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姉川の戦いと、小谷城の戦いの紹介の締め括りです。元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いでの裏切りもあり、信長の浅井氏への仕置きは苛烈を極めたとされます。小谷城は廃城にした上で戦功のあった秀吉に与えられ、秀吉は長浜城を築きました。(ウィキぺディア)

2017秋、姉川の古戦場(8/8):小谷城址(4):山王丸、湖北田園空間博物館、木村屋敷

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2017/09/21 - 2017/09/21

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旅人のくまさん

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姉川の戦いと、小谷城の戦いの紹介の締め括りです。元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いでの裏切りもあり、信長の浅井氏への仕置きは苛烈を極めたとされます。小谷城は廃城にした上で戦功のあった秀吉に与えられ、秀吉は長浜城を築きました。(ウィキぺディア)

交通手段
観光バス

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  • 『小丸』の見学を終えて、次の『山王丸』に向かう途中の光景です。『山王丸』は、最後の目標値と決めていた場所です。左手に見えるのは、土塁ではなく、自然の山の地形のようです。(同上)

    『小丸』の見学を終えて、次の『山王丸』に向かう途中の光景です。『山王丸』は、最後の目標値と決めていた場所です。左手に見えるのは、土塁ではなく、自然の山の地形のようです。(同上)

  • 道案内標識の紹介です。左向きの矢印が本丸まで380メートル、右向きの矢印が大石垣まで50メートル、二段目の奥行きの矢印が山王丸まで80メートルでした。一番下の白いプレートは、大嶽山まで980メートルの表示でした。(同上)

    道案内標識の紹介です。左向きの矢印が本丸まで380メートル、右向きの矢印が大石垣まで50メートル、二段目の奥行きの矢印が山王丸まで80メートルでした。一番下の白いプレートは、大嶽山まで980メートルの表示でした。(同上)

  • 大きな石が散乱した斜面の光景です。小谷城の戦いで戦勝した秀吉が、小谷城を廃城とした時の石垣の石材のようです。地震などに因る、自然の力による散乱とは異なるようでした。

    イチオシ

    大きな石が散乱した斜面の光景です。小谷城の戦いで戦勝した秀吉が、小谷城を廃城とした時の石垣の石材のようです。地震などに因る、自然の力による散乱とは異なるようでした。

  • かなり大きな石が積まれた石垣の光景です。山王丸の『大石垣』ではないようですが、そのほかの石垣のようです。『大石垣』は、山王丸の東面に残されています。(同上)

    かなり大きな石が積まれた石垣の光景です。山王丸の『大石垣』ではないようですが、そのほかの石垣のようです。『大石垣』は、山王丸の東面に残されています。(同上)

  • かなり大きな石が積まれた石垣のズームアップ光景です。角の部分の積み方は、算木積が一般化する前の試行錯誤時代の積み方のように見えました。(同上)

    イチオシ

    かなり大きな石が積まれた石垣のズームアップ光景です。角の部分の積み方は、算木積が一般化する前の試行錯誤時代の積み方のように見えました。(同上)

  • 左方向の矢印が『六坊』まで250メートル、右向きの矢印が本丸まで410メートルの表示でした。その下の白いパネルには、現在地の『山王丸跡』と、大嶽城(おおずくじょう)まで900メートルの表示がありました。大永5年(1525年)頃の小谷城本丸は、大嶽城だったようです。大嶽城は小谷城のある小谷山の山頂に築かれ、東、南、西北西の三方に尾根が伸びています。(同上)

    左方向の矢印が『六坊』まで250メートル、右向きの矢印が本丸まで410メートルの表示でした。その下の白いパネルには、現在地の『山王丸跡』と、大嶽城(おおずくじょう)まで900メートルの表示がありました。大永5年(1525年)頃の小谷城本丸は、大嶽城だったようです。大嶽城は小谷城のある小谷山の山頂に築かれ、東、南、西北西の三方に尾根が伸びています。(同上)

