唐津・虹の松原旅行記(ブログ) 一覧に戻る
佐賀と福岡の名城巡りです。唐津城紹介の締め括りで明治維新維新による廃城後、本丸は舞鶴公園となり、二の丸・三の丸跡は市街化しました。現存する遺構としては石垣・堀があり、模擬天守のほか、櫓や門が建てられ、石垣・堀が復元されました。

2018暮、佐賀と福岡の名城(10/12):12月2日(3):唐津城(3):天守閣、本丸、二ノ曲輪

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2018/12/01 - 2018/12/08

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旅人のくまさん

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佐賀と福岡の名城巡りです。唐津城紹介の締め括りで明治維新維新による廃城後、本丸は舞鶴公園となり、二の丸・三の丸跡は市街化しました。現存する遺構としては石垣・堀があり、模擬天守のほか、櫓や門が建てられ、石垣・堀が復元されました。

交通手段
新幹線 JRローカル 私鉄

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  • 佐賀県と福岡県の北部の地図を調べての推測ですが、富士山のような三角形の山は、標高805メートルの『浮嶽(うきだけ)』のようです。『筑紫富士(つくしふじ)』とも呼ばれる、福岡県糸島市二丈と佐賀県唐津市七山との県境に位置する山です。脊振山系の西端に位置し、霊峰として知られます。虹の松原の背後か、さらに東側に見えているようです。古くから、航海の目印にされてきたようです。(ウィキペディア)

    佐賀県と福岡県の北部の地図を調べての推測ですが、富士山のような三角形の山は、標高805メートルの『浮嶽(うきだけ)』のようです。『筑紫富士(つくしふじ)』とも呼ばれる、福岡県糸島市二丈と佐賀県唐津市七山との県境に位置する山です。脊振山系の西端に位置し、霊峰として知られます。虹の松原の背後か、さらに東側に見えているようです。古くから、航海の目印にされてきたようです。(ウィキペディア)

  • 唐津城の天守の光景です。唐津市の公式サイトからの紹介です。『唐津城天守閣は、昭和41年に文化観光施設として天守閣を建てました。天守閣内は郷土博物館になっていて、唐津藩の資料や唐津焼などが展示され、唐津の歴史に触れることができます。また、展望所からは玄界灘と虹の松原の雄大な景観や、松浦川と城下町唐津の風景を見ることができます。天守閣の地階・1階は無料、2階~5階は有料となっています』、と紹介されていました。(同上)

    唐津城の天守の光景です。唐津市の公式サイトからの紹介です。『唐津城天守閣は、昭和41年に文化観光施設として天守閣を建てました。天守閣内は郷土博物館になっていて、唐津藩の資料や唐津焼などが展示され、唐津の歴史に触れることができます。また、展望所からは玄界灘と虹の松原の雄大な景観や、松浦川と城下町唐津の風景を見ることができます。天守閣の地階・1階は無料、2階~5階は有料となっています』、と紹介されていました。(同上)

  • 随分と低く設置してあった案内看板の光景です。『玄海国定公園・唐津城・平成30年12月2日』の文字が記されていました。平成30年度公益財団法人唐津市文化事業団事業報告を見ても、この日図家に該当する日付けは見当たりませんでした。推測するなら、この表示板が設置された日が記されたようです。

    随分と低く設置してあった案内看板の光景です。『玄海国定公園・唐津城・平成30年12月2日』の文字が記されていました。平成30年度公益財団法人唐津市文化事業団事業報告を見ても、この日図家に該当する日付けは見当たりませんでした。推測するなら、この表示板が設置された日が記されたようです。

  • 日本城郭協会が主宰する『続日本百名城』の185番に選ばれている唐津城です。その『公式スタンプ帳』からの紹介です。関ヶ原の戦功で加増された寺沢広高が居城として築いたものが始まりです。現在は、昭和41年(1966年)に築かれた『模擬天守』です。外観は、肥前名護屋城の絵図に描かれたものがモデルになっているようです。今回は登ることが出来ませんでしたが、天守からの眺めは抜群のようです。(同上)

