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来年、明治維新から150年。<br />150年前、米使ペリーの乗った黒船は、遠く離れた山口の若者たちを突き動かした.<br />日本の明治以降を作った若者たちの結束の原点はどこにあったのか?<br /><br />山陰の私塾にすぎない松下村塾で学んだ若者が、明治の日本の骨格を作った。その源流を探るため山口県の萩、長門、下関を訪ねた<br /><br />久々のチャーターバスで、仲間15人での史跡ツアー。3日間案内してくれたバスガイドさんは、客の懐に入りこみ、ツアーを飽きないものにしてくれた。それにしても、随所に出てくる話題は、大河ドラマとバラエティ番組に取り上げられたことが多く、テレビが観光に大きな影響を与えているようだ。

明治維新から149年、幕末の志士たちの故郷をめぐる3日間①

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2017/05/26 - 2017/05/28

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来年、明治維新から150年。
150年前、米使ペリーの乗った黒船は、遠く離れた山口の若者たちを突き動かした.
日本の明治以降を作った若者たちの結束の原点はどこにあったのか?

山陰の私塾にすぎない松下村塾で学んだ若者が、明治の日本の骨格を作った。その源流を探るため山口県の萩、長門、下関を訪ねた

久々のチャーターバスで、仲間15人での史跡ツアー。3日間案内してくれたバスガイドさんは、客の懐に入りこみ、ツアーを飽きないものにしてくれた。それにしても、随所に出てくる話題は、大河ドラマとバラエティ番組に取り上げられたことが多く、テレビが観光に大きな影響を与えているようだ。

同行者
友人
一人あたり費用
10万円 - 15万円
交通手段
観光バス 新幹線
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
JTB

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  • 初めて降りる駅には興味もある。今回はこの駅に名古屋と福岡から総勢15人が集合。新山口はもともと小郡駅だったという。<br />久々にバスをチャーターして山口県内の維新の源流をめぐる旅が始まった。

    初めて降りる駅には興味もある。今回はこの駅に名古屋と福岡から総勢15人が集合。新山口はもともと小郡駅だったという。
    久々にバスをチャーターして山口県内の維新の源流をめぐる旅が始まった。

    新山口駅

  • 駅前にある山頭火の像。<br />種田山頭火 本名 種田正一 <br />たねださんとうか               

    駅前にある山頭火の像。
    種田山頭火 本名 種田正一 
    たねださんとうか               

    種田山頭火像 名所・史跡

  • 昭和の芭蕉と言われた種田山頭火。<br />山口県 現防府市 出身 明治15年生まれ<br /><br />『まったく雲がない笠をぬぎ』の句は、昭和5年に旅の途中、晴天の下で、網代笠をとり、ひと休みしたときに詠んだという<br />

    昭和の芭蕉と言われた種田山頭火。
    山口県 現防府市 出身 明治15年生まれ

    『まったく雲がない笠をぬぎ』の句は、昭和5年に旅の途中、晴天の下で、網代笠をとり、ひと休みしたときに詠んだという

    種田山頭火句碑 名所・史跡

  • 最初に尋ねたのは山口市の保寧山<br />瑠璃光寺は、曹洞宗の寺院で、本尊は薬師如来。<br />室町時代、大内氏25代の大内義弘が現在の場所に香積寺を建立したが、義弘は応永6年(1399年)に応永の乱を起こし足利義満に敗れて戦死した。

    最初に尋ねたのは山口市の保寧山
    瑠璃光寺は、曹洞宗の寺院で、本尊は薬師如来。
    室町時代、大内氏25代の大内義弘が現在の場所に香積寺を建立したが、義弘は応永6年(1399年)に応永の乱を起こし足利義満に敗れて戦死した。

    国宝瑠璃光寺五重塔 寺・神社・教会

  • 五重塔は国宝。屋外にある五重塔としては日本で10番目に古く、京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つに数えられることもある。<br />大内文化の最高傑作といわれる。<br />室町時代、嘉吉2年(1442年)頃の建立。

    五重塔は国宝。屋外にある五重塔としては日本で10番目に古く、京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つに数えられることもある。
    大内文化の最高傑作といわれる。
    室町時代、嘉吉2年(1442年)頃の建立。

    国宝瑠璃光寺五重塔 寺・神社・教会

  • 守護大名、大内広世の銅像。顔がのっぺりしている

    守護大名、大内広世の銅像。顔がのっぺりしている

    瑠璃光寺 寺・神社・教会

  • まっすぐ本堂に続く参道が、観光名所になっている。外国人の姿が多く、日本の寺院は観光施設として多くの観光客をひきつける。

    まっすぐ本堂に続く参道が、観光名所になっている。外国人の姿が多く、日本の寺院は観光施設として多くの観光客をひきつける。

    瑠璃光寺 寺・神社・教会

  • 山門の前で、自撮り棒で写真を撮ったり、集合写真を撮ったり。格好の撮影スポットになっている

    山門の前で、自撮り棒で写真を撮ったり、集合写真を撮ったり。格好の撮影スポットになっている

    瑠璃光寺 寺・神社・教会

  • 瑠璃光寺の歴史は毛利氏以前に中国地方を支配していた大内氏ゆかりのお寺である香積寺にさかのぼる。<br /><br />大内氏25代の大内義弘が現在の場所に香積寺を建立。応仁の乱で敗れた大内義弘の菩提をともらうため五重塔が建てられた。毛利輝元により香積寺が萩に移った後、大内氏の守護代、陶広房の婦人が夫の菩提をとむらうため建てた仁保瑠璃光寺を移転したという複雑な歴史を持っている。

    瑠璃光寺の歴史は毛利氏以前に中国地方を支配していた大内氏ゆかりのお寺である香積寺にさかのぼる。

    大内氏25代の大内義弘が現在の場所に香積寺を建立。応仁の乱で敗れた大内義弘の菩提をともらうため五重塔が建てられた。毛利輝元により香積寺が萩に移った後、大内氏の守護代、陶広房の婦人が夫の菩提をとむらうため建てた仁保瑠璃光寺を移転したという複雑な歴史を持っている。

