2016/01/26 - 2016/02/02
1433位(同エリア6778件中)
ポポポさん
いよいよイタリアの旅行も後2日を残すばかりとなりました。この2日間はローマ市内の見学です。
1月31日はローマの遺跡巡りです。私が一度は行きたかったフォロ・ロマーノとコロッセオの入場観光。そしてトレビの泉、スペイン階段とサンピエトロ寺院。
サンピエトロ寺院は入場の予定ではなかったのですが、今年が「聖年」の年にあたるので、もしセキュリティチェックで並んでいる人が少なければ聖堂内に入場しましょうというガイドさんの機転で奇跡の年に偶然にも「聖年の門」をくぐって聖堂内に入る事ができました。
世界中の信者さんが聖年の年に大本山に巡礼する事を希望しているのに、信者でもない私達はいとも簡単に「聖年の扉」をくぐる事ができました。
ガイドさんは、「これは奇跡なんですよ。聖年の年にバチカンに来れるという事がまず奇跡なんです。皆さんこの奇跡を深く受け止めてくださいね。」とおっしゃっていました。
6日目 1月31日 終日 ローマ(泊)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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ホテルの朝食です。イタリアですから生野菜はありません。その代わり煮豆とジャガイモをしっかりいただきましょう。
飲み物はジュースのコーヒーをいただく予定です。
私、煮豆好きなんですよ。ベルギーのブリュッセルのホテルで食べた煮豆が美味しくて、それから欧州のホテルで出される豆料理に病みつきになりました。
ここのお豆さんも美味しい。
このホテル連泊なんで今日は荷物整理は不要です。ツアーバスに乗り込んで出発です。
息子も体調がほぼ回復してきたので、初めてのローマ観光が楽しみなようです。
あっ、書き忘れていましたね。私の息子2日目から風邪気味で鼻水じゅるじゅるだったんです。添乗員さんから風邪薬をもらって4日あたりから随分よくなってきました。 -
バスは何時の間にかローマ旧市内に入って来ていました。車窓左側ではサンピエトロ寺院のクーポラが私達を出迎えてくれました。
サン ピエトロ大聖堂 寺院・教会
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ジェズ教会です。ローマ初のイエズス会の教会。イグナティウス・ディ・ロヨラとスランシスコ・ザビエルが祀られています。
バスの中の照明が反射して写真に写り込んでしまいました。ジェズ教会 寺院・教会
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車窓から。
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂。ヴィットーリオ エマヌエーレ2世記念堂(ヴィットリアーノ) 建造物
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カンピドーリオ広場。最悪のピンボケ。
カンピドーリョ広場 広場・公園
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パラティーの丘の麓の遺跡。
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ツアーバスはパラティーノの丘の麓で停車。
ここから歩いて史跡巡りです。
目の前にはローマ笠松とコロッセオ。ここで本日のガイドさんと合流しました。
今日のガイドさんは日本人の方でした。今日は聞き慣れた日本語なので理解できそうです。コロッセオ 建造物
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コンスタンティヌスの凱旋門。
1960年ローマオリンピック、マラソン競技のゴールとなった場所で、エチオピアのアベベ選手が裸足で駆け抜けて優勝したのが印象的でした。
その雄姿は当時のニュース映画やテレビで何度も見ていますので、今でもはっきりと覚えています。コンスタンティヌスの凱旋門 建造物
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コンスタンティヌスの凱旋門はミルヴィオ橋の戦いにおける勝利をたたえて、元老院とローマ市民によって建てられ、コンスタンティヌス帝に献じられました、
この凱旋門はローマで最も大きく、表面の装飾はトラヤヌス、ハドリアヌス、マルクス・アウエリウスが建てた建造物から持ってきた物です。コンスタンティヌスの凱旋門 建造物
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コンスタンティヌスの凱旋門、コロッセオ、ローマ笠松、そして観光用馬車。そしてすぐ近くにあるフォロ・ロマーノ。ここはローマの遺跡の中心地です。
ローマ歴史地区、教皇領とサン パオロ フオーリ レ ムーラ大聖堂(イタリア) 寺院・教会
