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姉川の古戦場の紹介の締め括りです。最後の紹介は、三田村地区にある国の史跡、『三田村氏館跡』の土塁です。現在はこの館跡には、伝正寺の名前のお寺が引っ越しています。(ウィキペディア)

2017秋、姉川の古戦場(4/8):姉川古戦場(4):三田村氏館跡、伝正寺、獅子像、鐘楼

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2017/09/21 - 2017/09/21

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旅人のくまさん

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姉川の古戦場の紹介の締め括りです。最後の紹介は、三田村地区にある国の史跡、『三田村氏館跡』の土塁です。現在はこの館跡には、伝正寺の名前のお寺が引っ越しています。(ウィキペディア)

交通手段
観光バス

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  • 浅井町の三田地区の街路光景です。施錠された小さな社の中にお地蔵さんが祀られていました。その横には中には入り切れなかったお地蔵さんの姿もありました。そのお地蔵さんは、『七十士』のところで紹介した、五輪塔の頂部を連想させるものがありました。(同上)

    浅井町の三田地区の街路光景です。施錠された小さな社の中にお地蔵さんが祀られていました。その横には中には入り切れなかったお地蔵さんの姿もありました。そのお地蔵さんは、『七十士』のところで紹介した、五輪塔の頂部を連想させるものがありました。(同上)

  • 『七十士』のところで紹介した、五輪塔の頂部を連想させるお地蔵さんのズームアップ光景です。右側のお地蔵さんの下部に、梵字らしいものが微かに見えました。(同上)

    『七十士』のところで紹介した、五輪塔の頂部を連想させるお地蔵さんのズームアップ光景です。右側のお地蔵さんの下部に、梵字らしいものが微かに見えました。(同上)

  • 『姉川の合戦とその周辺の歴史11・国指定史跡・三田村氏館跡(三田町)』のタイトルがあった説明看板です。京極・浅井氏の家臣で、姉川の北部に大きな勢力を持った、三田村氏の館跡と紹介されていました。60メートル四方の土塁に囲まれた、『平地城館』とも紹介されていました。姉川の戦いでは、朝倉景健の本陣として使用された可能性もあります。(同上)

    『姉川の合戦とその周辺の歴史11・国指定史跡・三田村氏館跡(三田町)』のタイトルがあった説明看板です。京極・浅井氏の家臣で、姉川の北部に大きな勢力を持った、三田村氏の館跡と紹介されていました。60メートル四方の土塁に囲まれた、『平地城館』とも紹介されていました。姉川の戦いでは、朝倉景健の本陣として使用された可能性もあります。(同上)

  • 国指定史跡の三田村氏館跡(の紹介です。西側の入口横に、鐘楼がありました。現在は、日蓮宗のお寺、『伝正寺』がこの地に引っ越しています。先に紹介した『七十士の墓』の説明看板には、『伝正寺』の引っ越しは、正徳5年(1715年)頃と紹介されていました。『三田村城』が廃城となってからの移築だったようです。この辺りは、三田村城時代の西の虎口になります。(同上)

    国指定史跡の三田村氏館跡(の紹介です。西側の入口横に、鐘楼がありました。現在は、日蓮宗のお寺、『伝正寺』がこの地に引っ越しています。先に紹介した『七十士の墓』の説明看板には、『伝正寺』の引っ越しは、正徳5年(1715年)頃と紹介されていました。『三田村城』が廃城となってからの移築だったようです。この辺りは、三田村城時代の西の虎口になります。(同上)

  • 鐘楼の横から眺めた、『伝正寺』の本堂光景です。姉川の戦い後、三田村一族は各地に逃れたため、この三田地区には『三田村姓は一軒もない』とされます。多くは新潟県や福井県に逃れたようです。近年『三田村会』が結成され、全国から三田村氏発祥のこの地を訪問されたようです。改めて『浅井町三田住宅地図』に目を通しましたが、三田村姓は見当たりませんでした。(同上)

    鐘楼の横から眺めた、『伝正寺』の本堂光景です。姉川の戦い後、三田村一族は各地に逃れたため、この三田地区には『三田村姓は一軒もない』とされます。多くは新潟県や福井県に逃れたようです。近年『三田村会』が結成され、全国から三田村氏発祥のこの地を訪問されたようです。改めて『浅井町三田住宅地図』に目を通しましたが、三田村姓は見当たりませんでした。(同上)

