2018/12/01 - 2018/12/02
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旅人のくまさんさん
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九州北部の名城巡りです。今回の主な目的は、日本百名城巡りの2周目と、続日本百名城巡りの1周目のお城です。一覧にしますと次の通りです。
○福岡城(福岡県):日本百名城2周目
○大野城(福岡県):日本百名城1周目
○名護屋城(佐賀県):日本百名城2周目
○吉野ヶ里(佐賀県):日本百名城2周目
○佐賀城(佐賀県):日本百名城2周目
○唐津城(福岡県):続日本百名城1周目
○水城(福岡県):続日本百名城1周目
(注1)2周目には、3周目以上のものを含みます。
(注2)当初は大分県を含めて2泊3日の予定でしたが、天候不順を勘案して1泊2日に切上げました。
- 交通手段
- 新幹線 私鉄
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名古屋から新幹線で博多まで移動し、博多からは地下鉄を利用して福岡城の最寄り駅にやって来ました。左手前方に見える木々が紅葉した一帯が、目的地の舞鶴公園になるようです。福岡城日本百名城スタンプ帳には、『市営地下鉄空港線赤坂駅または大濠公園駅から徒歩約5分』と紹介されていました。道路標識には、中央市民センター、中央体育館などの表示がありました。(ウィキペディア)
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前方に見えていた、紅葉した木々がある場所にやって来ました。左手前の石標には、道路標識にあった『中央市民センター』らしい文字が刻まれていました。ネット情報によれば、福岡市の赤坂2丁目にある、「教育」「文化」「地域コミュニティ活動」をサポートする市立の公共施設でした。右手前方には、福岡城址の城壁も見えてきました。(同上)
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この辺りは、福岡市立の舞鶴公園のエリアになるようです。舞鶴公演の西には県立の大濠公園が隣接しています。どちらの公園も福岡城址になります。江戸時代初頭の慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで功績があった、外様大名の『黒田長政(1568~1623年)』が、警固村福崎の丘陵地に築いた城です。以降、明治まで福岡藩黒田氏の居城となりました。(同上)
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案内標識の紹介です。上段には左向きの矢印で、赤坂門、地下鉄(赤坂駅)、中央区役所が、下段には右向きの舞鶴公園、福岡城址、福岡城址堀石垣が表示されていました。また、左手には、奥行きの方角で、中央市民センター・体育館等が表示されていました。(同上)
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左側は、『史跡・福岡城跡・堀石垣』のタイトルがあった説明パネルです。冒頭に、関ヶ原の戦いで戦功が大きかった黒田長政が、豊前中津の12万石から、一挙に筑前52万国に加増され、築いた城が福岡城と紹介されていました。築城の際、黒田家ゆかりの地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)の地名に因み、福崎を『福岡』と改めました。(同上)
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『史跡・福岡城跡・堀石垣』の見学が出来る地下道のようでした。黒田城の普請奉行は、黒田24騎の一人、『野口一成(かずしげ:1559~1643年)』でした。播磨国加古郡野口で、教信寺の僧・浄金の子として生まれました。浄金は黒田孝高(如水)と親しく、囲碁仲間でもあったようです。天正3年(1575年)、元服して黒田氏の家臣となりました。(同上)
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名前:『ゼラニュウム』
分類:フウロソウ科テンジクアオイ属
分布:アフリカ原産
