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吉野山の花見の紹介です。南朝時代の御所となっていた吉水神社の紹介です。世界遺産の本堂の建物は、現在、修復作業中でした。

2016春、奈良の桜(11/13):吉野山(7):吉水神社、修復中の本殿、南朝の御所、一目千本

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2016/04/03 - 2016/04/03

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旅行記グループ 2016春、奈良の桜巡り

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旅人のくまさん

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吉野山の花見の紹介です。南朝時代の御所となっていた吉水神社の紹介です。世界遺産の本堂の建物は、現在、修復作業中でした。

交通手段
観光バス

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  • 吉水神社の山門光景です。入場しての見学は有料でしたから、臨時の受付が設けられていました。吉水神社は、後醍醐天皇(1288〜1339年)を主祭神とし、併せて南朝方の忠臣だった楠木正成(1294?〜1336年)、吉水院宗信法印を配祀しています。

    吉水神社の山門光景です。入場しての見学は有料でしたから、臨時の受付が設けられていました。吉水神社は、後醍醐天皇(1288〜1339年)を主祭神とし、併せて南朝方の忠臣だった楠木正成(1294?〜1336年)、吉水院宗信法印を配祀しています。

  • 右の石造の案内看板には、『世界遺産・南朝皇居・吉水神社』のタイトルがありました。その左側に建った、『十字の碑』も解説されていました。児島高徳が桜の幹を削って記したとされる、『天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず(天莫空勾践時非無范蠡)』の10文字の漢文です。

    右の石造の案内看板には、『世界遺産・南朝皇居・吉水神社』のタイトルがありました。その左側に建った、『十字の碑』も解説されていました。児島高徳が桜の幹を削って記したとされる、『天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず(天莫空勾践時非無范蠡)』の10文字の漢文です。

  • 吉水神社の社務所光景です。児島高徳の『十字の碑』のことは、吉川英治さんの『粗笨太平記』にも記述があり、今も覚えている1節です。戦前・戦中のいわゆる『軍国主義教育』の教科書に載せられていたのかも知れません。

    吉水神社の社務所光景です。児島高徳の『十字の碑』のことは、吉川英治さんの『粗笨太平記』にも記述があり、今も覚えている1節です。戦前・戦中のいわゆる『軍国主義教育』の教科書に載せられていたのかも知れません。

  • 吉水神社の山門光景です。社伝によれば、7世紀の白鳳年間に役行者により建立されたと伝えられる古刹です。『白鳳』時代は、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数記載される私年号とされます。白雉(650〜654年)の別称説や、鎌倉時代の辞典の『二中歴』による(661〜683年)とする説、あるいは中世以降の寺社縁起等の(672〜685年)とする説もあります。

    吉水神社の山門光景です。社伝によれば、7世紀の白鳳年間に役行者により建立されたと伝えられる古刹です。『白鳳』時代は、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数記載される私年号とされます。白雉(650〜654年)の別称説や、鎌倉時代の辞典の『二中歴』による(661〜683年)とする説、あるいは中世以降の寺社縁起等の(672〜685年)とする説もあります。

  • 『一目千本』や、『名勝・吉野神社・一目十年』などの文字が記された看板です。吉野神社から眺める桜の景色は、今でも吉野山を代表する桜スポットです。

    『一目千本』や、『名勝・吉野神社・一目十年』などの文字が記された看板です。吉野神社から眺める桜の景色は、今でも吉野山を代表する桜スポットです。

  • 吉水神社境内の『一目千本』から眺めた、中千本と上千本の光景です。かつては高城山から金峯神社にかけて数多くの桜樹がありましたが、現在は杉や桧の林となったようです。