    日本城郭協会が主宰する『続日本百名城』の185番に選ばれている唐津城です。その『公式スタンプ帳』からの紹介です。関ヶ原の戦功で加増された寺沢広高が居城として築いたものが始まりです。現在は、昭和41年(1966年)に築かれた『模擬天守』です。外観は、肥前名護屋城の絵図に描かれたものがモデルになっているようです。今回は登ることが出来ませんでしたが、天守からの眺めは抜群のようです。(同上)

  • 中央奥に見えるのが、天守の1階出入口と、5階建ての建物光景、右手に見えるのが天守と同時に復元された周りの建物になるようです。天守の4階と5階は、先ほどズームアップで紹介しました。推測になりますが、天守を南側から眺めた建物光景になるようです。この推測では、鯱が乗った天守の屋根は右側が東で、東西に長くなります。(同上)

    イチオシ

    中央奥に見えるのが、天守の1階出入口と、5階建ての建物光景、右手に見えるのが天守と同時に復元された周りの建物になるようです。天守の4階と5階は、先ほどズームアップで紹介しました。推測になりますが、天守を南側から眺めた建物光景になるようです。この推測では、鯱が乗った天守の屋根は右側が東で、東西に長くなります。(同上)

  • しっかりとした記憶は残っていませんが、模擬天守と周りの建物の間にあった石段のようです。右手が石垣ですから、天守閣側になるようです。石段は、右手に見える石垣と同時代のものが残っているような雰囲気でした。縄張り図を参照しますと、石段のが『二ノ曲輪』、石段を登った先が『本丸』になるようでした。(同上)

    しっかりとした記憶は残っていませんが、模擬天守と周りの建物の間にあった石段のようです。右手が石垣ですから、天守閣側になるようです。石段は、右手に見える石垣と同時代のものが残っているような雰囲気でした。縄張り図を参照しますと、石段のが『二ノ曲輪』、石段を登った先が『本丸』になるようでした。(同上)

  • 『唐津城石垣再築整備事業・本丸西側石垣修復』のタイトルがあった説明看板の光景です。左上の3枚の写真が、『着手前』⇒『解体完了』⇒『修正完了』の状況でした。最近の補修作業には、三次元での構造分析も行われているらしく、右下にその写真がありました。左下の写真は、発掘による文化財調査の状況です。(同上)

    『唐津城石垣再築整備事業・本丸西側石垣修復』のタイトルがあった説明看板の光景です。左上の3枚の写真が、『着手前』⇒『解体完了』⇒『修正完了』の状況でした。最近の補修作業には、三次元での構造分析も行われているらしく、右下にその写真がありました。左下の写真は、発掘による文化財調査の状況です。(同上)

  • 推測も入りますが、天守閣の西北角付近の『二ノ曲輪』から見上げた天守の光景になるようです。写真の中央より右寄りの上部に、天守5階の西面の切妻が見えているようです。(同上)<br />

    推測も入りますが、天守閣の西北角付近の『二ノ曲輪』から見上げた天守の光景になるようです。写真の中央より右寄りの上部に、天守5階の西面の切妻が見えているようです。(同上)

  • 今、写真を撮影している『本丸』エリアと、そ下部の『二ノ曲輪』を結ぶ石段付近の光景です。このあと、石段を下りて、『二ノ曲輪』の紹介をします。『舞鶴公園案内図』では、『西門』と記されていた付近の光景になるようです。正面奥に『神社』と記された建物が見えていました。(同上)

    今、写真を撮影している『本丸』エリアと、そ下部の『二ノ曲輪』を結ぶ石段付近の光景です。このあと、石段を下りて、『二ノ曲輪』の紹介をします。『舞鶴公園案内図』では、『西門』と記されていた付近の光景になるようです。正面奥に『神社』と記された建物が見えていました。(同上)

