唐津・虹の松原旅行記(ブログ) 一覧に戻る
佐賀と福岡の名城巡りです。唐津城の紹介です。豊臣秀吉の側近、唐津藩初代の『寺沢志摩守広高』が、慶長7年(1602年)から築城を始め、同13年(1608年)に完成したとされますが、それ以前の豊臣期に築城されたという説もあります。築城には、九州諸大名の加勢を受け、名護屋城の解体資材を用いたとされます。

2018暮、佐賀と福岡の名城(8/12):12月2日(1):唐津城(1):博多から唐津へ、唐津神社

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2018/12/01 - 2018/12/02

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旅人のくまさん

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佐賀と福岡の名城巡りです。唐津城の紹介です。豊臣秀吉の側近、唐津藩初代の『寺沢志摩守広高』が、慶長7年(1602年)から築城を始め、同13年(1608年)に完成したとされますが、それ以前の豊臣期に築城されたという説もあります。築城には、九州諸大名の加勢を受け、名護屋城の解体資材を用いたとされます。

交通手段
新幹線 JRローカル 私鉄

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  • 昨晩の宿探しで見つけて泊まったホテルです。朝食だけは注文していましたが、ビジネスホテルよりは少し高い金額だった記憶です。日本百名城巡りでは、何度か博多駅前で宿探しをしましたが、その都度、利用したホテルが異なりました。今回利用したのは、『博多グリーンホテル天神駅』でした。

    昨晩の宿探しで見つけて泊まったホテルです。朝食だけは注文していましたが、ビジネスホテルよりは少し高い金額だった記憶です。日本百名城巡りでは、何度か博多駅前で宿探しをしましたが、その都度、利用したホテルが異なりました。今回利用したのは、『博多グリーンホテル天神駅』でした。

  • 泊まったホテルの名前が立て看板に記してありました。『博多グリーンホテル天神駅』でした。その1階付近の光景です。ガラス戸越しに、朝食会場のテーブルが見えていました。

    泊まったホテルの名前が立て看板に記してありました。『博多グリーンホテル天神駅』でした。その1階付近の光景です。ガラス戸越しに、朝食会場のテーブルが見えていました。

  • 博多から唐津までは電車での移動です。JR線を利用しました。博多駅は福岡県、唐津駅は佐賀県になり、その距離は約50キロほど、1回乗り換えがありましたから、1時間半ほど掛かった記憶です。JR九州の筑肥線で、途中の経過駅は、筑前前原(ちくぜん・まえばる)などでした。(同上)

    博多から唐津までは電車での移動です。JR線を利用しました。博多駅は福岡県、唐津駅は佐賀県になり、その距離は約50キロほど、1回乗り換えがありましたから、1時間半ほど掛かった記憶です。JR九州の筑肥線で、途中の経過駅は、筑前前原(ちくぜん・まえばる)などでした。(同上)

  • 唐津駅に到着しました。唐津駅は、佐賀県唐津市新興町にある、九州旅客鉄道(JR九州)の駅です。所属線である唐津線と、終点駅とする筑肥線(東区間)の2路線が乗り入れ、すべての列車が停車するようです。このほかに唐津線山本駅を起点とする筑肥線(西区間)の列車が全て乗り入れています。(同上)

    唐津駅に到着しました。唐津駅は、佐賀県唐津市新興町にある、九州旅客鉄道(JR九州)の駅です。所属線である唐津線と、終点駅とする筑肥線(東区間)の2路線が乗り入れ、すべての列車が停車するようです。このほかに唐津線山本駅を起点とする筑肥線(西区間)の列車が全て乗り入れています。(同上)

  • 開業当時の唐津駅の略史です。<br />〇1898年(明治31年)12月1日:唐津興業鉄道開通に伴い開業。<br />〇1900年(明治33年)4月18日:唐津興業鉄道の社名変更、唐津鉄道の駅に。<br />〇1902年(明治35年)2月23日:唐津鉄道が合併され、九州鉄道の駅に。<br />〇1907年(明治40年)7月1日:鉄道国有法により国有化、唐津線の駅に。(同上)