    イチオシ

    吉水神社境内の『一目千本』から眺めた、中千本と上千本の光景です。かつては高城山から金峯神社にかけて数多くの桜樹がありましたが、現在は杉や桧の林となったようです。

  • 『名勝・吉野神社・一目十年』の看板の近くから眺めた山桜の光景です。中千本と上千本を同時に眺めることができます。

    『名勝・吉野神社・一目十年』の看板の近くから眺めた山桜の光景です。中千本と上千本を同時に眺めることができます。

  • 少しズームアップした、『名勝・吉野神社・一目十年』の看板の近くから眺めた山桜の光景です。修験道の開祖とされる役小角は、桜材に蔵王権現像を彫ったとされます。以降、行者達は桜材に権現を彫刻し、これを祀ることが習わしとなりました。

    イチオシ

    少しズームアップした、『名勝・吉野神社・一目十年』の看板の近くから眺めた山桜の光景です。修験道の開祖とされる役小角は、桜材に蔵王権現像を彫ったとされます。以降、行者達は桜材に権現を彫刻し、これを祀ることが習わしとなりました。

  • 『名勝・吉野神社・一目千本』の看板の近くにあった、『一目千本』の桜光景の写真です。『21世紀に残したい日本の風景・花の部門第1位』のタイトルがありました。

    『名勝・吉野神社・一目千本』の看板の近くにあった、『一目千本』の桜光景の写真です。『21世紀に残したい日本の風景・花の部門第1位』のタイトルがありました。

  • 入場した後、内側から眺めた山門の光景です。受付をされていた、アルバイトのような巫女姿の方達の姿が垣間見えました。

    イチオシ

    入場した後、内側から眺めた山門の光景です。受付をされていた、アルバイトのような巫女姿の方達の姿が垣間見えました。

  • 後醍醐天皇が詠まれた和歌です。『ここにても雲居の桜咲きにけり ただかりそめの宿と思ふに』の和歌は、この吉野で詠まれました。南北朝時代に編集された、准勅撰和歌集の『新葉集』に収録されています。選者は、後醍醐天皇の子の一人、宗良親王(1311〜1385年)です。

    後醍醐天皇が詠まれた和歌です。『ここにても雲居の桜咲きにけり ただかりそめの宿と思ふに』の和歌は、この吉野で詠まれました。南北朝時代に編集された、准勅撰和歌集の『新葉集』に収録されています。選者は、後醍醐天皇の子の一人、宗良親王(1311〜1385年)です。

  • 世界文化遺産の建物、吉水神社の境内光景です。吉野山に桜が多いのは、桜が蔵王権現の神木であるとされたことによります。ご神木の桜は、枯れ木といえども薪にさえせず、一枝を折る者は指一本を切るといったような厳しい信仰が厳守されたとされます。

    世界文化遺産の建物、吉水神社の境内光景です。吉野山に桜が多いのは、桜が蔵王権現の神木であるとされたことによります。ご神木の桜は、枯れ木といえども薪にさえせず、一枝を折る者は指一本を切るといったような厳しい信仰が厳守されたとされます。

  • 吉水神社の庭園光景です。その傍らに、境内摂社らしい、恵比須神社と蛭子神社がありました。右手前にあるのは、川田順の歌碑です。吉水宗信法印公を詠んだ、『すみそめの衣の下の 小具足を 斯の人にしてよしと思はむ』の和歌です。

    吉水神社の庭園光景です。その傍らに、境内摂社らしい、恵比須神社と蛭子神社がありました。右手前にあるのは、川田順の歌碑です。吉水宗信法印公を詠んだ、『すみそめの衣の下の 小具足を 斯の人にしてよしと思はむ』の和歌です。

  • 同じく苔庭のような庭園光景です。苔の保護のためか、竹囲いがありました。

    同じく苔庭のような庭園光景です。苔の保護のためか、竹囲いがありました。

  • 枯山水ではなく、池が配された庭園もありました。回遊式の大掛かりなものではありませんでした。山の上では、特に貴重な水のためかもしれません。

    枯山水ではなく、池が配された庭園もありました。回遊式の大掛かりなものではありませんでした。山の上では、特に貴重な水のためかもしれません。

  • 二つ並んだ石碑の光景です。左は明治天皇の和歌、『くにたみは一つ心に守りけり とほつみおやの神のをしえを』、右が昭憲の皇太后の『むらさめは はれたるけふもふりし世の 宮居たづねて袖濡らしけり』の和歌です。建てられたばかりのようでした。

