2014/10/11 - 2014/10/11
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たびたびさん
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福山の二日目となれば、鞆の浦から回ることに。前来た時に主要どころは回っているはずなんですが、例によって細かいところを調べだすと、さすがにたくさんありますねえ。
といっても、幕末の七卿落ちや龍馬関係も豊かな鞆の浦の背景があったから。潮街の港として栄えた歴史というのですが、瀬戸内海で本当に特別な場所だったのか。それとも、あちこちこんな港があったうちの一つなのか。そこのところは、正直いえば今一つもやもやしているのですが、まあそれはそれで今後の課題としたいと思います。
いずれにしても、日本海の北前船と同様に、瀬戸内海の海運も鉄道に取って代わられるという運命では同じこと。かつての栄華を偲ぶことが観光の視点となることは仕方ないことだと思います。正直言えば、尾道なんかと比べると、明治以降新たな歴史が積み重なっていないので、やはり現役の街ではないというところがいま一つ寂しいような感じがしました。
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イチオシ
福山駅から鞆の浦に到着。仙酔島に渡るいろは丸が見えてます。
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海岸線を少し戻る形で。
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鞆の浦観光情報センターは、鞆の浦の玄関口。バス道路沿いです。
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お土産物屋さんの奥に観光案内所があるのですが、パンフレットが置いてあるくらい。同じ場所に、かつて鞆の浦まで通っていた鉄道の写真がありました。知られざる鞆の浦の歴史に少し触れたような気がします。
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でも、一応街歩きの情報を得たので、これに基づいて、街歩き開始。
この小烏神社は、街中の小さな神社ですが、小烏の合戦の案内板がありました。
いわく、ここは南北朝時代の古戦場。足利尊氏の弟、直義の義子であった直冬は、鞆の浦の探題であったのですが、直義が足利尊氏の側近、高師直と対立。ついには、直冬も、高師直、尊氏と戦うことになったのだとか。
足利氏は後醍醐天皇を死に追いやっても、すぐには権力を掌握できていません。こんなところでも小競り合いですが、鞆の浦が重要な拠点であったことがうかがわれる事件ではあると思います。 -
イチオシ
備後安国寺は、鞆の浦の市街端っこですが、市街からこの安国寺まではいくつもの寺が続いているので、寺町の一番奥といった方が適切かもしれません。
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見どころは、室町時代中期に建てられた釈迦堂。
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禅宗様建築で、内部には、木造阿弥陀三尊立像と木造法燈国師坐像(いずれも国の重要文化財)。傷みがそれなりにありますが、鎌倉期の特徴を伝えるものです。
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その釈迦堂の脇を少し登った高台に枯山水の庭園跡があります。
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こちらは、広島県指定史跡。
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けっこう荒れた感じですが、蘇鉄と亀と鶴の石組みは確かに豪壮というべきもの。
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当時のそれらしい雰囲気が伝わります。
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こちらの鳴門堂は、沼名前神社の門前にある小さな和菓子屋さん。暖簾が掛かっていて、白い字で鳴門堂と書いてあるのです、日に焼けてしまって、よく見ないと分かりません。
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イチオシ
名物の最中をいただきました。ごまの餡子がけっこうすごいですね。
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食べると口いっぱいにごまの香りが広がってきて。なるほど、これは年月を経てきた歴史を感じます。
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沼名前神社は、「ぬまくまじんじゃ」と読むのですが、ちょっと読めないかも。ただ、地元の人は、「ぎおんさん」。門前の鳴門堂の主人でさえ、どう読むんだったっけなあとおっしゃっていました。これは本当です。
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見どころの一つは、豊臣秀吉も愛用したという組立式の能舞台。
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イチオシ
元は伏見城内にあったものを福山藩初代藩主、水野勝成が2代将軍、徳川秀忠から拝領したものだということです。鞆の浦の街からは山の中腹に建つ本殿もよく見えて、地元の人には身近な存在であることが感じられました。
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これは力石です。
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イチオシ
鞆の津ミュージアムは、
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花咲くジイさん 〜我が道を行く超経験者たち〜という企画展をやっていました。
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これは
