2017/08/29 - 2017/08/30
263位(同エリア2996件中)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
≪2017.Aug≫ヘタレあみんちゅ弾丸夜行バスの旅山口・広島~後編夏の広島編~
4月に呉と広島、5月に呉と山口周南に行きました。行く目的地は多々決めるものの、当日の状況によっては『行けないところ』も出てきます。その行けなかった場所を集めると、実に『一回分』の行程では到底回り切れない『未訪問地』が残っていることに気付きました。勿論行程を組む際に現実に回ることができる『キャパ』をはるか越えていることに問題があるのですが、机上でわかるものの他に現地に行って初めてわかる『個々の距離』みたいなものもあることに間違いはありません。
余裕のある行程にするとどうしても『周り切れるだろう』という安易な考えが出てしまい、結果として未訪問地が増えていく現実に、敢えて今回選んだのは…〝夜行バス往復〟!所謂〝0泊3日〟パターンでの旅は今年1月の『出雲・奈良』以来となります。この時は目的が限定されていたこともあり、十分な時間が取れることを踏まえてPlanningから実行しましたが、今回は『どうしても行きたい』場所をPickUpし、それに加えて『肉付け』をしてみました。
最初のプランでは前日に出発し、江田島の海上自衛隊砲術学校見学を含めるものでしたが、夏バテしていたこともあり一日延期をしました。結果として宿泊を考える必要がなくなったので逆に『目的地間』を直行するルートとなったため、私ののらりくらりとした行程とはかなりかけ離れたものとなっています。
今回の主な目的地はいずれも4・5月に訪れることができなかった『阿多田交流館』『国立広島原爆死没者追悼平和祈念館』『広島原爆平和記念資料館』の3ヶ所です。『国立広島原爆死没者追悼平和祈念館』『広島原爆平和記念資料館』共8月中は19:00まで開館していることもあえてこの時期に訪れようとした理由でもあります。しかしPlanning by たかティム with B型なので『当たり前』ということはありません。前日に決めた夜行バスから始まる今回の旅路、さあどんなものになったのでしょうか(笑)。
平成29(2017)年8月29日火曜日
本通 16:03
16:07
ファミマ広島袋町店 16:01
《タバコ他:990円》1687
16:09
旧日銀広島支店 16:10
16:59
爆心地 17:09
17:11
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 17:29
17:56
広島平和記念資料館 18:03
《入館料:200円》
18:58
広島中郵便局 19:50
19:56
広島そごう 19:56
《もみじ饅頭:2,580円》
20:13
松屋広島紙屋町店 20:25
《夕食:490円》
20:50
相生橋 21:20
被ばくしたアオギリ 22:37
八丁堀バス停 22:59
23:10
《ウィラーエキスプレス(コモド):5,900円(クーポン使用)5,600円》16280
《車中泊》
広島駅南口 23:17
23:30
平成29(2017)年8月30日水曜日
広島大学 00:20
00:30
小谷SA 01:00
01:20
祇園四条 07:59
三条京阪 08:30
《京都市営地下鉄・京阪京津線:560円》16840
浜大津 08:54
08:57
《京阪石坂線》
京阪石山寺 09:16
09:18
自宅 09:28//
交通費:17,040円
雑費:4,757円
合計:21,797円
広島市へと戻って来ました。初めて乗車したアストラムライン、開通は平成6(1994)年8月20日とありました。平成21(2009)年に広島へと夜行バスで向かった時に『新白島』バス停があったのやらなかったのやら記憶が曖昧ですが、少なくとも平成27(2015)年3月14日開業の新白島駅はなかったはず…。まあそれは置いておいて、新白島から3駅目の本通駅で下車します。なんとなく中途半端な場所にあるようにも思うものの、目的地である『旧日本銀行広島支店』がある袋町までは僅か1駅。乗降の手間を考えると歩いた方が楽です♪それに加えて柳井から続けた『禁煙』の解消も含めて(笑)。
駅を出て鯉城通りを南下します。途中『灰皿』の所在を確認できた『ファミリーマート広島袋町店』でジュースとタバコを買って一服します。そして目的地である旧日本銀行浩目支店へと向かうのですが、住所地である『広島市中区袋町5番21号』というのがナビに引っ掛かりません。登記上の住所ならばヒットはしないし…と考えながら歩いて行くと…見つかりました。袋町電停の前に『でーん』と聳える建物に『旧日本銀行広島支店』と書かれていました。
数段の階段を上って入館します。爆心地から380mで被爆した建物の中では造りが頑丈だったこともあり保存状態が極めて良いもののひとつとされています。ただ日銀が移転する際にこの旧庁舎をどうするのかは、すんなり決まらなかったもののひとつであったとされています。結局その際には広島市指定重要文化財の指定を条件に無償貸与されることとなり、その後国指定重要文化財に指定されると無償譲渡となるため、その手続きを継続中とのことでした。
被爆建物として残されているため、内部での業務は終わっており、一階の元カウンター出会った場所はがら~んとしています。しかし戦争色が色濃くなる中で作られたという背景から、派手さはないとよく書かれています。しかし天窓を含めた建物の造りは、なにか洋風のものを感じるものであって、確かに派手ではないものの『芸術的』なものだとは思いました。そして2階には常設展として旧日本銀行広島支店が新しく建立された後被爆し、そしてどうなったかをわかりやすく展示で紹介されています。昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、この場所から380mの距離で原子爆弾『リトルボーイ』が炸裂し、熱線と爆風が付近一帯を襲いました。日本銀行としての役割もあり軍にも異論を唱えさせなかった程の頑丈な建物であっても、出勤したスタッフが窓を開けていた3階では、爆風と熱線に加え火事が起こり、職員全員が即死しています。1・2階は鎧戸を閉めていたこともあり直接被害はなかったものの、窓枠はすべて変形しています。そして建物地下にある金庫は頑丈ではあるものの、戦時中の金属拠出によって取り上げられた『エレベーター』の入口から入り込み、爆風を地下にまで送り込んでいます。金庫自体はその爆風にも耐えたのですが、金庫を守っていた『金属の柵』はものの見事に変形し吹っ飛んだそうです。また支店長室には被爆時に飛び散ったガラスや金属片によって傷つけられた壁が残っており、その爆風の凄まじさを伝えています。
資料館には旧日本銀行広島支店についての展示資料が並べられてありましたが、その他に現在耐震工事と改修を行っている平和記念資料館の所蔵資料の一部が特別展としてこちらに陳列されています。地下の金庫を見ながら向かった場所には、〝あなたが今いるこの通りで~鯉城通りの惨状~〟として被爆者が書いた『絵』や『写真』等が陳列されています。言葉で聞くことは多いのですが、自分自身が被爆した方々が、目の当たりにした『惨劇』をいつ頃の記憶で書かれているものなのか?ということも含めて書かれているため、普通の写真よりよっぽど臨場感があります。決して興味本位で言うことではありませんが、見て書かれた事実はやはりなにものよりも心に訴えかけるものが大きいように思えます。そして『熱と炎のつめ跡』では熱線によって熔けてくっついてしまったビンや金属類、そして爆風と衝動波によって一瞬で破壊された瓦など、極々当たり前に置かれています。旧日本銀行広島支店の横にある現頼山陽記念館(当時の山陽資料館)はこの旧日本銀行広島支店の影となって倒壊を免れました。しかしその屋根瓦に残る『焼けた跡』は、原爆による熱波の凄さを示しています。そして最後に収蔵写真ですが、この辺りは本やwebで見られるものも多いものの、原爆の投下に始まった広島の復興に至る日々というものは、やはり直接見ていても驚きを隠せないものが多く存在しています。戦後70年は花すら咲かないと言われた広島が現在のように復興し、発展を続ける現在の姿は忘れてはいけないことに違いありません。初めて訪れた旧日本銀行広島支店で心を打たれるものと出会いました。そして付近の原爆に関する慰霊と資料館を目的とした『国立広島原爆死没者追悼平和祈念館』 と広島平和記念資料館を訪れるために平和記念公園へと向かいます。