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屋階の縦長の8つ(南北の合計)のレリーフはマルクス・アウレリウス帝の記念建造物のものです。
南北に配された丸パネルのレリーフはハドリアヌス帝の狩猟の場面を現しています。コンスタンティヌスの凱旋門 建造物
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コロッセオは昨年から引き続いて修復中でした。昨年の6月も同じところを修復していたと思います。
こちらはコロッセオの3層部分です。
下からトスカーナ(ドーリア式に酷似しています)、イオニア、コリントの各様式の付け柱を持ち、各アーチには彫像が飾られていました。コロッセオ 建造物
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こちらは修復が完了した部分です。修復された部分は石壁の表面がなめらか過ぎて、従来のゴツゴツした石壁とは明らかに違い違和感があります。
どうみても修復のしすぎでしょう。コロッセオ 建造物
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こちらはコンスタンテキヌスの凱旋門の表側(北側)です。
中央のアーチの内側のレリーフはトラヤヌス帝のフォロを囲む屋根を飾っていたものです。コンスタンティヌスの凱旋門 建造物
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そして、こちらは凱旋門の左手にあるフォロ・ロマーノの入り口です。
今日は天気が悪くしかもシーズンオフの朝9時ということで、シーズン中は人で溢れる場所ながら一人も観光客がいません。
正面に見える門はティトゥスの凱旋門、そして凱旋門を潜る道はフォロ・ロマーノの元老院・中央広場に続く「聖なる道」です。
凱旋門の左手がパラティーノの丘。右に少し見える建物はウェヌスとローマの神殿で現在は考古学博物館になっています。
そして凱旋門手前の小さな建物がチケット売り場です。ティトゥスの凱旋門 史跡・遺跡
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コロッセオの付近に止まっている観光馬車です。
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フォロ・ロマーノ入り口。
自転車が1台王者の道を走ってきました。この人は地元の人でしょうか。ティトゥスの凱旋門 史跡・遺跡
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この建物はウェヌスとローマの神殿(現在は考古学博物館)です。この建物の後ろにはヌオーヴァ教会があります。
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現在修復中の部分は4層と3層が交わる部分で写真によく取り上げられるところです。
そこに足場が組まれていては折角のコロッセオも被写体としては興醒めです。
こちらは4層で4層目にはアーチ窓がありません。この4層目には日よけの幕を張るための棒240本を立てる穴と支えがあり、水兵がその作業をおこなっていたそうです。ローマ歴史地区、教皇領とサン パオロ フオーリ レ ムーラ大聖堂(イタリア) 寺院・教会
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時間がきましたので並んで入場しましよう。
入り口は4層部分の一階でした。 -
入場口から一階の回廊を回って行きます。
一階の回廊にはこのようにアーチ窓に設置されていた大理石の石像の部分が展示されていました。 -
これは大理石の石柱です。
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ここから一階中央部分に出ます。
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中央部分からみたコロッセオの地下部分。
床部分が失われているので地下構造を見ることができます。 -
コロッセオは暴君と呼ばれた皇帝ネロが建てた黄金宮殿の池の上に建てられました。池といっても大船を浮かべて舟遊びができたほどの大規模な物でした。
ネロの後に皇帝となったウェスパシアヌス帝はこの池を干拓してここに巨大な円形闘技場を建てる事に着手し、息子のティトゥス帝の時に完成しました。
こけら落としの興行は100日も続いたそうです。
こうしてウェスパシアヌス帝は市民の「パンと見世物」の要求に答えたのでした。
地下の奈落には猛獣の檻、機材や道具置き場や人やセットを上に上げる大掛かりな舞台装置がありました。なかには奈落から猛獣が飛び出す仕掛けもあったそうです。コロッセオ 建造物
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左側の席の様子。客席には5万人収容できたそうです。
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イチオシ