    瑠璃光寺 寺・神社・教会

  • 幕末を探訪する。この寺院を訪れた理由はここにあった。<br /><br />枕流亭 - 薩長連合結成の密議のため、薩摩の小松帯刀や西郷隆盛などが山口を訪れた際に当時道場門前にあった枕流亭で長州方と面会した。その後何度か移築され、近年香山公園内に移築された。

    幕末を探訪する。この寺院を訪れた理由はここにあった。

    枕流亭 - 薩長連合結成の密議のため、薩摩の小松帯刀や西郷隆盛などが山口を訪れた際に当時道場門前にあった枕流亭で長州方と面会した。その後何度か移築され、近年香山公園内に移築された。

    枕流亭 名所・史跡

  • 五重塔のあるこの公園は香山(こうざん)公園という市民の憩いの場になっている広大な公園。その一角にこの枕流亭がある。小さな一軒家だが、その役割は大きなものがあった。<br />薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、長州藩の木戸孝允、伊藤博文らによる倒幕の密議が交わされた場所とされ、ここでの合意が倒幕運動につながった

    五重塔のあるこの公園は香山(こうざん)公園という市民の憩いの場になっている広大な公園。その一角にこの枕流亭がある。小さな一軒家だが、その役割は大きなものがあった。
    薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、長州藩の木戸孝允、伊藤博文らによる倒幕の密議が交わされた場所とされ、ここでの合意が倒幕運動につながった

    枕流亭 名所・史跡

  • 山口市維新史跡の地図も用意されている

    山口市維新史跡の地図も用意されている

    瑠璃光寺資料館 美術館・博物館

  • わが一行も好天のもと散策。<br />

    わが一行も好天のもと散策。

    瑠璃光寺 寺・神社・教会

  • 山口県名物は瓦そば。1961年(昭和36年)に山口県の川棚温泉で旅館を営む高瀬慎一が宿泊者向けの料理として開発したとされる、日本テレビのケンミンショーでも取り上げられた。<br />バスガイドによれば、何か変わった名物でもということで発案されたという。<br />熱した瓦に茶そばと具材(牛肉、薄焼き玉子など)が乗っていて、温かい麺つゆでつけ麺のように食す。瓦はかなり高温のため、次第に麺がパリパリになり、食感の変化も楽しめる。いわば、茶そばの焼きそば。

    山口県名物は瓦そば。1961年(昭和36年)に山口県の川棚温泉で旅館を営む高瀬慎一が宿泊者向けの料理として開発したとされる、日本テレビのケンミンショーでも取り上げられた。
    バスガイドによれば、何か変わった名物でもということで発案されたという。
    熱した瓦に茶そばと具材(牛肉、薄焼き玉子など)が乗っていて、温かい麺つゆでつけ麺のように食す。瓦はかなり高温のため、次第に麺がパリパリになり、食感の変化も楽しめる。いわば、茶そばの焼きそば。

    長州苑 本館【瑠璃光寺五重塔前】 グルメ・レストラン

  • 一緒に出てきた押しずしは岩国ずしといわれるやはり名物料理。<br />岩国ずしは、別名「殿様寿司」ともいわれ、岩国藩主・吉川広家(きっかわひろいえ)の命令により、戦争中の保存食として考えられた押し寿司。<br />一見チラシ寿司のようだが、一度に4~5升をつけ込む豪快さと、炊きあがったご飯に名産のレンコンと、サワラ、アジなどの生魚の身をほぐして混ぜ込む作り方が特徴というだけに、一個当たりのボリューム満点。瓦そばとともに食して、とても食べきれなかった。

    一緒に出てきた押しずしは岩国ずしといわれるやはり名物料理。
    岩国ずしは、別名「殿様寿司」ともいわれ、岩国藩主・吉川広家(きっかわひろいえ)の命令により、戦争中の保存食として考えられた押し寿司。
    一見チラシ寿司のようだが、一度に4~5升をつけ込む豪快さと、炊きあがったご飯に名産のレンコンと、サワラ、アジなどの生魚の身をほぐして混ぜ込む作り方が特徴というだけに、一個当たりのボリューム満点。瓦そばとともに食して、とても食べきれなかった。

    長州苑 本館【瑠璃光寺五重塔前】 お土産屋・直売所・特産品

  • 昼食後に向かったのは常栄寺。瑠璃光寺から10分ほどのところにある。<br />大内氏29代政弘が室町時代中頃に画聖雪舟に命じて、築庭したものといわれているが、文献などに雪舟の築造を確かめるものはなく、あくまでも伝説とされている。<br />庭園は無染池(心字池)を有し、室町時代の枯山水石庭の典型的なもので簡素にして、豪放なたたずまいを見せている。(山口県観光ガイドから)

    昼食後に向かったのは常栄寺。瑠璃光寺から10分ほどのところにある。
    大内氏29代政弘が室町時代中頃に画聖雪舟に命じて、築庭したものといわれているが、文献などに雪舟の築造を確かめるものはなく、あくまでも伝説とされている。
    庭園は無染池(心字池)を有し、室町時代の枯山水石庭の典型的なもので簡素にして、豪放なたたずまいを見せている。(山口県観光ガイドから)

    常栄寺雪舟庭 寺・神社・教会

  • 非常に手入れが行き届いた庭園で、観光客の数を考えると維持が大変だろうと、思わざるを得ないほど。

    非常に手入れが行き届いた庭園で、観光客の数を考えると維持が大変だろうと、思わざるを得ないほど。

    常栄寺 寺・神社・教会

  • 庭園越しには新緑の景色が広がる。この環境は都会では得難い。高い建物がなく、澄んだ空気と濃い緑が、旅情を掻き立ててくれる。

    庭園越しには新緑の景色が広がる。この環境は都会では得難い。高い建物がなく、澄んだ空気と濃い緑が、旅情を掻き立ててくれる。

    常栄寺 寺・神社・教会

  • 庭園の中の池は、モリアオガエルの繁殖地として、天然記念物に指定されている。2週間ほど前なら、池の上の木の葉に産み付けられた卵が池に落ちるところも見ることができた多も知れない。<br />すでに水の中でカエル目前の姿で泳いでいた。

