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佐賀と福岡の名城巡りです。大野城の紹介の締め括りです。かつての大野城は、『西の都』とも呼ばれた大宰府の守りのための背後に位置する山城でした。大宰府の守りには、大宰府の南に位置する山城の基肄(きい)城と、水城(みずき)城も連携していたようです。

2018暮、佐賀と福岡の名城(6/12):12月1日(6):大野城(3):展示館、小野老歌碑

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2018/12/01 - 2018/12/02

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

佐賀と福岡の名城巡りです。大野城の紹介の締め括りです。かつての大野城は、『西の都』とも呼ばれた大宰府の守りのための背後に位置する山城でした。大宰府の守りには、大宰府の南に位置する山城の基肄(きい)城と、水城(みずき)城も連携していたようです。

交通手段
新幹線 JRローカル 私鉄

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  • 『大宰府展示館』の扁額が懸かった建物の正面出入口光景です。昭和55年(1980年)の開館とともに(公財)古都大宰府保存協会が事務局を置き、広く大宰府史跡の整備地の維持管理や広報普及、史跡の解説・案内などを行っています。隣接する「学校院跡」「観世音寺」「戒壇院」や「水城跡」などと合わせ、史跡散策の拠点となっています。(大宰府展示館サイト)

    『大宰府展示館』の扁額が懸かった建物の正面出入口光景です。昭和55年(1980年)の開館とともに(公財)古都大宰府保存協会が事務局を置き、広く大宰府史跡の整備地の維持管理や広報普及、史跡の解説・案内などを行っています。隣接する「学校院跡」「観世音寺」「戒壇院」や「水城跡」などと合わせ、史跡散策の拠点となっています。(大宰府展示館サイト)

  • ここからは、『大宰府展示館』に入場しての見学です。中央付近に見えるパネルには、『大宰府周辺の地形と遺跡』の題字がありました。その左右に4枚づつ、計8枚の紹介写真がありました。右側には既に紹介した三つ並んだ石標などが、左側には、国分尼寺などが紹介されていました。(同上)

    ここからは、『大宰府展示館』に入場しての見学です。中央付近に見えるパネルには、『大宰府周辺の地形と遺跡』の題字がありました。その左右に4枚づつ、計8枚の紹介写真がありました。右側には既に紹介した三つ並んだ石標などが、左側には、国分尼寺などが紹介されていました。(同上)

  • 『大宰府周辺の地形と遺跡』の表示があった縮小パネルの光景です。現在の市名などが記されているようでした。中央付近が大宰府後のようでしたが、細かい文字は読み取れませんでした。中央右手前に『春日市』、その左上方面に『大野城市』などの文字が読み取れました。北側の表示は、中央蕪付近に手前向きに記されていました。(同上)

    『大宰府周辺の地形と遺跡』の表示があった縮小パネルの光景です。現在の市名などが記されているようでした。中央付近が大宰府後のようでしたが、細かい文字は読み取れませんでした。中央右手前に『春日市』、その左上方面に『大野城市』などの文字が読み取れました。北側の表示は、中央蕪付近に手前向きに記されていました。(同上)

  • 『大宰府政庁』のタイトルがあった説明パネルの光景です。「復元模型:1/100:九州国立博物館所蔵」の表示もありました。先に紹介紹介した、政庁第Ⅰ期~第Ⅲ期の区分に従い、その中で最も新しい、10世紀の後半~12世紀前半の第Ⅲ期がモデルであることが記されていました。(同上)<br />

    『大宰府政庁』のタイトルがあった説明パネルの光景です。「復元模型:1/100:九州国立博物館所蔵」の表示もありました。先に紹介紹介した、政庁第Ⅰ期~第Ⅲ期の区分に従い、その中で最も新しい、10世紀の後半~12世紀前半の第Ⅲ期がモデルであることが記されていました。(同上)