奈落の様子。
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右側の席の様子。
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通路を右の方向に歩いて行くと4層側の席を正面にとらえる事ができます。
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4層側の席。一番下の席は元老院階級、次は騎士階級、3番目は平民、最上階は女性席でした。
一段高いテラス席は皇帝や上流階級の人々の席でした。 -
同じく4層側の席。
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4層側、補修中の部分です。
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こちらは3層側の席です。アーチ部分は修復が完了した場所です。
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回廊の床には建設当時の白い大理石が一部残っていました。
コロッセオは内外壁及び回廊の床など全てが白い大理石で覆われた白亜の円形競技場でした。
ガイドさんからは、「皆さん想像力を働かせて、この美しい円形競技場を頭に思い浮かべてください」と何度も言われました。 -
4層側の客席を真正面から見た様子です。
ここで時間になりました。一階に下りてフォロ・ロマーノに向かいます。コロッセオ 建造物
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復元図です。各アーチ窓には彫像が飾られていました。
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凱旋門を横から見ました。上部の四角いレリーフ(東西両側)もトラヤヌス帝のフォロを囲む屋根を飾っていた物です。
コンスタンティヌスの凱旋門 建造物
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凱旋門のレリーフを少しアップで。
この前を通ってフォロ・ロマーノの入り口へ向かいました。
ティトゥスの凱旋門の所から入場するかと思っていましたが、エミリアのバジリカがある入り口から入場するようです。コンスタンティヌスの凱旋門 建造物
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フォーリ・インペリアーリ通り沿いの工事現場です。
ガイドさんの話では現在ここは地下鉄工事をしているそうです。
この近辺は地下鉄工事で土地を掘り起こしていますが、掘れば遺跡が出てくるのがローマです。特にここはフォロ・ロマーノの近くなので、掘れば遺跡にぶつかるであろうことは誰でも考え着くことだと思います。
それなのに何故ここに地下鉄を掘るんでしょうか?
案の定ここでは遺跡が出てきて工事がストップしているようです。シートの下には古代ローマの地層が出てきたようです。
ガイドさんの話ですと遅々として工事が進まないそうです。フォーリ インペリアーリ 史跡・遺跡
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地下鉄工事側の古い建物の壁。工事で倒れないように補強、補修されていました。
フォーリ インペリアーリ 史跡・遺跡
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フォーリ・インペリアーリ通り側からフォロ・ロマーノに入ります。
ここはネルヴァのフォロ。フォロとは公共広場のことです。
ネルヴァ帝が97年に完成させたフォロで細長い形をしています。
柱列の奥の建物はクリア・ユリア(元老院議事堂)です。フォーリ インペリアーリ 史跡・遺跡
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奥の白亜の建物はヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂。その手前の建物がサンタ・マリア・イン・アラチェリ教会です。
その下、ローマ笠松の根元付近に見える柱列がカエサルのフォロです。
歴史好きにはたまらない光景です。今ここは紀元前50年頃〜紀元100年頃の時代の遺構が残っており(エマヌエーレ2世記念堂とアラチェリ教会は除く)、我々はその時代の建物や通りや神殿を想像し、同じ空気を吸うことができるのです。
私がローマで訪れたかったのがフォロ・ロマーノとバチカン博物館でした。
数々の歴史の舞台となり、映画でも何度も再現された場所に足を踏み入れると思うと胸が高鳴ります。 -
フォロ・ロマーノに入ってきました。
エミリアのバジリカとその奥にクリア・ユリアです。バジリカとは公会堂のこと。
ここはバシリカの床で列柱のかけらが残っています。
フルウィウス一族とアエミリウス一族から出た監察官により裁判や商取引のために創建された公会堂です。アエミリウス一族によって何度も修復されました。エミリアのバジリカ 史跡・遺跡