    開業当時の唐津駅の略史です。
    〇1898年(明治31年)12月1日:唐津興業鉄道開通に伴い開業。
    〇1900年(明治33年)4月18日:唐津興業鉄道の社名変更、唐津鉄道の駅に。
    〇1902年(明治35年)2月23日:唐津鉄道が合併され、九州鉄道の駅に。
    〇1907年(明治40年)7月1日:鉄道国有法により国有化、唐津線の駅に。(同上)

  • 唐津駅前付近にあった像の紹介です。毎年秋に行われる『唐津くんち』の祭りに因む像のようでした。『唐津くんち』は、佐賀県唐津市にある唐津神社の秋季例大祭です。平成27年(2015年)にユネスコ無形文化遺産に登録されました。唐津神社の神職を務める戸川家の口碑によれば、神輿の御神幸は寛文年間(1661~1673年)に始まったとされます。(同上)

    唐津駅前付近にあった像の紹介です。毎年秋に行われる『唐津くんち』の祭りに因む像のようでした。『唐津くんち』は、佐賀県唐津市にある唐津神社の秋季例大祭です。平成27年(2015年)にユネスコ無形文化遺産に登録されました。唐津神社の神職を務める戸川家の口碑によれば、神輿の御神幸は寛文年間(1661~1673年)に始まったとされます。(同上)

  • 『唐津神社』の社殿光景です。唐津神社の公式サイトからの紹介です。『其の昔、神功皇后さまが三韓へ御渡海の折、舟路が不明のため、住吉の三神に祈願され無事目的を達成せられて、御帰還の際、松浦の海浜に鏡を捧げておいのりされたのが起源とされています』、と紹介されていました。(唐津神社サイト)

    『唐津神社』の社殿光景です。唐津神社の公式サイトからの紹介です。『其の昔、神功皇后さまが三韓へ御渡海の折、舟路が不明のため、住吉の三神に祈願され無事目的を達成せられて、御帰還の際、松浦の海浜に鏡を捧げておいのりされたのが起源とされています』、と紹介されていました。(唐津神社サイト)

  • 『唐津神社』の真っ白な鳥居の光景です。唐津神社の公式サイトからの紹介が続きます。『その後数百年も経って、その社殿さえわからなくなっていたとき、時の領主神田宗次公に、或夜神が夢枕に立たれ「海浜に至り、波の上に宝鏡のあるをとりて祈れ」というお告げをいただき、早速海浜に至れば波間に一つの箱があり、これ開けば正に宝鏡であった』、と紹介が続いていました。(同上)

    イチオシ

    『唐津神社』の真っ白な鳥居の光景です。唐津神社の公式サイトからの紹介が続きます。『その後数百年も経って、その社殿さえわからなくなっていたとき、時の領主神田宗次公に、或夜神が夢枕に立たれ「海浜に至り、波の上に宝鏡のあるをとりて祈れ」というお告げをいただき、早速海浜に至れば波間に一つの箱があり、これ開けば正に宝鏡であった』、と紹介が続いていました。(同上)

  • 『唐津神社』の文字が刻まれた大き石標の光景です。『伯爵・東郷平八郎』の落款がありました。薩摩藩士だった『東郷平八郎(1848~1934年)』は、海軍軍人として、最終階級は元帥・海軍大将でした。日清戦争では『浪速』艦長として、日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執りました。日本海海戦での完勝により国内外で英雄視され、『陸の大山、海の東郷』『東洋のネルソン』と呼ばれました。イギリス海軍のネルソン提督(1758~1805年)は、アメリカ独立戦争やナポレオン戦争などで活躍し、トラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊に対して戦史上稀に見る大勝利を収めてナポレオンによる制海権獲得・イギリス本土侵攻を阻止しましたが、自身は同海戦で戦死しました。(同上)