鯉城通りを横断しますが、通りのど真ん中にある袋町電停。そこで見慣れぬカラーの電車が来るのを見て少し立ち止まります。651って・・・もしかして・・・被爆車両?ドンピシャです。4月5月に次いで3回目の広島でやっと出会えました。原子爆弾投下時に袋町電停隣の中電前電停付近走行中に被爆し、爆風により脱線して半回転し、熱戦により半焼します。直前に飛び降りた乗客1名を除いた乗員乗客80名が犠牲となるも半年後には修理を終えて復活し、被害の大きさに打ちひしがれる広島市民を勇気づけました。スピードと定員キャパに劣る650系車両は651・652番車両か通勤時の応援車両として運行されているものの、この時間であれば貸切以外では走っていないはず。ただ回送表示にはなってるいたため、通常運行ではありませんが、出会えたことに感動しました!1000系や5100系といった新しい車両に混じって、旧大阪市電の900系も見ることができ、ちょっとウルウルしてしまいました♪
そのまま西進すると見た記憶があるセブンイレブンがあり、そのまま北進して爆心地に到着します。現在島内科医院となっている爆心地。中庭上空680mで原子爆弾リトルボーイが炸裂したのが広島原爆です。広島に於ける原爆被害の原点の場所ですが、今の様子を見る限り当時の面影はありません。現在では爆心地という表示のみが往時を偲ばせる唯一のものですが、つい何度も訪れて広島の原爆被害のことをわからないなりに知りたいと思っています。手を合わせる場所ではありませんが、黙祷を捧げ次の目的地へと向かいます。
そのまま北進すると相生通りにぶつかり、そして西進すると右手に原爆ドームが見えて来ます。元広島産業奨励館ですが、爆心地から150mという至近距離で被爆するも3000℃の熱線が伝わるのに0.2秒、マッハを超える350万Paの爆風が到達する0.8秒の僅かなタイムラグが、ドーム部分を覆っていた銅板を瞬時に溶かし、風の通り道ができた状態で爆風が通り抜けたため、奇跡的に爆心地の至近距離にも関わらず骨格が残ったとされています。もっとも建物内部では火災が起こり、内部にいた職員は即死し、レンガの外壁とドームの骨組みだけが残る今の姿になりました。
被爆した建物は、日本が主権を回復させたサンフランシスコ講和条約締結時には既に原爆ドームと呼ばれていました。廃墟と化した広島産業奨励館に対し、惨劇を思い出すという意見もあり、取り壊しも検討されました。しかし被爆による白血病のため僅か16歳で亡くなった一人の女子高生の日記が世論を動かします。楮山ヒロ子さん。1歳で爆心地から1.,5kmで被爆。大下学園祇園高等学校2年生に上がったばかりの昭和35(1960)年4月5日に亡くなりました。彼女が生前に残した日記の『あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか』等の一節。被爆施設としての重要性を説いた彼女の日記は多くの人々の心を動かせて、ついに昭和41(1966)年広島市議会は原爆ドームの永久保存を決定します。そして翌年には保存工事が完了し、その後も定期的な工事が続く中、被爆50年にあたる平成7(1995)年には国指定の史跡となり、翌平成8(1996)年にユネスコの世界遺産に登録されました。
当時の文部省が文化財保護法に基づく史跡名勝天然記念物指定基準を改正して定められた原爆ドーム。国指定の史跡となったため世界遺産に推薦できた訳ですが、当初国は被爆史跡を世界遺産に推薦することに消極的でした。戦勝国とされている国々を刺激したくないという政治的配慮が働いていたことが理由ですが、その弱気な姿勢が逆に日本国民を刺激し、165万超の署名が集まっています。ただ世界遺産の登録にあたってアメリカの反対があり、調査報告書のうち『世界で初めて使用された核兵器』の一文が削除されています。ダウンフォール作戦(日本で言う本土決戦)で失われる可能性のあった100万人もの米兵の命が原爆投下により助かったとする『原爆投下の正当論』を引き合いに出し、中国は『日本の戦争加害を否定する人々に利用されるおそれがある』として審議を棄権しています。
しかし別件を引き合いに出しての核兵器の使用を正当化する考えが、結局燻ったまま現在に至っていることこそが某国での核兵器の保有正当化に繋がっているように思えてなりません。事実アメリカはニューメキシコ州のインディアン居留地からウラニウムを無断で採掘し、精製して作られた原子爆弾の実験をやはりインディアン居留地で行い、それが後に広島・長崎に投下されるものとなりました。そして実験や開発によって生じた放射性副産物資もまたインディアン居留地に埋めています。また戦後にビキニ環礁で原水爆の実験を行い、加えて被爆範囲というアラート情報が過少に出されたために起こった第五福龍丸をはじめとする被曝事件が起こっています。一説には865隻とも言われる『被爆船舶』の多くは、風評被害を恐れて被曝の事実を公表しなかったと言われています。確かに第五福龍丸の久保山通信長の死は、一説に言われている『放射能障害』ではなく、当時出回っていた不衛生な『売血輸血』を多量に体内に入れたことによって起こった『肝炎ウィルスの血液感染』であることは公式な見解として言われています。しかしなぜ『輸血』をしなければならなかったかという点に於いては、被曝によって発症した『再生不良性貧血』であったことも事実です。しかし未だにアメリカは彼の死因を『被曝に起因』したとは認めていません。と言うか言わせないのでしょう…。そのくせ日本から被曝したマグロを禁輸にしたりという事が七転八倒しています。
確かに広島では昭和20(1945)年8月6日以降亡くなるまで被爆による後遺症に悩まされた方々が多く存在する中で、ビキニ環礁で被曝しその後継続的な治療や検査を受けていた第五福龍丸乗組員の方々には『急性放射線症』の症状は全員に見られるものの、その後10数年という期間はかかったものの『医学的見地』からは『元に戻っている』とされており、それがアメリカの『被曝事実なし』と言わしめている理由になっているように思えてなりません。しかし広島での被爆による惨劇は、見たことがなくても話では乗組員の方々もご存じだったでしょう。自らの将来に『被曝した事実』がどのような結果を齎すのかはわからず、精神的な苦痛は他人が計り知れるものではなかったと思います。計算ミスから予想以上の広範囲にわたって降り注いだ『放射性降下物』。その名は『キャッスル作戦・ブラボー』…。このふざけたネーミングの実験は、ビキニ環礁から240km離れており影響なしとされたロンゲラップ島の住人を実験3日後に他島に強制移住をさせました。3年後に『安全宣言』を出し、住民の帰島を許可するも生活を始めて間もなく『急性放射線症』の症状が出始め多くの子供達が白血病で亡くなっています。委託・信託統治領として長くあったマーシャル諸島。自然豊かな環礁によって構成されているマーシャル共和国は1986年のことであり、その後1990年にアメリカの信託統治が終わっています。しかし経済的には決して豊かなものではなく、自由連合盟約の見返りとしてアメリカからの財政援助を受けています。期限付きとはいえ大国に頼らざるを得ない状況の国家の元、今なお放射線での汚染が残っている南の島では、『帰りたくても帰れない』状態の元島民の方々も居られるそうです。
この点から考えてもやはりアメリカという国が『核保有国』としてその姿勢を取り続けているとしか思えません。核保有は『五大国』に限定するといったNPT(核拡散防止条約)の矛盾。しかも核兵器の製造・使用・実験は移民エリアや他国で行うと言った『差別意識』までが露見しているのが現実です。核兵器の是非論までを今更論議するつもりもありませんが、少なくとも『勝てば官軍的』な理由は抜きにして、世界初の核兵器を『使った国』は間違いなくUSAなので…。ただ事実を伝えない『世界遺産』、それも『負の世界遺産』として、確かな『史実』を伝えることはできるのでしょうか…。そのような中途半端さが興味本位で制限エリアに侵入し、落書きなどの悪さをしでかしているのでは…そのように思えてなりません。
結局は調査報告書から削除された『世界で初めて使用された核兵器』の一文…。これを削除しては、真の『原爆被害』は後世に伝えられないように思えてなりません。もし自国の兵士の命を助けるための戦略であれば、その旨を含めた記述を行って、訪問者それぞれの判断に委ね、その上で正攻法であったとの判断を仰げるのであればそれが『民意』として後世に伝えられることになるようにも思います。しかし威圧的なものによって削除『させた』としても、納得のいかない人々の多くは『史実を曲げさせた』ことに対する『威圧的態度』に賛同しないのではないのでしょうか。