  • 『大宰府政庁・復元模型・建物配置図』タイトルがあった、平面図が記された説明パネルの紹介です。政庁第Ⅰ期~第Ⅲ期の平面図を比べてみますと、中央線から東西が対称でない時期もありますが、第Ⅲ期は、完全対称のようです。北側が上になった建物配置図です。(同上)<br /><br />

    『大宰府政庁・復元模型・建物配置図』タイトルがあった、平面図が記された説明パネルの紹介です。政庁第Ⅰ期~第Ⅲ期の平面図を比べてみますと、中央線から東西が対称でない時期もありますが、第Ⅲ期は、完全対称のようです。北側が上になった建物配置図です。(同上)

  • 復元模型:1/100の『大宰府政庁』の光景です。南側から眺めた光景になるようです。手前の正面にある大きな建物が『南門』、その後ろに、『中門』があるようでした。一番奥の中央に控えている建物が、『正殿』になるようです。建物配置図によれば、さらに後方に『後殿』と『北門』が控えているようでした。二重の回廊の中の4つの建物が、西脇殿と東脇殿です。(同上)

    イチオシ

    復元模型:1/100の『大宰府政庁』の光景です。南側から眺めた光景になるようです。手前の正面にある大きな建物が『南門』、その後ろに、『中門』があるようでした。一番奥の中央に控えている建物が、『正殿』になるようです。建物配置図によれば、さらに後方に『後殿』と『北門』が控えているようでした。二重の回廊の中の4つの建物が、西脇殿と東脇殿です。(同上)

  • 『小野老(おののおゆ)歌碑』の説明プレートです。説明されていたのは、万葉集巻三328番の和歌『あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり』でした。聖武朝の神亀5年(728年)4月頃大宰少弐として大宰府に赴任したのち、10月頃大宰府における政治の実情を朝廷に報告する朝集使として平城京に赴き、その報告をしました。(同上)

    『小野老(おののおゆ)歌碑』の説明プレートです。説明されていたのは、万葉集巻三328番の和歌『あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり』でした。聖武朝の神亀5年(728年)4月頃大宰少弐として大宰府に赴任したのち、10月頃大宰府における政治の実情を朝廷に報告する朝集使として平城京に赴き、その報告をしました。(同上)

  • 『小野老(おののおゆ)歌碑』の光景です。奈良の都を顕彰した和歌として有名です。万葉集における原文(万葉仮名)は、次の通りです。<br /> 『青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有』<br /> 歌の内容は『奈良の京はいま咲く花の匂うかのように盛りです』との望郷歌ですが、小野老は在任中に一度『朝集師』として大宰府の実情を朝廷に報告するために奈良の京に戻っていますので、その時の奈良の様子を大宰府の人々に伝えるために詠んだ一首との解釈もあります。(同上)

    『小野老(おののおゆ)歌碑』の光景です。奈良の都を顕彰した和歌として有名です。万葉集における原文(万葉仮名)は、次の通りです。
     『青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有』
     歌の内容は『奈良の京はいま咲く花の匂うかのように盛りです』との望郷歌ですが、小野老は在任中に一度『朝集師』として大宰府の実情を朝廷に報告するために奈良の京に戻っていますので、その時の奈良の様子を大宰府の人々に伝えるために詠んだ一首との解釈もあります。(同上)

  • 『小野老(おののおゆ)』の官位は、大宰府の次官の大宰少弐とされます。立場上はこの時期、大宰師として派遣されていた『大伴旅人(おほとものたびと:665~731年)』の部下になります。小野老の生年は不詳ですが、亡くなったのは737年とされます。正4位まで順調に昇位したことから、当時権勢をふるった藤原氏の政治系列との見方もあります。(同上)

    『小野老(おののおゆ)』の官位は、大宰府の次官の大宰少弐とされます。立場上はこの時期、大宰師として派遣されていた『大伴旅人(おほとものたびと:665~731年)』の部下になります。小野老の生年は不詳ですが、亡くなったのは737年とされます。正4位まで順調に昇位したことから、当時権勢をふるった藤原氏の政治系列との見方もあります。(同上)