    『唐津神社』の文字が刻まれた大き石標の光景です。『伯爵・東郷平八郎』の落款がありました。薩摩藩士だった『東郷平八郎(1848~1934年)』は、海軍軍人として、最終階級は元帥・海軍大将でした。日清戦争では『浪速』艦長として、日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執りました。日本海海戦での完勝により国内外で英雄視され、『陸の大山、海の東郷』『東洋のネルソン』と呼ばれました。イギリス海軍のネルソン提督(1758~1805年)は、アメリカ独立戦争やナポレオン戦争などで活躍し、トラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊に対して戦史上稀に見る大勝利を収めてナポレオンによる制海権獲得・イギリス本土侵攻を阻止しましたが、自身は同海戦で戦死しました。(同上)

  • 唐津神社の公式サイトからの紹介に戻ります。『宗次公はこれ正しく、昔神功皇后が捧げられし宝鏡ならんと、その神威を畏こみ、このことを時の帝孝謙天皇に奏聞せられたところ朝廷におかれてはその神威を感じ給い詔命を降して「唐津大明神」と賜ったのであります。その後幾星霜を経て文治二年その子孫神田広に至り社殿を再建して、祖先宗次公の功を追慕し、その神霊を合祀して二ノ宮としました』(同上)

    唐津神社の公式サイトからの紹介に戻ります。『宗次公はこれ正しく、昔神功皇后が捧げられし宝鏡ならんと、その神威を畏こみ、このことを時の帝孝謙天皇に奏聞せられたところ朝廷におかれてはその神威を感じ給い詔命を降して「唐津大明神」と賜ったのであります。その後幾星霜を経て文治二年その子孫神田広に至り社殿を再建して、祖先宗次公の功を追慕し、その神霊を合祀して二ノ宮としました』(同上)

  • 唐津神社の公式サイトからの紹介の締め括りです。『慶長七年(1602年)、寺沢公が築城に際しては領内の守護神として崇敬し、その後大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主も祈願所と定め、総氏神として崇敬の誠を捧げました。明治六年郷杜、昭和十七年県社に列格、戦後は宗教法人として今日に至っております』、と締め括られていました。(以上)

    唐津神社の公式サイトからの紹介の締め括りです。『慶長七年(1602年)、寺沢公が築城に際しては領内の守護神として崇敬し、その後大久保、松平、土井、水野、小笠原の各藩主も祈願所と定め、総氏神として崇敬の誠を捧げました。明治六年郷杜、昭和十七年県社に列格、戦後は宗教法人として今日に至っております』、と締め括られていました。(以上)

  • この辺りは、すでに旧唐津城の縄張り内らしく、『三の丸』の標識がありました。三の丸は、『堀と石垣で囲われた区域で、かつては家老屋敷など、武士が住んでいた』と紹介されていました。三の丸には、『二の門、西の門、大手口門、埋門』などがあったことも紹介されていました。(ウィキペディア)

    この辺りは、すでに旧唐津城の縄張り内らしく、『三の丸』の標識がありました。三の丸は、『堀と石垣で囲われた区域で、かつては家老屋敷など、武士が住んでいた』と紹介されていました。三の丸には、『二の門、西の門、大手口門、埋門』などがあったことも紹介されていました。(ウィキペディア)

  • 観光用の道案内標識の光景です。上向きの矢印で、『旧高取邸と埋門ノ館』が、左向きの矢印などで『唐津駅と西ノ門館』が記されていました。真新しい、歩行者用の標識でした。(同上)

    観光用の道案内標識の光景です。上向きの矢印で、『旧高取邸と埋門ノ館』が、左向きの矢印などで『唐津駅と西ノ門館』が記されていました。真新しい、歩行者用の標識でした。(同上)

