2017/09/21 - 2017/09/21
317位(同エリア836件中)
旅人のくまさんさん
- 旅人のくまさんさんTOP
- 旅行記6398冊
- クチコミ0件
- Q&A回答0件
- 4,827,833アクセス
- フォロワー205人
姉川の古戦場の紹介の締め括りです。最後の紹介は、三田村地区にある国の史跡、『三田村氏館跡』の土塁です。現在はこの館跡には、伝正寺の名前のお寺が引っ越しています。(ウィキペディア)
- 交通手段
- 観光バス
PR
-
浅井町の三田地区の街路光景です。施錠された小さな社の中にお地蔵さんが祀られていました。その横には中には入り切れなかったお地蔵さんの姿もありました。そのお地蔵さんは、『七十士』のところで紹介した、五輪塔の頂部を連想させるものがありました。(同上)
-
『七十士』のところで紹介した、五輪塔の頂部を連想させるお地蔵さんのズームアップ光景です。右側のお地蔵さんの下部に、梵字らしいものが微かに見えました。(同上)
-
『姉川の合戦とその周辺の歴史11・国指定史跡・三田村氏館跡(三田町)』のタイトルがあった説明看板です。京極・浅井氏の家臣で、姉川の北部に大きな勢力を持った、三田村氏の館跡と紹介されていました。60メートル四方の土塁に囲まれた、『平地城館』とも紹介されていました。姉川の戦いでは、朝倉景健の本陣として使用された可能性もあります。(同上)
-
国指定史跡の三田村氏館跡(の紹介です。西側の入口横に、鐘楼がありました。現在は、日蓮宗のお寺、『伝正寺』がこの地に引っ越しています。先に紹介した『七十士の墓』の説明看板には、『伝正寺』の引っ越しは、正徳5年(1715年)頃と紹介されていました。『三田村城』が廃城となってからの移築だったようです。この辺りは、三田村城時代の西の虎口になります。(同上)
-
鐘楼の横から眺めた、『伝正寺』の本堂光景です。姉川の戦い後、三田村一族は各地に逃れたため、この三田地区には『三田村姓は一軒もない』とされます。多くは新潟県や福井県に逃れたようです。近年『三田村会』が結成され、全国から三田村氏発祥のこの地を訪問されたようです。改めて『浅井町三田住宅地図』に目を通しましたが、三田村姓は見当たりませんでした。(同上)
-
『伝正寺』の本堂光景が続きます。まだこの位置からですと、大きな公孫樹の木で甍が半分ほど隠れました。元亀元年(1570年)、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍による姉川の戦いで、当主の三田村左衛門は討死しました。三田村左衛門の『左衛門』は、『左衛門尉』の受領名です。確実には特定できませんが、『三田村国定』という名前の人だったようです。(同上)
-
イチオシ
正面から眺めた、『伝正寺』の本堂光景です。壁に掲示されたポスター類には、『報恩講』や『習礼』の文字が見えました。『習礼(しゅうらい)』とは、重要な儀式の前に予行をすることの意味があるようです。(同上)
-
『伝正寺』の本堂正面に飾られた獅子像です。少し褒め過ぎですが、宮内庁が保有する、狩野永徳(1543~1590年)の『唐獅子図屏風』などを連想させる力強い獅子像です。(同上)
-
イチオシ
かつては『三田村城』とも呼ばれた、三田村氏館跡を取り囲む土塁の光景です。その一面に彼岸花が咲いていました。(同上)
-
北西側から眺めた、『伝正寺』の建物光景です。堂宇の周りには、少し不粋は、金属フェンスが張り巡らされていました。住職が常住したお寺ではないのかも知れません。(同上)
-
『伝正寺』の北側の破風のズームアップ光景です。近代工法の造りかも知れませんが、印象的なモノトーンの格子模様でした。(同上)
-
『伝正寺』の北側から眺めた境内の光景です。その周りを取り囲む、西側と北側の一部の土塁が見えました。(同上)