その他:ペラルゴニウム属を改良して数多くの園芸品種が生み出されました。和名は、天竺葵です。 -
福岡城の紹介です。1600年(慶長5年)、黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いの功績により豊前国中津から、筑前一国52万3千石で筑前名島に入封しました。筑前の旧領主小早川秀秋(1582~1602年)の居城だった名島城に入城しました。小早川秀秋は、1600年の関ヶ原の戦いでの『裏切り』だけが大きく宣伝されますが、裏切りではなく、初めから徳川家康に与する考えだったとする説も有力です。(同上)
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福岡城址を紹介しながら、小早川秀秋について、もう少し紹介します。豊臣秀吉の正室・高台院の甥にあたり、その親族として重要な地位にありました。天正17年(1589年)、秀吉の後継者候補としてわずか7歳で元服、丹波亀山城10万石を与えられました。諸大名からは関白・豊臣秀次に次ぐ、豊臣家の継承権保持者とみられました。そのため、若くして諸大名から接待攻勢を受け続けました。(同上)
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イチオシ
小早川秀秋の紹介が続きます。7歳の元服と同時に毎晩酒を飲み続け、12歳にしてアルコール依存症になっていたようです。元服して木下秀俊、のちに羽柴秀俊(豊臣秀俊)と名乗りました。文禄3年(1594年)、秀吉の命により、秀俊は小早川隆景と養子縁組させられました。養子縁組を契機に、小早川隆景の官位は中納言にまで上昇し、小早川家の家格も上昇しました。(同上)
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順風だけではありませんでした。文禄4年(1595年)、秀俊は秀次事件に連座して丹波亀山領10万石を改易されました。しかし、秀俊は小早川領30万7千石を相続する形で九州に下り、筑前国(名島城)国主となりました。筑前東部の5万石は、隆景の隠居領であり隆景の家臣が残っていましたが、慶長2年(1597年)6月の隆景没後に、小早川家でも外様衆の村上氏・日野氏・草刈氏・清水氏が秀俊に仕官しました。(同上)
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慶長2年(1597年)2月、秀吉が発した軍令により、秀俊の朝鮮半島への渡海が決定し、釜山浦で前線からの注進を取り次ぐ任が与えられました。隆景が没し、朝鮮在陣中に名乗りを秀俊から秀秋へ改名しました。秀秋は慶長2年(1597年)12月以前より再三秀吉からの帰国要請を受け、慶長3年(1598年)1月に帰国しました。(同上)
*写真は、『平和台鴻臚館跡・福岡城跡』の説明パネルです。 -
帰国した秀秋には、秀吉より越前北ノ庄15万石への減封転封命令が下りました。石田三成による秀吉への讒言があったとする説もあり、少なくとも、両者の関係は不穏になりました。この転封の際の大幅な減封により、秀秋家中は多くの家臣を解雇することを余儀なくされました。慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去しますと、その秀吉の遺命をもとに、翌慶長4年(1599年)2月5日付で徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行され、秀秋は筑前・筑後に復領、所領高も59万石と大幅に増加しました。関ヶ原の戦いの前、秀秋は当初、慶長5年(1600年)7月~8月の伏見城の戦いでは西軍として参戦していましたが、その後は近江や伊勢で鷹狩りなどをして一人戦線を離れていました。ところが、突如として決戦の前日の9月14日に、1万5千の軍勢を率い、関ヶ原の南西にある松尾山城の伊藤盛正を追い出して入城しました。盛正は大垣城主でしたが、関ヶ原の戦いの前に城を西軍の三成に明け渡しています。(同上)
*写真は、『舞鶴公園(まいづるこうえん)』の紹介パネルです。 -
小早川秀秋の紹介の締め括りです。最近の研究では、『関ヶ原本戦開始は午前10時頃で、秀秋の離反は開戦直後だった』とするものがあります。個人的には、『家康が離反を急かせるために鉄砲(大筒)を秀秋の陣に向けて放った』とする説明には、元々違和感がありました。秀秋の離反で戦況が一変し、東軍が勝利した史実に変わりはありませんが、21歳で亡くなった秀秋には、同情の気持ちが消えません。(同上)