    庭園の中の池は、モリアオガエルの繁殖地として、天然記念物に指定されている。2週間ほど前なら、池の上の木の葉に産み付けられた卵が池に落ちるところも見ることができた多も知れない。
    すでに水の中でカエル目前の姿で泳いでいた。

    常栄寺雪舟庭 寺・神社・教会

  • モリアオガエルは、日本固有種で、樹上に産卵する珍しい大型のカエル。<br />日本においては、ほぼ本州全域に生息しているが、山口県はその分布の西限。<br />常栄寺の四明池は、環境が安定していて、毎年5月~7月の繁殖期に、合計100個以上の卵塊が観察できるモリアオガエル繁殖地がある。<br />卵塊の数から、この池の周辺に数百匹のモリアオガエルが生息すると推測されるとのこと。

    モリアオガエルは、日本固有種で、樹上に産卵する珍しい大型のカエル。
    日本においては、ほぼ本州全域に生息しているが、山口県はその分布の西限。
    常栄寺の四明池は、環境が安定していて、毎年5月~7月の繁殖期に、合計100個以上の卵塊が観察できるモリアオガエル繁殖地がある。
    卵塊の数から、この池の周辺に数百匹のモリアオガエルが生息すると推測されるとのこと。

    常栄寺雪舟庭 寺・神社・教会

  • 庭側から外を見る。

    庭側から外を見る。

    常栄寺 寺・神社・教会

  • 雪舟庭のある常栄寺の駐車場横にある二蕉庵紫香(本名鎌田三伯)の辞世を刻み大正九年門弟により建てられたものである。その履歴は明らかでないが山口に来往したのは日露戦争のころで、近隣の青年男女に、漢籍や俳句をおしえ多くの人々から敬愛された。

    雪舟庭のある常栄寺の駐車場横にある二蕉庵紫香(本名鎌田三伯)の辞世を刻み大正九年門弟により建てられたものである。その履歴は明らかでないが山口に来往したのは日露戦争のころで、近隣の青年男女に、漢籍や俳句をおしえ多くの人々から敬愛された。

    常栄寺 寺・神社・教会

  • 紫香は幕臣として江戸に生まれた漢方医であったといわれ、宮の近隣の青年男女に漢籍や俳句を教えて、多くの人々から敬愛され、大正8年に近くの寓居で没した。行年80歳。“もみじして 落葉して 呵々 朽ば哉”の句碑は翌年門弟により辞世を刻んだものである。

    紫香は幕臣として江戸に生まれた漢方医であったといわれ、宮の近隣の青年男女に漢籍や俳句を教えて、多くの人々から敬愛され、大正8年に近くの寓居で没した。行年80歳。“もみじして 落葉して 呵々 朽ば哉”の句碑は翌年門弟により辞世を刻んだものである。

    常栄寺 寺・神社・教会

  • 山口市から萩市に入り、萩博物館に。<br />駐車場から博物館に至る道中の最初の建物は隅櫓。城下町らしいたたずまい。

    山口市から萩市に入り、萩博物館に。
    駐車場から博物館に至る道中の最初の建物は隅櫓。城下町らしいたたずまい。

    萩博物館 美術館・博物館

  • 萩市の中心にある萩博物館。<br />敷地が旧萩城三の丸にあたる堀内伝統的建造物群保存地区内にあることから、建物の配置や外観はかつてこの地区内にあった規模の大きい武家屋敷同様の作り。<br />萩博物館本体の構造は鉄筋コンクリート造ではあるものの、軒先には木材を使用し、外壁は漆喰壁、なまこ壁、杉板下見張り壁で、伝統的建造物群保存地区にあって違和感のないよう配慮している。(萩市観光案内から)

    萩市の中心にある萩博物館。
    敷地が旧萩城三の丸にあたる堀内伝統的建造物群保存地区内にあることから、建物の配置や外観はかつてこの地区内にあった規模の大きい武家屋敷同様の作り。
    萩博物館本体の構造は鉄筋コンクリート造ではあるものの、軒先には木材を使用し、外壁は漆喰壁、なまこ壁、杉板下見張り壁で、伝統的建造物群保存地区にあって違和感のないよう配慮している。(萩市観光案内から)

    萩博物館 美術館・博物館

  • 萩市は日本有数の夏ミカンの産地。萩は長年長州藩の政治経済の中心地として栄えた城下町。ところが文久3年(1863年)に藩主が萩から山口に移ったため、藩経済に依存していた萩の町民は侍が流出して大打撃を受けた。<br />更に明治政府樹立後の士族の給禄奉還が、萩に残された武士の苦境に追い討ちをかけ、その不満で明治9年の萩の乱勃発の要因となった。 <br />そんな折、新政府の要職を歴任した小幡高政が萩に帰郷し、困窮した士族を救済するため、夏橙を植栽しようと、明治9年に種を蒔き、明治11年に苗木を士族達に配布。明治22年には、夏みかんの果実と苗木の収益が当時の萩町の財政を追い越すまでになった。

    萩市は日本有数の夏ミカンの産地。萩は長年長州藩の政治経済の中心地として栄えた城下町。ところが文久3年(1863年)に藩主が萩から山口に移ったため、藩経済に依存していた萩の町民は侍が流出して大打撃を受けた。
    更に明治政府樹立後の士族の給禄奉還が、萩に残された武士の苦境に追い討ちをかけ、その不満で明治9年の萩の乱勃発の要因となった。
    そんな折、新政府の要職を歴任した小幡高政が萩に帰郷し、困窮した士族を救済するため、夏橙を植栽しようと、明治9年に種を蒔き、明治11年に苗木を士族達に配布。明治22年には、夏みかんの果実と苗木の収益が当時の萩町の財政を追い越すまでになった。

    萩博物館 美術館・博物館

  • 博物館を取り囲むなまこ壁の長い囲い。落ち着いたたたずまいが、ここがかつて栄えた城下町であり、その中でも上級武士が住んでいたことを想起させる街並みとなっている。高い建物のない萩市だけに、こうした塀も自然に溶け込んでいる<br />