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手前がエミリアのバシリカ、その左隣はガイウスとルキウスの柱廊です。
フォロ ロマーノ 建造物
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ガイウスとルキウスの柱廊。
彼らは初代皇帝アウグストゥス(オクタビアヌス)の腹心アグリッパとユリア(アウグストゥスの一人娘)の息子たちで、アウグストゥスの養子となりましたが夭折してしまいました。
この柱廊の前の道が「聖なる道」です。 -
セヴェルスの凱旋門。
皇帝セウェルスと彼の息子カラカラとゲタの第6次パルティア戦争の勝利を記念して紀元203年に建てられました。
セウェルス帝の死後カラカラとゲタは共同皇帝として即位しましたが、212年にカラカラがゲタを暗殺しました。このためゲタを記念した彫刻は記念碑や建築物からことごとく消し去られました。
このためこの凱旋門からもゲタに関するものは削り取られています。
なお、現在は工事中で凱旋門のアーチは通り抜けられないようになっていました。
凱旋門の下の道はヴィア・サクラ(聖なる道)です。この道は凱旋門とともに3世紀初頭に建設されました。セプティミウス セウェルスの凱旋門 史跡・遺跡
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イチオシ
フォロ・ロマーノは古代ローマ時代、市民の集会や裁判、商取引や政治討論の場として設けられた公共広場です。
共和政時代には市民の公共生活の中心となり、ローマの発展とともに繁栄していきました。
帝政になると、フォロ・ロマーノは民主政治の中心からローマの栄光を示す象徴へと変貌していきました。
その後、ローマ帝国が東西に分裂し首都機能がラヴェンナに移されると度重なる蛮族の侵入で破壊され、遺跡は建築資材として壊され持ち去られました。そして西ローマ帝国が滅亡すると打ち捨てられ、土砂の下に埋もれてしまいました。
そしてここはそのフォロ・ロマーノの中心地。凱旋門から伸びる「聖なる道」は広かった。道を歩いている観光客の身長と比較してみるとその幅の広さが想像できると思います。
かつてユリウス・カエサルは4頭立ての戦車に乗って何度この道で凱旋パレードをしたのでしょうか。またクレオパトラがカエサルとの間に生まれた我が子シーザリオン(カエサリオン)を連れてカエサルに謁見のため行進したのもこの道です。
この道はカエサルやクレオパトラやアントニウスやオクタビアヌス(後のアウグストゥス)、そして幾多の皇帝や将軍がパレードしてきた道です。ここに立つと古代ローマと同じ空気を吸い、彼ら英雄に拍手喝采を浴びせる一市民になったかのような錯覚に陥ります。
凱旋パレードはこの「聖なる道」からクリア・ユリア(元老院議事堂)の前を通ってセヴェルスの凱旋門をくぐり、公文書館(タブラリウム)の脇を抜けてカピトリーノの丘に立つ最高神ユピテルの神殿に向かいました。
私は幼い時からこの地に立つ事を夢に見てきましたが、それが今現実のものとなった瞬間でした。私の記憶のページにしっかりと刻み込みました。ローマ歴史地区、教皇領とサン パオロ フオーリ レ ムーラ大聖堂(イタリア) 寺院・教会
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フォロ・ロマーノ入り口近くにあるアントニヌスとファウスティーナの神殿です。
アントニヌスピウスとファウスティーナ神殿 史跡・遺跡
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手前は中央広場でその奥にクリア・ユリア(元老院議事堂)があります。
クリア・ユリアは元老院議員スッラが建てたものを紀元前44年にカエサルが改築し、アウグストゥスの時代(紀元前29年)に完成しました。
その後火災によりディオクレティアヌス帝により改築したものが現在残る建物です。
クリア・ユリアは現在まで残る古代ローマの建物ですが、これは7世紀にサン・アドリアノ・アル・フォロ教会に転用され補修が続けられてきたからです。
屋根、側壁の上部、後壁は近年造り替えられたものです。クーリア 史跡・遺跡
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イチオシ
中央広場(緑の草が生えている部分)です。この広場を囲むように聖なる道、凱旋門、クリア・ユリア、ロストリ(演壇)、フォスカの記念柱、カエサルの神殿などがあります。
ガイドさんの話ではフォロ・ロマーノで最も重要な場所がここ中央広場だそうです。
この広場はフォロ・ロマーノの中心部です。アウグストゥスの時代に円形競技場が出来るまでは、フォロで剣闘試合が行われていました。またこの広場は騎馬像や円柱で飾られた顕彰記念空間でした。ここには基台の後が沢山残っています。フォロ ロマーノ 建造物