  • 『大宰府跡』を散策しながらの見学が続きます。赤色の幟には、『大宰府史跡』の文字が、その隣の石標には『大宰府展示館』の文字がありました。今から凡そ1300年前、大宰府は律令制下で外交と防衛の中核を担い、大陸文化の窓口として多くの人や文物を受入れ、西海道諸国をも統括する地方最大の役所でした。今日、史跡として残ったのは、高度成長時代の開発危機を乗り越えたためです。(同上)

    『大宰府跡』を散策しながらの見学が続きます。赤色の幟には、『大宰府史跡』の文字が、その隣の石標には『大宰府展示館』の文字がありました。今から凡そ1300年前、大宰府は律令制下で外交と防衛の中核を担い、大陸文化の窓口として多くの人や文物を受入れ、西海道諸国をも統括する地方最大の役所でした。今日、史跡として残ったのは、高度成長時代の開発危機を乗り越えたためです。(同上)

  • 『大宰府跡』の主要な遺跡は、建物の礎石を建物の礎石を遺すのみとなっても、他に類を見ない重要な史跡として、大宰府跡(都府楼跡)の名で水城跡・大野城跡とともに、国の特別史跡に指定されています。このほか、筑前国分寺跡、国分瓦窯跡、大宰府学校院跡、観世音寺境内及び子院跡附老司瓦窯跡も国の史跡に指定され、佐賀県にまたがる基肄城も含めて『大宰府史跡』と総称されています。(同上)

    『大宰府跡』の主要な遺跡は、建物の礎石を建物の礎石を遺すのみとなっても、他に類を見ない重要な史跡として、大宰府跡(都府楼跡)の名で水城跡・大野城跡とともに、国の特別史跡に指定されています。このほか、筑前国分寺跡、国分瓦窯跡、大宰府学校院跡、観世音寺境内及び子院跡附老司瓦窯跡も国の史跡に指定され、佐賀県にまたがる基肄城も含めて『大宰府史跡』と総称されています。(同上)

  • 大宰府の最高位の長官である『大宰帥(だざいのそち:だざいのそつ)』の立場にあった大伴旅人の歌碑の説明パネルです。詠まれた和歌は『やすみしし 我が大君の 食(を)す国は 大和もここも 同じとそ思ふ』(巻6-956)です。<br /> *現代語訳:『わが大君のお治めになる国は大和もこの筑紫も同じだと思う』<br /> *設置場所:大宰府政庁跡前(南側) (同上)

    大宰府の最高位の長官である『大宰帥(だざいのそち:だざいのそつ)』の立場にあった大伴旅人の歌碑の説明パネルです。詠まれた和歌は『やすみしし 我が大君の 食(を)す国は 大和もここも 同じとそ思ふ』(巻6-956)です。
     *現代語訳:『わが大君のお治めになる国は大和もこの筑紫も同じだと思う』
     *設置場所:大宰府政庁跡前(南側) (同上)

  • 〇『やすみしし 我が大君の 食す国は 大和もここも 同じとそ思ふ』<br /> (巻6-956)作者:大伴旅人<br /> *この歌は大宰少弐の石川朝臣足人(たりひと)が大宰師である大伴旅人に詠い掛けた先の巻六(955)の歌に旅人が和えて詠んだ一首です。「大宮人の住む奈良の佐保の山を恋しく思いますか、貴方様は」との足人の歌に対する返歌です。(同上)

    〇『やすみしし 我が大君の 食す国は 大和もここも 同じとそ思ふ』
     (巻6-956)作者:大伴旅人
     *この歌は大宰少弐の石川朝臣足人(たりひと)が大宰師である大伴旅人に詠い掛けた先の巻六(955)の歌に旅人が和えて詠んだ一首です。「大宮人の住む奈良の佐保の山を恋しく思いますか、貴方様は」との足人の歌に対する返歌です。(同上)