  • 公園案内図には、『神社』と記されていましたが、扁額などは一切ありませんでした。建物前方に二本の柱があるのは、『流造(ながれつくり)』の拝殿跡のようでした。ネットで少し検索してみましたが、参考になりそうな情報は見つかりませんでした。周りの常緑樹が寄り添い、楓の紅葉が枝を伸ばしていました。(同上)

    公園案内図には、『神社』と記されていましたが、扁額などは一切ありませんでした。建物前方に二本の柱があるのは、『流造(ながれつくり)』の拝殿跡のようでした。ネットで少し検索してみましたが、参考になりそうな情報は見つかりませんでした。周りの常緑樹が寄り添い、楓の紅葉が枝を伸ばしていました。(同上)

  • やはり、先ほどの建物が神社跡のようです。推測ですが、『二ノ曲輪』にあった神社の清めの水の手水鉢のようでした。側面に瀟洒な文字で『奉献』と刻まれていました。明治時代の廃城後に持ち込まれた物かも知れません。敷かれた砂が乾いていましたので、水が溜まらないよう、底に穴があけてあるようです。対策しなければ、蚊が発生します。(同上)

    やはり、先ほどの建物が神社跡のようです。推測ですが、『二ノ曲輪』にあった神社の清めの水の手水鉢のようでした。側面に瀟洒な文字で『奉献』と刻まれていました。明治時代の廃城後に持ち込まれた物かも知れません。敷かれた砂が乾いていましたので、水が溜まらないよう、底に穴があけてあるようです。対策しなければ、蚊が発生します。(同上)

  • 『二ノ曲輪』の隅に設けられていた、窓のない倉庫のような建物光景です。入口に数段の石段がありました。おそらく湿気を嫌う、大切なものが保管されていたようです。普通に考えられるは、弾薬、火薬類ですが、食糧庫だったかも知れません。この建物も、模擬天守と同時に、昭和41年(1966年)に再建された建物かも知れません、(同上)

    『二ノ曲輪』の隅に設けられていた、窓のない倉庫のような建物光景です。入口に数段の石段がありました。おそらく湿気を嫌う、大切なものが保管されていたようです。普通に考えられるは、弾薬、火薬類ですが、食糧庫だったかも知れません。この建物も、模擬天守と同時に、昭和41年(1966年)に再建された建物かも知れません、(同上)

  • 戦国時代から江戸時代初期の、厳しい戦いの時代を連想させるような、がっちりとした造りの、『二ノ曲輪』を取り囲む土塀の光景です。白漆喰で仕上げてありますので、内部構造は推測になりますが、版築工法の土塀か、あるいは石塀が壁の下にあるようでした。釉薬を施した丸瓦の屋根が立派過ぎて、支柱との対比で、違和感を覚えるほどでした。(同上)

    戦国時代から江戸時代初期の、厳しい戦いの時代を連想させるような、がっちりとした造りの、『二ノ曲輪』を取り囲む土塀の光景です。白漆喰で仕上げてありますので、内部構造は推測になりますが、版築工法の土塀か、あるいは石塀が壁の下にあるようでした。釉薬を施した丸瓦の屋根が立派過ぎて、支柱との対比で、違和感を覚えるほどでした。(同上)

  • 修復工事を経て蘇ったように見えた、『二ノ曲輪』エリアの井戸の光景です。井戸の下部の造りは分かりませんが、最上部は方形に仕上げられた大井戸でした。井戸に向かって少し盛り上がった敷石も、創建当時の姿を留めているようでした。おそらく、複数個所に井戸があるのでしょうが、籠城戦になった時の命の綱です。(同上)

    修復工事を経て蘇ったように見えた、『二ノ曲輪』エリアの井戸の光景です。井戸の下部の造りは分かりませんが、最上部は方形に仕上げられた大井戸でした。井戸に向かって少し盛り上がった敷石も、創建当時の姿を留めているようでした。おそらく、複数個所に井戸があるのでしょうが、籠城戦になった時の命の綱です。(同上)

