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世界文化遺産の白川郷の紹介です。荻町合掌造り集落の中にある『合掌造り民家園』を重点に見学しました。

2015春、飛騨高山と白川郷(14/16):白川郷、村瀬忠正家、中野義盛家、稲架小屋、養蚕

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2015/05/23 - 2015/05/23

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

世界文化遺産の白川郷の紹介です。荻町合掌造り集落の中にある『合掌造り民家園』を重点に見学しました。

交通手段
観光バス

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  • 『わらの館』の表札があった合掌造りの建物です。『わら製生活用品展示』の補足がありました。『村瀬忠正家主屋』が展示に使用されていました。

    『わらの館』の表札があった合掌造りの建物です。『わら製生活用品展示』の補足がありました。『村瀬忠正家主屋』が展示に使用されていました。

  • 『わらの館』として展示されていた、『村瀬忠正家主屋』の室内光景です。上には上がらずに、玄関先からの撮影です。

    『わらの館』として展示されていた、『村瀬忠正家主屋』の室内光景です。上には上がらずに、玄関先からの撮影です。

  • 同じく、『わらの館』として展示されていた、『村瀬忠正家主屋』の室内光景です。合掌造りの家としては、小型の部類に入るようです。

    同じく、『わらの館』として展示されていた、『村瀬忠正家主屋』の室内光景です。合掌造りの家としては、小型の部類に入るようです。

  • 『大家藤重家稲架小屋』の光景です。裕福な農家が所有した建物で、現在は岐阜県の重要文化財に指定された建物です。

    『大家藤重家稲架小屋』の光景です。裕福な農家が所有した建物で、現在は岐阜県の重要文化財に指定された建物です。

  • 『大家藤重家稲架小屋』の説明パネルの光景です。ここから4キロほど離れた白川村大窪から移築された建物であることなどが説明されていました。穫り入れた稲などの乾燥小屋です。

    『大家藤重家稲架小屋』の説明パネルの光景です。ここから4キロほど離れた白川村大窪から移築された建物であることなどが説明されていました。穫り入れた稲などの乾燥小屋です。

  • 『大家藤重家稲架小屋』の中に置かれていた農機具の光景です。田鋤用の道具のようです。先ほどの説明パネルには、家稲架小屋は裕福な農家でなければ建てられなかったと説明してありました。岐阜県の重要文化財の建物です。

    『大家藤重家稲架小屋』の中に置かれていた農機具の光景です。田鋤用の道具のようです。先ほどの説明パネルには、家稲架小屋は裕福な農家でなければ建てられなかったと説明してありました。岐阜県の重要文化財の建物です。

  • 一度紹介済をした、『マタダテゴヤ(股建小屋)』です。家を失った時に臨時使用する、合掌造りの村のセーフティネットのような施設です。

    一度紹介済をした、『マタダテゴヤ(股建小屋)』です。家を失った時に臨時使用する、合掌造りの村のセーフティネットのような施設です。

  • 『旧中野義盛家主屋』の表示があった建物です。岐阜県指定の重要文化財の建物の一つです。4階建ての規模に見えます。

    『旧中野義盛家主屋』の表示があった建物です。岐阜県指定の重要文化財の建物の一つです。4階建ての規模に見えます。

  • 『中野義盛家主屋』のタイトルがあった説明パネルです。ここから約15キロ離れた白川村加須良から移築された建物と紹介されていました。明治42年(1909年)に火災に遭い、その直後に建てられたものです。代々粗油矢を務めた家と紹介されていました。

    『中野義盛家主屋』のタイトルがあった説明パネルです。ここから約15キロ離れた白川村加須良から移築された建物と紹介されていました。明治42年(1909年)に火災に遭い、その直後に建てられたものです。代々粗油矢を務めた家と紹介されていました。

  • 『中野義盛家主屋』の玄関横の光景です。板壁は、見学用に新しく作られたもののようでしたが、かなり広い土間風の部屋でした。

    『中野義盛家主屋』の玄関横の光景です。板壁は、見学用に新しく作られたもののようでしたが、かなり広い土間風の部屋でした。

  • 玄関横の部屋のアップ光景です。馬を飼っていた、『マヤ』と呼ばれる部屋でした。現在は薪と農機具などの置場になっていました。

    玄関横の部屋のアップ光景です。馬を飼っていた、『マヤ』と呼ばれる部屋でした。現在は薪と農機具などの置場になっていました。

  • 『中野義盛家主屋』の玄関先の光景です。写真入りで中野家の母家の建物が紹介されていました。『合掌造りの民家園』の中でも屈指の建物です。

    『中野義盛家主屋』の玄関先の光景です。写真入りで中野家の母家の建物が紹介されていました。『合掌造りの民家園』の中でも屈指の建物です。

  • 『イロリ(ユル・イル)』の表示があった囲炉裏です。ヨコザと呼ばれる主人の位置、カカザと呼ばれる主婦の位置、キジと呼ばれる嫁の位置のほか、客座の位置も記されていました。

