2017/09/21 - 2017/09/21
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旅人のくまさんさん
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小谷城は、近江北部を支配した戦国大名の浅井氏の本拠城で、日本屈指の規模を誇る山城です。築城したのは初代・亮政で、築城年は大永4年(1534年)頃と伝わります。(ウィキペディア)
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本丸から眺めた『大堀切』の光景です。小谷城は、小谷山全域に築かれたわが国でも屈指の規模をもつ中世城郭で、日本五大山城の一つに数えられています。日本五大山城は、越後の春日山城(上杉謙信の居城)、能登の七尾城(畠山氏の居城)、長浜の小谷城(浅井氏の居城)、近江の観音寺城(六角氏の居城)と出雲の富田城(尼子氏の居城)の五つです。(同上)
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同じく、本丸から眺めた『大堀切』の光景です。『五大山城』の呼び名のほかに、『日本三大山城』の呼び名もあります。こちらには、美濃岩村城、備中松山城と大和高取城が挙げられています。また、『五大山岳城』の呼び名も使われていますが、『山城』と『山岳城』の違いは、有事の詰め城が山城で、住居を兼ねていたのが山岳城とされているようですが、定義はいささか曖昧です。(同上)
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本丸南側の石垣の光景です。当時としては、珍しい石垣ですが、山王丸にも大規模な野面積の石垣が残されています。(同上)
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本丸南側の石垣の、西端部分のズームアップ光景です。野面積らしい積み方でした。端には巨石が使われていますが、算木面積ではないようです。西側の斜面に合わせて、自然に隅が低くなるような積み方に見えました。(同上)
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『本丸跡付近』に立つ道案内標識です。上側に向かう左向きの矢印が、山王丸まで410メートル、下側に向かう右向きの矢印が、番所まで400メートルの表示でした。追加されたらしい下の白い表示は、『本丸跡付近』の現在位置表示と、大嶽城まで1310メートルの表示でした。(同上)
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現地ガイドさんの先導で、『大堀切』方面に向かうツアー参加の皆さん方です。『大堀切』は、『本丸』の中でも一番の見所です。先程は本丸から眺めましたが、今度は『大堀切』の位置からの見学です。(同上)
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『大堀切』に向かう途中にあった、『御局屋敷跡』の説明立札と、屋敷まで50メートルの道案内表示の光景です。本丸の西下にある曲輪です。本丸を守るために造られた、御馬屋から続く帯曲輪の一部のようです。名前から言えば、お市の方や三姉妹が暮らした場所のようです。(同上)
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本丸の西側の土手の光景になるようです。大量ではありませんが、自然石ではない、石垣に使われたような石が散乱していました。確認はできませんでしたが、本丸の南面以外でも、部分的に石垣が使われていたのかも知れません。(同上)
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同じく、『大堀切』の見学に向かう途中の光景です。右手に見えていた、『本丸』の西面になるようです。(同上)
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『大堀切』が見える場所までやって来ました。土手や堀の底の傾斜が緩やかで、『大堀切』のイメージはまだしっくりとしません。ただ、大規模に南北の尾根が、東西に削られたらしいことは想像できました。(同上)
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『大堀切跡』のタイトルがあった説明立札と、その右にあった『大堀切』の文字が記された木標の光景です。説明立札には、『本丸址の北側にある大規模な堀跡で、尾根を大きく削ってある』と紹介されていました。更に、『番所跡から本丸址までと、その上を区切るもの』とも説明されていました。(同上)
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『大堀切跡』から見上げた、『本丸』の斜面の光景です。大堀切が、『番所跡から本丸址までと、その上を区切る』ことによって、守りの利点の一つとなりましたが、欠点も生じたとされます。それは、この大堀切が支障となって、味方の兵の移動にも影響が出てしまったこととされます。このため、大堀切は、『本丸が城の詰』とする前提で掘られたとする説もあります。(同上)
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北西側から眺めた『大堀切』の光景です。右側が『本丸』がある方面、左側が『中丸』がある方面になります。推測ですが、掘削された土は、本丸をはじめとする、各所の土塁に使われたようです。(同上)
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イチオシ
『中丸』がある方面の土手の途中まで登って撮影した『大堀切』の光景です。右手が『本丸』の北面になります。既に紹介しましたが、『大堀切』は、深さ10メートル、幅15メートル、長さ40メートルの規模です。(同上)
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『中丸』のタイトルがあった説明パネルです。絵図に記されたように、南北の三段から構成され、最上段に『刀洗池』があります。この池の縁を採って、上段の『京極丸』に繋がります。東西幅が約30メートル、南北幅が約60メートルの広さです。(同上)