  • 推測ですが、南側の『二ノ曲輪』から眺めた唐津城天守の光景になるようです。昭和41年(1966年)に築かれた模擬天守ですから、50年以上が経過しています。現在は上階に上ることはできませんが、『平成29年7月22日・リニューアル・オープン』と紹介されていた模擬天守です。堂々とした天守台は、創建当時からの遺跡になるようです。(同上)

    イチオシ

    推測ですが、南側の『二ノ曲輪』から眺めた唐津城天守の光景になるようです。昭和41年(1966年)に築かれた模擬天守ですから、50年以上が経過しています。現在は上階に上ることはできませんが、『平成29年7月22日・リニューアル・オープン』と紹介されていた模擬天守です。堂々とした天守台は、創建当時からの遺跡になるようです。(同上)

  • 昭和41年(1966年)に築かれた模擬天守のズームアップ光景です。5階部分に見えている赤い手摺の望楼がアクセントになっていました。1階と4階部分に設けられた唐風の破風と、3階部分の千鳥破風も外観の引き立て役でした。1階には、石落としも設けられていました。推測ですが、天守閣の南面光景になるようです。(同上)

    昭和41年(1966年)に築かれた模擬天守のズームアップ光景です。5階部分に見えている赤い手摺の望楼がアクセントになっていました。1階と4階部分に設けられた唐風の破風と、3階部分の千鳥破風も外観の引き立て役でした。1階には、石落としも設けられていました。推測ですが、天守閣の南面光景になるようです。(同上)

  • 右手前から見上げた天守閣の光景です。先ほど紹介した面が左手になります。南面になるようでした。1階の石落としは、建物の角の部分にも設けられていました。東面と推測した右手には、2階部分に千鳥破風と、最上階の5階部分に切妻があるようでした。(同上)

    右手前から見上げた天守閣の光景です。先ほど紹介した面が左手になります。南面になるようでした。1階の石落としは、建物の角の部分にも設けられていました。東面と推測した右手には、2階部分に千鳥破風と、最上階の5階部分に切妻があるようでした。(同上)

  • 天守台から、東に向かって伸びた石垣のようです。修復工事中でしたが、乱積みの『打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)』のようでした。かなりの高さがありました。徳川家に対する外様大名の寺沢家が藩主の時の築城ですが、近隣の大名が手助けをした、いわゆる『天下普請』の城です。戦後に作られた模擬天守のことはさて措いて、中々立派な造りの城でした。(同上)

    天守台から、東に向かって伸びた石垣のようです。修復工事中でしたが、乱積みの『打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)』のようでした。かなりの高さがありました。徳川家に対する外様大名の寺沢家が藩主の時の築城ですが、近隣の大名が手助けをした、いわゆる『天下普請』の城です。戦後に作られた模擬天守のことはさて措いて、中々立派な造りの城でした。(同上)

  • 『二ノ曲輪』に到着して、最初に紹介した藤棚ですが、改めて唐津市の天然記念物の『フジ(藤)』の紹介です。平成28年(2016年)3月に建てられたこの説明看板には、害虫によって樹勢が衰えたこの天然記念物の回復対策について紹介されていました。<br />〇樹齢は約100年、佐賀県では屈指。<br />〇被害を与えた害虫はフジツボミタマバエ。<br />〇現在の手当ては、施肥、消毒、剪定、耕起と幹部分の手当て。

    『二ノ曲輪』に到着して、最初に紹介した藤棚ですが、改めて唐津市の天然記念物の『フジ(藤)』の紹介です。平成28年(2016年)3月に建てられたこの説明看板には、害虫によって樹勢が衰えたこの天然記念物の回復対策について紹介されていました。
    〇樹齢は約100年、佐賀県では屈指。
    〇被害を与えた害虫はフジツボミタマバエ。
    〇現在の手当ては、施肥、消毒、剪定、耕起と幹部分の手当て。