-
『伝正寺』の東側から眺めた、南側の土塁の光景です。土塁は北側の東半分以外は、現在まで残されていました。空堀か、水堀も土塁に並行していたようです。(同上)
-
北側から眺めた、東側の土塁の光景です。土塁に並行して、疎水が流れていました。三田村氏館跡は、藪の右側になります。(同上)
-
同じく、北側から眺めた、東側の土塁と疎水の光景です。今度は、『伝正寺』の甍が右手に見えています。(同上)
-
東側から眺めた、『伝正寺』の堂宇光景です。本堂の屋根とは紅梅も、造りも少し異なる大屋根が二段になって続いていました。こちらは裏側になるようですが、出入口はすべて閉まっていました。(同上)
-
館跡の内側から眺めた、東側の土塁の光景です。杉らしい大木が茂り、風流な石灯篭の姿もありました。『姉川の合戦とその周辺の歴史』の中の三田村氏館跡の説明には、『土塁の高さは2メートルから3メートル、幅は平均5メートルを測る』ことが紹介されていました。発掘調査によれば、姉川の戦いの時、土塁を高くした形跡があることも紹介されていました。土師器類の出土もあったようです。(同上)
-
館跡の内側から眺めた、見上げるような高さがある東側の土塁の光景です。中央やや左奥に見える甍は、東側に隣接する『景流寺』です。(同上)
-
『姉川の合戦とその周辺の歴史11・国指定史跡・三田村氏館跡(三田町)』のタイトルがあった説明看板の光景です。同じ番号の説明看板は既に紹介しましたが、少し内容が異なっていました。こちらには三田村左衛門像ではなく、長浜市教育委員会提供の『三田村氏館跡周辺図』が紹介されていました。その図面の右下には、土塁の一部が記されていました。(同上)
-
『三田村氏館』の跡周辺図』に記された、『三田村館跡』の北隣の敷地の光景です。公民館と広場がありましたが、その公民館の右側(東側)に、土塁址があり、堀跡の様な疎水もありました。『三田村氏館』に匹敵する広さの館跡のようにも見えました。先程の説明パネルは、その敷地内にありました。(同上)
-
三田地区の街角光景です。ガラス戸の中に収まったお地蔵さんのようでしたが、周りの映り込みで、はっきりした姿は見えませんでした。屋根は銅葺の立派な祠でした。(同上)
-
見学を終えて、出迎えの観光バスの場所に向かう途中の光景が続きます。ここにも、武家屋敷跡らしい門構えがありました。(同上)
-
イチオシ
シュウメイギク(秋明菊)の白い花の光景です。キク科ではなく、キンポウゲ科イチリンソウ属の植物です。古い時代に中国から渡来した帰化植物とされ、キブネギク(貴船菊)の別名を持ちます。中々風情のある花です。(同上)
-
キク科の植物らしい黄色の花を咲かせた草花の光景です。キク科の植物は、被子植物真正双子葉類に属する1分類群です。最も進化し、最も分化している植物とされます。世界では950種2万種が知られています。(同上)
-
少し草臥れてきた、ピンク色のサフィニアの花です。サフィニアはペチュニアの園芸品種で、ナス科ツクバネアサガオ属の植物です。サントリーと京成バラ園芸が共同で1989年に開発しました。現在は、サントリーフラワーズ(株)の登録商標です。(同上)
-
マンホール蓋の紹介です。『あざい』の地名表示がありました。浅井長政の『浅井』は、『あさい』とも、『あざい』とも読まれるようです。専門家の間でも結論は出ていません。『あさい』説の根拠では、10世紀前半の百科事典『和名類聚抄』の表記があり、『あざい』説の根拠は、近世に流布した辞書『節用集』があるようです。『地元では地名はアザイ、人名はアサイ』のネット情報もありました。(同上)
-