  • 『伝正寺』の本堂光景が続きます。まだこの位置からですと、大きな公孫樹の木で甍が半分ほど隠れました。元亀元年(1570年)、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍による姉川の戦いで、当主の三田村左衛門は討死しました。三田村左衛門の『左衛門』は、『左衛門尉』の受領名です。確実には特定できませんが、『三田村国定』という名前の人だったようです。(同上)

    『伝正寺』の本堂光景が続きます。まだこの位置からですと、大きな公孫樹の木で甍が半分ほど隠れました。元亀元年(1570年)、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍による姉川の戦いで、当主の三田村左衛門は討死しました。三田村左衛門の『左衛門』は、『左衛門尉』の受領名です。確実には特定できませんが、『三田村国定』という名前の人だったようです。(同上)

  • 正面から眺めた、『伝正寺』の本堂光景です。壁に掲示されたポスター類には、『報恩講』や『習礼』の文字が見えました。『習礼(しゅうらい)』とは、重要な儀式の前に予行をすることの意味があるようです。(同上)

    イチオシ

    正面から眺めた、『伝正寺』の本堂光景です。壁に掲示されたポスター類には、『報恩講』や『習礼』の文字が見えました。『習礼(しゅうらい)』とは、重要な儀式の前に予行をすることの意味があるようです。(同上)

  • 『伝正寺』の本堂正面に飾られた獅子像です。少し褒め過ぎですが、宮内庁が保有する、狩野永徳(1543~1590年)の『唐獅子図屏風』などを連想させる力強い獅子像です。(同上)

    『伝正寺』の本堂正面に飾られた獅子像です。少し褒め過ぎですが、宮内庁が保有する、狩野永徳(1543~1590年)の『唐獅子図屏風』などを連想させる力強い獅子像です。(同上)

  • かつては『三田村城』とも呼ばれた、三田村氏館跡を取り囲む土塁の光景です。その一面に彼岸花が咲いていました。(同上)

    イチオシ

    かつては『三田村城』とも呼ばれた、三田村氏館跡を取り囲む土塁の光景です。その一面に彼岸花が咲いていました。(同上)

  • 北西側から眺めた、『伝正寺』の建物光景です。堂宇の周りには、少し不粋は、金属フェンスが張り巡らされていました。住職が常住したお寺ではないのかも知れません。(同上)

    北西側から眺めた、『伝正寺』の建物光景です。堂宇の周りには、少し不粋は、金属フェンスが張り巡らされていました。住職が常住したお寺ではないのかも知れません。(同上)

  • 『伝正寺』の北側の破風のズームアップ光景です。近代工法の造りかも知れませんが、印象的なモノトーンの格子模様でした。(同上)

    『伝正寺』の北側の破風のズームアップ光景です。近代工法の造りかも知れませんが、印象的なモノトーンの格子模様でした。(同上)

  • 『伝正寺』の北側から眺めた境内の光景です。その周りを取り囲む、西側と北側の一部の土塁が見えました。(同上)

    『伝正寺』の北側から眺めた境内の光景です。その周りを取り囲む、西側と北側の一部の土塁が見えました。(同上)

  • 『伝正寺』の東側から眺めた、南側の土塁の光景です。土塁は北側の東半分以外は、現在まで残されていました。空堀か、水堀も土塁に並行していたようです。(同上)

    『伝正寺』の東側から眺めた、南側の土塁の光景です。土塁は北側の東半分以外は、現在まで残されていました。空堀か、水堀も土塁に並行していたようです。(同上)

  • 北側から眺めた、東側の土塁の光景です。土塁に並行して、疎水が流れていました。三田村氏館跡は、藪の右側になります。(同上)

    北側から眺めた、東側の土塁の光景です。土塁に並行して、疎水が流れていました。三田村氏館跡は、藪の右側になります。(同上)

  • 同じく、北側から眺めた、東側の土塁と疎水の光景です。今度は、『伝正寺』の甍が右手に見えています。(同上)

    同じく、北側から眺めた、東側の土塁と疎水の光景です。今度は、『伝正寺』の甍が右手に見えています。(同上)

  • 東側から眺めた、『伝正寺』の堂宇光景です。本堂の屋根とは紅梅も、造りも少し異なる大屋根が二段になって続いていました。こちらは裏側になるようですが、出入口はすべて閉まっていました。(同上)