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中央広場に植えてある三種の聖木。フォスカの記念柱(写真ではその基台のみ写っています)の側に植えてあります。
聖木はいちじく、ぶどう、オリーブ。
三種の聖木の後ろの茶色のレンガの奥に帝政時代のロストラ(演壇)があります。
翌日このロストラ(演壇)は市庁舎側から写真に収めていますので、そちらの旅行記の記事と併せて見て下さい。
正面の灰褐色の壁は古代ローマの公文書館タブラリウムです。この上に市庁舎が建てられています。市庁舎 タブラリウム (カピトリーニ美術館) 博物館・美術館・ギャラリー
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中央の白い高い記念柱がフォカスの記念柱です。
この記念柱は東ローマ帝国フォカス皇帝の記念柱です。柱自体は1〜2世紀の物ですが、この尖端に皇帝の像が載せられて、碑文が刻まれたそうです。
記念柱の左はサトゥルヌスの神殿。ローマ神話の神サトゥルヌスを祀った神殿です。
紀元前5世紀に創建されましたが、現在残っているのは8本の列柱とイオニア式の柱頭、柱を結ぶ上枠です。現在の遺構は紀元前42年に建て直されたものが火災で破壊されたため、紀元3世紀末に再建されました。
共和政ローマ時代の国有財産をここに保管していたのでアエラリウム(国庫)とも呼ばれています。
なお、この神殿はカンピドリオの丘まで続く古い坂道クリウス・カピトリヌスの起点に位置していました。
フォカスの記念柱の右の円柱はウェスパシアヌスとティトゥスの神殿です。
さらに記念柱の手前、屋根で覆われている場所はラクス・クルティウス(クルティウスの沼)という史跡です。写真では見難くく申し訳ありません。中央広場の周囲は低い柵で囲み、中に入れないようになっていたため遠くから撮影するしかありませんでした。
この史跡は伝説ではローマが窮地になった時、祖国を救うため信託にしたがって鎧に身を固めた騎士クルティウスが馬もろともに身を投げてローマを救った地の裂け目といわれています。
記念柱の背後の建物は市庁舎ですが、この建物はタブラリウムと呼ばれた古代ローマ文書館の上に建てられていま。
3層に分かれた一番下の建物がタブラリウムです。フォカスの記念柱 史跡・遺跡
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神君ユリウス(カエサル)の神殿。
丸い祭壇を囲む部分に屋根が掛けられた基壇とセメントの塊しか残っていません。
紀元前44年3月15日、カンポ・マルツィオで暗殺されたカエサルの亡骸が火葬に付された後、アントニウスが有名な追悼演説をした場所に碑文と記念柱が置かれていましたが、紀元前29年アウグストゥスが養父を神格化してここに神殿を造りました。
この神殿の前方(中央広場の前)には神君ユリウスのロストラ(演壇)も新設されましたが、現在それを想像させるようなものはほとんど残っていません。
僅かに中央広場に沿って大理石の石があるだけでした。(写真右下隅)
まず殆どの観光客がこの大理石の欠片を見て、これがユリウスのロストラだと気付く方はいないと思います。カエサルの神殿 史跡・遺跡
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神君ユリウスの神殿。左後方の建物はアントニヌスとファウスティーナの神殿。
カエサルの神殿 史跡・遺跡
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神殿のなかにあるカエサルが火葬された場所、祭壇です。祭壇の上には花が手向けてありました。
現在でもカエサルをしのんで献花が絶えないそうです。カエサルの神殿 史跡・遺跡
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ユリウスのバジリカです。
以前ここは紀元前2世紀に農地改革を図って命を落としたグラックス兄弟の父(グラックス)が、舅のスキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)の家を買い上げて建てたセンプロニアのバジリカがあり、中央広場の向こう側のエミリアのバジリカと対をなしていました。
それをカエサルが建て替え、アウグストゥスが完成させました。主に司法・行政に使われ、中には4つの裁判所もありました。
写真右端の道は聖なる道と呼ばれ宗教的な行列や凱旋の行進に使われました。
なおスキピオ・アフリカヌスは大スキピオと呼ばれカルタゴの名将ハンニバル将軍をザマの戦いで破った英雄です。ユリウスのバジリカ 史跡・遺跡
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カストルとポルックスの神殿。
レギルス河畔の戦いでタルクイニの軍に勝利を収めた独裁官アウルス・ポストゥミウスは、戦闘でローマ軍を助け、フォロのユートゥルナの泉で彼らの馬に水を飲ませ、人々にローマの勝利をもたらした双子神にこの神殿を捧げました。カストルとポルックスの神殿 史跡・遺跡
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ローマを勝利に導いた双子神の神殿。