70年もの間草木も育たないとされた被爆地広島。昭和24(1949)年に広島平和記念都市建設法が国会で可決され、不死鳥の如く蘇った『広島』。その発展の中には丹下健三氏の設計による『広島平和記念公園』建設構想の『原爆ドームを北の起点として原爆死没者慰霊碑・広島平和記念資料館が南北方向に一直線上に位置する』ものとして設計され、昭和28(1953)年に完成したという歴史もあります。これが現在でも平和記念公園に於ける『定番写真』とされている景色になりますが、勿論その当時に高層ビルはなくその3つの建築物のみが連なっているものでした。しかし条例での景観規制を行っても結局は開発優先的なことにもなってしまい、付近のマンションや広島商工会議所ビルが映り込んでいるのが現実です。平成28(2016)年改修工事を経てオープンしたおりづるタワー。入場料の高さで有名ではありますが、展望フロアから見ることができる原爆ドーム内部に施されている『補強工事の痕跡』は一見する価値はあるものとは思いますが、建物色は考慮されているもののやはり高さもある建物ゆえ目立ってしまうものでもあります。また建立意図のわからない『広島商工会議所ビル』、やはり原爆投下時にも現在の場所にはあり、原爆記念保存物として人を集めるもオフィスビルとして改修工事を重ねて使用するには難があったようで、結局は昭和39(1964)年に解体され、翌年現建物が竣工しました。平成20(2008)年8月には旧市民球場跡地再開発計画が発表された折に、原爆ドームが世界遺産登録時に言われている『景観問題』を踏まえて、平成25(2013)年春に移転・新築する方向で進めていたにも関わらず、平成23(2011)年5月27日広島市が旧市民球場跡地の利用計画の見直しを表明したことによって、移転・新築計画も延期されて現在に至っています。ただ世界遺産登録時には既にあった建物ゆえ、後出しでとやかくは言えませんが『濃い色』の建物はかなり目立ち、『定番写真』でも付近の建物が原爆ドームに『似せた色』を用いているのに対し、商工会議所ビルは写真で切り取ると、主である『原爆ドーム』より目立ってしまうことが多々あるようです。
確かに広島市が制定した『景観法に基づく届出等に係る事前協議制度に関する取扱要綱』は平成27(2015)年1月1日に新設されたものであり、それに基づく『バッファーゾーン(緩衝地帯)』での建造物に対する高さ基準は、広島商工会議所ビルのあるaゾーンでは20m以下、おりづるタワーのあるbゾーンは25mとされており、それぞれの建物の高さが46mと51.5mという高さは『基準以上』のものにはなります。しかしこれは絶対的なものでは、おまけに取扱要綱が出される前であれば適用すらできないものとなってしまいます。いずれにせよ第三次産業のために景観基準を作ることは、住民の生活を妨げるものとなる可能性もあり、慎重に協議する必要があるものの単発的に訪れる観光客の意見に左右され過ぎている感じもしない訳ではありません。世界遺産原爆ドームは平成18(2006)年に『必要な劣化対策を行い現状のまま保存』するという方針が定められました。景観によって『危機遺産リスト』に登録されることもあるのかと思いつつ、『世界遺産原爆ドーム』を『取り巻く環境』と『保存問題』に関する碑文を読みながら『一筋縄では終わらない現実』の深さを思い知ります。
そして『相生橋の碑』『勤労学徒慰霊塔』を経て元安橋を渡り、『平和記念公園レストハウス』を経て『国立広島原爆死没者追悼平和祈念館』、『原爆死没者慰霊碑』、『広島平和記念資料館』で8月のメリット『開館時間が19:00迄』を利用し、見学を済ませます。
《この間については文面の都合により別記載しております。》
広島の今日の日の入り時刻は18:41、平和公園にも夜の帳が下りようとしています。平和記念公園入口付近の喫煙コーナーで一服し、平和大橋を渡ります。元安川の上流域も照明が目立ち始めてきました。そんな中を川沿いに歩いて行きます。本安川沿いの緑地帯には慰霊碑も多く建立されています。まずは広島県農業会原爆物故者慰霊碑。原爆投下時にこの碑の場所に広島県農業会広島支所がありました。元広島県農工銀行から譲り受けた建物で6本の円柱が特徴的な4階建てのレンガ建築でした。国泰寺町に新事務所ができて本所事務所が移転した後に広島支所として使用されていましたが、原爆によって完全に破壊され、外壁の一部が廃墟として残るのみでぶ厚いレンガ造だったために熱を持ったままこともあり、しばらくは瓦礫に触ることもできなかったそうです。1週間ほど経ってやっと瓦礫を割ったりしながら、その下にあった遺骨の収集をされたそうです。当日手巾をしていた支所長をはじめとした職員83名が犠牲となりました。
そして広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑。碑の場所にあった広島ガス本社社屋は地上3階地下一階の鉄筋コンクリートとレンガ造りの建物でしたが、原爆の爆風によって各界の床と天井が崩れ落ち、西側建物の一部を残して全壊しました。当日義勇隊員として天神町と木挽町にて建物疎開にあたっていた34名は即死でした。本社社屋内でも数人を除いては即死状態で、辛うじて生き延びた数人もその後亡くなっています。また当日事業統合会議のために訪れていた中国5県のガス会社の役員も犠牲となっています。
実はこの広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑、知る人ぞ知る『あるもの』がありました。ガス会社なので慰霊のための『灯火』は繋がるのですが、この『灯火』の由来がその理由になります。福岡県星野村(現八女市)に復員した暁部隊に所属していた山本達雄氏が広島市内で書店を営んでいた叔父を探しに広島へ入り、本屋跡で燻ぶっていた『残り火』を懐炉に移して持ち帰ったものです。『残り火』の管理は行政に引き継がれ、現在も八女市の『星のふるさと公園』内にある『平和の塔』で燃え続けています。その『平和の火』と平和記念公園の『平和の灯』を譲り受け、二つの火を合わせたものが平成19(2007)年8月6日にガス灯に点火されて現在に至っています。この『平和の火』は一時分火の状況がわからないといった状況に陥ったことがあり、管理者である旧星野村ですら把握していない『分火の分火』が多々存在していたことがありました。広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑の場合時期的にも新しいため、正攻法の入手をされておられるだろうとの判断で貴重なものだと言えます。見た目も素晴らしいですが、それより由緒正しき火が燃えていることを見て感じて欲しいと思います。
そして原爆犠牲ヒロシマの碑。爆風に飛ばされた犠牲者の姿をモチーフとした像が目を惹く碑ですが、建立のきっかけは高校生の平和サークル『広島県高校生平和ゼミナール』の『原爆がわら』採集でした。爆心地に近いこの付近の元安川の川床には、原爆の熱線で焼け焦げた『原爆がわら』がたくさん埋まっていました。平和学習活動の一環として川床の土砂の中から原爆がわらを掘り出す作業を行い、長時間をかけて数千点の『原爆がわら』を集めました。昭和56(1981)年に広島市が川床をさらって河川美化事業を行ったことにより原爆がわらの採集が不可能になりました。そこで高校生たちは自分たちの活動を記録し、核兵器廃絶と平和への決意を固める記念碑をつくろうと全国の高校生らに募金を呼びかけ、それに対し全国の小・中・高校生や一股市民から約2000万円が寄付金が寄せられ昭和57(1982)年8月5日に碑が建立されました。その『原爆がわら』が碑に埋め込まれており、原爆被害の凄まじさを間近に見ることができます。学校事業での訪問が多いためなのか『千羽鶴』のお供えが途切れることがありません。特定の被爆犠牲者を祀っている訳ではないものの、この姿が後々まで受け継がれることを望みます。
原爆犠牲建設労働者・職人之碑。特異な形をした碑は『流れ造り』という日本古来の神社本殿の屋根の形を模してあるそうです。建立者である全国建設労働組合総連合会と広島県建設労働組合は、『住まい』を作る建設職人の組合団体ですが、建立された昭和63(1988)年の組合員数は家族を含めて32,000人余りが所属しているのに対し、被爆者健康手帳の交付を受けた被爆者はその内1,500人程だと刻まれていました。今ではともかく原爆投下時に何名の組合員がいたうちの『〇〇名』であればその確率はわかりますが、よく意味が分からない記載がしてありました。同じものが長崎にも建立されており、広島と長崎に於ける同組合の被爆犠牲者数は不明だそうです。