  • 名前:『フジ(藤)・ノダフジ(野田藤)』<br />分類:マメ科フジ属<br />分布:日本固有種<br />その他:日本には、同属の『ヤマフジ(山藤)』もあります。この藤は、樹齢100年以上で、唐津市の天然記念物です。

    名前:『フジ(藤)・ノダフジ(野田藤)』
    分類:マメ科フジ属
    分布:日本固有種
    その他:日本には、同属の『ヤマフジ(山藤)』もあります。この藤は、樹齢100年以上で、唐津市の天然記念物です。

  • ここからは、唐津城の見学を終えて、下城する時に眺めた城内の紅葉の紹介です。スタートは、大手の通りになるらしい石段の最上段付近です。先ほど紹介した唐津市の天然記念物の『藤棚』があった箇所です。前方の石段の脇には、『唐津城』の文字が染め抜かれた幟が建っていました。(同上)

    ここからは、唐津城の見学を終えて、下城する時に眺めた城内の紅葉の紹介です。スタートは、大手の通りになるらしい石段の最上段付近です。先ほど紹介した唐津市の天然記念物の『藤棚』があった箇所です。前方の石段の脇には、『唐津城』の文字が染め抜かれた幟が建っていました。(同上)

  • 遠くに市街光景が見えていた石段からの光景です。見ごろを迎えた、『カエデ(楓)』の光景です。私のこれまでの経験では、日本と韓国のソラクサン(雪嶽山)辺りの紅葉<br />光景が、一番見応えがありました。世界に黄葉と葛葉の名所は沢山ありますが、紅葉の名所には滅多に巡り合いませんでした。(同上)

    遠くに市街光景が見えていた石段からの光景です。見ごろを迎えた、『カエデ(楓)』の光景です。私のこれまでの経験では、日本と韓国のソラクサン(雪嶽山)辺りの紅葉
    光景が、一番見応えがありました。世界に黄葉と葛葉の名所は沢山ありますが、紅葉の名所には滅多に巡り合いませんでした。(同上)

  • 振り返って眺めた、唐津城の大手門通りのいしがき光景です。40メートルほどの比高差がある石段ですが、お城には珍しく、ほぼ一直線でした。さすがに、この場所だけは、城の防御施設の『虎口(ここう・こぐち)』を意識した、見晴らしが利かない石垣の造りになっていました。(同上)

    振り返って眺めた、唐津城の大手門通りのいしがき光景です。40メートルほどの比高差がある石段ですが、お城には珍しく、ほぼ一直線でした。さすがに、この場所だけは、城の防御施設の『虎口(ここう・こぐち)』を意識した、見晴らしが利かない石垣の造りになっていました。(同上)

  • 半ば散り敷いた、カエデ(楓)の紅葉ですが、樹木のほうも、まだまだ見応えがありました。大手通りの四季を意識して、植え込まれた楓並木のようでした。この辺りの石段は、勝手な解釈ですが、ゆっくりと紅葉を楽しめるよう、緩やかな石段になっていました。(同上)

    イチオシ

    半ば散り敷いた、カエデ(楓)の紅葉ですが、樹木のほうも、まだまだ見応えがありました。大手通りの四季を意識して、植え込まれた楓並木のようでした。この辺りの石段は、勝手な解釈ですが、ゆっくりと紅葉を楽しめるよう、緩やかな石段になっていました。(同上)

  • 『唐津城天守閣再び開城!(平成29年7月22日・リニューアル・オープン)』の文字だけが記された案内看板の光景です。この後に、出来事の一覧でも紹介しますが、平成28年10月2日~平成29年7月21日の間で、天守閣内部の改修工事が行なわれていました。(同上)

    『唐津城天守閣再び開城!(平成29年7月22日・リニューアル・オープン)』の文字だけが記された案内看板の光景です。この後に、出来事の一覧でも紹介しますが、平成28年10月2日~平成29年7月21日の間で、天守閣内部の改修工事が行なわれていました。(同上)

