2017/09/21 - 2017/09/21
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姉川の戦いの古跡巡りの続きです。姉川の合戦は、姉川を挟んで大規模な合戦が行われたとする従来説と、近年の研究では浅井・朝倉軍による奇襲作戦による小規模戦とする新説もあるようです。(ウィキペディア)
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下山した後、振り返って眺めた『龍ヶ鼻』の光景です。逆光での撮影になってしまいました。後ほど紹介しますが、この辺りには合計22基の古墳群があります。(同上)
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『春近川(はるちかがわ)』の河畔で咲く、ヒガンバナ(彼岸花)の光景です。よく知られた、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の別名を持ちます。根の部分には、リコリンという毒素を持ちますが、水でよく晒して取り除くことが出来ます。デンプンを採取し、飢饉の際の食料とされました。(同上)
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同じく、『春近川(はるちかがわ)』の河畔で咲く、ヒガンバナ(彼岸花)の光景です。田んぼのあぜ道や土手で見かけることが多いのは、ノネズミがあぜ道や土手に穴を開けるのを、彼岸花の毒性のある球根を植えることで防ぐためとも言われます。(同上)
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『郷里川の由来』と題された説明看板の光景です。『春近川』の源流は、遠く伊吹の西北と紹介されていました。古来より、上流、下流の水争いが絶えなかった場所とも紹介されていました。(同上)
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『春近川(はるちかがわ)』の標識の光景です。先程の『郷里川の由来』と題された説明看板には、水域を細かく分けて、川の名前が記されていました。水争いが激しかったことの名残のようにも思えました。(同上)
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ツユクサ(露草)の群生光景です。ツユクサ科ツユクサ属の一年生植物です。名前の由来には、朝咲いた花が昼しぼむことが朝露を連想させることからとする説や、古名の『ツキクサ(月草、着草)が転じた説などがあります。『万葉集』などの和歌集では『月草』の表記が多いとされます。(同上)
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先程、『春近川』の表示があった小川とは、別の名前が付いた小川です。その川に架かる小さな橋の袂の光景です。二つの標識には、『西山古墳(円墳)』と『往教水(堀部)川』の表示がありました。『往教水』は、『いきょうすい』との振り仮名がありました。その意味を調べてみましたが、まだ掴めていません。(同上)
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往教水(堀部)川の岸辺の光景です。小川に向かって緩い傾斜の石段が設けてありました。小川が、地元で採れた野菜を洗う場所になっているようでした。(同上)
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『王陵の里・史蹟案内板』のタイトルがあった説明看板です。『垣籠町名の由来』や、『垣籠古墳群』などについて説明されていました。22基の古墳群があり、垣籠古墳(前方後円墳は、第15代の応神天皇の子の稚野毛二派皇子の3世紀中期の墓と紹介されていました。(同上)
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『姉川の合戦とその周辺の歴史2・遠藤直経の墓』のタイトルがあった説明パネルの光景です。圃場整備で40メートルほど北からこの地に移されました。遠藤直経は、浅井家の重臣で、勇名を馳せた武将です。(同上)
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赤い鶏頭の花に飾られた、遠藤直経の墓の光景です。遠藤氏の先祖は、鎌倉武士の出身といわれ、倉時代に近江に所領を得て下向したとされています。直経は、近江国坂田郡(現・滋賀県米原市)の柏原庄の出身です。代々、須川山一帯を治め須川城を居としました。(同上)
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赤い鶏頭の花の間に見えていた墓標の光景です。『遠藤喜衛門直経之墓』の文字が刻まれていました。その下には、『元亀元年6月28日討死』の文字もありました。遠藤直経に関するエピソードの紹介です。早くから織田信長の底知れぬ才能を見抜き、永禄11年(1568年)、まだ浅井家と織田家が同盟関係にあった時、近江佐和山城を訪れた信長の接待役を命じられていた時のエピソードです。直経は、信長暗殺計画を長政に進言しました。しかし、長政(または久政)は、毒殺は信義に反するとして、それを受け入れず、結局暗殺計画は未遂に終わったとされます。また、直経は伊賀の忍者とも関係があったとされ、浅井家の諜報活動を担ったという説があります。甲賀の地は六角氏が支配していたため、伊賀との関係があったようです。
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信長暗殺に失敗して討ち死にした遠藤直経ですが、朝倉氏と織田氏との関係が悪化し、朝倉との旧縁を重んじるべきか、織田との婚姻関係を重んじるべきかの決断を迫られていた際、直経は織田側につくべきであると強硬に主張したとされます。浅井側の重臣として信長と接するうち、信長の内政外交の手腕を高く評価するようになったためとされます。(同上)
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籾殻焼の光景です。肥料にするのには、蒸し焼き程度がいいのでしょうか、まだ薄く煙が漂っていました。今は全自動で稲を刈り取り、籾殻まで袋詰めにされることが多くなり、籾殻焼を目にする機会は減ってしまったようです。(同上)