そしてもうひとつよくわからない『平和祈念碑』。直接的な被爆犠牲者の慰霊碑ではありません。昭和57(1982)年に長崎県を襲った記録的豪雨の被害に対し、広島西ライオンズクラブが長崎西ライオンズクラブに義援金を送りました。それをきっかけに両者が姉妹縁組をし、それを記念して広島・長崎両市に『平和記念碑』を建立することがまとまり、昭和59(1984)6月20日に建立されました。被爆経験がある両都市にそれぞれ碑を建立し、恒久平和を願うという願いはわかりますが、その建立意図は周辺の慰霊碑とは異なっています。ライオンズクラブのものなので、関係者が頻繁に訪れるため千羽鶴が絶えないというのはいいことかも知れませんが、何となく社会奉仕の範疇を超えているようにも思います。まあ捉え方は人それぞれなので触れませんが、『違い』を知っておいて損はしないでしょう。
そして前回見落とした被爆した元安橋の『中柱』が置かれている場所へとやって来ます。オープンカフェが立ち並ぶ場所にあり、お店が明るい分だけ川辺が暗くなっており見落としそうでした。被爆したときに掛かっていた橋は大正15(1935)年に架け替えられたもので『スズラン灯』が取り付けられていたモダンなものだったそうです。爆心地からの距離は原爆ドームより近い130mの至近距離で被爆するも、石で作られていたこともあり熱線による焼失と落橋は免れました。しかし欄干・親柱上の笠石および火袋が左右相反方向にずれ欄干のみが川に落下しています。この特異的な状況が後に爆心地が橋の延長線上であることを突き止めるきっかけとなっています。物的な被害は軽微だったもの、こちらに逃げてきた被爆者の多くは橋の上で力尽きたものも多く、目も当てられない惨状が拡がっていたと記されています。戦後になり補修しながら使われてきた元安橋でしたが平成4(1992)年に架け替えられた際には大正時代に竣工した先代の橋のデザインを再現し、橋脚については親柱4基と中柱4基のうち2基を再利用しています。鋳物の電灯がその際に取り付けられ橋脚を1基減らし1つとなり橋長は長くなり幅員も拡幅されました。
架け替え工事によって余剰となった2基の中柱は元安橋の東側を少し南に行ったところに説明版とともに安置されています。夜になるとカップルがいちゃついている場所ゆえ目のやり場に困る場所ではあるのですが、一見の価値は間違いなくありました。
ここで既に19:30になっていました。取り敢えず撮影したフィルムを発送しようとゆうゆう窓口のある広島中郵便局へ向かいます。歩いていると…ん?何か忘れてない???と不安に駆られたと同時に『あぁぁぁぁぁぁ~お~土~産~!!』に気付きました。広島から夜行バスで帰る場合、まず『お土産』を買うことができません。つまりお店が閉まっています。それで2回ほど『土産なし』になってしまいました。とはいえ気付いた時間も時間…。そこでぱっと閃きます。文明の力『iPhone』のSafariです♪平和記念公園近くのお土産と検索すると『そごう広島店』がヒットします。なので取りあえず郵便局へと行ってからそごうに閉店4分前に入店し、地下一階の『にしき堂』で『もみじ饅頭』を購入し、無事事なきことを得た次第です。ふ~っ…。このそごうの3階には『広島バスセンター』があるため、ちょっと散策します。それほど遅くない時間なので、バス旅に向かう方も少なかったようですが、実はここにあるにしき堂は20:30迄開いていることを知りました。ただ現金しか使えないので、数があってもカード決済を行うことはできません。
そして無事お土産を購入し、閉店をしたそごう広島店を出発します。開店時間によりコースを変えたためこれから夕食を摂ることになります。『お好み焼き』…の選択肢を取りたいのですが、安く・手軽に・短時間で済ましたいためいつのもファーストフードにして、平和記念公園に戻る途中の『松屋紙屋町店』に立ち寄ります。中途半端な時間だったのですが結構人気店のようでお客さんは結構入っていました。そして『おろし牛めし大』を注文します。おろし大根とネギが入った牛めしは食べたことがなかったものの結構なおいしさでした。ごちそうさまでした~♪
お腹がいっぱいになりまた歩き出します。原爆ドーム横を通り過ぎ、鈴木三重吉文学碑、そして相生橋へとやって来ました。橋の上からみた『原爆ドーム』はライトアップされており、それだけでも絵になります。しかしあくまでも原爆遺構のひとつであり、その絵になる景色がアンマッチングとなっているように私には思えてなりません。考え方を強制するつもりはありませんが、一考する余地のある景色であるように思いました。
そのまま相生橋を渡って『慈仙寺鼻』へとやってきて、平和記念時計へとたどり着きます。鯉城ライオンズクラブの建立ですが、『聖地』として宗教的・モニュメント的な要素のものは建立が認められないとされている中で、平和の時計塔はモニュメントではなかろうか…そう思えてなりません。付近の原爆供養塔は被爆死した人々のご遺体をを荼毘に付し納骨した『ヒロシマ版魂魄之塔』、公園外から移設された『韓国人原爆犠牲者慰霊碑』、原爆で消えてしまった中島本町の犠牲者を祀る『平和乃観音像』、被爆死した子供達を祀る『原爆の子の像』場ある中では、建立経緯をしるとやはり浮いてしまっているように思えてなりません。そういう点では広島の住民の方々は『寛容的』だと言われているので、一観光客がとやかく言うことではなく、広島的に大丈夫であればそれで良いのかも知れませんが…。
そして初訪問となる『被爆した墓石』、地面が少し低い位置にいくつかの石が並んでいますが、実はこの『高さ』こそが被爆時に於けるこの地『中島本町』の地面です。平和記念公園建設の折に『被爆土壌』に盛り土を行い、それを覆い隠しました。勿論汚染土壌をそのままにすることはできないので、その理由はわかりますがこの『被爆した墓石』そのものの存在を知らないで通り過ぎる者が多い事実は残念でなりません。わかり辛い説明版のこともありますが、是非とも見て・感じて欲しい原爆遺構のひとつではあります。
一旦本川橋まで行って旧西国街道を歩き、元安橋までやってくるとここからも『原爆ドーム』の夜景写真として取り上げられることの多い風景に出会います。そして今来た道をそのまま戻って、平和記念公園の外、西側の緑地帯を南下します。ひとつ由来のわからない慰霊碑があり、義勇隊の碑・広島二中原爆慰霊碑・広島市商・造船工業学校慰霊碑があります。この界隈で『建物疎開』に従事しており昭和20(1945)年8月6日朝に被爆した義勇隊と学徒達はほぼ全滅しています。その慰霊碑がなぜ『公園内』に建立されていないのかは疑問に思うところもあります。一観光客である私には手を合わせて冥福を祈ることしかできませんでしたが…。
西平和大橋は平和大通りの本川に架かる橋で、日系アメリカ人のイサム・ノグチ氏の設計によるものです。平和記念公園の設計に携わることですったもんだがあったことで知られています。たださすがに『SHINU(死ぬ)』というネーミングはあまりにもストレート過ぎるとは思います。
そして原爆犠牲国民学校教師と子供の碑。被爆しぐったりとした子供を抱いた自らも傷ついた教師がなすすべもなく呆然と立ち尽くす姿を表現しています。現在の教師がここまでの責任感を持っているのだろうかと毎回考えてしまうものでもありました。
平和の像若葉(湯川秀樹歌碑)。日本初のノーベル物理学賞受賞者である中間子理論の湯川秀樹博士、真理の探究に誇りを持つも同時に物理学者として責任を感じるとして、科学者による核兵器の廃絶を論じる『バグウォッシュ会議』を呼びかけました。文科系の私には、数値的な原爆の『破壊力』しか理解はできませんが、その破壊力を生み出すメカニズムがわかる物理学者の『苦悩』は計り知れないものがあったこと位は想像がつきます。災害や凶事を司る『禍津日神』を掛けた博士の『まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは』の詩に平和への強い願いを感じます。
そして嵐の中の母子像。像の原型となった石膏像は第5回原水爆禁止世界大会が開かれた折に、原水爆禁止日本協議会から当時の濱井広島市長に原水爆禁止運動推進への感謝の意を込めて贈られたものがブロンズ像になりました。マッハを越える原爆の爆風に乳のみ子と幼子を両手に抱えて前かがみになって進もうとする母親の『生き抜く姿勢』を現しています。現実論として571tの風圧に人間が耐えられる訳はありませんが、それ位母が子を思う『気持ちの強さ』で逆境に立ち向かって行くという意気込みが伝わってきます。