    博物館を取り囲むなまこ壁の長い囲い。落ち着いたたたずまいが、ここがかつて栄えた城下町であり、その中でも上級武士が住んでいたことを想起させる街並みとなっている。高い建物のない萩市だけに、こうした塀も自然に溶け込んでいる

    萩博物館 美術館・博物館

  • 博物館のあと、萩焼の窯元、泉流山/吉賀大眉記念館を回り、ぐい飲みや花瓶など思い思いに買い込み、今日の宿へ。川沿いの趣のある宿。玄関から部屋までの通路わきには手入れされた庭園が広がり、各部屋からも庭園が眺められる。なんとも趣のある旅館だった。萩の宿・常茂恵の夕食は女将の挨拶から始まった

    博物館のあと、萩焼の窯元、泉流山/吉賀大眉記念館を回り、ぐい飲みや花瓶など思い思いに買い込み、今日の宿へ。川沿いの趣のある宿。玄関から部屋までの通路わきには手入れされた庭園が広がり、各部屋からも庭園が眺められる。なんとも趣のある旅館だった。萩の宿・常茂恵の夕食は女将の挨拶から始まった

    萩温泉郷 萩の宿・常茂恵 宿・ホテル

    歴史と雰囲気のある名旅館 by ワイン好きさん
  • 工夫を凝らした料理と地元の銘酒が上品な味付けとよく合う。一つ一つに名前のある季節の食材を生かした料理は、日本料理らしくまさに目でも楽しめる。

    工夫を凝らした料理と地元の銘酒が上品な味付けとよく合う。一つ一つに名前のある季節の食材を生かした料理は、日本料理らしくまさに目でも楽しめる。

    萩温泉郷 萩の宿・常茂恵 宿・ホテル

    歴史と雰囲気のある名旅館 by ワイン好きさん
  • 萩らしく、フクの天ぷら。油で揚げてしまうとフグらしさがなくなってしまうような気もするが、普段、こんなメニューに出会うことはなく、全体的に上品な味わいを占めるにはふさわしい。

    萩らしく、フクの天ぷら。油で揚げてしまうとフグらしさがなくなってしまうような気もするが、普段、こんなメニューに出会うことはなく、全体的に上品な味わいを占めるにはふさわしい。

    萩温泉郷 萩の宿・常茂恵 宿・ホテル

    歴史と雰囲気のある名旅館 by ワイン好きさん
  • 夕食から12時間後にはこんな豪華な朝食。それぞれが地元の食材。さすがに地元の名旅館。丁寧な仕事で作られた朝食に一同感激。それにしても前夜からのこの朝食は、いささか重い。

    夕食から12時間後にはこんな豪華な朝食。それぞれが地元の食材。さすがに地元の名旅館。丁寧な仕事で作られた朝食に一同感激。それにしても前夜からのこの朝食は、いささか重い。

    萩温泉郷 萩の宿・常茂恵 宿・ホテル

    歴史と雰囲気のある名旅館 by ワイン好きさん
  • 一宿二飯、お世話になった宿を朝9時前に出発。萩市内をめぐるツアーに出かける

    一宿二飯、お世話になった宿を朝9時前に出発。萩市内をめぐるツアーに出かける

    萩温泉郷 萩の宿・常茂恵 宿・ホテル

    歴史と雰囲気のある名旅館 by ワイン好きさん
  • 駐車場から伊藤博文の旧宅に歩く。最初に目に入るのがこの像。実物大というから、伊藤博文はかなり小柄だったことがわかる。<br />藩の費用で海外留学も果たした博文は、英語力を買われてその後首相にものぼりつめる。<br />かつての政治家に共通するのは艶福家だったこと。ガイドさんも、伊藤博文が女性好きだったことを話してくれた。<br />最初の結婚はごく短期間で、本人が見初めた女性を妻にして、その女性の懐の深さが伊藤博文を支えたという。ガイドさんも、今は見られなくなった豪放磊落な政治家について、待望しているような話し方が印象的だ。

    駐車場から伊藤博文の旧宅に歩く。最初に目に入るのがこの像。実物大というから、伊藤博文はかなり小柄だったことがわかる。
    藩の費用で海外留学も果たした博文は、英語力を買われてその後首相にものぼりつめる。
    かつての政治家に共通するのは艶福家だったこと。ガイドさんも、伊藤博文が女性好きだったことを話してくれた。
    最初の結婚はごく短期間で、本人が見初めた女性を妻にして、その女性の懐の深さが伊藤博文を支えたという。ガイドさんも、今は見られなくなった豪放磊落な政治家について、待望しているような話し方が印象的だ。

    伊藤博文旧宅 名所・史跡

  • 伊藤博文は吉田松陰に学び、倒幕運動に参加。のち明治憲法立案に当たる。<br />明治18年(1885)内閣制度を創設、初代総理大臣となった。<br />枢密院・貴族院の初代議長を歴任。立憲政友会を組織し、総裁に就任。日露戦争後、初代韓国統監となったが、ハルビンで韓国の独立運動家安重根に暗殺された。

    伊藤博文は吉田松陰に学び、倒幕運動に参加。のち明治憲法立案に当たる。
    明治18年(1885)内閣制度を創設、初代総理大臣となった。
    枢密院・貴族院の初代議長を歴任。立憲政友会を組織し、総裁に就任。日露戦争後、初代韓国統監となったが、ハルビンで韓国の独立運動家安重根に暗殺された。

    伊藤公資料館【伊藤公記念公園】 美術館・博物館

  • 伊藤博文は嘉永2年(1849)9歳の時に萩に移り、安政4年17歳の時に松下村塾に入門。吉田松陰は、久坂玄瑞宛ての書状で「利助(博文)亦進む、中々周旋家になりそうな」と、また別の書状では「才劣り学幼きも、質直にして華なし、僕頗(すこぶ)るこれを愛す」と後の伊藤博文を評した。その後、松下村塾で出会った木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞らと交わり、文久2年(1862)には久坂とともに公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策、品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ち、するなど尊皇攘夷の志士として活躍した。