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イチオシ
南側から眺めた、三段になった『中丸』の光景です。その段差の部分に石垣が使われていました。絵図面には、各段が塀で囲われているように表現してありましたが、廃城の際に壊されたか、あるいは、秀吉による長浜城築城の際に持ち去られたかもしれません。(同上)
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『中丸跡』に立つ道案内標識です。上側に向かう左向きの矢印が、山王丸まで280メートル、下側に向かう右向きの矢印が、本丸まで130メートルの表示でした。追加されたらしい下の白いプレートには、『中丸跡』の現在位置表示と、大嶽城まで1180メートルの表示がありました。(同上)
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『中丸跡』のタイトルがあった説明立札の光景です。大堀切の北側にある三段の曲輪で、石垣は使われていますが、土塁はなかったようです。『虎口を左右に振り分け、攻めにくくしてある』と記された部分の説明は、先に紹介した絵図面とは相違しているようです。中丸の三つの虎口は、絵図ではすべて中央付近に設けられていました。(同上)
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要所では、人が揃ったところで現地ガイドさんからの説明がありました。この場所には左手に見える、『中丸』の文字が刻まれた大きな石標がありました。(同上)
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『中丸』の光景です。城跡の整備のため、曲輪の中心部分の木々は切り払われていました。先に紹介した『中丸』の絵図面には、三段になったそれぞれのエリアに建物が記されていました。(同上)
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同じく、『中丸』の光景です。前方に見える盛土のような場所は、三段に造られた曲輪の上の段の光景だったようです。(同上)
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『刀洗池』の文字が刻まれた石標の光景です。今は水を湛えられていませんでしたが、縁石などが残されていました。『刀洗池』は『鏡池』とも呼ばれ、これも城内の井戸の一つだったと考えられています。(同上)
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『中丸跡』に建つ道案内標識です。上方に向かう左向きの矢印が、山王丸まで230メートル、下方に向かう右向きの矢印が、本丸まで180メートルの表示でした。追加されたらしい下の白い表示は、大嶽城まで1130メートルの表示でした。(同上)
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イチオシ
北側から眺めた、三段になった『中丸』の光景です。段さ部分に石垣が使われていました。このころの石垣は、戦国大名のステータスとも言うべき貴重な施設だったようです。城郭は、専ら土塁と堀、矢来などで守られ、石垣は寺院建築に使われていました。(同上)
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『小丸(こまる)』と『京極丸(きょうごくまる』の二つのタイトルがあった、絵図面と説明文です。『小丸」は、山王丸と京極丸の間にあり、東西に段になった曲輪で、第二代城主の浅井久政が落城際に自刃した場所、『京極丸』は、浅井氏が守護・京極氏に用意した居住地、南北4段の構造を持つ曲輪と説明されていました。秀吉軍が横から攻め上がった場所とされます。(同上)
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『京極丸跡』のタイトルがあった説明立札の光景です。主家筋に当たる、名門の京極家の屋敷があった場所とされます。大広間に次ぐ大きさの曲輪です。京極家の当主が幽閉されていたとする説もあるようですが、少し広すぎる曲輪のようにも思えます。(同上)
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この場所も木々が生い茂っていたようですが、遺跡整備のために、周辺部分をを残して切り払われたようです。切り株だけが残っていた、木漏れ日の中の『京極丸跡』の光景です。(同上)
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『京極丸』の見学を終え、次の『小丸』に向かう途中の光景です。3千の兵を率いる羽柴隊が、最初に京極丸を攻め落とし、隠居の前当主・久政の籠もる『小丸』と当主の長政の『本丸』の間を分断しました。次に『小丸』の攻撃に移りました。(同上)
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『小丸跡』のタイトルがあった説明立札の光景です。第二代城主の浅井久政が引退した後に居住した場所とされます。『京極丸』から攻め入った秀吉軍を前にして、切腹して49歳の生涯を閉じた場所ともなりました。天正元年(1573年)8月の出来事でした。(同上)
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『小丸』の文字が刻まれた石標の光景です。石垣の際に建てられていました。『小丸』を攻めた秀吉は、信長の妹であり、長政の妻となっていたお市の方とその3人の娘を救うために開城降伏の勧告を行いましたが、長政はこれを拒否しました。しかし、お市の方と三人の娘たちは織田勢に送り届けられました。嫡男の万福丸には家臣をつけて密かに脱出させましたが、戦後に探し出され処刑されました。(同上)
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