広島平和記念公園を一周して戻ってきたところには、第4回郵便友の会全国大会を機に建立された平和記念ポスト。広島ディスプレイ協会建立の五角錐の平和の塔があります。そして被爆直後の広島に入り、GHQから15tもの医薬品の提供を認めさせたマルセルジュノー博士記念碑、戦争や原爆で親を失った子供達に対する『精神養子』や原爆によってケロイドを負った被爆女性にアメリカでの形成外科治療を受けさせることに尽力したジャーナリスト『ノーマンカズンズ』氏記念碑、戦後60年が経過し『ヒロシマ』が風化する懸念の中で『ヒロシマ』の世界化に尽力された『バーバラ・レイノルズ』氏記念碑があります。そして平和大通りを挟んだ場所には『広島市立高女原爆慰霊碑』がありました。原爆の投下時に建物疎開に動員されていた1・2年生541名と職員10名全員が亡くなっています。その他の動員先も含めると676名の犠牲者を出しており、市内の学校では最も多くの犠牲者を出しています。やはり『広島市立高女原爆慰霊碑』も平和記念公園内にはありませんが元々慰霊碑の建立時期が早く、多くの犠牲者を出した場所であるこの付近に木製の供養塔が建てられたことに始まります。慰霊碑の建立が認められなかった時代、『平和塔』として学校敷地内に建てられたものが、その後被災地近くの現在地に移設されました。聖地内よりも被災地を取った遺族や学校関係者の気持ちは痛いほどわかります。志半ばで斃れたうら若き少女達にとって『最後の場所』がまさしく『聖地』であることにかわりはありませんから。
そしてイサム・ノグチ氏デザインの『IKIRU(生きる)』とのネーミング予定だった平和大橋を渡って南下すると『被爆動員学徒慰霊慈母観音像』があります。広島で学徒動員された学生・生徒数は8,000余名、うち被爆死者数6,300余名とされています。その中の広島市内にあった21校の旧制中学校・女学校の犠牲者4,000名の名前がプレートに刻まれて築山に収められています。やはり平和記念公園内にない慰霊碑のひとつですが、知名度なのか訪れる方も少ない場所ゆえ少し気に掛かる場所のひとつです。日本中の学徒犠牲者を祀る『動員学徒慰霊塔』の広島版であるため、是非とも訪れて頂きたい場所のひとつとして、手を合わせつつ願う次第です。
そして再び平和記念公園へて戻り、未訪問の場所を巡ります。『全損保の碑』、平和記念資料館東館の工事によって現在地に移設されたものですが、当時広島市街にあった14の損保会社に200名が勤務しており、うち84名が被爆死しています。全損保労組の建立のものは、慰霊碑の中でも特に思想性が高く、原爆投下の犯罪性を鋭く指摘する碑文が刻まれていることから、天皇制と資本主義に対する批判と捉えられ、右翼団体構成員による碑の盗難遺棄事件が起こっています。
そして時間的にも最後となる『被爆したアオギリ』。爆心地から1.3kmの広島逓信局庁舎の中庭に植えられていたもので、原爆投下時に遮るものもなく直接被爆し、一本は消失しましたが残り2本が奇跡的に残りました。枯れ木同然だったアオギリは翌年春になって芽吹き、被爆と敗戦の混乱の中で沈んでいた広島市民に生きる勇気を与えました。その後中国郵政局の中庭にありましたが、移設時に平和記念公園内に移植されますが、他から移植されたものと合わせて3本のうち1本は枯れてしまいました。しかし残りの2本はその後も枝葉を伸ばし、付近には落ちた種から育ったとされる『アオギリ二世』も加わって訪れる観光客に対し、被爆の生き証人として、自らの姿を見せています。
手元の記録上でも行きそびれた所はあれど時間の関係で次回にまわすことにし、最後に原爆ドームの夜景をカメラに収め、バス停へと向かいます。自他共に認める『田舎者』のたかティムは『地下道』が大の苦手です。どこに向かっているのかわからないのがすごく嫌なので、大阪の地下ですら極力歩きません。あのややこしい『地上』を歩く方がまだマシです。でも広島イチの繁華街である紙屋町は、横断歩道が何処にあるのかわかりません(泣)。こうなるといやがおうにも地下を歩かないとならなくなってしまいます。でもでも…まっすぐな通りは迷いようもなく、いつもなら尻尾を巻いたまま歩く犬のように歩く『地下街』をスタスタ歩いて行きます。しか~し、ここでまた大雑把な『B型の性』が出てしまいます…。バス停の場所がわかっているので、出口を確認しながら歩けば良いものを、目星をつけたまま突っ走ります。結果行き過ぎてしまい結局はいつもの如く地上を歩いて戻る羽目になります(恥)。それでも予定通り10分前には到着できました(嬉)。多分広島八丁堀バス停を利用しているのはウィラーエクスプレスだけだと思いますが、広島駅南口バス停を利用すると『トイレ』の利用が結構不便ではあります。目の前のセブンイレブン広島松原町店は時期によっては列をなしていることもあり、結局は広島駅構内まで足を運ばないといけないことも多々あるそうです。しかし広島八丁堀バス停の場合、地下街の『紙屋町シャレオ』のトイレが利用できます。ただウィラーエクスプレスの京都行き出発時刻は23:10であり、その時間の利用であれば人通りがかなり少ないので、『女子一人旅』だとちょっと怖いかも…。そこらへんを気にしない方であれば全然OKじゃないでしょうか♪
バス停しかない広島八丁堀バス停に着いたと同時に疲れがどっと出てきてしまったたかティムさん、道端に座り込んでしまいます(悲)。気持ちは若いつもりでも体がついてこない悲しさを最近痛感する瞬間でした。
程なくして京都行きのバスが到着します。乗客は5人位ですが、殆どは広島駅南口バス停から乗られるので、まあこんなもんか…程度にしか思いません。車番は行きと同じバスでした。ウィラーバスは直営のバスと委託運行のバスがあり、京都~広島線もこの3列と4列のコンビタイプのバスのみウィラーエクスプレス中国の運行となっています。なので同じバスが往復するようです。行きは8A、帰りは9C。シート配置は同じ『コモドシート』ですが、やはり3列の最前列と真ん中の違いは確かにあります。ただ最終的には後ろの10Cは空いていたので、フルリクライニングで利用できたのはラッキーでした♪
定刻に広島八丁堀バス停を出発し、広島駅南口バス停を経由して高速を走行し、日付が変わってから広島大学前バス停に到着します。東広島市の広島大学バス停は最近JRバスの大阪~呉路線を運行していたJRバスが休止(事実上は廃止)となり、利用客が増えていると聞きました。事実結構な乗客があり、前方はガサガサしていたようです。ここで敢えて前方と言ったのは4列の利用が殆どで、コモドシートの利用はなかったこと。う~ん…やはり『安く』行くのであれば4列シートなのね~って改めて思います。しかし前回(5月)利用したときの『リラックスワイドシート』は3列席が車両前方にあるため、乗降客があると必ず両脇の通路が使われます。そのことを考えれば車両後方に『コモドシート』を配置し、加えて『プライベートカーテン』まで閉めているとほとんど気にはならなくなります。これは導入を決めて正解だと改めて思います。
広島大学バス停も定刻に出発し、山陽自動車道小谷サービスエリアで休憩となります。元ツアーバス会社であるウィラーエクスプレスの広島関西線、JAMJAMライナーの広島大阪線とも車内にトイレは設けてありません。大手のバス会社が運行しているバスには当たり前のようについている『車内トイレ』ですが、やはり『臭い』と『人通り』のことを指摘されていることから設けていない傾向があるようです。ただ水分を摂りすぎていなければ利用することもないので、強ちその選択は間違っていないようにも思えます。当の私も1:00に到着したサービスエリアで一番に降りて行ったのは、トイレではなく平和記念公園から我慢していた『一服』に行きたいがために過ぎません(笑)。
という訳で3時間半ぶりの一服を決め込み、色々ありそうな小谷サービスエリアも顧みずさっさと車内に戻ると『寝倒しモード』に入ります。途中2ヶ所『トイレ休憩』に立寄るはずですが、歩き疲れた体には用のないこと。出発してまもなく『完全消灯』になった辺りにはもう記憶がございません(笑)。そんな状態でもピンクのバスは確かに関西方面へと私を運んでくれます。ある意味幸せを感じながらのバスの旅、短かった広島での出来事を思い出しながらzzz。そして朝を迎えます。
関西での到着地は三宮・USJ・梅田、そして京都祇園四条です。さすがに朝は照明が点けられてアナウンスもあるのですが、カーテンが閉まったままなのですぐにまた寝てしまいます。そして34時間半前に出発した祇園四条駅バス停に6分早着します。ドライバーさんの二人のうち一人は行きに乗務されておられた方だったようで往復とも大変お世話になりました♪
バス停を後にして京都市営地下鉄の三条京阪駅までてくてく歩きます。川端通ではなく大和大路通りを歩くのは単純に『タバコが吸えるコンビニ』に立ち寄るためです。セブンイレブン京都祇園北店に立ち寄って目覚めのコーヒーを購入し一服します。まだ起き切れていないことはわかっていても取り敢えず足は前に進みます。そして三条京阪駅に到着し、通勤客でごった返している中、旅帰りの格好で浮いたまま東西線ホームを目指します。京都市営地下鉄も久しぶりですが、いつもは山科で乗り換えるため、六地蔵行きに乗ることが多いのですが、今回は敢えて浜大津行きに乗車します。平成9(1997)年までは三条から京阪京津線が浜大津まで走っていました。その頃は石山寺から三条まで通し切符を購入できましたが、京都市営地下鉄との相互乗り入れが始まると同時に御陵から三条までが廃止され、通しで乗ると割高になりました。時間も掛かり値段も高いルートを取るものはほとんどいなくなりましたが、こんな時でもなければ乗ることもないので敢えて今回JRを利用せずに帰るルートを取りました。
