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 鎌倉市扇ガ谷1にある壽福寺には塔頭が10数もあったという。その一部は南に鎌倉駅方向に並んでいたのだという。山の裾野に大型やぐらが並んでいる(https://4travel.jp/travelogue/10647483)のが塔頭跡の名残である。その南に位置するレストランとなった古我邸が興禅寺跡で、その東側には隣接して新福寺跡が住宅地になっている。古我邸は裏山山頂までが敷地であるというから、おそらくは、山頂が興禅寺、新福寺、壽福寺の境内の境界であったのだろう。そして、巽神社の西の山の山頂に観音堂が建っていたのだという。今でも住宅地の中に上る道が残っていると聞く。<br /> また、境内の西側には源氏山から南に伸びる尾根が舌状に西に続き、旧境内に建つ住宅の西側にはその尾根の下に隧道が2つ並んでおり、西側の小さな隧道は住宅の裏口で、北側の大きな隧道は現在は道路であり、いずれも、かつては本山と塔頭を結ぶ近道として掘削されたのであろう。この大きな隧道を潜ると左側に空き地があり、「寿福寺の管理地」の看板があり、この空き地を含め右側に並ぶお屋敷の敷地の壽福寺の地所で、借地にお屋敷が並んでいるのだという。なるほど。住民に聞いても鎌倉には借地に建っているお屋敷は多いのだという。<br /> この、「寿福寺の管理地」の看板がある空き地にも舌状に伸びる尾根の南側の崖にもやぐらがあり、空き地を通して見ることができる。一番東側にあるやぐらの中には長方形に掘られた納骨穴(龕(がん))が段違いに2穴見える。<br /> やぐらは従来は「仁治の禁令(仁治3年(1242年)」で市中に墳墓堂が建てられなくなったため、と推定されてきたようだ。しかし、源頼朝存命中には法華堂などの墳墓堂の下の地下に埋葬されたが、北条政子の存命中には大きな横穴が掘削され、その中にお堂が建てられ、そのお堂の横に埋葬施設としてやぐらが掘削され始めたのではないか?永福寺跡の裏山山頂下に並ぶ「百八やぐら」(https://4travel.jp/travelogue/10657874、https://4travel.jp/travelogue/10657889、https://4travel.jp/travelogue/10658052、https://4travel.jp/travelogue/10658056)は源頼朝が創建した鶴岡八幡宮寺の僧坊(本坊と二十五坊)、勝長壽院、永福寺、頼朝法華堂の僧侶などの関係者が埋葬された霊園であり、「百八やぐら」が現れる以前に大型やぐらばかりが並ぶ扇ガ谷(https://4travel.jp/travelogue/10605425、https://4travel.jp/travelogue/10726386)、泉ヶ谷(https://4travel.jp/travelogue/10726450)、亀ヶ谷(https://4travel.jp/travelogue/10943976、https://4travel.jp/travelogue/11002300)の山裾を崖にしてやぐらを造った中心地・発祥地として、その中心に壽福寺があったように思われる。禅宗(臨済宗)が鎌倉の地に新な墓制「やぐら」を持ち込んだのではあるまいか?<br />(表紙写真は「寿福寺の管理地」の看板がある空き地にあるやぐら)

鎌倉・壽福寺塔頭跡のやぐら-2019年元旦

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2019/01/01 - 2019/01/01

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 鎌倉市扇ガ谷1にある壽福寺には塔頭が10数もあったという。その一部は南に鎌倉駅方向に並んでいたのだという。山の裾野に大型やぐらが並んでいる(https://4travel.jp/travelogue/10647483)のが塔頭跡の名残である。その南に位置するレストランとなった古我邸が興禅寺跡で、その東側には隣接して新福寺跡が住宅地になっている。古我邸は裏山山頂までが敷地であるというから、おそらくは、山頂が興禅寺、新福寺、壽福寺の境内の境界であったのだろう。そして、巽神社の西の山の山頂に観音堂が建っていたのだという。今でも住宅地の中に上る道が残っていると聞く。
 また、境内の西側には源氏山から南に伸びる尾根が舌状に西に続き、旧境内に建つ住宅の西側にはその尾根の下に隧道が2つ並んでおり、西側の小さな隧道は住宅の裏口で、北側の大きな隧道は現在は道路であり、いずれも、かつては本山と塔頭を結ぶ近道として掘削されたのであろう。この大きな隧道を潜ると左側に空き地があり、「寿福寺の管理地」の看板があり、この空き地を含め右側に並ぶお屋敷の敷地の壽福寺の地所で、借地にお屋敷が並んでいるのだという。なるほど。住民に聞いても鎌倉には借地に建っているお屋敷は多いのだという。
 この、「寿福寺の管理地」の看板がある空き地にも舌状に伸びる尾根の南側の崖にもやぐらがあり、空き地を通して見ることができる。一番東側にあるやぐらの中には長方形に掘られた納骨穴(龕(がん))が段違いに2穴見える。
 やぐらは従来は「仁治の禁令(仁治3年(1242年)」で市中に墳墓堂が建てられなくなったため、と推定されてきたようだ。しかし、源頼朝存命中には法華堂などの墳墓堂の下の地下に埋葬されたが、北条政子の存命中には大きな横穴が掘削され、その中にお堂が建てられ、そのお堂の横に埋葬施設としてやぐらが掘削され始めたのではないか?永福寺跡の裏山山頂下に並ぶ「百八やぐら」(https://4travel.jp/travelogue/10657874https://4travel.jp/travelogue/10657889https://4travel.jp/travelogue/10658052https://4travel.jp/travelogue/10658056)は源頼朝が創建した鶴岡八幡宮寺の僧坊(本坊と二十五坊)、勝長壽院、永福寺、頼朝法華堂の僧侶などの関係者が埋葬された霊園であり、「百八やぐら」が現れる以前に大型やぐらばかりが並ぶ扇ガ谷(https://4travel.jp/travelogue/10605425https://4travel.jp/travelogue/10726386)、泉ヶ谷(https://4travel.jp/travelogue/10726450)、亀ヶ谷(https://4travel.jp/travelogue/10943976https://4travel.jp/travelogue/11002300)の山裾を崖にしてやぐらを造った中心地・発祥地として、その中心に壽福寺があったように思われる。禅宗(臨済宗)が鎌倉の地に新な墓制「やぐら」を持ち込んだのではあるまいか?
(表紙写真は「寿福寺の管理地」の看板がある空き地にあるやぐら)

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  • 小さな隧道。

    小さな隧道。

  • 隧道。現在は道路となっている。

    隧道。現在は道路となっている。

  • 「寿福寺の管理地」の看板がある空き地にあるやぐら群。

    「寿福寺の管理地」の看板がある空き地にあるやぐら群。

  • 「寿福寺の管理地」の看板がある空き地にやぐら群。

    「寿福寺の管理地」の看板がある空き地にやぐら群。

  • 「寿福寺の管理地」の看板がある空き地にあるやぐら。

    「寿福寺の管理地」の看板がある空き地にあるやぐら。

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