  • 『山王丸』のタイトルがあった、絵図と説明文のパネルです。絵図には、石垣と山王社が描かれていました。標高約400メートルに位置する、小谷城の『詰の丸』と紹介されていました。南側の虎口は破城の形跡が明瞭に残り、今も石垣が散乱していると説明されていました。(同上)

    『山王丸』のタイトルがあった、絵図と説明文のパネルです。絵図には、石垣と山王社が描かれていました。標高約400メートルに位置する、小谷城の『詰の丸』と紹介されていました。南側の虎口は破城の形跡が明瞭に残り、今も石垣が散乱していると説明されていました。(同上)

  • 『山王丸址』のタイトルがあった説明立札の光景です。『山王丸址』は四段からなり、最頂部に山王権現が祀られていたと紹介されていました。山王権現は、日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道と天台宗が融合した神仏習合の神とされます。天台宗の鎮守神です。(同上)

    『山王丸址』のタイトルがあった説明立札の光景です。『山王丸址』は四段からなり、最頂部に山王権現が祀られていたと紹介されていました。山王権現は、日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道と天台宗が融合した神仏習合の神とされます。天台宗の鎮守神です。(同上)

  • 『山王丸』の文字が刻まれた石標の光景です。唐から帰国した最澄は、天台山国清寺に倣って、比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀ったとされます。小谷山の南麓には、浅井家の祈願寺として、お市の方や三姉妹もたびたび詣でたと伝わる小谷寺があります。(同上)

    『山王丸』の文字が刻まれた石標の光景です。唐から帰国した最澄は、天台山国清寺に倣って、比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀ったとされます。小谷山の南麓には、浅井家の祈願寺として、お市の方や三姉妹もたびたび詣でたと伝わる小谷寺があります。(同上)

  • 同じく、『山王丸』の光景です。木々の先に土塁のような光景がありましたが、元々は、側面に石垣が築かれていた場所かもしれません。(同上)

    同じく、『山王丸』の光景です。木々の先に土塁のような光景がありましたが、元々は、側面に石垣が築かれていた場所かもしれません。(同上)

  • 『山王丸』の文字が刻まれた石標と周りの光景です。辺り一面が木漏れ日の斑(まだら)模様になっていました。散乱した大きな石は、破城された時の石垣の石材のようです。(同上)

    『山王丸』の文字が刻まれた石標と周りの光景です。辺り一面が木漏れ日の斑(まだら)模様になっていました。散乱した大きな石は、破城された時の石垣の石材のようです。(同上)

  • 木々の間から眺めた麓の光景です。ゆっくりする時間はありませんでしたが、気持ちの上での一休みになりました。東側方面の光景になるようでした。(同上)

    木々の間から眺めた麓の光景です。ゆっくりする時間はありませんでしたが、気持ちの上での一休みになりました。東側方面の光景になるようでした。(同上)

  • 『山王丸跡』を見学したところで下山となりました。ピストン輸送のマイクロバスの都合で、最終時間が決められていたからです。(同上)

    『山王丸跡』を見学したところで下山となりました。ピストン輸送のマイクロバスの都合で、最終時間が決められていたからです。(同上)

  • とりあえず撮影した、名前を知らない白い花の光景です。長い花茎を伸ばし、ひっそりと咲いていました。(同上)

    とりあえず撮影した、名前を知らない白い花の光景です。長い花茎を伸ばし、ひっそりと咲いていました。(同上)

  • 左の矢印が、本丸まで380メートル、右の矢印が『大石垣』まで50メートルの表示でした。大石垣は、山王丸の大石垣のことのようでした。(同上)

    左の矢印が、本丸まで380メートル、右の矢印が『大石垣』まで50メートルの表示でした。大石垣は、山王丸の大石垣のことのようでした。(同上)

  • 先程の道案内標識に記されていた、『大石垣』かもしれません。標高400メートルの高さの場所に、16世紀に築かれた石垣です。野面積でした。(同上)