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高齢者時代が到来する日本で、力強い「老人」の生き方を示すというコンセプト。
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金をとる美術館としては勇気ある企画だと思いますが、
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こうした視点を大胆に打ち出せること自体が何か鞆の浦の底力のような気も。
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道路の開発で景観が壊れそうになった時も反対運動によってこれを守ったという話は有名ですが、そんなことも思い出してしまいました。
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イチオシ
鞆の浦の街並みです。
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気がつかずに通り過ごしてしまいそうなんですが、それらしい建物が随所に見られます。
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鞆の浦の街中には保命酒のお店がいくつもあって、この入江豊三郎本店もその一つ。道を歩いていたら、まあ寄っていらっしゃいと声を掛けられて、お店の中へ。
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保命酒の試飲をさせてもらいましたが、とろんとした甘い味わい。養命酒とは全然違いますね。これならのど飴とかのほうが合うんじゃないですけねえとか話したら、のど飴もありますよと、のど飴までいただいてしまいました。気さくな女将さんです。
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龍馬の隠れ部屋は、初めての訪問です。
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ここには、いろは丸事件の際、紀州藩との交渉の間、坂本龍馬と海援隊士が宿泊していた部屋があるんです。
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桝屋清右衛門は海援隊を支援し、宿舎として自宅を提供したのです。
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ちなみに、事件は1867年5月。
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坂本龍馬は、1866年3月には薩長同盟の仲介に成功しており、幕府から命を狙われる存在でした。交渉はそのような中で行われたのです。
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隠れ部屋は、細い階段を登って行くのですが、割と広い空間。ここで知恵を絞ったと思うと感慨深いものがあります。
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イチオシ
一方で、龍馬に扮したおもてなし隊の人がいろは丸事件はじめ龍馬のあれこれについて語ってくれる時間があり、これがちょっとしたハイライト。観光客との掛け合いも和やかでしたが、観光客の方にも龍馬にかなり詳しい人がいたりして、龍馬ファンの層の厚さを改めて感じるひと時となりました。
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鞆の街中を歩いていたら、鯛味噌の巻き寿司を売っているお店を発見。
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看板から店の構えから、保命酒のお店のような感じだったんですが、中に入ると、正真正銘、鯛味噌の巻き寿司がメインです。
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鯛の身をほぐして、塩味がほんのりついたようなのが鯛味噌なんでしょうか。
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しかし、あまりにも繊細。これが鯛味噌だというほどの味はほとんど感じません。あくまでも繊細。繊細な食べ物でした。
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鞆の津の商家とは、ちょっと何のことか分からない漠とした名前ですが、無料で公開されているし、 鞆の浦ではよくあった一般的な商家だという意味でしょう。
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イチオシ
ただ、元々は呉服商で、その後、魚網の商いをしていたということですが、建物は通りから一段高いところにあって、規模も大きいし、内部に悠々たる空間を持つ豪壮な建物。
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入口の脇からは蔵へも続いていて、
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むしろ、一般的な商家でもこれだけの構えをしていたことに驚かざるを得ないでしょう。
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向かいの鞆の浦歴史民俗資料館は
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鞆の浦の市街を見下ろす高台にあります。
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特別展「鞆の大恩人 森下博」をやっていましたが、森下博は森下仁丹の創業者。大阪の人かと思っていましたが、こちらの出身だったんですね。積極的に宣伝活動を行って、それがいろんな恩恵を与えたという内容。入ってすぐのロビーでは、観光鯛網のビデオ紹介も行われていて、ちょこちょこと知らなかった鞆の浦を探訪できました。
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この周囲は、鞆城跡。市街地から登る際に、ちょっとした石垣があって、それが何か城跡のような感じだなあと思うくらいで、鞆城跡の案内板がなければ、それとは気が付かないでしょう。