    東側から眺めた、『伝正寺』の堂宇光景です。本堂の屋根とは紅梅も、造りも少し異なる大屋根が二段になって続いていました。こちらは裏側になるようですが、出入口はすべて閉まっていました。(同上)

  • 館跡の内側から眺めた、東側の土塁の光景です。杉らしい大木が茂り、風流な石灯篭の姿もありました。『姉川の合戦とその周辺の歴史』の中の三田村氏館跡の説明には、『土塁の高さは2メートルから3メートル、幅は平均5メートルを測る』ことが紹介されていました。発掘調査によれば、姉川の戦いの時、土塁を高くした形跡があることも紹介されていました。土師器類の出土もあったようです。(同上)

    館跡の内側から眺めた、東側の土塁の光景です。杉らしい大木が茂り、風流な石灯篭の姿もありました。『姉川の合戦とその周辺の歴史』の中の三田村氏館跡の説明には、『土塁の高さは2メートルから3メートル、幅は平均5メートルを測る』ことが紹介されていました。発掘調査によれば、姉川の戦いの時、土塁を高くした形跡があることも紹介されていました。土師器類の出土もあったようです。(同上)

  • 館跡の内側から眺めた、見上げるような高さがある東側の土塁の光景です。中央やや左奥に見える甍は、東側に隣接する『景流寺』です。(同上)

    館跡の内側から眺めた、見上げるような高さがある東側の土塁の光景です。中央やや左奥に見える甍は、東側に隣接する『景流寺』です。(同上)

  • 『姉川の合戦とその周辺の歴史11・国指定史跡・三田村氏館跡(三田町)』のタイトルがあった説明看板の光景です。同じ番号の説明看板は既に紹介しましたが、少し内容が異なっていました。こちらには三田村左衛門像ではなく、長浜市教育委員会提供の『三田村氏館跡周辺図』が紹介されていました。その図面の右下には、土塁の一部が記されていました。(同上)

    『姉川の合戦とその周辺の歴史11・国指定史跡・三田村氏館跡(三田町)』のタイトルがあった説明看板の光景です。同じ番号の説明看板は既に紹介しましたが、少し内容が異なっていました。こちらには三田村左衛門像ではなく、長浜市教育委員会提供の『三田村氏館跡周辺図』が紹介されていました。その図面の右下には、土塁の一部が記されていました。(同上)

  • 『三田村氏館』の跡周辺図』に記された、『三田村館跡』の北隣の敷地の光景です。公民館と広場がありましたが、その公民館の右側(東側)に、土塁址があり、堀跡の様な疎水もありました。『三田村氏館』に匹敵する広さの館跡のようにも見えました。先程の説明パネルは、その敷地内にありました。(同上)

    『三田村氏館』の跡周辺図』に記された、『三田村館跡』の北隣の敷地の光景です。公民館と広場がありましたが、その公民館の右側(東側)に、土塁址があり、堀跡の様な疎水もありました。『三田村氏館』に匹敵する広さの館跡のようにも見えました。先程の説明パネルは、その敷地内にありました。(同上)

  • 三田地区の街角光景です。ガラス戸の中に収まったお地蔵さんのようでしたが、周りの映り込みで、はっきりした姿は見えませんでした。屋根は銅葺の立派な祠でした。(同上)

    三田地区の街角光景です。ガラス戸の中に収まったお地蔵さんのようでしたが、周りの映り込みで、はっきりした姿は見えませんでした。屋根は銅葺の立派な祠でした。(同上)

  • 見学を終えて、出迎えの観光バスの場所に向かう途中の光景が続きます。ここにも、武家屋敷跡らしい門構えがありました。(同上)

    見学を終えて、出迎えの観光バスの場所に向かう途中の光景が続きます。ここにも、武家屋敷跡らしい門構えがありました。(同上)

  • シュウメイギク(秋明菊)の白い花の光景です。キク科ではなく、キンポウゲ科イチリンソウ属の植物です。古い時代に中国から渡来した帰化植物とされ、キブネギク(貴船菊)の別名を持ちます。中々風情のある花です。(同上)

    イチオシ

    シュウメイギク(秋明菊)の白い花の光景です。キク科ではなく、キンポウゲ科イチリンソウ属の植物です。古い時代に中国から渡来した帰化植物とされ、キブネギク(貴船菊)の別名を持ちます。中々風情のある花です。(同上)