    先程の道案内標識に記されていた、『大石垣』かもしれません。標高400メートルの高さの場所に、16世紀に築かれた石垣です。野面積でした。(同上)

  • 小谷城から眺めた、西側にある琵琶湖方面の光景です。湖上に浮かぶ竹生島が見えました。その右手前に見える山は、小谷城の支城の山本山城があった山本山のようです。(同上)

    小谷城から眺めた、西側にある琵琶湖方面の光景です。湖上に浮かぶ竹生島が見えました。その右手前に見える山は、小谷城の支城の山本山城があった山本山のようです。(同上)

  • 同じく、小谷城から眺めた周りの光景です。南側方面の光景だったようです。手前には、小谷山の一部が見えていました。(同上)

    同じく、小谷城から眺めた周りの光景です。南側方面の光景だったようです。手前には、小谷山の一部が見えていました。(同上)

  • 往きにも紹介した、小谷山の麓にあった巨大な兜のモニュメント光景です。兜の中央に見える紋は、浅井家の『三つ盛亀甲に花菱』の紋でした。(同上)

    往きにも紹介した、小谷山の麓にあった巨大な兜のモニュメント光景です。兜の中央に見える紋は、浅井家の『三つ盛亀甲に花菱』の紋でした。(同上)

  • 巨大な兜のモニュメントのズームアップ光景です。浅井家は、京極家の家臣で、その源流は藤原北家のようです。(同上)

    巨大な兜のモニュメントのズームアップ光景です。浅井家は、京極家の家臣で、その源流は藤原北家のようです。(同上)

  • 山の中腹の駐車場まで、ピストン輸送をしてくれたマイクロバスの光景です。1回で、25人ほどは乗車できました。周りの赤い幟にも、井家の『三つ盛亀甲に花菱』の紋がありました。(同上)

    山の中腹の駐車場まで、ピストン輸送をしてくれたマイクロバスの光景です。1回で、25人ほどは乗車できました。周りの赤い幟にも、井家の『三つ盛亀甲に花菱』の紋がありました。(同上)

  • マイクロバスの発着所にあった建物光景です。ここには、百名城スタンプは置いてありませんでした。『浅井三代の里』の表札がありました。旧称は『小谷城ふるさと祭り会場』で、現在の正式名称は、『戦国ガイドステーション・浅井三代の里』のようです。(同上)

    マイクロバスの発着所にあった建物光景です。ここには、百名城スタンプは置いてありませんでした。『浅井三代の里』の表札がありました。旧称は『小谷城ふるさと祭り会場』で、現在の正式名称は、『戦国ガイドステーション・浅井三代の里』のようです。(同上)

  • こちらは、名古屋から乗せてもらった旅行社がチャーターした観光バスです。帰りもこのバスで名古屋まで直行です。直行といっても、休憩に道の駅か、パーキングエリアには立ち寄ります。(同上)

    こちらは、名古屋から乗せてもらった旅行社がチャーターした観光バスです。帰りもこのバスで名古屋まで直行です。直行といっても、休憩に道の駅か、パーキングエリアには立ち寄ります。(同上)

  • 見学の最後に立寄った、小谷城戦国歴史資料館です。受付に百名城スタンプが置いてありました。残念ながら、室内は撮影禁止でした。(同上)

    見学の最後に立寄った、小谷城戦国歴史資料館です。受付に百名城スタンプが置いてありました。残念ながら、室内は撮影禁止でした。(同上)

  • 小谷城戦国歴史資料館の建物光景です。史跡・小谷城跡内にある『戦国大名浅井氏と小谷城』をテーマにした資料館です。(同上)

    イチオシ

    小谷城戦国歴史資料館の建物光景です。史跡・小谷城跡内にある『戦国大名浅井氏と小谷城』をテーマにした資料館です。(同上)

  • 小谷城戦国歴史資料館の壁に掲示してあった垂れ幕です。日本の山城百名城で、小谷城がトップ3にランクインした4項目のPRでした。『魅力を体感できる山城』と『小説の舞台にしたい山城』の部門でトップでした。(同上)