  • 『奥村五百子刀自』の説明パネルがあった立派な作りの銅像の光景です。『奥村五百子(おくむら・いおこ:1845~1907年)』は、幕末・明治期の社会運動家で、愛国婦人会の創設者です。肥前国・唐津出身で、父は真宗大谷派の釜山海高徳寺の住職・奥村了寛とされます。父の影響を受けて尊王攘夷運動に参加、文久2年(1862年)には男装をして長州藩への密使を務めたこともあったようです。同じ宗派の福成寺の住職・大友法忍に嫁ぎましたが、死別しました。続いて水戸藩出身の志士の鯉淵彦五郎と再婚しますが、征韓論をめぐる意見の違いで離婚したようです。(同上)

    イチオシ

    『奥村五百子刀自』の説明パネルがあった立派な作りの銅像の光景です。『奥村五百子(おくむら・いおこ:1845~1907年)』は、幕末・明治期の社会運動家で、愛国婦人会の創設者です。肥前国・唐津出身で、父は真宗大谷派の釜山海高徳寺の住職・奥村了寛とされます。父の影響を受けて尊王攘夷運動に参加、文久2年(1862年)には男装をして長州藩への密使を務めたこともあったようです。同じ宗派の福成寺の住職・大友法忍に嫁ぎましたが、死別しました。続いて水戸藩出身の志士の鯉淵彦五郎と再婚しますが、征韓論をめぐる意見の違いで離婚したようです。(同上)

  • 『奥村五百子刀自像』のズームアップ光景です。離婚後、唐津開港に奔走する傍ら、朝鮮半島に渡って明治29年(1896年)、光州で実業学校を創設、半島への浄土真宗布教のために渡った兄・奥村円心を助けました。北清事変後の現地視察をきっかけに、女性による兵士慰問と救護や、遺族支援が必要と考え、1901年に近衛篤麿・小笠原長生や華族婦人らの支援を受けて愛国婦人会を創設しました。以後、会のために日本全国で講演活動を行い、日露戦争時には病身を押して献金運動への女性の参加を呼びかけ、戦地慰問を努めています。(同上)

    『奥村五百子刀自像』のズームアップ光景です。離婚後、唐津開港に奔走する傍ら、朝鮮半島に渡って明治29年(1896年)、光州で実業学校を創設、半島への浄土真宗布教のために渡った兄・奥村円心を助けました。北清事変後の現地視察をきっかけに、女性による兵士慰問と救護や、遺族支援が必要と考え、1901年に近衛篤麿・小笠原長生や華族婦人らの支援を受けて愛国婦人会を創設しました。以後、会のために日本全国で講演活動を行い、日露戦争時には病身を押して献金運動への女性の参加を呼びかけ、戦地慰問を努めています。(同上)

  • 『奥村五百子刀自』のタイトルがあった説明パネルの光景です。五百子が、近衛篤麿や小笠原長生の支援を受けて1901年(明治34年)2月24日に創立した『愛国婦人会』は、初代会長は宮内大臣であった岩倉具定の妻岩倉久子が務め、1903年(明治36年)3月20日には皇族妃の載仁親王妃智恵子を総裁に推戴しました。以後、多くの女性皇族・王公族が名誉会員に名を連ねました。1920年(大正9年)、会長に下田歌子が就任し、1924年(大正13年)に総裁に推戴された東伏見宮妃周子は、就任以来、外地の朝鮮・台湾を含む日本各地を訪問しました。会員数は1907年(明治40年)時点で70万人、1924年(大正13年)に129万人、1937年(昭和12年)時点では、311万人余に達しました。(同上)

    『奥村五百子刀自』のタイトルがあった説明パネルの光景です。五百子が、近衛篤麿や小笠原長生の支援を受けて1901年(明治34年)2月24日に創立した『愛国婦人会』は、初代会長は宮内大臣であった岩倉具定の妻岩倉久子が務め、1903年(明治36年)3月20日には皇族妃の載仁親王妃智恵子を総裁に推戴しました。以後、多くの女性皇族・王公族が名誉会員に名を連ねました。1920年(大正9年)、会長に下田歌子が就任し、1924年(大正13年)に総裁に推戴された東伏見宮妃周子は、就任以来、外地の朝鮮・台湾を含む日本各地を訪問しました。会員数は1907年(明治40年)時点で70万人、1924年(大正13年)に129万人、1937年(昭和12年)時点では、311万人余に達しました。(同上)