現在の遺構は第2代皇帝ティベリウスが建てた神殿の一部です。ただし土台はメテッルスの時代のものです。
紀元前117年、この神殿はダルマチア人に勝利したことを記念してメテッルスにより拡張、修復されました。カストルとポルックスの神殿 史跡・遺跡
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ユリウスのバジリカと「聖なる道」、右は中央広場です。
「聖なる道」は写真では狭く見えますが、クリア・ユリア(元老院議事堂)前の「聖なる道」より若干狭い程度です。
こちらの道も凱旋パレードで使用されたようです。フォロ ロマーノ 建造物
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ヴェスタの神殿。
4人(後に6人)の巫子が「聖なる火」を守っていた神殿で、かまどの女神ヴェスタに捧げられていました。
聖室には国家の繁栄を守る「聖なる火」と、アイネイアスがトロイアからもたらしたというローマの世界制覇を叶えるパラス・アテナ像が安置されていました。
現在の遺構は191年皇帝ネロによるローマの大火の後、セヴェルス帝の妻ユリア・ドムナが再建したものです。ヴェスタの神殿 史跡・遺跡
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ヴェスタの神殿を反対側から見てみました。
ヴェスタの巫子はほぼ十歳未満の貴族の娘から選ばれ髪を肩で切り揃え、白いヴェールとヘアバンドを着け大神祇官の下で30年間に渡り国家の祭事全般に携わりました。多大な権威を持っていましたが純潔を旨とし、掟に背けばクィリナーレ丘の地下牢で生き埋めの刑にされる定めでした。
過酷な掟だったんですね。ヴェスタの神殿 史跡・遺跡
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神殿のすぐ側には巫子の家があります。。
巫子の家は神殿と同じくセウェルス朝時代に再建されました。写真中央が建物の玄関です。
玄関の向かって右には白い大理石とレンガで造られた礼拝所があり、中に祭壇が置かれていました。ヴェスタの巫女の家 史跡・遺跡
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玄関入り口右横に造られた礼拝所です。中には祭壇があります。
背後の列柱はカストルとポルックスの神殿です。ヴェスタの巫女の家 史跡・遺跡
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玄関からなかに入るとそこは長方形の中庭でした。
二つの四角い池の周りには沢山のバラが植えてありました。バラの開花時期の6月にここを訪れると沢山のバラの花が咲いている事でしょう。
中庭の奥(東側)の突き当たりにある6部屋が巫子の居室で、南側(写真向かって右)には台所や浴室があり、柱廊で囲まれた中庭の北側には歴代の巫女長の彫像が並んでいました。ヴェスタの巫女の家 史跡・遺跡
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中庭北側にある歴代巫女長の彫像です。
ヴェスタの巫女の家 史跡・遺跡
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ヴェスタの中庭の案内プレート。
ヴェスタの巫女の家 史跡・遺跡
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アントニヌスピウスとファウスティーナの神殿。
アントニヌスピウス帝が皇后ファウスティーナの没後に建てた神殿です。後には皇帝自身もここに祀られました。
コリント式の柱の高さは17メートルもあり、基壇はほぼ完全な形で残っています。
11世紀にはこの神殿の中に教会が建てられたため、神殿の列柱は現在まで残りました。
神殿の向かって右横からは鉄器時代の墓地が見つかったそうです。
この神殿の正面に見える遺跡はレギア(王宮)です。ヌマ・ポンピリウスが建てた王宮だと推定されています。アントニヌスピウスとファウスティーナ神殿 史跡・遺跡
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神殿の正面です。教会が建てられた時は神殿の基部は土砂の中に埋まっていました。
その状態で神殿の中に教会を造ったため、発掘が進んだ現在では他の建物に比べ異常に高い場所が教会の入り口になってしまいました。
階段がないと中に入れません。アントニヌスピウスとファウスティーナ神殿 史跡・遺跡
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ロムルス神殿の手前から眺めたアントニヌスとファウスティーナ神殿。
この角度もなかなかいいでしょう。アントニヌスピウスとファウスティーナ神殿 史跡・遺跡
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