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イチオシ
小早川秀秋紹介の補足です。切り込み隊長として西軍の雄、三成の家老の島清興(左近)を討取る武勇を挙げた黒田長政ですが、父・如水譲りの調略においても一流でした。親戚でもあった平岡頼勝らを通じ、西軍の小早川秀秋や吉川広家などの諸将を東軍に引入れることに成功しました。(以上)
*写真は、広々とした福岡城址の光景です。『鴻臚館跡』の表示がありました。 -
文字は読み取れませんでしたが、かつての『平和台球場』の模型と説明文のようでした。平和台球場は、かつて福岡県福岡市中央区の舞鶴公園にあった野球場で、プロ野球3球団が本拠地としました。1949年(昭和24年)に建設され、1997年(平成9年)に老朽化や歴史公園整備を理由に閉鎖されました。日本シリーズを3制覇した西鉄ライオンズ時代もありました。神様、仏様、稲尾様の時代です。(同上)
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『大濠公園・スタート地点』の表示があった大看板の光景です。常時設置されている看板ではなく、イベント用の臨時の看板のようでした。毎年12月に『福岡国際マラソン』が開催されていますが、そのスタート・ゴール地点が『平和台陸上競技場』とされます。(同上)
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観光案内所に入場しての見学です。最初に紹介するのは、『グリーンアドベンチャー』のタイトルの案内ポスターです。舞鶴公園1周コースなどが案内されているようでした。小学生向けの30問、中・高生向けの40問、上級者向けの50問の解答用紙が用意されているようでした。(同上)
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この説明図には、タイトルが見当たりませんでしたが、かつての福岡城の縄張りを細かく記した図面のようでした。かつての福岡城は、梯郭式の平山城で、本丸の南西に南丸(南二の丸)、北東隅に同じような規模で東二の丸、この二つを結ぶように二の丸、二の丸の西から北東に三の丸が囲む配置でした。建物は47基の櫓や10棟の城門を配し、縄張りの範囲は約24万平方メートルに及びました。(同上)
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〇『へし切長谷部(へしきりはせべ)』:レプリカ
*国宝(国宝銘:刀 金象嵌銘長谷部国重本阿花押 黒田筑前守)
*年代:南北朝時代(長谷部国重により作られた打刀)
*所有:福岡市(福岡市博物館)配慮したようです。(同上)
*その他:織田信長が所有し、秀吉を経由して黒田孝高が配慮したようです。(同上) -
1.『築城のプロ・黒田如水と、勇将・長政父子』
上の騎馬姿が、福岡城初代城主で子の黒田長政、下の隠居然とした姿の人が、父の『黒田如水(孝高:よしたか)』です。如水は、豊臣秀吉や徳川家康も一目置いたとされる、傑出した軍師でした。関ヶ原の戦いの際には、戦局次第では、九州を拠点に天下取りを狙う積りだったとする説もあるほどです。(同上) -
2.『忍者も泣いた?!不落の名城』
侵入を防ぐため、大小47もの櫓と10箇所を超える城門を備え、堀の深さは、潜るのには浅すぎ、立つには深すぎる造りとされます。まさに忍者泣かせです。
小さい頃に話に聴いていたのは、熊本城の石垣のことでした。オーバーハングになって登るのはむつかしく、要所には、石落としが備えてあることなどでした。加藤清正が築いた石垣は『清正流(せいしょうりゅう)』と呼ばれ、最高の技術を現代にまで伝えています。西南戦争の時、西郷隆盛が語ったとされる『政府軍に負けたのではなく、清正公に負けた』とされる。言葉に尽きます。福岡城を築いたのも、歴史的な築城家の一人、黒田如水です。(同上) -
3.『福岡藩興隆の礎、「黒田二十四騎」の名家臣たち』