若干通勤時間からは遅くなったこともあるものの、浜大津行きの列車は空いています。地上区間に出ると一部路面区間の残る京阪京津線。800系の4両編成の車両はの~んびりと走って行きます。それでも24分で浜大津に到着し、同じホームで京阪石山寺行きの600系車両に乗り換えます。本来なら自宅へと向かうバスの時刻の関係で京阪石山で乗り換えなければならなかったのですが、たまたま同居人が迎えに来てくれることになり京阪石山寺の終点まで乗ることができました。三条京阪から京阪石山寺まで45分の電車の旅のが終了が今回の旅の終了も兼ねています。そして9:28に自宅に到着。シャワーを浴びてさあ寝よう…なんていっている暇はありません。3時間後には出勤しなければなりません(悲)。でもこんなストイックな旅が最近面白くて仕方がなく思えるようになってきた自分に気付きます。さあ次はどんな弾丸ツアーを組み立てることやらです♪
今回もまた超長文にお付き合い頂きまして誠にありがとうございました。これにて〝≪2017.Aug≫ヘタレあみんちゅ弾丸夜行バスの旅山口・広島~後編夏の広島編~〟は終わります。なお途中で『文字制限』に引っ掛かることが判明し、広島平和記念資料館の件を別に記述し直しました。文章がの繋がりがわかり辛くて申し訳ありません。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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アストラムライン本通駅に到着しました。目的地である旧日本銀行広島支店のある袋町までは広島電鉄で一駅なので、勿論歩きます♪
本通駅 駅
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歩いてすぐ旧日本銀行広島支店の建物に到着します。
原爆被害を耐え抜いた建物です。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん旧日本銀行広島支店 名所・史跡
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小一時間かけて見学し終えました。館外へとでると閉館時刻の17:00となります。
原爆被害を耐え抜いた建物です。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん旧日本銀行広島支店 名所・史跡
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袋町電停で被爆電車651番車両と遭遇しました。隣の中電前バス停付近で被爆し、一人の乗客を除いた80名の乗員乗客が死亡し、車両は脱線して反転した状態で半焼しました。初めてであったのが旧日本銀行広島支店前出会ったことに何か因果めいたものを感じます…。
袋町停留場 駅
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広島電鉄袋町電停にて、新旧車両のコラボレーション♪
袋町停留場 駅
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袋町電停から見た旧日本銀行広島支店。
袋町停留場 駅
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爆心地へとやって来ました。
原子爆弾〝リトルボーイ〟が上空で炸裂しました…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん爆心地 名所・史跡
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そして原爆ドーム…。
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原爆投下の目標となった相生橋…。
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相生橋の欄干…。
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勤労学徒慰霊塔…。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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元安橋…。
元安橋 名所・史跡
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平和記念公園レストハウス。やはり被爆建物です…。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へとやって来ました。
原爆犠牲者の名前と遺影・・・。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 美術館・博物館
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国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の入り口にあるモニュメント。8時15分を指しています…。
そしてモニュメントとたかティムさん。原爆犠牲者の名前と遺影・・・。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 美術館・博物館
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原爆死没者慰霊碑・平和の池・平和の灯火…。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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原爆死没者慰霊碑・平和の池、そしてたかティム…。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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広島原爆平和記念資料館へとやって来ました。
広島平和記念資料館 美術館・博物館
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なので自撮りを楽しみます…。
広島平和記念資料館 美術館・博物館
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失敗なき投下のために模擬爆弾(パンプキン爆弾)が各都市に投下されました…。
広島平和記念資料館 美術館・博物館
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E=mc2、アインシュタインが原爆開発をルーズベルトに打診したというのは解釈次第のようです・・・。
広島平和記念資料館 美術館・博物館
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イチオシ
『原爆の子』のモデルである佐々木貞子さんが病床で折った『千羽鶴』。1,300羽もの鶴を折りましたが12歳で帰らぬ人となりました…。
広島平和記念資料館 美術館・博物館
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今回の旅の『見学箇所』はすべて回り切りました。
広島平和記念資料館 美術館・博物館
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平和大橋から広島の夜景を楽しみます。
平和大橋 名所・史跡
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広島県農業会原爆物故者慰霊碑。
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広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑。
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原爆犠牲ヒロシマの碑。