  • キク科の植物らしい黄色の花を咲かせた草花の光景です。キク科の植物は、被子植物真正双子葉類に属する1分類群です。最も進化し、最も分化している植物とされます。世界では950種2万種が知られています。(同上)

    キク科の植物らしい黄色の花を咲かせた草花の光景です。キク科の植物は、被子植物真正双子葉類に属する1分類群です。最も進化し、最も分化している植物とされます。世界では950種2万種が知られています。(同上)

  • 少し草臥れてきた、ピンク色のサフィニアの花です。サフィニアはペチュニアの園芸品種で、ナス科ツクバネアサガオ属の植物です。サントリーと京成バラ園芸が共同で1989年に開発しました。現在は、サントリーフラワーズ(株)の登録商標です。(同上)

    少し草臥れてきた、ピンク色のサフィニアの花です。サフィニアはペチュニアの園芸品種で、ナス科ツクバネアサガオ属の植物です。サントリーと京成バラ園芸が共同で1989年に開発しました。現在は、サントリーフラワーズ(株)の登録商標です。(同上)

  • マンホール蓋の紹介です。『あざい』の地名表示がありました。浅井長政の『浅井』は、『あさい』とも、『あざい』とも読まれるようです。専門家の間でも結論は出ていません。『あさい』説の根拠では、10世紀前半の百科事典『和名類聚抄』の表記があり、『あざい』説の根拠は、近世に流布した辞書『節用集』があるようです。『地元では地名はアザイ、人名はアサイ』のネット情報もありました。(同上)

    マンホール蓋の紹介です。『あざい』の地名表示がありました。浅井長政の『浅井』は、『あさい』とも、『あざい』とも読まれるようです。専門家の間でも結論は出ていません。『あさい』説の根拠では、10世紀前半の百科事典『和名類聚抄』の表記があり、『あざい』説の根拠は、近世に流布した辞書『節用集』があるようです。『地元では地名はアザイ、人名はアサイ』のネット情報もありました。(同上)

  • 見学を終え、振り返って眺めた三田地区の民家の光景です。大家族を思わせるような、大きな家屋が目に付きました。浅井の読み方の話題に戻ります。中世以前に、仮名に濁点を振ることはありませんでしたから、『和名類聚抄』に濁点が無くても『アサイ』とは断定できないようです。(同上)

    見学を終え、振り返って眺めた三田地区の民家の光景です。大家族を思わせるような、大きな家屋が目に付きました。浅井の読み方の話題に戻ります。中世以前に、仮名に濁点を振ることはありませんでしたから、『和名類聚抄』に濁点が無くても『アサイ』とは断定できないようです。(同上)

  • コスモス(秋桜)の花の光景です。群生している時には、赤、ピンク、白の3種類の色が多いですが、白色の花は見当たりませんでした。(同上)

    コスモス(秋桜)の花の光景です。群生している時には、赤、ピンク、白の3種類の色が多いですが、白色の花は見当たりませんでした。(同上)

  • キバナコスモスとオオキンケイギクは、どちらも黄色やオレンジ色の花を咲かせます。一見では、なかなか区別がつきません。この花は先端のギザギザが少なく、キバナコスモスのようです。葉の形でも見分けが付きます。野草のオオキンケイギク(大金鶏菊)は特定外来生物に指定されていますので、栽培は出来ません。(同上)

    キバナコスモスとオオキンケイギクは、どちらも黄色やオレンジ色の花を咲かせます。一見では、なかなか区別がつきません。この花は先端のギザギザが少なく、キバナコスモスのようです。葉の形でも見分けが付きます。野草のオオキンケイギク(大金鶏菊)は特定外来生物に指定されていますので、栽培は出来ません。(同上)

  • 観光バスが待っていてくれた場所には、丁度『姉川古戦場』の石標がありました。明治42年(1909年)12月に創建されたものでした。地名と位置表示の『字血原廻・従是東八丁半』の文字も刻まれていました。姉川古戦場の見学を終えて、次は小谷城の戦いがあった、小谷城址の見学です。(同上)

    観光バスが待っていてくれた場所には、丁度『姉川古戦場』の石標がありました。明治42年(1909年)12月に創建されたものでした。地名と位置表示の『字血原廻・従是東八丁半』の文字も刻まれていました。姉川古戦場の見学を終えて、次は小谷城の戦いがあった、小谷城址の見学です。(同上)

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