    『イロリ(ユル・イル)』の表示があった囲炉裏です。ヨコザと呼ばれる主人の位置、カカザと呼ばれる主婦の位置、キジと呼ばれる嫁の位置のほか、客座の位置も記されていました。

  • 『オエ』の表示があった囲炉裏の光景です。『囲炉裏のある部屋』と説明してありましたから、部屋全体を指した呼び名のようです。

    『オエ』の表示があった囲炉裏の光景です。『囲炉裏のある部屋』と説明してありましたから、部屋全体を指した呼び名のようです。

  • 赤い帽子を被った赤ちゃん人形が入れられていた駕籠です。実際に赤ん坊を寝かしつけた丸い形の揺り籠のようです。随分とリラックスした赤ちゃん人形です。

    イチオシ

    赤い帽子を被った赤ちゃん人形が入れられていた駕籠です。実際に赤ん坊を寝かしつけた丸い形の揺り籠のようです。随分とリラックスした赤ちゃん人形です。

  • 屋根裏のお蚕(カイコ)さんの部屋です。階段を登って、見学することができました。ヨーロッパから中東、中国を経て日本に至るルートは、シルクロード、絹の道と呼ばれる文化と交易の大動脈でした。

    イチオシ

    屋根裏のお蚕(カイコ)さんの部屋です。階段を登って、見学することができました。ヨーロッパから中東、中国を経て日本に至るルートは、シルクロード、絹の道と呼ばれる文化と交易の大動脈でした。

  • 『蚕の発育順序模型』のタイトルがあった見本品です。産卵から始まり、生まれたばかりの『毛蚕(けご)』から第一令→第二令→第三令→第四令→第五令から蛹に成長します。繭を作るに適した隙間を見つけると、絹糸を出し、頭部を∞字型に動かしながら米俵型の繭を作り、その中で蛹化します。蛹繭の中で幼虫は丸く縮んで前蛹になり、脱皮し、蛹となります。繭が絹糸の原料となりますが、繭を破って出てきた親は、交尾の後に卵を約500粒産み、約10日で死にます。

    『蚕の発育順序模型』のタイトルがあった見本品です。産卵から始まり、生まれたばかりの『毛蚕(けご)』から第一令→第二令→第三令→第四令→第五令から蛹に成長します。繭を作るに適した隙間を見つけると、絹糸を出し、頭部を∞字型に動かしながら米俵型の繭を作り、その中で蛹化します。蛹繭の中で幼虫は丸く縮んで前蛹になり、脱皮し、蛹となります。繭が絹糸の原料となりますが、繭を破って出てきた親は、交尾の後に卵を約500粒産み、約10日で死にます。

  • 左下に見えるのは、『桑切り板』と『桑切包丁』です。随分と使い込まれていました。『桑切包丁』は随分と薄く、軽く作られているようでした。周りの籠類は、お蚕さん用に調理された桑の葉を入れる物のようです。

    左下に見えるのは、『桑切り板』と『桑切包丁』です。随分と使い込まれていました。『桑切包丁』は随分と薄く、軽く作られているようでした。周りの籠類は、お蚕さん用に調理された桑の葉を入れる物のようです。

  • 『稚蚕(ちさん)飼育箱』の表示があった養蚕道具です。昭和25年ころまで使用されていた、一〜二令の蚕を飼育する道具です。葦を編んだような簀子が敷かれていありました。

    『稚蚕(ちさん)飼育箱』の表示があった養蚕道具です。昭和25年ころまで使用されていた、一〜二令の蚕を飼育する道具です。葦を編んだような簀子が敷かれていありました。

  • 『稚蚕飼育:ちさんしいく(履き立て〜二令)』のタイトルがあった説明パネルです。『孵化(ふか)』したばかりの幼虫は、黒い毛に覆われ、『蟻蚕(ぎさん)』と呼ばれ、狛書き切った桑の葉が与えられました。羽箒で掃き集め、木箱に入れられました。