    二つ並んだ石碑の光景です。左は明治天皇の和歌、『くにたみは一つ心に守りけり とほつみおやの神のをしえを』、右が昭憲の皇太后の『むらさめは はれたるけふもふりし世の 宮居たづねて袖濡らしけり』の和歌です。建てられたばかりのようでした。

  • 『南朝の皇居』の文字が記された木製の碑です。南北朝時代(1336〜1392年)は、後醍醐天皇が天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとした『建武の中興』が、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反し、後醍醐天皇による親政政権が崩壊したことがきっかけでした。

    『南朝の皇居』の文字が記された木製の碑です。南北朝時代(1336〜1392年)は、後醍醐天皇が天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとした『建武の中興』が、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反し、後醍醐天皇による親政政権が崩壊したことがきっかけでした。

  • 『建武の中興(けんむのちゅうこう)』は、『建武の新政(けんむのしんせい)』、あるいは、近年では『建武政権(けんむせいけん)』とも呼ばれているようです。1333年に鎌倉幕府が倒れ、1336年に室町幕府が成立するまでの短い期間でした。

    『建武の中興(けんむのちゅうこう)』は、『建武の新政(けんむのしんせい)』、あるいは、近年では『建武政権(けんむせいけん)』とも呼ばれているようです。1333年に鎌倉幕府が倒れ、1336年に室町幕府が成立するまでの短い期間でした。

  • 『建武の中興』の前の鎌倉時代末期の状況です。後醍醐天皇による鎌倉幕府の討幕計画は、正中元年(1324年)の正中の変、元弘元年(1331年)の元弘の乱(元弘の変)と、二度までも発覚し、元弘の乱で後醍醐天皇は捕らわれ、隠岐島に配流されました。

    『建武の中興』の前の鎌倉時代末期の状況です。後醍醐天皇による鎌倉幕府の討幕計画は、正中元年(1324年)の正中の変、元弘元年(1331年)の元弘の乱(元弘の変)と、二度までも発覚し、元弘の乱で後醍醐天皇は捕らわれ、隠岐島に配流されました。

  • 修復工事中の吉水神社の本堂光景です。1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇は配流先の隠岐を脱出しました。伯耆国(現在の鳥取県)で武将の名和長年に迎えられ、船上山で倒幕の兵を挙げました。後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭い吉野入りし、南朝政権を樹立しました。延元4年(1339年)8月、2年9カ月の行宮生活でその生涯を終えました。

    修復工事中の吉水神社の本堂光景です。1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇は配流先の隠岐を脱出しました。伯耆国(現在の鳥取県)で武将の名和長年に迎えられ、船上山で倒幕の兵を挙げました。後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭い吉野入りし、南朝政権を樹立しました。延元4年(1339年)8月、2年9カ月の行宮生活でその生涯を終えました。

  • 後醍醐天皇の遺言は、『我は死んでも殉死者を望まぬ。宝を墓に入れることも無用。我は生まれ変わり生まれ変わる先まで怨念を抱いて、朝敵をことごとく滅ぼして天下を泰平の世に返そうと思う。それ故に我が身はたとえ吉野山の苔の下に埋もれても、魂は常に北の都の天を望んで止まぬ。もし我が命にそむき、大義を軽んずるならば、天皇も我が跡継ぎの天皇ではない。臣も忠烈の臣と認めぬ』と、激しいものでした。

    後醍醐天皇の遺言は、『我は死んでも殉死者を望まぬ。宝を墓に入れることも無用。我は生まれ変わり生まれ変わる先まで怨念を抱いて、朝敵をことごとく滅ぼして天下を泰平の世に返そうと思う。それ故に我が身はたとえ吉野山の苔の下に埋もれても、魂は常に北の都の天を望んで止まぬ。もし我が命にそむき、大義を軽んずるならば、天皇も我が跡継ぎの天皇ではない。臣も忠烈の臣と認めぬ』と、激しいものでした。

