51年(1976年)11月30日第1刷で、手元には同年12月付けの第2刷等があります。また、『中央公論』に1966年(昭和41年)6月から1967年3月まで連載され、1968年(昭和43年)3月に中央公論社から刊行された『古代史疑』もブームの火付け役になったようです。(同上)

  • 清張さん自身が、『(自身の邪馬台国論として)一番纏まっていると思っている』とする著作は、『邪馬台国・清張通史(1)』とされています。主な著作の一覧です。<br />〇『古代史疑』:1968年(昭和43年)3月刊行:中央公論社<br />〇『邪馬台国・清張通史(1)』:1976年(昭和51年)刊行:講談社<br />*写真は、唐津城から眺めた、松浦川河口付近の光景です。

    清張さん自身が、『(自身の邪馬台国論として)一番纏まっていると思っている』とする著作は、『邪馬台国・清張通史(1)』とされています。主な著作の一覧です。
    〇『古代史疑』:1968年(昭和43年)3月刊行:中央公論社
    〇『邪馬台国・清張通史(1)』:1976年(昭和51年)刊行:講談社
    *写真は、唐津城から眺めた、松浦川河口付近の光景です。

  • *清張さんの邪馬台国関連の著作紹介の続きです。<br />〇『清張 古代游記 吉野ケ里と邪馬台国』:1993年(平成5年)刊行:NHK出版協会<br />〇『松本清張研究』第6号「特集・清張古代史の軌跡と現在」:2005年刊行:北九州市立松本清張記念館編集・発行<br />〇『邪馬台国の常識(古代史シリーズ)』:1974年(昭和49年)刊行:毎日新聞出版

    *清張さんの邪馬台国関連の著作紹介の続きです。
    〇『清張 古代游記 吉野ケ里と邪馬台国』:1993年(平成5年)刊行:NHK出版協会
    〇『松本清張研究』第6号「特集・清張古代史の軌跡と現在」:2005年刊行:北九州市立松本清張記念館編集・発行
    〇『邪馬台国の常識(古代史シリーズ)』:1974年(昭和49年)刊行:毎日新聞出版

  • 〇『松本清張の日本史探訪』(角川文庫):1999年7月刊行:KADOKAWA<br />〇『シンポジウム邪馬台国-流動する東アジアの中で(共著)』:1975~76年:角川<br />〇『松本清張全集』ほか。<br />*写真は、唐津城から眺めた、日本海、玄界灘方面の光景です。東南側が松浦川の河口、西北側が唐津港になります。

    〇『松本清張の日本史探訪』(角川文庫):1999年7月刊行:KADOKAWA
    〇『シンポジウム邪馬台国-流動する東アジアの中で(共著)』:1975~76年:角川
    〇『松本清張全集』ほか。
    *写真は、唐津城から眺めた、日本海、玄界灘方面の光景です。東南側が松浦川の河口、西北側が唐津港になります。

  • 左端に見えているのは、この後ズームアップで紹介する『大島』です。島の神社の名前が、『宝当神社』ということで、近年は宝くじの神様になってきたようです。名前のためか、近年『宝くじが当たりますように』と、この宝当神社に参拝する方が多くなってきたようです。定期船や海上タクシーがあるようです。(同上)

    イチオシ

    左端に見えているのは、この後ズームアップで紹介する『大島』です。島の神社の名前が、『宝当神社』ということで、近年は宝くじの神様になってきたようです。名前のためか、近年『宝くじが当たりますように』と、この宝当神社に参拝する方が多くなってきたようです。定期船や海上タクシーがあるようです。(同上)

  • 台形をした外観の『大島』の光景です。宝当神社が鎮座されています。今から四百年以上の昔、高島を荒す海賊を撃退した野崎隠岐守綱吉の墓を島の守神として祀ってきたのが、『宝当神社』です。後年、島の人々の願いを叶えてくれる神社として大切にされてきました。(同上)

    台形をした外観の『大島』の光景です。宝当神社が鎮座されています。今から四百年以上の昔、高島を荒す海賊を撃退した野崎隠岐守綱吉の墓を島の守神として祀ってきたのが、『宝当神社』です。後年、島の人々の願いを叶えてくれる神社として大切にされてきました。(同上)

  • 前方に見えるのが『虹の松原』です。以前の旅行の時に『虹の松原』の近くで泊まりましたので、その時に松原を散策しました。泊まったホテルから歩いて、こちらの唐津城にも見学にやって来ました。「日本三大松原」の一つで、国の『特別名勝』にもなっています。(同上)

    前方に見えるのが『虹の松原』です。以前の旅行の時に『虹の松原』の近くで泊まりましたので、その時に松原を散策しました。泊まったホテルから歩いて、こちらの唐津城にも見学にやって来ました。「日本三大松原」の一つで、国の『特別名勝』にもなっています。(同上)

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