    『稚蚕飼育:ちさんしいく(履き立て〜二令)』のタイトルがあった説明パネルです。『孵化(ふか)』したばかりの幼虫は、黒い毛に覆われ、『蟻蚕(ぎさん)』と呼ばれ、狛書き切った桑の葉が与えられました。羽箒で掃き集め、木箱に入れられました。

  • 『蚕棚(かいこだな)』の光景です。上が三〜四令の蚕の飼育と、繭をつくらせる時の棚、下が、五令の飼育用に使われた棚です。

    『蚕棚(かいこだな)』の光景です。上が三〜四令の蚕の飼育と、繭をつくらせる時の棚、下が、五令の飼育用に使われた棚です。

  • 『蚕箔(さんぱく)』と呼ばれる飼育道具です。紙を敷いて、四令までの蚕を飼育した道具です。蚕架(蚕棚)に載せて使用されます。

    『蚕箔(さんぱく)』と呼ばれる飼育道具です。紙を敷いて、四令までの蚕を飼育した道具です。蚕架(蚕棚)に載せて使用されます。

  • 『蚕箔(さんぱく)』と呼ばれる飼育道具です。紙を敷いて、四令までの蚕を飼育した道具です。蚕架(蚕棚)に載せて使用されます。

    『蚕箔(さんぱく)』と呼ばれる飼育道具です。紙を敷いて、四令までの蚕を飼育した道具です。蚕架(蚕棚)に載せて使用されます。

  • 『壮蚕飼育(五令)』のタイトルがあった説明パネルです。蚕が大きくなって、目棚に移されて最後の段階です。蚕さんの食欲蓮様軸、家族総出で、1日に3回、桑の葉を与える必要があるようです。

    『壮蚕飼育(五令)』のタイトルがあった説明パネルです。蚕が大きくなって、目棚に移されて最後の段階です。蚕さんの食欲蓮様軸、家族総出で、1日に3回、桑の葉を与える必要があるようです。

  • 木の枠にセットされた『折藁(おりわら)』の光景のようです。これが、蚕さんの人工巣をつくる土台となるようです。『蚕箔(さんぱく)』と呼ばれる飼育道具の方だったかも知れません。

    木の枠にセットされた『折藁(おりわら)』の光景のようです。これが、蚕さんの人工巣をつくる土台となるようです。『蚕箔(さんぱく)』と呼ばれる飼育道具の方だったかも知れません。

  • 『城蔟:じょうぞく(蛹化:ようか)』のタイトルがあった説明パネルです。蚕が繭になる手前の状態を『スガキ』と呼び、このスガキ蚕が『マブシ』と呼ばれる人工巣に入り、繭になります。蚕の成長過程に合わせ、この後は1階の囲炉裏では火を焚かないとされます。

    『城蔟:じょうぞく(蛹化:ようか)』のタイトルがあった説明パネルです。蚕が繭になる手前の状態を『スガキ』と呼び、このスガキ蚕が『マブシ』と呼ばれる人工巣に入り、繭になります。蚕の成長過程に合わせ、この後は1階の囲炉裏では火を焚かないとされます。

  • 『折藁蔟(おりわらまぶし)』のタイトルがあった展示品です。大正〜昭和20年頃まで使用された、蚕に繭をつくらせる織物です。

    イチオシ

    『折藁蔟(おりわらまぶし)』のタイトルがあった展示品です。大正〜昭和20年頃まで使用された、蚕に繭をつくらせる織物です。

  • 昭和44年(1969年)に現在の『合掌造りの民家園』に移築される前の加須良にあった『東しな家』の穫り入れ光景です。現在は岐阜県の重要文化財の建物です。

    昭和44年(1969年)に現在の『合掌造りの民家園』に移築される前の加須良にあった『東しな家』の穫り入れ光景です。現在は岐阜県の重要文化財の建物です。

  • 『集落と林道(加須良)』のタイトルがあったモノクロ写真です。加須良林道が完成したのは昭和37年(1962年)と紹介されていました。小さな合掌造りの集落だった『加須良』は、昭和42年(1967年)に廃村となりました。

    『集落と林道(加須良)』のタイトルがあったモノクロ写真です。加須良林道が完成したのは昭和37年(1962年)と紹介されていました。小さな合掌造りの集落だった『加須良』は、昭和42年(1967年)に廃村となりました。

  • 『集落(加須良)』のタイトルがあったモノクロ写真です。加須良林道から眺めた、加須良集落の入口との補足説明がありました。

    『集落(加須良)』のタイトルがあったモノクロ写真です。加須良林道から眺めた、加須良集落の入口との補足説明がありました。

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