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刈入れが済み、新しい芽が少し伸びていた田圃の光景です。二期作や三期作の東南アジアの国では、刈り取った後の芽が成長して次の収穫ができる光景をよく目にしました。収穫は1回目に比べると減るようでした。(同上)
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青々とした、大豆畑の光景です。大豆と枝豆は、元は同じものですが、未熟な枝豆からさらに成熟すると大豆になります。枝豆には大豆には少なめな、ビタミンAやビタミンCなどのミネラルが多く含まれています。例えば、100グラム中のビタミンAは、大豆が12ミリグラムに対し、枝豆は110グラムです。枝豆は大好物ですが、大豆製品の納豆、豆腐なども大好物です。(同上)
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次にやって来たのは、姉川河畔です。その過半にあった大きな標識です。古戦場碑からは南に300メートル、横山城址から2.6キロ、小谷城址から7.1キロの場所でした。勝山までが600メートルでした。(同上)
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コンクリート造りの野村橋の袂にあった、車両通行禁止の標識です。人が歩いて渡る分には、制限がありませんでした。(同上)
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『姉川の合戦城』の文字があった白い標識の光景です。先に紹介した古戦場碑は、姉川に架かる野村橋を渡った北側にあります。(同上)
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夏草が生い茂る、姉川の河川敷の光景です。姉川の上流側になる、東側方面の光景になります。右端に頭が見えているのは、標高1377メートルの伊吹山のようです。(同上)
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車両通行禁止の標識があった野村橋を北に渡って、野村地区に向かう途中の光景です。野村地区は、信長軍と浅井軍が戦った場所とされます。織田・徳川側は『姉川の戦い』と呼びますが、浅井側は『野村合戦』と呼んでいたようです。三田村地区の戦いは、織田・徳川側では『姉川の戦い』、朝倉側では『三田村合戦』の呼び名です。(同上)
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姉川の河川敷光景です。28日未明、姉川を前にして、浅井・朝倉軍は二手に分けて野村、三田村にそれぞれ布陣しました。これに対し、徳川勢は一番合戦として西の三田村勢へと向かい、東の野村勢には信長の馬廻、および西美濃三人衆(稲葉良通、氏家卜全、安藤守就)が向かいました。(同上)
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姉川の北東側方面の光景です。河川敷内を流れる川が見えて来ました。姉川の戦闘は、午前5~6時頃に始まったようです。『信長公記』によれば、『火花を散らし戦ひければ、敵味方の分野は、伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり』と、海人の息継ぎに例えて表現された激闘になりました。(同上)
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同じく、姉川の北東側方面の光景です。河川敷内を流れる川が大きく見えて来ました。合戦当時は、浅瀬を探して対岸に渡ったようです。浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た家康は、榊原康政に命じて側面から攻めさせました。これで朝倉軍の敗走が始まり、次いで浅井軍も敗走しました。(同上)
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左手に見えていた流れの真上に来ました。橋の上から眺めた東側方面の光景です。信長は小谷城から50町(約550メートル)ほどの距離まで追撃をかけ、麓の家々に放火しました。しかし、小谷城を一気に落とすことは難しいと考え、横山城下へ後退しました。まもなく横山城は降伏し、信長は木下秀吉を城番として横山城に入れました。(同上)
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野村橋を渡り切って、野村地区にやって来ました。前方に見えるのが、姉川の古戦場碑がある場所です。赤い看板も見えていました。旧説に従った場所の比定のようです。(同上)
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野村地区から眺めた、姉川越しの南西方面の光景です。姉川の戦いには敗れましたが、この時点では浅井・朝倉連合軍には、まだ余力は残っていしまた。近江、越前周辺では比叡山の僧兵衆や石山本願寺の一向一揆と手を結び、湖西の志賀郡などで攻防戦が繰り返されました。このため、信長は浅井・朝倉を支持する比叡山を焼き討ちするなど、周辺敵勢力の掃討に打って出ました。(同上)
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『元亀元年庚午6月28日・為陣没者建立』の文字が刻まれた立派な石碑の光景です。比較的新しい造りのように見えました。姉川の合戦における浅井家の被害は甚大で、長政が信頼していたと言われている重臣遠藤直経や長政の実弟浅井政之をはじめ、浅井政澄、弓削家澄、今村氏直ら浅井家で中心的役割を果たしていた武将が戦死しました。(同上)
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『姉川の合戦とその周辺の歴史8・姉川古戦場』のタイトルがあった説明パネルの光景です。前段が、大規模な戦闘があったとする、旧日本参謀本部編纂の『日本戦史』の紹介、後段が、姉川の戦いは、浅井側の奇襲攻撃の小規模な戦いとする最近の研究成果の紹介でした。(同上)
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よく目立つ赤色の立看板です。『史蹟。姉川古戦場』の文字がありました。野村地区ですから、織田軍対、浅井軍の合戦地と補記されていました。(同上)
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