  • 『愛国婦人会』の紹介が続きます。膨張した組織は、内地のみならず樺太・南洋諸島・朝鮮・台湾・満州国にも地方組織が置かれていました。1941年(昭和16年6月10日、定例閣議において、愛国婦人会、大日本連合婦人会および大日本国防婦人会の婦人3団体の統合要項が決められました。これにより、翌1942年2月に愛国婦人会は解消しました。(同上)

    『愛国婦人会』の紹介が続きます。膨張した組織は、内地のみならず樺太・南洋諸島・朝鮮・台湾・満州国にも地方組織が置かれていました。1941年(昭和16年6月10日、定例閣議において、愛国婦人会、大日本連合婦人会および大日本国防婦人会の婦人3団体の統合要項が決められました。これにより、翌1942年2月に愛国婦人会は解消しました。(同上)

  • 愛国婦人会の設立当初は、戦没将士の遺族および廃兵の救護を目的としました。初期は上層階級の婦人や皇族、貴族が大半を占めていましたが、日露戦争時の1905年(明治38年)には一般婦人にも拡張し、会員数は46万人に達し、日本最大規模の婦人団体に成長しました。各府県支部長には知事夫人が就くなど、地域名士の夫人が役員に名を連ね、サロンの趣きがあったとされます。(同上)

    愛国婦人会の設立当初は、戦没将士の遺族および廃兵の救護を目的としました。初期は上層階級の婦人や皇族、貴族が大半を占めていましたが、日露戦争時の1905年(明治38年)には一般婦人にも拡張し、会員数は46万人に達し、日本最大規模の婦人団体に成長しました。各府県支部長には知事夫人が就くなど、地域名士の夫人が役員に名を連ね、サロンの趣きがあったとされます。(同上)

  • 第一次世界大戦末期は階級対立を恐れ、農村託児所などの社会事業も行っています。1917年(大正6年)には、軍事救護活動だけでなく、広く社会的な事業を行えるよう定款を改正しました。関東大震災後の救済その他救護館の設立、婦人職業紹介、花嫁紹介など、幅広い活動を行いました。また、機関誌『愛国婦人』を発行し、五百子は全国遊説により会員を増やしました。(同上)<br />*写真は、ニノ門堀の西側(三の丸側)の『時の太鼓』の光景です。

    第一次世界大戦末期は階級対立を恐れ、農村託児所などの社会事業も行っています。1917年(大正6年)には、軍事救護活動だけでなく、広く社会的な事業を行えるよう定款を改正しました。関東大震災後の救済その他救護館の設立、婦人職業紹介、花嫁紹介など、幅広い活動を行いました。また、機関誌『愛国婦人』を発行し、五百子は全国遊説により会員を増やしました。(同上)
    *写真は、ニノ門堀の西側(三の丸側)の『時の太鼓』の光景です。

  • 昭和に入ると女子教育のため各種学校扱いの講習科を設置する支部もあり、秋田令和高等学校のように学校として存続している例もあります。1931年の満州事変後にはファッショ体制作りに協力するようになりました。1932年(昭和7年)には組織改革により、支部の下にさらに分団や分会を設置しました。(同上)<br />*写真は、歩道の敷石に記された道案内です。ここは『東城内』でした。

    昭和に入ると女子教育のため各種学校扱いの講習科を設置する支部もあり、秋田令和高等学校のように学校として存続している例もあります。1931年の満州事変後にはファッショ体制作りに協力するようになりました。1932年(昭和7年)には組織改革により、支部の下にさらに分団や分会を設置しました。(同上)
    *写真は、歩道の敷石に記された道案内です。ここは『東城内』でした。