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ちなみに、鞆城は、毛利元就の命により、尼子氏への抑えとして築かれた鞆要害が始まり。その後、福島正則が鞆城としての整備を行いますが、あまりに立派だったため、廃城になったということです。
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いろは丸事件談判跡は、表に旧魚屋萬蔵宅と書いた看板もあって入ってみようと思ったら、「いろは」という食堂なんですね。もう昼飯は食べたし、仕方なく外観だけで確認することになりました。
ちなみに、海援隊が大洲藩から借り受けていた「いろは丸」は、紀州藩の「明光丸」と衝突、沈没。ここで両者の交渉が行われたのですが、決着はつかず。結局、長崎に場所を変えて交渉が続き、最後は龍馬が賠償金を勝ち取ることになりました。 -
では、今回は仙酔島に渡ってみましょう。
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平成いろは丸が渡船です。
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所用時間は数分だし、20分毎に出てもいるので、鞆の浦の街歩きの途中にちょこっと行ってくるといった感覚で使えます。
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仙酔島に近づくにつれて弁天島がまじかに迫ってくるのですが、
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岸から見ていたのとは、まったく迫力が違います。この眺めだけでも十分価値があると思いました。
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いろは丸は、降りるとあっという間に帰っていきます。
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ここからは仙酔島を散策します。
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島の裏側に回ると急に開けた場所があって、小さな島なのに白い砂浜とこのキャンプ場があります。キャンプ場には小さなグラウンドもあって、ソフトボールに興じている人たちもいました。逆に、鞆の浦は市街地がごみごみしているし、近場で手っ取り早くアウトドアを楽しもうとするとここは便利な場所なのだと思います。なるほどという感じです。
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ここからさらに奥があるんですね。
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ちょこっと散策できるものと思っていたら、
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キャンプ場を抜けて
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海岸端の遊歩道がけっこうあるじゃないですか。ただ、海沿いに遊歩道が整備されているので、散策は快適。釣りをしている人もポツポツいてのどかです。
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結局、この五色岩まで15分以上。意外にかかりました。
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島の周りはゴツゴツした岩場だらけなのですが、この五色岩は、黄色や灰色、赤い色の岩まであって、確かに五色の岩が集まっています。
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岩の成分が少しずつ違っていてこうなったのでしょうが、
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イチオシ
ネーミングも特徴を的確にとらえていると思います。
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鞆の浦に帰って、今度はあの圓福寺に行ってみたいと思います。
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この石段を登って行った先です。
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ここは、大可島城跡でもあります。仙酔島側から見ると、対潮楼と並んで圓福寺は海に向かって見晴らしのいい、絶好のロケーションでしたよね。
ちなみに、大可島城は、南北朝時代の水軍城。北朝に敗れた伊予衆が鞆に流れ着き、備後国の南朝勢力と築いた拠点。最後は、この城も北朝側に攻められ、全滅の憂き目に遭います。伝桑原一族墓地は、それを伝える遺構です。 -
圓福寺の裏手に回ると仙酔島が一望です。
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ここは、朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊したり、いろは丸沈没事件の談判の際には、紀州藩の宿舎にも使用されたということです。
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ここから湾のほうに降りていきます。
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イチオシ
ちなみに、鞆の浦は潮待ちで栄えた街。瀬戸内海に面しているので、大きな自然災害はないようにも思うのですが、港である以上、波を避ける堤防は必要です。その堤防の役割を果たしていたのが、この波止場。常夜灯の辺りを散策しているだけだと気が付きませんが、こんなふうに石がきれいに積んであって、見応え十分ですので、お見逃しなく。
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陸奥稲荷神社は、その先。圓福寺から波止めを見ようと思って海側に下りたら、その先に赤い鳥居が見えて、この神社だと分かりました。しかし、ここまで来る観光客はあまりいないかも。ただ、稲荷神社にしてはけっこう大きいです。