  • 『唐津城』のタイトルがあった説明看板の光景です。慶長13年(1607年)、かつて豊臣秀吉の側近の一人だった『寺沢広高(てらざわ・ひろたか:1563~1633年)』が、名護屋城の廃材を用いて築いた城であることから説明が始まっていました。秀吉はすでに亡くなり、関ヶ原の合戦で徳川家康の時代の出来事です。豊臣秀吉 に仕え、朝鮮出兵では肥前名護屋城の普請を務めた大名でした。(同上)<br />

    『唐津城』のタイトルがあった説明看板の光景です。慶長13年(1607年)、かつて豊臣秀吉の側近の一人だった『寺沢広高(てらざわ・ひろたか:1563~1633年)』が、名護屋城の廃材を用いて築いた城であることから説明が始まっていました。秀吉はすでに亡くなり、関ヶ原の合戦で徳川家康の時代の出来事です。豊臣秀吉 に仕え、朝鮮出兵では肥前名護屋城の普請を務めた大名でした。(同上)

  • 『唐津城石垣再築工事のお知らせ』のタイトルがあった案内看板の光景です。唐津城承継の締め括りに、明治維新後の唐津城の出来事について紹介します。<br />〇明治4年(1871年)、廃藩置県により廃城となり、建造物が解体されました。<br />〇明治10年(1877年)、舞鶴公園として整備、開放されました。<br />〇昭和41年(1966年)、模擬天守のほか、門・櫓も同時に再建されました。(同上)

    『唐津城石垣再築工事のお知らせ』のタイトルがあった案内看板の光景です。唐津城承継の締め括りに、明治維新後の唐津城の出来事について紹介します。
    〇明治4年(1871年)、廃藩置県により廃城となり、建造物が解体されました。
    〇明治10年(1877年)、舞鶴公園として整備、開放されました。
    〇昭和41年(1966年)、模擬天守のほか、門・櫓も同時に再建されました。(同上)

  • 『舞鶴公園案内図』のタイトルがあった説明看板です。明治維新後の唐津城の出来事について紹介を続けます。<br />〇平成元年(1989年)、唐津市役所前に肥後堀と石垣を復元。<br />〇平成4年(1992年)、二の丸跡に時の太鼓を復元。<br />〇平成5年(1993年)、市役所付近に三の丸辰巳櫓が復元。(同上)

    『舞鶴公園案内図』のタイトルがあった説明看板です。明治維新後の唐津城の出来事について紹介を続けます。
    〇平成元年(1989年)、唐津市役所前に肥後堀と石垣を復元。
    〇平成4年(1992年)、二の丸跡に時の太鼓を復元。
    〇平成5年(1993年)、市役所付近に三の丸辰巳櫓が復元。(同上)

  • 〇平成28年(2016年)、発掘調査により大手門の遺構が初めて確認される。<br />〇平成28年10月2日~平成29年7月21日、天守内部の改修がされる。<br />〇発掘調査により名護屋城と同じ文様の瓦が出土した。(日時不明)<br />〇平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(185番)に選定される。(同上)

    〇平成28年(2016年)、発掘調査により大手門の遺構が初めて確認される。
    〇平成28年10月2日~平成29年7月21日、天守内部の改修がされる。
    〇発掘調査により名護屋城と同じ文様の瓦が出土した。(日時不明)
    〇平成29年(2017年)4月6日、続日本100名城(185番)に選定される。(同上)

  • 名前:『ガザニア』:推測<br />分類:キク科ガザニア属(クンショウギク属)の総称<br />分布:南アフリカ原産<br />その他:アリストテレスなどのギリシャの古典書物をラテン語に翻訳したギリシャ人「ガザ」の名前に由来する呼び名です。(同上)

    名前:『ガザニア』:推測
    分類:キク科ガザニア属(クンショウギク属)の総称
    分布:南アフリカ原産
    その他:アリストテレスなどのギリシャの古典書物をラテン語に翻訳したギリシャ人「ガザ」の名前に由来する呼び名です。(同上)

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