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原爆犠牲建設労働者・職人之碑。
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平和祈念碑。
平和大橋から元安橋まで行く際の緑地帯に緑地帯に建立されている平和記念碑は、原爆被害者の慰霊碑ではありません。昭和57(1982)年に長崎県を襲った記録的豪雨の被害に対し、広島西ライオンズクラブが長崎西ライオンズクラブに義援金を送りました。それをきっかけに両者が姉妹縁組をし、それを記念して広島・長崎両市に『平和記念碑』を建立することがまとまり、昭和59(1984)6月20日に建立されました。
石板の左右には『全人類の恒久平和のシンボルとして被爆の体験をもつ姉妹都市広島と長崎の両クラブがこの碑を建立する』旨の碑文が和文・英文で書かれています。
同じ被爆体験を持つ両市に於いて、そのことを忘れないようにとの願いのもとで建立されたものであって、原爆による犠牲者を直接慰霊するものとは『建立目的』が少し異なります。ただ平和を願うという祈念は、被爆都市ならではの想いがあり、それに基づいて建立されたことは、誰もが理解できることだと思います。
付近一帯にある慰霊碑と混同されているものもあるので、あくまで建立意図は知っておいて損をすることではないように思いました。原爆犠牲者の慰霊碑ではありません。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和祈念碑 名所・史跡
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前元安橋(被爆した)の中柱。
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旅行貯金とフィルムを発送するために郵便局を訪れます。
広島中(ひろしまなか)郵便局【ATMホリデーサービス実施店】
〒730-0011 広島県広島市中区基町6-36
TEL:082-222-1314 -
あぁぁぁぁぁぁ~!お・み・や・げぇぇぇぇぇぇ…。
4・5月とも駅界隈のお店が閉まっていたため購入できず…。三度目の正直となるところでしたが、広島中郵便局の隣は『広島そごう』。閉店4分前に駆け込んで定番の『もみじ饅頭』を購入しました。ちなみに広島バスセンターの『にしき堂』は20:30迄営業しています。しかし現金のみの取り扱いです。そごう広島店の三階と地下一階です。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さんにしき堂 そごう広島店 グルメ・レストラン
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営業時間を終えたそごう広島店。
そごう (広島店) 百貨店・デパート
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お土産買えたと安心したらお腹が減っていることに気付きます。そごう広島店近くの『松屋広島紙屋町店』で『おろし牛めし大盛』をオーダー。オイシカッタ♪
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再び平和記念公園へと戻って来ました。鈴木三重吉文学碑。
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夜の原爆ドーム。
原爆ドーム 名所・史跡
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相生橋から見たライトアップされた原爆ドーム。
相生橋 名所・史跡
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平和の時計塔。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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原爆供養塔。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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韓国人原爆犠牲者慰霊碑。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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平和乃観音像(中島本町町民慰霊碑)。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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原爆の子の像。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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原爆の子の像。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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原爆の子の像。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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被爆した墓石(慈仙寺跡の墓石)。
被爆の生き証人です。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん被爆した墓石 (慈仙寺跡の墓石) 名所・史跡
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本川橋。
被爆になんとか耐えました…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん本川橋 名所・史跡
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元安橋から見た原爆ドーム。
元安橋 名所・史跡
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慰霊碑のひとつ…。
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義勇隊の碑。
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広島二中原爆慰霊碑。
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広島市商・造船工業学校慰霊碑。
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西平和大橋。
西平和大橋 名所・史跡
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原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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平和の像 若葉(湯川秀樹歌碑)。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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嵐の中の母子像。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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平和記念ポスト。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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平和の塔。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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マルセル・ジュノー博士記念碑。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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ノーマン・カズンズ氏記念碑。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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バーバラ・レイノルズ氏記念碑。