  • 『散策案内(エリア・マップ)』のタイトルがあった観光案内地図の紹介です。お勧めらしい散策コースが、『歴史の散歩道』の名前で赤い線で記されていました。現在位置が『大宰府政庁跡』の南側に記され、お勧めの散策コースは『大宰府政庁跡』の北側をかすめるコースでした。(同上)

    『散策案内(エリア・マップ)』のタイトルがあった観光案内地図の紹介です。お勧めらしい散策コースが、『歴史の散歩道』の名前で赤い線で記されていました。現在位置が『大宰府政庁跡』の南側に記され、お勧めの散策コースは『大宰府政庁跡』の北側をかすめるコースでした。(同上)

  • 南側から眺めた政庁跡の光景です。北に向かって登り購買になっているらしく、2箇所に幅広い石段が設けてありました。発掘調査の後に、多少の補修もされた石段のようでした。推測ですが、手前の石段が『南門』があった場所、奥の石段が『中門』があった場所になるようです。その正面背後の山並みが、大宰府の防御施設の一つ、大野城が築かれた四王寺山(大野山)になるようです。(同上)

    イチオシ

    南側から眺めた政庁跡の光景です。北に向かって登り購買になっているらしく、2箇所に幅広い石段が設けてありました。発掘調査の後に、多少の補修もされた石段のようでした。推測ですが、手前の石段が『南門』があった場所、奥の石段が『中門』があった場所になるようです。その正面背後の山並みが、大宰府の防御施設の一つ、大野城が築かれた四王寺山(大野山)になるようです。(同上)

  • 名前:『クロガネモチ(黒金餅、黒鉄黐)』(推定)<br />分類:モチノキ科モチノキ属<br />分布:日本のほか、台湾・中国・インドシナに分布。<br />その他:庭木としてよく用いられ、比較的都市環境にも耐えることから、公園樹、あるいは街路樹としてもよく見掛けます。(ウィキペディア)

    イチオシ

    名前:『クロガネモチ(黒金餅、黒鉄黐)』(推定)
    分類:モチノキ科モチノキ属
    分布:日本のほか、台湾・中国・インドシナに分布。
    その他:庭木としてよく用いられ、比較的都市環境にも耐えることから、公園樹、あるいは街路樹としてもよく見掛けます。(ウィキペディア)

  • 名前:『クロガネモチ(黒金餅、黒鉄黐)』(推定)<br />分類:モチノキ科モチノキ属<br />分布:日本のほか、台湾・中国・インドシナに分布。<br />その他:一見、ピラカンサ(バラ科トキワサンザシ属)との見分けが付きませんでした。(同上)

    名前:『クロガネモチ(黒金餅、黒鉄黐)』(推定)
    分類:モチノキ科モチノキ属
    分布:日本のほか、台湾・中国・インドシナに分布。
    その他:一見、ピラカンサ(バラ科トキワサンザシ属)との見分けが付きませんでした。(同上)

  • 『古都大宰府保存への道』のタイトルがあった説明パネルです。右側半分に6枚の説明写真がありました。前書きには、『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれて栄華を誇った大宰府も、今から900年ほど前の平安時代の末期には、その役割を終えて田畑に戻ったことが紹介されていました。右上の写真が昭和40年(1965年)に撮影された政庁跡、その下の4枚の小さな写真が保存のための発掘作業、右下の写真が近年における政庁跡の光景です。(大宰府展示館サイト)

    『古都大宰府保存への道』のタイトルがあった説明パネルです。右側半分に6枚の説明写真がありました。前書きには、『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれて栄華を誇った大宰府も、今から900年ほど前の平安時代の末期には、その役割を終えて田畑に戻ったことが紹介されていました。右上の写真が昭和40年(1965年)に撮影された政庁跡、その下の4枚の小さな写真が保存のための発掘作業、右下の写真が近年における政庁跡の光景です。(大宰府展示館サイト)