秀吉時代の「賤ヶ岳の七本槍」に倣い、戦国大名の黒田長政の家臣の中から24人の精鋭を選出した呼称です。18世紀上旬の享保年間の頃に成立した呼び名のようです。また、24人の中の親族の弟達や譜代重臣8人が黒田八虎とも呼ばれました。その黒田八虎は、井上之房(九郎右衛門、周防守)、栗山利安(四郎右衛門、備後守)、黒田一成(三左衛門、美作守、孝高の養子)、黒田利高(兵庫助、孝高の実弟)、黒田利則(修理亮、孝高の実弟)、黒田直之(図書助、孝高の実弟)、後藤基次(又兵衛)、母里友信(太兵衛、但馬守)です。(同上) -
4.『存在した?しない?謎の天守閣』
福岡城は城そのものだけでなく、惣構(そうがまえ)と呼ばれる、城下町一帯を囲む防御施設の規模が大きなことでも知られています。惣構の門のなかで城から一番遠いのは現在の博多駅近くにあった辻堂(つじのどう)口門で、城から。道のりにして3kmも離れていた門です。これだけ大規模な城に天守閣がなかったとは主舞われませんが、その存在を巡っては、長い間の議論があります。
その中の一つに、天守閣は存在したものの、幕府に慮って、建設後、十数年で取り壊したとする説があります。存在した根拠とされるものが、小倉藩主・細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」という天守の存在をうかがわせる記述が『細川家史料』から発見されました。タイミング的には、取り壊した資材が、徳川家による大阪城の建設に使われたとも推定されていいます。この議論は、まだ続きそうです。(同上) -
5. 『博多と福岡、防衛構造が生んだ双子のまち』
明治政府が施行した廃藩置県により、福岡藩から福岡県が誕生し、明治22(1889)年に市制施行となりましたが、翌年、新市名を「福岡市にするのか、博多市にするのか」で市議会が紛糾する事態が発生しました。結果は、福岡藩士だった議長の1票で、『福岡市』となりました。昔からの町人の町を代表するのが「博多」、江戸時代からの武士の町を代表する呼び名が「福岡」の争いでした。この争いは、現代でも、新幹線の駅名や空港名などでも起きたようです。(同上) -
上の方にあったタイトルが途切れてしまいましたが、『黒田官兵衛』の年表です。右端には、「中央の出来事」が記されていました。天文15年(1546年)、姫路城主の嫡男として生まれ、家督を継いで22歳の時に姫路城主になっています。翌年に長政が誕生し、30歳の時に信長に面会し、名刀の『へし切長谷部』を頂戴しています。慶長9年(1604年)、59歳の時、京都で亡くなりました。(同上)
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イチオシ
〇『朱塗合子形兜(しゅぬりごうすなりかぶと)』
*軍師官兵衛着用
*『丸武』作のレプリカのようです。
*「合子(ごうす)」とは「蓋つきのお椀」の意味です。身と蓋が一対で成立する椀に夫婦の間柄を例えたものとも解されています。(同上) -
左上に『福岡城物語』のタイトルがあった説明パネルの紹介です。その下の『東御門跡』の中見出しが、説明パネルがあった現在位置になるようです。二の丸と三の丸を繋ぐ門で、説明文の下に現在位置が図示してありました。現在の『舞鶴公園』が内城に当たる部分で、天守台、本丸、二の丸と三の丸がありました。右上が『福岡城郭図』、その下が『城下町図』で、右下が東御門などの『古写真』です。(以上)
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縄張り図は参照していませんが、『虎口(ここう・こぐち)』と呼ばれる造りの光景になるようです。福岡城は、城造りの名人の一人、加藤清正が高く評価し、『戦の際、自身の築城した城は3~4日で落ちるが、福岡城は30~40日は落ちない』と賞賛したと伝えられています。日本の史に残る築城三名人は、加藤清正、藤堂高虎と黒田官兵衛が定評とされます。(同上)
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福岡城の石垣のズームアップ光景です。補修などがされているかも知れませんが、石材は4百年を経た古材のようでした。全体としては、水平が揃った布積のイメージが強い『打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)』の石積のようです。その中に鏡石のような大石が二つ組み込まれていました。その回りは『笑い積』のような石積でした。(同上)
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