    伊藤博文は嘉永2年(1849)9歳の時に萩に移り、安政4年17歳の時に松下村塾に入門。吉田松陰は、久坂玄瑞宛ての書状で「利助(博文)亦進む、中々周旋家になりそうな」と、また別の書状では「才劣り学幼きも、質直にして華なし、僕頗(すこぶ)るこれを愛す」と後の伊藤博文を評した。その後、松下村塾で出会った木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞らと交わり、文久2年(1862)には久坂とともに公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策、品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ち、するなど尊皇攘夷の志士として活躍した。

    伊藤公資料館【伊藤公記念公園】 美術館・博物館

  • 1863年。江戸幕府の末期、国内で外国人を排斥するべきだという攘夷運動が活発化する中、長州藩から5人の若者が「幕府に知られれば死罪」 という国禁を犯してまでイギリスに密航した。この5人の日本人を当時のイギリス人が”Choshu Five”と呼び「長州五傑」はその訳語である。そしてその5人こそが、欧米列強に飲み込まれそうになっていた日本を立て直し、そしてその新しい日本が世 界と渡り合えるような大国へと成長するための基盤を築いた男たちであった。<br /><br />5人の傑物は<br />伊藤博文(当時22歳)<br />初代内閣総理大臣に就任、大日本帝国憲法として発布し、日本を立憲主義国家に導き政治を確立。<br />井上馨(当時28歳)<br />初代外務大臣に就任、政治的・経済的に欧米列強国と並ぶために不平等条約改正に尽力。<br />井上勝(当時20歳)<br />イギリスで鉄道や鉱山学を学び、帰国後鉄道頭に従事、メイドインジャパンに拘り日本人だけの力による鉄道建設を実現。<br />山尾庸三(当時26歳)<br />見習工として働きながら科学を学び造船技術を習得。帰国後、国力強化を目指す人材育成の必要性を主張し、世界初の工学部の前身となった工部大学校設立。<br />遠藤謹助(当時27歳)<br />大蔵省に入った後、大阪貨幣局長となり、造幣技術者の養成を通じ日本人技師の力による造幣を確立。<br /><br />同じ時期にこうした人が1か所に集結していたこと自体がすごいこと

    1863年。江戸幕府の末期、国内で外国人を排斥するべきだという攘夷運動が活発化する中、長州藩から5人の若者が「幕府に知られれば死罪」 という国禁を犯してまでイギリスに密航した。この5人の日本人を当時のイギリス人が”Choshu Five”と呼び「長州五傑」はその訳語である。そしてその5人こそが、欧米列強に飲み込まれそうになっていた日本を立て直し、そしてその新しい日本が世 界と渡り合えるような大国へと成長するための基盤を築いた男たちであった。

    5人の傑物は
    伊藤博文(当時22歳)
    初代内閣総理大臣に就任、大日本帝国憲法として発布し、日本を立憲主義国家に導き政治を確立。
    井上馨(当時28歳)
    初代外務大臣に就任、政治的・経済的に欧米列強国と並ぶために不平等条約改正に尽力。
    井上勝(当時20歳)
    イギリスで鉄道や鉱山学を学び、帰国後鉄道頭に従事、メイドインジャパンに拘り日本人だけの力による鉄道建設を実現。
    山尾庸三(当時26歳)
    見習工として働きながら科学を学び造船技術を習得。帰国後、国力強化を目指す人材育成の必要性を主張し、世界初の工学部の前身となった工部大学校設立。
    遠藤謹助(当時27歳)
    大蔵省に入った後、大阪貨幣局長となり、造幣技術者の養成を通じ日本人技師の力による造幣を確立。

    同じ時期にこうした人が1か所に集結していたこと自体がすごいこと

    伊藤公資料館【伊藤公記念公園】 美術館・博物館

  • 幕末の変のルーツとも言え、その後の日本の政治に大きな影響を与えた松下村塾。その塾で指導した吉田松陰をまつった神社がこの松陰神社。<br />吉田松陰(1830年~1859年)<br />江戸時代末期の志士、長州藩士、思想家、教育者、兵学者。明治維新の精神的指導者。<br /><br />安政の大獄で処刑されてこの世を去ったのが29歳。そこまでに残した功績を考えると年齢や経験だけでは人の価値は図れないことがよくわかる。

    幕末の変のルーツとも言え、その後の日本の政治に大きな影響を与えた松下村塾。その塾で指導した吉田松陰をまつった神社がこの松陰神社。
    吉田松陰(1830年~1859年)
    江戸時代末期の志士、長州藩士、思想家、教育者、兵学者。明治維新の精神的指導者。

    安政の大獄で処刑されてこの世を去ったのが29歳。そこまでに残した功績を考えると年齢や経験だけでは人の価値は図れないことがよくわかる。

    松陰神社 寺・神社・教会

  • 吉田松陰は1850年、西洋兵学を学ぶために九州に遊学。その後、江戸に出て佐久間象山に師事。吉田松陰は、友人と東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩の通行手形の発行を待たず脱藩。1852年、江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受ける。<br /><br />1853年、ペリーの浦賀来航を視察し、西洋の先進文明に心を打たれて外国留学を決意。長崎に寄港していたロシア軍艦に乗り込もうとするも失敗。1854年にペリーが再航した際には伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ赴き、密航を訴えるが拒否される。吉田松陰は、自首し、長州へ檻送され幽囚される。<br /><br />1855年に出獄を許され幽閉処分となる。1857年に叔父の松下村塾の名を引き継ぎ、この松下村塾を開塾した。<br /><br />

    吉田松陰は1850年、西洋兵学を学ぶために九州に遊学。その後、江戸に出て佐久間象山に師事。吉田松陰は、友人と東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩の通行手形の発行を待たず脱藩。1852年、江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受ける。

    1853年、ペリーの浦賀来航を視察し、西洋の先進文明に心を打たれて外国留学を決意。長崎に寄港していたロシア軍艦に乗り込もうとするも失敗。1854年にペリーが再航した際には伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ赴き、密航を訴えるが拒否される。吉田松陰は、自首し、長州へ檻送され幽囚される。