  • 『特別史跡・大宰府跡・大宰府政庁南門跡』のタイトルがあった説明パネルです。大宰府政庁の南端に位置する正面玄関が『南門』です。政庁の最後の姿である第Ⅲ期(10世紀後半~12世紀前半)の時の南門は、幅21メートル、奥行き8.1メートルの規模がありました。現在、その礎石が残ります。南門跡は、中門跡と同時に昭和43年(1968年)、大宰府跡で最初に発掘調査が行われた場所です。(同上)

    『特別史跡・大宰府跡・大宰府政庁南門跡』のタイトルがあった説明パネルです。大宰府政庁の南端に位置する正面玄関が『南門』です。政庁の最後の姿である第Ⅲ期(10世紀後半~12世紀前半)の時の南門は、幅21メートル、奥行き8.1メートルの規模がありました。現在、その礎石が残ります。南門跡は、中門跡と同時に昭和43年(1968年)、大宰府跡で最初に発掘調査が行われた場所です。(同上)

  • 大きな石碑があった場所の光景です。手前に見える横長の石標には、『南門跡』の文字がありました。南から北に向かって階段を上がると『南門跡』になります。先ほど紹介した発掘調査をもとに、建物の大きさと構造概要が推測されました。その姿は、三つの扉を持つ2階建ての堂々とした建物でした。あ先ほどの説明パネルにその復元図がありました。(同上)

    大きな石碑があった場所の光景です。手前に見える横長の石標には、『南門跡』の文字がありました。南から北に向かって階段を上がると『南門跡』になります。先ほど紹介した発掘調査をもとに、建物の大きさと構造概要が推測されました。その姿は、三つの扉を持つ2階建ての堂々とした建物でした。あ先ほどの説明パネルにその復元図がありました。(同上)

  • 『特別史跡・大宰府跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左側に5枚の説明写真がありました。福岡県では、大塚古墳、水城跡、大宰府跡、大野城跡と、佐賀県に跨る基肄城跡の5箇所が国の特別遺跡です。簡単な例えでは、国の史跡が重要文化財、特別遺跡が国宝とされます。大宰府跡は、大正10年(1921年)に国の史跡に、昭和28年(1953年)に特別史跡に指定されました。(同上)

    『特別史跡・大宰府跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左側に5枚の説明写真がありました。福岡県では、大塚古墳、水城跡、大宰府跡、大野城跡と、佐賀県に跨る基肄城跡の5箇所が国の特別遺跡です。簡単な例えでは、国の史跡が重要文化財、特別遺跡が国宝とされます。大宰府跡は、大正10年(1921年)に国の史跡に、昭和28年(1953年)に特別史跡に指定されました。(同上)

  • この後、なかなか文字が読み取れなかった石碑・石標の光景が続きますが、その文字の代わりに、万葉集の歌碑を紹介します。大宰府都府楼の周辺を含めて40個所以上が紹介されていました。(観光情報サイト・万葉歌碑一覧)<br />〇『ここにありて 筑紫やいづち 白雲の たなびく山の 方にしあるらし』<br /> (巻4-574)作者:大伴旅人<br /> *現代語訳:ここ(大和)から見て、筑紫はどこの方角だろう。白雲のたなびく山の方であるらしい。<br /> *歌碑は、九州国立博物館西側アクセス入り口にあります。

    この後、なかなか文字が読み取れなかった石碑・石標の光景が続きますが、その文字の代わりに、万葉集の歌碑を紹介します。大宰府都府楼の周辺を含めて40個所以上が紹介されていました。(観光情報サイト・万葉歌碑一覧)
    〇『ここにありて 筑紫やいづち 白雲の たなびく山の 方にしあるらし』
     (巻4-574)作者:大伴旅人
     *現代語訳:ここ(大和)から見て、筑紫はどこの方角だろう。白雲のたなびく山の方であるらしい。
     *歌碑は、九州国立博物館西側アクセス入り口にあります。