    小谷城戦国歴史資料館の壁に掲示してあった垂れ幕です。日本の山城百名城で、小谷城がトップ3にランクインした4項目のPRでした。『魅力を体感できる山城』と『小説の舞台にしたい山城』の部門でトップでした。(同上)

  • 早めに小谷山を下りましたので、余った時間での麓の散策です。お市の方と三姉妹が済んだとされる『御屋敷跡』と、小谷城の戦いの時、秀吉が攻め上がったとされる『清水谷道』が主な目的地です。(同上)

    早めに小谷山を下りましたので、余った時間での麓の散策です。お市の方と三姉妹が済んだとされる『御屋敷跡』と、小谷城の戦いの時、秀吉が攻め上がったとされる『清水谷道』が主な目的地です。(同上)

  • 『木村屋敷跡』のタイトルがあった石標の光景です。浅井家の武将に、何人かの木村姓が見られるものの、側近で重臣の木村日向守の屋敷跡らしいことが紹介されていました。浅井家の重要な協議の場で、その名が見られるようです。(同上)

    『木村屋敷跡』のタイトルがあった石標の光景です。浅井家の武将に、何人かの木村姓が見られるものの、側近で重臣の木村日向守の屋敷跡らしいことが紹介されていました。浅井家の重要な協議の場で、その名が見られるようです。(同上)

  • 『湖北田園風景博物館案内図』と、『山城屋敷跡と虎ヶ谷道及び曲輪跡』の二つのタイトルがあった石標です。山城焼しあとは、浅井氏の一族の浅井山城守の屋敷跡らしいことが紹介されていました。(同上)

    『湖北田園風景博物館案内図』と、『山城屋敷跡と虎ヶ谷道及び曲輪跡』の二つのタイトルがあった石標です。山城焼しあとは、浅井氏の一族の浅井山城守の屋敷跡らしいことが紹介されていました。(同上)

  • 『虎ヶ道谷道」のタイトルがあった説明看板と、横書きの大きな表札です。横書きの大きな表札には、残念ながら『通行禁止』の表示がありました。説明看板には、『番所に通じる道』と表示されていました。(同上)

    『虎ヶ道谷道」のタイトルがあった説明看板と、横書きの大きな表札です。横書きの大きな表札には、残念ながら『通行禁止』の表示がありました。説明看板には、『番所に通じる道』と表示されていました。(同上)

  • 『徳正寺跡』の文字が刻まれた石標と、その横にあった、同じタイトルがあった青い説明パネルの光景です。(同上)

    『徳正寺跡』の文字が刻まれた石標と、その横にあった、同じタイトルがあった青い説明パネルの光景です。(同上)

  • 『徳正寺跡』のタイトルがあった、青い説明パネルのズームアップ光景です。浅井家の初代の亮政公が、小谷城築城に伴い山田村の医王寺をこの地に移し、菩提寺にしたらしいことからの縁起が記されていました。徳川将軍家の2代目の秀長野質が浅井長政の娘の『お江』であったことから、江戸時代には手厚く保護されたようです。(同上)

    『徳正寺跡』のタイトルがあった、青い説明パネルのズームアップ光景です。浅井家の初代の亮政公が、小谷城築城に伴い山田村の医王寺をこの地に移し、菩提寺にしたらしいことからの縁起が記されていました。徳川将軍家の2代目の秀長野質が浅井長政の娘の『お江』であったことから、江戸時代には手厚く保護されたようです。(同上)

  • 右端に見えるのは、『徳正寺跡』の石標、その後ろは、『徳正寺跡』があったらしい場所の光景です。今は杉林になっていました。(同上)

    右端に見えるのは、『徳正寺跡』の石標、その後ろは、『徳正寺跡』があったらしい場所の光景です。今は杉林になっていました。(同上)