  • 1932年(昭和7年)、大阪で大日本国防婦人会が結成され、会員数で愛国婦人会を上回る急成長を遂げます。高額会費による慈善活動が主の愛国婦人会と、会費低廉ながら兵士への世話の手厚い大日本国防婦人会とでは、活動内容の隔たりが大きかったようです。上流対下流の感情的対立に、後ろ盾となっている内務省と陸軍省の対立が加わり、関係は抜き差しならないものがあったとされます。(以上)

    1932年(昭和7年)、大阪で大日本国防婦人会が結成され、会員数で愛国婦人会を上回る急成長を遂げます。高額会費による慈善活動が主の愛国婦人会と、会費低廉ながら兵士への世話の手厚い大日本国防婦人会とでは、活動内容の隔たりが大きかったようです。上流対下流の感情的対立に、後ろ盾となっている内務省と陸軍省の対立が加わり、関係は抜き差しならないものがあったとされます。(以上)

  • 唐津城の天守光景です。ここからは、纏めて唐津城の紹介です。佐賀県唐津市東城内にあった唐津城は、『舞鶴城(まいづるじょう)』の別名を持ちます。唐津市街の北部に位置し、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、満島山に位置します。唐津湾に突き出た満島山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の平山城です。(ウィキペディア)

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    唐津城の天守光景です。ここからは、纏めて唐津城の紹介です。佐賀県唐津市東城内にあった唐津城は、『舞鶴城(まいづるじょう)』の別名を持ちます。唐津市街の北部に位置し、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、満島山に位置します。唐津湾に突き出た満島山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の平山城です。(ウィキペディア)

  • 唐津城の北面は唐津湾に面するため、海城とも言われ、萩城とともに現在も直接海に聳える石垣が見られます。松浦川の右岸には虹の松原(国の特別名勝)が広がり、城から左右に広がる砂浜が鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城とも呼ばれます。江戸時代初期の慶長7年(1602年)から慶長13年(1608年)にかけて築城され、江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となりました。(同上)

    唐津城の北面は唐津湾に面するため、海城とも言われ、萩城とともに現在も直接海に聳える石垣が見られます。松浦川の右岸には虹の松原(国の特別名勝)が広がり、城から左右に広がる砂浜が鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城とも呼ばれます。江戸時代初期の慶長7年(1602年)から慶長13年(1608年)にかけて築城され、江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となりました。(同上)

  • 廃城後、本丸は舞鶴公園となり、二の丸御殿跡に早稲田佐賀中学校・高等学校があり、その他の二の丸・三の丸跡は市街化しています。現存する遺構としては石垣・堀があります。1966年(昭和41年)10月に天守台に慶長様式の模擬天守が建てられました。このほか櫓や門が建てられ、石垣・堀が復元されています。麓から舞鶴公園上段広場までは高低差が34mあり、斜行エレベーターが設けられました。(同上)

    廃城後、本丸は舞鶴公園となり、二の丸御殿跡に早稲田佐賀中学校・高等学校があり、その他の二の丸・三の丸跡は市街化しています。現存する遺構としては石垣・堀があります。1966年(昭和41年)10月に天守台に慶長様式の模擬天守が建てられました。このほか櫓や門が建てられ、石垣・堀が復元されています。麓から舞鶴公園上段広場までは高低差が34mあり、斜行エレベーターが設けられました。(同上)

  • 唐津城の沿革の紹介です。文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられました。広高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され、12万3千石の外様大名となりました。慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成しました。(同上)<br />*写真は,松浦川の河口に張り出した唐津城の縄張光景です。

    唐津城の沿革の紹介です。文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の家臣・寺沢広高がこの地に封ぜられました。広高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され、12万3千石の外様大名となりました。慶長7年(1602年)より本格的な築城を行い、慶長13年(1608年)に完成しました。(同上)
    *写真は,松浦川の河口に張り出した唐津城の縄張光景です。

  • 築城に際し東唐津側と地続きだった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更しました。また、秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城しました。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されています。(同上)<br />*写真は、現在の唐津市観光マップです。