  • 写真の石碑や石標ではなく、万葉集の歌碑の紹介が続きます。<br />〇『わか園に 梅の花散る 久方の 天より雪の 流れ来るかも』<br /> (巻5-822)作者:大伴旅人<br /> *現代語訳:『わが家の庭に梅の花が散っている。天から雲が流れて来るのであろうか』<br /> *歌碑は、九州国立博物館入口横にあります。長い間大伴旅人に因む『旅人のくまさん』を名乗っていますので、この後も敬意を表して、大伴旅人の和歌の紹介が続きます。

    写真の石碑や石標ではなく、万葉集の歌碑の紹介が続きます。
    〇『わか園に 梅の花散る 久方の 天より雪の 流れ来るかも』
     (巻5-822)作者:大伴旅人
     *現代語訳:『わが家の庭に梅の花が散っている。天から雲が流れて来るのであろうか』
     *歌碑は、九州国立博物館入口横にあります。長い間大伴旅人に因む『旅人のくまさん』を名乗っていますので、この後も敬意を表して、大伴旅人の和歌の紹介が続きます。

  • 〇『古の 七の賢(さか)しき 人たちも 欲りせしものは 酒にしあるらし』<br /> (巻3-340)作者:大伴旅人<br /> *現代語訳:『古の竹林の七賢人たちも、欲しがったものは酒であったらしい』<br /> *設置場所:展望広場北西側万葉の散歩道<br />〇『世間は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり』<br /> (巻5-793)作者:大伴旅人<br /> *現代語訳:『世の中はむなしいものだとつくづく知る時、いよいよますます悲哀の感を新たにすることだ』<br /> *旅人は、大宰府赴任中に妻を失いました。大伴家持の母です。<br /> *歌碑設置場所:大宰府政庁跡(裏側)

    〇『古の 七の賢(さか)しき 人たちも 欲りせしものは 酒にしあるらし』
     (巻3-340)作者:大伴旅人
     *現代語訳:『古の竹林の七賢人たちも、欲しがったものは酒であったらしい』
     *設置場所:展望広場北西側万葉の散歩道
    〇『世間は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり』
     (巻5-793)作者:大伴旅人
     *現代語訳:『世の中はむなしいものだとつくづく知る時、いよいよますます悲哀の感を新たにすることだ』
     *旅人は、大宰府赴任中に妻を失いました。大伴家持の母です。
     *歌碑設置場所:大宰府政庁跡(裏側)

  • 〇『我が岡に さ雄鹿来鳴く 初萩の 花妻問ひに 来鳴くさ雄鹿』<br /> (巻8-1541)作者:大伴旅人<br /> *現代語訳:『わが岡に雄鹿が来て鳴いている。初萩の花を妻として訪ねようと、来て鳴く雄鹿よ』<br /> *歌碑設置場所:大宰府政庁跡西側<br />〇『湯の原に 鳴く芦鶴(あしたづ)は吾がごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く』<br />  (巻6-961)作者:大伴旅人<br /> *現代語訳:『湯の原に鳴く芦鶴は、私のように妻を恋い慕うからか、時の区別なくいつも鳴いている』<br /> *歌碑設置場所:大池外周遊歩道南側休憩広場

    〇『我が岡に さ雄鹿来鳴く 初萩の 花妻問ひに 来鳴くさ雄鹿』
     (巻8-1541)作者:大伴旅人
     *現代語訳:『わが岡に雄鹿が来て鳴いている。初萩の花を妻として訪ねようと、来て鳴く雄鹿よ』
     *歌碑設置場所:大宰府政庁跡西側
    〇『湯の原に 鳴く芦鶴(あしたづ)は吾がごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く』
      (巻6-961)作者:大伴旅人
     *現代語訳:『湯の原に鳴く芦鶴は、私のように妻を恋い慕うからか、時の区別なくいつも鳴いている』
     *歌碑設置場所:大池外周遊歩道南側休憩広場