    1855年に出獄を許され幽閉処分となる。1857年に叔父の松下村塾の名を引き継ぎ、この松下村塾を開塾した。

    松下村塾 名所・史跡

  • 松下村塾については、1858年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒。老中の暗殺を計画する。弟子らは反対して同調しなかったため計画は頓挫。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕を持ちかける。結果、松陰は捕らえられ幽囚。その場がこの松下村塾だった。<br /><br />その後、井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。井伊の逆鱗に触れ、1859年に斬刑に処された。享年29歳。

    松下村塾については、1858年、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒。老中の暗殺を計画する。弟子らは反対して同調しなかったため計画は頓挫。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕を持ちかける。結果、松陰は捕らえられ幽囚。その場がこの松下村塾だった。

    その後、井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。井伊の逆鱗に触れ、1859年に斬刑に処された。享年29歳。

    松下村塾 名所・史跡

  • 松下村塾は、吉田松陰が師となり学びの場を作った私塾。当時長州藩には藩校・明倫館があったが、ここはいわば公立の学校で、士族の身分でないと学べないなど、さまざまな制限があった。松下村塾ではこのような制限はなく、士族の他に医者、魚屋などが通い、「学びたい」という意志があればだれでも学べる場だった。実際に吉田松陰がこの地で指導したのはわずか1年ほどだったものの、歴史に残る功績を残した。<br />松下村塾からは高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など、明治維新の原動力となり、また新政府を動かした人材が多数輩出され、その偉人たちの写真が飾られている。

    松下村塾は、吉田松陰が師となり学びの場を作った私塾。当時長州藩には藩校・明倫館があったが、ここはいわば公立の学校で、士族の身分でないと学べないなど、さまざまな制限があった。松下村塾ではこのような制限はなく、士族の他に医者、魚屋などが通い、「学びたい」という意志があればだれでも学べる場だった。実際に吉田松陰がこの地で指導したのはわずか1年ほどだったものの、歴史に残る功績を残した。
    松下村塾からは高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など、明治維新の原動力となり、また新政府を動かした人材が多数輩出され、その偉人たちの写真が飾られている。

    松下村塾 名所・史跡

  • 松陰が幽囚されていた部屋が、そのまま塾となり、次第にそれが狭くなったという。当時、この小さな部屋がどれほどの熱気に包まれていたのか大いに気になる。

    松陰が幽囚されていた部屋が、そのまま塾となり、次第にそれが狭くなったという。当時、この小さな部屋がどれほどの熱気に包まれていたのか大いに気になる。

    吉田松陰幽囚ノ旧宅 名所・史跡

  • 松陰教育の原点となった野山獄に松陰が投獄されてから1年2か月が経ち、野山獄を出た松陰は藩から自宅謹慎を命じられ、実家の杉家に「幽囚」の身として戻る。<br /><br />出獄後、松陰は自宅に設けられた幽囚室で、親族・近隣の者を相手に「孟子」の講義を再開。幽囚室での「孟子」講義は、単なる解説ではなく、松陰独自の解釈で高い評判となり、次第に萩城下に広がっていくこととなる。<br /><br />その頃、松陰の叔父・玉木文之進が開いた松下村塾は、近所で塾を営む久保五郎左衛門が名前を引き継いでいた。松陰の幽囚室での講義に久保五郎左衛門が聴くようになると自然と松陰が塾の主となる。当初は3畳という僅かな幽囚室で行なわれていたものの、受講するものが増え杉家の納屋を塾舎に改修。ここに世に有名な松下村塾が誕生した。その後、松下村塾の存在は萩城下に知れ渡り、萩だけでなく、長州藩全体から才能ある若者達が集うようになった(松下村塾は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた)。

    松陰教育の原点となった野山獄に松陰が投獄されてから1年2か月が経ち、野山獄を出た松陰は藩から自宅謹慎を命じられ、実家の杉家に「幽囚」の身として戻る。

    出獄後、松陰は自宅に設けられた幽囚室で、親族・近隣の者を相手に「孟子」の講義を再開。幽囚室での「孟子」講義は、単なる解説ではなく、松陰独自の解釈で高い評判となり、次第に萩城下に広がっていくこととなる。

    その頃、松陰の叔父・玉木文之進が開いた松下村塾は、近所で塾を営む久保五郎左衛門が名前を引き継いでいた。松陰の幽囚室での講義に久保五郎左衛門が聴くようになると自然と松陰が塾の主となる。当初は3畳という僅かな幽囚室で行なわれていたものの、受講するものが増え杉家の納屋を塾舎に改修。ここに世に有名な松下村塾が誕生した。その後、松下村塾の存在は萩城下に知れ渡り、萩だけでなく、長州藩全体から才能ある若者達が集うようになった(松下村塾は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた)。

    吉田松陰幽囚ノ旧宅 名所・史跡

  • 日本の現代史の1ページを作った部屋はいかにも狭い。ここから、多くの偉人が出てきたことに驚く。

    日本の現代史の1ページを作った部屋はいかにも狭い。ここから、多くの偉人が出てきたことに驚く。

    吉田松陰幽囚ノ旧宅 名所・史跡

  • 幕末の様子が展示される博物館。明治維新は、黒船来航に象徴される欧米列強の経済的・軍事的進出に対する抵抗運動(攘夷運動)に起源を持つ。阿片戦争以後、東アジアで欧米による帝国主義の波が強まる中で、長年の国是であった鎖国体制を極力維持し、旧来の体制を維持しようとする思想が現れた。しかし江戸幕府は、朝廷の意に反する形で開国・通商路線を選択したため、攘夷運動は尊王論と結びつき、朝廷の権威のもと幕政改革と攘夷の実行を求める尊王攘夷運動として広く展開されることとなった。<br /><br />ここには五箇条の御誓文も展示されていた。<br />御誓文は以後明治維新の指導精神として、近代国家建設のさまざまな施策に受け継がれた。<br /><br />中でも以下の御誓文はあらためていま政治に反映されんことを願った。<br />一 広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スベシ<br /> (広く会議を開いて、すべての政治は、世論に従い決定するべき)<br /><br />一 上下心ヲ一ニシテ 盛ニ経綸ヲ行ウベシ<br /> (治める者と人民が心をひとつにして 盛んに国家統治の政策を行うべき)<br /><br />一 旧来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ基クベシ<br /> (古い悪習を破り 国際法に基づくべき)<br />