    築城に際し東唐津側と地続きだった満島山を切り離し、松浦川がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更しました。また、秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を使用し、九州各地の諸大名の助力を得て築城しました。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀など普請に協力した大名の領地名が堀の名に残されています。(同上)
    *写真は、現在の唐津市観光マップです。

  • 二の丸に藩庁御殿が建築され、三の丸は侍屋敷となっていました。天守は天守台までしか建築されなかったようです。築城当初は天守が存在していたといわれることもありますが、寛永4年(1627年)の幕府の記録には、天守の存在は記されていないほか、天守の存在を示す資料は確認されていないようです。(同上)<br />*写真は、唐津城とその城下町の絵です。近・現代の作品のようです。

    二の丸に藩庁御殿が建築され、三の丸は侍屋敷となっていました。天守は天守台までしか建築されなかったようです。築城当初は天守が存在していたといわれることもありますが、寛永4年(1627年)の幕府の記録には、天守の存在は記されていないほか、天守の存在を示す資料は確認されていないようです。(同上)
    *写真は、唐津城とその城下町の絵です。近・現代の作品のようです。

  • 現在の模擬天守は、天守を描いた絵図や設計図もないため、慶長期の様式で建築されていたと想定して、昭和41年(1966年)に造られたものです。広高は松浦川の流路変更に見られるように土木事業に長けていて、防風林として松原の保護育成を行いました。これが日本三大松原として今日に残る『虹の松原』となっています。他の三大松原は、静岡市の三保の松原と敦賀市の気比の松原です。(同上)

    現在の模擬天守は、天守を描いた絵図や設計図もないため、慶長期の様式で建築されていたと想定して、昭和41年(1966年)に造られたものです。広高は松浦川の流路変更に見られるように土木事業に長けていて、防風林として松原の保護育成を行いました。これが日本三大松原として今日に残る『虹の松原』となっています。他の三大松原は、静岡市の三保の松原と敦賀市の気比の松原です。(同上)

  • 日本三大松原は、誰が決めたというわけではないので、気比の松原の代わりに『天橋立』(京都府宮津市)を加える場合もあるようです。『天橋立』は、『日本三景』にも数えられ、後の二つは、宮城県松島町の『松島』と、広島県廿日市市の『宮島』です。『虹の松原』の補足説明です。全長約4.5km、幅約500mにわたって続く松林は、約100万本と言われています。国の『特別名勝』にも選定されています。(同上)<br />*写真は、道祖神風の道標の上に積まれた、願い事らしい小石の山の光景です。

    日本三大松原は、誰が決めたというわけではないので、気比の松原の代わりに『天橋立』(京都府宮津市)を加える場合もあるようです。『天橋立』は、『日本三景』にも数えられ、後の二つは、宮城県松島町の『松島』と、広島県廿日市市の『宮島』です。『虹の松原』の補足説明です。全長約4.5km、幅約500mにわたって続く松林は、約100万本と言われています。国の『特別名勝』にも選定されています。(同上)
    *写真は、道祖神風の道標の上に積まれた、願い事らしい小石の山の光景です。

  • 広高の子の堅高は、天草領に構えていた富岡城が島原の乱の際に一揆側に攻められた際、その責任を取らされ天草領4万石を没収されました。堅高は、正保4年(1647年)に江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったので寺沢家は断絶となりました。以後、譜代大名5家が入れ替わりました。寺沢氏が改易となると一時天領となりましたが、慶安2年(1649年)、播磨国明石城主・大久保忠職が城主となりました。(同上)

    広高の子の堅高は、天草領に構えていた富岡城が島原の乱の際に一揆側に攻められた際、その責任を取らされ天草領4万石を没収されました。堅高は、正保4年(1647年)に江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったので寺沢家は断絶となりました。以後、譜代大名5家が入れ替わりました。寺沢氏が改易となると一時天領となりましたが、慶安2年(1649年)、播磨国明石城主・大久保忠職が城主となりました。(同上)

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