  • 『土塁』のタイトルがあった説明パネルの光景です。現在に残された土塁は、高さ1.3メートル、幅3.5メートル、長さ13メートルと紹介されていました。お市の方や三姉妹が暮らした『御屋敷』の防御施設だったようです。(同上)

    『土塁』のタイトルがあった説明パネルの光景です。現在に残された土塁は、高さ1.3メートル、幅3.5メートル、長さ13メートルと紹介されていました。お市の方や三姉妹が暮らした『御屋敷』の防御施設だったようです。(同上)

  • 高さ1.3メートル、幅3.5メートル、長さ13メートルと紹介されていた土塁の光景です。谷筋の場所のためでしょうか、小石や砂が多く含まれているようでした。(同上)

    高さ1.3メートル、幅3.5メートル、長さ13メートルと紹介されていた土塁の光景です。谷筋の場所のためでしょうか、小石や砂が多く含まれているようでした。(同上)

  • 『御屋敷跡』の文字が刻まれた石標の光景です。その左には説明立看板、更にその左にも青い説明パネルがありました。(同上)

    『御屋敷跡』の文字が刻まれた石標の光景です。その左には説明立看板、更にその左にも青い説明パネルがありました。(同上)

  • 『御屋敷跡』のタイトルがあった説明立札の光景です。浅井家の三代の城主や、お市の方、浅井三姉妹が暮らした場所と紹介されていました。主家筋の京極氏を饗応した時の様子の記録も残されているようです。(同上)

    『御屋敷跡』のタイトルがあった説明立札の光景です。浅井家の三代の城主や、お市の方、浅井三姉妹が暮らした場所と紹介されていました。主家筋の京極氏を饗応した時の様子の記録も残されているようです。(同上)

  • 『清水谷道』のタイトルがあった石碑の光景です。天正元年(1573年)の小谷城の戦いで、織田軍の羽柴秀吉が攻め上がり、勝機を作ったとされる『清水谷道』です。秀吉は小谷城攻撃の前に、すでに浅井家重臣などを離反させ、『清水谷道』からの攻略も手引きをさせていたかも知れません。小谷城は、事実上、孤立の状態でした。(同上)

    『清水谷道』のタイトルがあった石碑の光景です。天正元年(1573年)の小谷城の戦いで、織田軍の羽柴秀吉が攻め上がり、勝機を作ったとされる『清水谷道』です。秀吉は小谷城攻撃の前に、すでに浅井家重臣などを離反させ、『清水谷道』からの攻略も手引きをさせていたかも知れません。小谷城は、事実上、孤立の状態でした。(同上)

  • 右向きの矢印で、頂上の大獄城まで1.6キロ、六坊まで1キロの表示がありました。『清水谷道』が目標地点でしたから、ここで引き返すことにしました。(同上)

    右向きの矢印で、頂上の大獄城まで1.6キロ、六坊まで1キロの表示がありました。『清水谷道』が目標地点でしたから、ここで引き返すことにしました。(同上)

  • 小型の竹矢来のような竹垣越しに眺めた、小谷城戦国歴史資料館の建物光景です。これで、織田信長と徳川家康連合軍と、浅井・朝倉連合軍が戦った元亀元年(1570年)の姉川の戦いと、天正元年(1573年)の小谷城の戦いの紹介はおしまいです。浅井と朝倉家は滅び、信長は天下人へまた1歩を進めました。その信長も天正10年(1582年)に本能寺の変に斃れ、秀吉の天下を経て家康の時代となりました。(同上)

    イチオシ

    小型の竹矢来のような竹垣越しに眺めた、小谷城戦国歴史資料館の建物光景です。これで、織田信長と徳川家康連合軍と、浅井・朝倉連合軍が戦った元亀元年(1570年)の姉川の戦いと、天正元年(1573年)の小谷城の戦いの紹介はおしまいです。浅井と朝倉家は滅び、信長は天下人へまた1歩を進めました。その信長も天正10年(1582年)に本能寺の変に斃れ、秀吉の天下を経て家康の時代となりました。(同上)

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