  • 自然石をくり抜いた、手水舎の光景です。ブロンズ製の龍の頭が注ぎ口でした。大阪の岩(組)の寄進らしい文字が刻まれていました。後醍醐天皇陵は、如意輪寺本堂の裏側に築かれています。前回の旅行の時にお参りしました。

    自然石をくり抜いた、手水舎の光景です。ブロンズ製の龍の頭が注ぎ口でした。大阪の岩(組)の寄進らしい文字が刻まれていました。後醍醐天皇陵は、如意輪寺本堂の裏側に築かれています。前回の旅行の時にお参りしました。

  • 吉水神社の社務所の光景です。文禄3年(1594年)に豊太閤(秀吉)が吉野で盛大な花見の宴を開いた時、吉水神社が本陣とされました。

    吉水神社の社務所の光景です。文禄3年(1594年)に豊太閤(秀吉)が吉野で盛大な花見の宴を開いた時、吉水神社が本陣とされました。

  • 吉水神社で行われたテレビドラマの撮影の紹介パネルです。平成24年(2012年)に放送された『トーマ教授の天才推理・黄金伝説の迷宮』です。

    吉水神社で行われたテレビドラマの撮影の紹介パネルです。平成24年(2012年)に放送された『トーマ教授の天才推理・黄金伝説の迷宮』です。

  • 建武の中興の時代に鋳造された、『乾坤通宝』についての説明パネルです。新貨幣の詔書が発行され、鋳造されたのは間違いないようですが、現在までに1枚も発見されていません。鋳造された乾坤通宝の金貨は、吉水院(吉水神社)』に運び込まれたとする説もあるようです。

    建武の中興の時代に鋳造された、『乾坤通宝』についての説明パネルです。新貨幣の詔書が発行され、鋳造されたのは間違いないようですが、現在までに1枚も発見されていません。鋳造された乾坤通宝の金貨は、吉水院(吉水神社)』に運び込まれたとする説もあるようです。

  • 内側から眺めた山門の光景です。これで吉水神社の見学はおしまいです。吉水院は文治元年(1185年)、兄頼朝の追手を逃れた源義経、静御前と弁慶が隠れ住んだ場所としても有名です。

    内側から眺めた山門の光景です。これで吉水神社の見学はおしまいです。吉水院は文治元年(1185年)、兄頼朝の追手を逃れた源義経、静御前と弁慶が隠れ住んだ場所としても有名です。

  • 吉水神社の石積の塀と、その上の板張りの塀の光景です。打込み接ぎより、野面積に近い石垣でした。

    吉水神社の石積の塀と、その上の板張りの塀の光景です。打込み接ぎより、野面積に近い石垣でした。

  • 幾段にも積まれた第石の上に置かれた、石碑の光景です。石碑には、後醍醐天皇の若が刻まれていました。『花にねてよしや吉野の吉水の 枕の下に石はしる音』の和歌です。

    幾段にも積まれた第石の上に置かれた、石碑の光景です。石碑には、後醍醐天皇の若が刻まれていました。『花にねてよしや吉野の吉水の 枕の下に石はしる音』の和歌です。

  • 吉水神社の見学を終え、吉野山のメインストリートの商店街に戻りました。民家らしい家の前に、販売用の絵葉書だけが置かれていました。

    吉水神社の見学を終え、吉野山のメインストリートの商店街に戻りました。民家らしい家の前に、販売用の絵葉書だけが置かれていました。

  • 格子戸に展示されていた、『千年の桜絵巻・世界遺産・吉野』のポスターです。ポスターの写真は、満開の中千本から上千本の光景でした。

    格子戸に展示されていた、『千年の桜絵巻・世界遺産・吉野』のポスターです。ポスターの写真は、満開の中千本から上千本の光景でした。

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