見学を終え、振り返って眺めた三田地区の民家の光景です。大家族を思わせるような、大きな家屋が目に付きました。浅井の読み方の話題に戻ります。中世以前に、仮名に濁点を振ることはありませんでしたから、『和名類聚抄』に濁点が無くても『アサイ』とは断定できないようです。(同上)
-
コスモス(秋桜)の花の光景です。群生している時には、赤、ピンク、白の3種類の色が多いですが、白色の花は見当たりませんでした。(同上)
-
キバナコスモスとオオキンケイギクは、どちらも黄色やオレンジ色の花を咲かせます。一見では、なかなか区別がつきません。この花は先端のギザギザが少なく、キバナコスモスのようです。葉の形でも見分けが付きます。野草のオオキンケイギク(大金鶏菊)は特定外来生物に指定されていますので、栽培は出来ません。(同上)
-
観光バスが待っていてくれた場所には、丁度『姉川古戦場』の石標がありました。明治42年(1909年)12月に創建されたものでした。地名と位置表示の『字血原廻・従是東八丁半』の文字も刻まれていました。姉川古戦場の見学を終えて、次は小谷城の戦いがあった、小谷城址の見学です。(同上)
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2017秋、姉川と関ヶ原の古戦場巡り
-
前の旅行記
2017秋、姉川の古戦場(3/8):姉川古戦場(3):姉川、古戦場碑、戦死者慰霊碑、彼岸花
2017/09/21~
長浜
-
次の旅行記
2017秋、姉川の古戦場(5/8):小谷城址(1):兜のモニュメント、金吾丸、番所、御馬場
2017/09/21~
長浜
-
2017秋、関ヶ原古戦場(1/5):貸切列車で関ヶ原へ、セミナー会場、合戦イベント、笹尾山
2017/09/15~
関ヶ原・垂井
-
2017秋、関ヶ原古戦場(2/5):合戦イベント、法螺貝、石田隊の猫さん、三成布陣の笹尾山
2017/09/15~
関ヶ原・垂井
-
2017秋、関ヶ原古戦場(3/5):笹尾山麓、合戦イベント、勝敗はジャンケンで、島津義弘陣
2017/09/15~
関ヶ原・垂井
-
2017秋、関ヶ原古戦場(4/5):島津義弘陣地、小池神明神社、家康陣地、首実検の場所
2017/09/15~
関ヶ原・垂井
-
2017秋、関ヶ原古戦場(5/5):歴史民俗資料館、大澤寺、首級墳墓、松平・井伊陣地
2017/09/15~
関ヶ原・垂井
-
2017秋、姉川の古戦場(1/8):姉川古戦場(1):長浜へ、お市の方と浅井三姉妹、信長本陣
2017/09/21~
長浜
-
2017秋、姉川の古戦場(2/8):姉川古戦場(2):遠藤直常墓、姉川、露草、史跡姉川古戦場
2017/09/21~
長浜
-
2017秋、姉川の古戦場(3/8):姉川古戦場(3):姉川、古戦場碑、戦死者慰霊碑、彼岸花
2017/09/21~
長浜
-
2017秋、姉川の古戦場(4/8):姉川古戦場(4):三田村氏館跡、伝正寺、獅子像、鐘楼
2017/09/21~
長浜
-
2017秋、姉川の古戦場(5/8):小谷城址(1):兜のモニュメント、金吾丸、番所、御馬場
2017/09/21~
長浜
-
2017秋、姉川の古戦場(6/8):小谷城址(2):赤尾屋敷、黒金門、浅井家及家臣慰霊塔
2017/09/21~
長浜
-
2017秋、姉川の古戦場(7/8):小谷城址(3):大堀切、本丸石垣、中丸石垣、刀洗池、京極丸
2017/09/21~
長浜
-
2017秋、姉川の古戦場(8/8):小谷城址(4):山王丸、湖北田園空間博物館、木村屋敷
2017/09/21~
長浜
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
長浜(滋賀) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 2017秋、姉川と関ヶ原の古戦場巡り
0
30