    幕末の様子が展示される博物館。明治維新は、黒船来航に象徴される欧米列強の経済的・軍事的進出に対する抵抗運動(攘夷運動)に起源を持つ。阿片戦争以後、東アジアで欧米による帝国主義の波が強まる中で、長年の国是であった鎖国体制を極力維持し、旧来の体制を維持しようとする思想が現れた。しかし江戸幕府は、朝廷の意に反する形で開国・通商路線を選択したため、攘夷運動は尊王論と結びつき、朝廷の権威のもと幕政改革と攘夷の実行を求める尊王攘夷運動として広く展開されることとなった。

    ここには五箇条の御誓文も展示されていた。
    御誓文は以後明治維新の指導精神として、近代国家建設のさまざまな施策に受け継がれた。

    中でも以下の御誓文はあらためていま政治に反映されんことを願った。
    一 広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スベシ
     (広く会議を開いて、すべての政治は、世論に従い決定するべき)

    一 上下心ヲ一ニシテ 盛ニ経綸ヲ行ウベシ
     (治める者と人民が心をひとつにして 盛んに国家統治の政策を行うべき)

    一 旧来ノ陋習ヲ破リ 天地ノ公道ニ基クベシ
     (古い悪習を破り 国際法に基づくべき)

    吉田松陰歴史館 美術館・博物館

  • 護国山東光寺は、元禄4年(1691)に3代藩主毛利吉就が萩出身の名僧慧極を開山として創建した全国屈指の黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、大照院とならぶ毛利家の菩提寺。総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されており、名刹の面影を残している。<br />

    護国山東光寺は、元禄4年(1691)に3代藩主毛利吉就が萩出身の名僧慧極を開山として創建した全国屈指の黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、大照院とならぶ毛利家の菩提寺。総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されており、名刹の面影を残している。

    東光寺(山口県萩市) 寺・神社・教会

  • 本堂裏の毛利家墓所は国指定の史跡で、吉就から11代までの奇数代の藩主とその夫人及び一族、関係者の墓があり、墓前には藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並ぶ。このほかに、殉難十一烈士墓、維新志士慰霊墓八基などがある。また寺宝類も多く、長州藩御用絵師の雲谷派の絵画、県指定有形文化財の木額、柱聯、榜牌などが所蔵されています。

    本堂裏の毛利家墓所は国指定の史跡で、吉就から11代までの奇数代の藩主とその夫人及び一族、関係者の墓があり、墓前には藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並ぶ。このほかに、殉難十一烈士墓、維新志士慰霊墓八基などがある。また寺宝類も多く、長州藩御用絵師の雲谷派の絵画、県指定有形文化財の木額、柱聯、榜牌などが所蔵されています。

    東光寺(山口県萩市) 寺・神社・教会

  • 立派な山門の向こうには手入れが行き届いた庭が広がる。そして本堂にまっすぐ続く道。風格を感じるたたずまいだ。

    立派な山門の向こうには手入れが行き届いた庭が広がる。そして本堂にまっすぐ続く道。風格を感じるたたずまいだ。

    東光寺(山口県萩市) 寺・神社・教会

  • この寺の格式の高さがこの立派な庭園からもよくわかる

    この寺の格式の高さがこの立派な庭園からもよくわかる

    東光寺(山口県萩市) 寺・神社・教会

  • 今にも落ちそうな堂の屋根。柱の根元も浮いているところがあったり、歴史を感じさせるとともに、この地方にこれまで大きな自信がなかったことの証かもしれない。

    今にも落ちそうな堂の屋根。柱の根元も浮いているところがあったり、歴史を感じさせるとともに、この地方にこれまで大きな自信がなかったことの証かもしれない。

    東光寺(山口県萩市) 寺・神社・教会

  • 東光寺の墓所に毛利藩の奇数代のみのお墓があるのかについては、毛利藩が初代を別格に(天樹院)偶数代(昭)を大照院、奇数代(穆)を東光寺に弔うという中国古代の昭穆制(しょうぼくせい)を採ったためと考えられている。

    東光寺の墓所に毛利藩の奇数代のみのお墓があるのかについては、毛利藩が初代を別格に(天樹院)偶数代(昭)を大照院、奇数代(穆)を東光寺に弔うという中国古代の昭穆制(しょうぼくせい)を採ったためと考えられている。

    東光寺(山口県萩市) 寺・神社・教会

  • 墓所内の鳥居は神仏習合のなごりであるとともに、偉大なる藩主を弔った神聖なる霊域である事を示威したもの。<br />入口の門の慧極禅師の書「無塵勝地(塵無き優れた地)」の額もそれを物語っている。<br />また、この墓地の造営にあたっては、入口の門より墓碑に到る参道の設計や仕切り石の捉え方などに黄金分割や遠近法が巧みに用いられ、その荘厳美をみごとに演出していて当時の造営技術の水準の高さを知ることができる。<br /><br />この墓所は藩制時代の大名家の葬制ないし墓制を知る上でも貴重な史跡。<br />毎年、お盆の八月十五日には万灯会が行われる。<br />

    墓所内の鳥居は神仏習合のなごりであるとともに、偉大なる藩主を弔った神聖なる霊域である事を示威したもの。
    入口の門の慧極禅師の書「無塵勝地(塵無き優れた地)」の額もそれを物語っている。
    また、この墓地の造営にあたっては、入口の門より墓碑に到る参道の設計や仕切り石の捉え方などに黄金分割や遠近法が巧みに用いられ、その荘厳美をみごとに演出していて当時の造営技術の水準の高さを知ることができる。