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広島市立高女原爆慰霊碑。
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被爆動員学徒慰霊慈母観音像。
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平和大橋(西詰)。
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平和大橋(東詰)。
平和大橋 名所・史跡
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全損保の碑。
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被爆したアオギリ、その①。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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被爆したアオギリ、その②。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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被爆したアオギリ、その③。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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被爆したアオギリ、その④。
被爆死した韓国人犠牲者を祀っていますが…。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん平和記念公園 公園・植物園
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最後に相生橋からの原爆ドーム。
相生橋 名所・史跡
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ウィラーバス八丁堀バス停へと向かうのに『紙屋町シャレオ』の地下通路を通ります。
紙屋町シャレオ 市場・商店街
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少し迷いましたが無事広島八丁堀バス停に到着しました。
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歩き疲れてヘロヘロのたかティムさん。
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京都行きウィラーエクスプレスのバスが入線します。
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ウィラーエクスプレス広島八丁堀バス停。
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バスとバス停、そしてたかティムさん。
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帰りのバスチケット。クーポンを使って5,600円でした♪
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バスとたかティムさんのツーショット♪
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帰りはコモドシートの9C席。
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見辛いですがシートピッチ(実際利用時)。
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リラックスワイドよりもは広いです♪
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広島大学を経由し、小谷サービスエリアで休憩です。
喫煙所にダッシュです! -
色々色ありそうですが、時間もありません・・・。
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小谷サービスエリア停車中のウィラーエクスプレスバス。どうやら車番が(行きと)一緒のようです♪
高速バス (ウィラートラベル) 乗り物
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祇園四条駅バス停に到着しました。どうやらドライバーさんもお一人同じだったようです。お世話になりました~♪
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三条京阪迄歩いて地下鉄東西線に乗車します。
三条京阪駅 駅
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京阪車両800系は空いていました。
四宮駅 駅
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浜大津で乗り換えです。
びわ湖浜大津駅 駅
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今も昔も京阪電鉄主要駅の浜大津。
びわ湖浜大津駅 駅
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ラストランは京阪電鉄600系車両です。
びわ湖浜大津駅 駅
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田舎のローカル線車内(笑)。
中ノ庄駅 駅
-
終点の京阪石山寺に到着します。
石山寺駅 駅
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空き缶入れが邪魔ですね~。
石山寺駅 駅
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京阪石山寺駅駅名標。
石山寺駅 駅
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久しぶりの京阪石山寺駅の利用でした♪
石山寺駅 駅
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この旅行記へのコメント (1)
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- 横浜臨海公園さん 2017/10/01 11:53:08
- パンプキン模擬爆弾
- たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さま、こんにちは。
旅行記2作拝見させて頂きました。
小生、広島を初めて訪れたのは昭和59年(1984年)10月でしたが、当時と比較して、被爆建築物が焼損建築である事で維持困難を理由に解体が進み、残存建築物の少なさに事情が事情とは申せ残念に思っております。
ところで、表紙説明文に7月30日に石山の東洋レーヨン工場に模擬爆弾が投下され死傷者多数とのコメントがございましたが、実は此の日に、爆撃機B29を護衛していた艦載機25機が、帰路、守山駅停車中の大阪発沼津行上り普通列車を発見し、機銃掃射攻撃をした結果、旅客即死11名、重軽傷者多数を出す惨事が発生しております。
民間人が被災したにも拘らず、但し、該機銃掃射被害記録が地元滋賀県内には無いのが意外に感じられました。
横浜臨海公園
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