  • 以上で大伴旅人の歌碑の紹介を終わり、ほかの歌人の和歌の紹介です。<br />〇『銀も金も玉も なにせむに まされる宝 子に及(し)かめやも』<br /> (巻5-803)作者:山上憶良<br /> *現代語訳:『銀も金も珠玉も何になろうか。どんな優れた宝も子に及ぼうか。及びはしないのだ』<br /> *歌碑設置場所:展望広場西側万葉の散歩道

    以上で大伴旅人の歌碑の紹介を終わり、ほかの歌人の和歌の紹介です。
    〇『銀も金も玉も なにせむに まされる宝 子に及(し)かめやも』
     (巻5-803)作者:山上憶良
     *現代語訳:『銀も金も珠玉も何になろうか。どんな優れた宝も子に及ぼうか。及びはしないのだ』
     *歌碑設置場所:展望広場西側万葉の散歩道

  • 〇『路の辺の 壱師の花の いちしろく 人皆知りぬ 我が恋妻は』<br /> (巻11-2480)作者:柿本人麻呂<br /> *現代語訳:『道端のいちしの花ではないが、いちしろく(はっきりと)人は皆知ってしまった。私の恋い慕う妻のことは』<br /> *歌碑設置場所:太宰府メモリアルパーク

    〇『路の辺の 壱師の花の いちしろく 人皆知りぬ 我が恋妻は』
     (巻11-2480)作者:柿本人麻呂
     *現代語訳:『道端のいちしの花ではないが、いちしろく(はっきりと)人は皆知ってしまった。私の恋い慕う妻のことは』
     *歌碑設置場所:太宰府メモリアルパーク

  • 〇『春の野に すみれ摘みにと 来し我そ 野をなつかしみ 一夜寝にける』<br /> (巻8-1424)作者:山部赤人<br /> *現代語訳:『春の野にすみれを摘もうと思ってやって来た私は、野に魅せられてそこで一夜寝てしまった』<br /> *歌碑設置場所:太宰府メモリアルパーク

    〇『春の野に すみれ摘みにと 来し我そ 野をなつかしみ 一夜寝にける』
     (巻8-1424)作者:山部赤人
     *現代語訳:『春の野にすみれを摘もうと思ってやって来た私は、野に魅せられてそこで一夜寝てしまった』
     *歌碑設置場所:太宰府メモリアルパーク

  • 〇『萩の花 尾花葛花 なでしこが花 をみなへし また藤袴 朝顔が花』<br /> (巻8-1538)作者:山上憶良<br /> *現代語訳:『萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 女郎花 さらに藤袴 朝顔の花』:現代でも広く知られた秋の七草の和歌です。<br /> *歌碑設置場所:太宰府メモリアルパーク

    〇『萩の花 尾花葛花 なでしこが花 をみなへし また藤袴 朝顔が花』
     (巻8-1538)作者:山上憶良
     *現代語訳:『萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 女郎花 さらに藤袴 朝顔の花』:現代でも広く知られた秋の七草の和歌です。
     *歌碑設置場所:太宰府メモリアルパーク

  • 〇『大野山 霧立ち渡る 我が嘆く 息その風に 霧立ち渡る』<br /> (巻5-799)作者:山上憶良<br /> *現代語訳:『大野山に霧が立ちこめている。私が嘆くため息の風によって霧が立ち込めている』:憶良も大宰府時代に妻を亡くしています。<br /> *歌碑設置場所:太宰府メモリアルパーク

    〇『大野山 霧立ち渡る 我が嘆く 息その風に 霧立ち渡る』
     (巻5-799)作者:山上憶良
     *現代語訳:『大野山に霧が立ちこめている。私が嘆くため息の風によって霧が立ち込めている』:憶良も大宰府時代に妻を亡くしています。
     *歌碑設置場所:太宰府メモリアルパーク

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