    この墓所は藩制時代の大名家の葬制ないし墓制を知る上でも貴重な史跡。
    毎年、お盆の八月十五日には万灯会が行われる。

    東光寺(山口県萩市) 寺・神社・教会

  • 木魚の原型といわれる大きな木魚が天井から下がっている。

    木魚の原型といわれる大きな木魚が天井から下がっている。

    東光寺(山口県萩市) 寺・神社・教会

  • 吉田松陰の墓は、松陰誕生地に隣接し、団子岩とよばれる小高い風光明媚な場所に建っている。<br />松陰の没後100ヵ日にあたる万延元年(1860)2月7日、生家の杉家では百ヵ忌を営み、護国山団子岩の吉田家墓地に家族や親戚、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ在萩の門人のほとんどが出席し、故人の霊を弔い遺髪を埋葬した。そして同月15日に松陰の墓碑を建立した。<br />表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれています。

    吉田松陰の墓は、松陰誕生地に隣接し、団子岩とよばれる小高い風光明媚な場所に建っている。
    松陰の没後100ヵ日にあたる万延元年(1860)2月7日、生家の杉家では百ヵ忌を営み、護国山団子岩の吉田家墓地に家族や親戚、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ在萩の門人のほとんどが出席し、故人の霊を弔い遺髪を埋葬した。そして同月15日に松陰の墓碑を建立した。
    表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏、称寅次郎、安政六年己未十月二十七日於江戸歿、享年三十歳」と刻まれています。

    吉田松陰誕生地 名所・史跡

  • 吉田松陰の墓前の水盤や花立は、前原一誠や久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一ら門人17人と妹たちが名前入りで寄進した。当時、松陰は幕府から第一級の大罪人とされており、その松陰へ対し名前を刻んでの寄進は当時としては勇気のいる行動だった。それだけ松陰が門人たちから慕われていた。<br /><br />この墓所には、杉百合之助、吉田大助、玉木文之進、久坂玄瑞など一族の墓のほか、門人の高杉晋作などの墓もある。

    吉田松陰の墓前の水盤や花立は、前原一誠や久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一ら門人17人と妹たちが名前入りで寄進した。当時、松陰は幕府から第一級の大罪人とされており、その松陰へ対し名前を刻んでの寄進は当時としては勇気のいる行動だった。それだけ松陰が門人たちから慕われていた。

    この墓所には、杉百合之助、吉田大助、玉木文之進、久坂玄瑞など一族の墓のほか、門人の高杉晋作などの墓もある。

    吉田松陰誕生地 名所・史跡

  • 高杉晋作の遺骸は1867年(慶応3)4月16日夜、吉田村清水山に土葬され<br />神式の葬儀の後に「東行墓」と刻まれたお墓が建てられました。<br />また13日後の4月29日には、遺族により萩で仏式の葬儀が行われ<br />「東行暢夫之墓」と刻まれたお墓が建てられ、遺髪とへその緒が埋められた。

    高杉晋作の遺骸は1867年(慶応3)4月16日夜、吉田村清水山に土葬され
    神式の葬儀の後に「東行墓」と刻まれたお墓が建てられました。
    また13日後の4月29日には、遺族により萩で仏式の葬儀が行われ
    「東行暢夫之墓」と刻まれたお墓が建てられ、遺髪とへその緒が埋められた。

    高杉晋作墓 名所・史跡

  • 団子岩から見た萩市内と日本海。風光明媚で絶好の撮影スポット。萩の城跡も眺めえることができる

    団子岩から見た萩市内と日本海。風光明媚で絶好の撮影スポット。萩の城跡も眺めえることができる

    吉田松陰誕生地 名所・史跡

  • 萩八景遊覧船(はぎはっけいゆうらんせん)<br /><br /> 水の都「萩」の景観を水辺から遊覧する「観光遊覧船」。<br />遊覧コースは萩城跡横の指月橋を始点に、お城の疎水を通り、常盤島経由で橋本川本流に入り、堀内伝建地区内・平安古伝建地区内の武家屋敷群を川から眺める約40分の往復ルート。

    萩八景遊覧船(はぎはっけいゆうらんせん)

     水の都「萩」の景観を水辺から遊覧する「観光遊覧船」。
    遊覧コースは萩城跡横の指月橋を始点に、お城の疎水を通り、常盤島経由で橋本川本流に入り、堀内伝建地区内・平安古伝建地区内の武家屋敷群を川から眺める約40分の往復ルート。

    萩八景遊覧船 乗り物

  • 約40分の遊覧船のコースは萩城跡横の指月橋をスタート、平成27年7月に世界文化遺産に登録された萩城下町や堀内重要伝統的建造物群保存地区を眺めながら、橋本川へ。

    約40分の遊覧船のコースは萩城跡横の指月橋をスタート、平成27年7月に世界文化遺産に登録された萩城下町や堀内重要伝統的建造物群保存地区を眺めながら、橋本川へ。

    萩八景遊覧船 乗り物

  • 橋本川に入ると、常盤島と「釣りバカ日誌12」の舞台となった屋敷に挟まれた松並木をくぐりながら、平安古松原を横目に白壁が続く平安古重要伝統的建造物群保存地区の旧田中別邸へ。旧田中別邸先でUターンし萩八景のひとつ玉江を眺めます。

    橋本川に入ると、常盤島と「釣りバカ日誌12」の舞台となった屋敷に挟まれた松並木をくぐりながら、平安古松原を横目に白壁が続く平安古重要伝統的建造物群保存地区の旧田中別邸へ。旧田中別邸先でUターンし萩八景のひとつ玉江を眺めます。

    萩八景遊覧船 乗り物

  • 候の良い日は、そのまま海へ。近くの菊ヶ浜には、幕末に外国船の襲来に備えて女性たちが主となって築いた「女台場(おなごだいば)」がある。また、沖合には火山によってできた「萩六島」という平らな島々を見ることができる。

    候の良い日は、そのまま海へ。近くの菊ヶ浜には、幕末に外国船の襲来に備えて女性たちが主となって築いた「女台場(おなごだいば)」がある。また、沖合には火山によってできた「萩六島」という平らな島々を見ることができる。

    萩八景遊覧船 乗り物

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