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さて、中心部のほうに戻ります。
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力石は、力自慢、力比べを行ったもの。楽しみが限られていた時代のものだと思います。鞆の浦の雁木のそばにある小さな祠の脇に
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まあるい力石が並んでいました。ただ、この力石は、それぞれりっぱな字が彫られていて、こういうところにも、豊かな鞆の浦の背景が感じられるように思います。
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波止場は、鞆の浦の遺構の中でもけっこう重要。
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海に向かって降りて行くなんでもないような石段なのですが、潮の高さが変化しても、同じように荷揚げができる優れものなんですね。かつてはあちこちにあったようですが、これだけきちんと残っているのは限られるのだそうです。
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穏やかな港ですが、それでも港としての基本的な整備がなければ、安全・機能は保てないということでしょう。
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限られた場所に街並みが出来ているので、今考えると路地は狭いんですが、車のない時代なら、この狭さも何の問題もなかったでしょう。
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鞆七卿落遺跡というのは、鞆の浦の市街地にある太田家住宅と太田家住宅朝宗亭のこと。ただ、太田家住宅の方は公開していますが、太田家住宅朝宗亭は入れません。
ちなみに、七卿落は、1863年(文久3年)の8月18日の政変で、会津藩、薩摩藩の力を背景にした公武合体派に追い落とされた三条實美以下七人の公卿のこと。尊王攘夷の急進派であった長州藩は、これにより京都での地盤を失うのですが、七卿を藩に迎えて、再起の時期を探ることになります。三条實美は、こちらで保命酒をたたえる歌を残したりしていますが、見通しが立たない中で心中はいかばかりだったかと思われます。 -
常夜燈は、潮まちの港、鞆の浦を象徴する建造物。いろは丸記念館側から近づくと高さ11mの日本一の高さが実感できます。
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ただ、三方は海に面していて、裏側に回ることはできないので、むしろ、対岸から眺めたりする方がいろんなアングルから見えるの気分が出るかもしれません。
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鞆の浦には保命酒の店がいくつかあって、
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岡本亀太郎本店もそのひとつ。
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ただ、ここの見どころは、旧福山城長屋門の遺構建物をお店にしているということ。明治維新後に払い下げられ、それを移築したのだそうです。店内の装飾類も見応えがあって、龍の看板もとても趣があります。
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村上製パンは、鞆の浦の市街地の端っこにある小さなパン屋さんです。
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そんなに種類は多くなくて、アブラパンというのをいただきました。アンパンを油で揚げたんでしょうが、艶のあるパンの味わいが、たっぷり入った餡子の甘さとベストマッチ。豊かな気持ちになるパンだと思います。
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阿藻珍味は、鞆の浦の市街地からだとちょっと遠い。阿伏兎観音に向かう鞆バイパスの方に少し入ったところです。鞆の浦には練り製品の店がいくつかあるのですが、ここはメジャーなお店。後で気が付きましたが、広島空港にもお店がありました。
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いただいたのは、鯛蒲鉾。ずんぐりした形で変わっていますが、芯の部分の両側を片手でつまんで食べるとこれは食べやすい。理に適っています。鯛の味の方はよく分かりませんが、比較的プリッとした食感が特徴かと思います。
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こちらは淀媛神社。
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神功皇后が三韓征伐のため西国下向し、鞆の浦の地に寄泊。帰路も当地に寄泊し、携帯していた「鞆」を奉納。それが鞆の地名の起源だということです。
沼名前神社や淀媛神社もその辺りが始まり。淀媛というのは、神功皇后の妹のことです。 -
見晴らしもいいですが、津波の時はここが避難場所にはちょうどいい感じですね。
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ここから少し戻って、今度は医王寺を目指します。
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何で鞆の浦に平賀源内生祠があるのかなあという気がしないでもないのですが、医王寺に登って行く坂の途中にあったので、寄ってみました。
平賀源内は、諸国遍歴の途中、鞆の浦の溝川家に寄宿。そこで、源内焼の製法を伝えたのだとか。祠は、その溝川家が祀ったものだそうです。小さな祠です。 -
医王寺は、鞆の浦では2番目に古いお寺。空海によって開かれたといいます。
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鞆の浦市街からしばらく歩いた山の上にあって、鞆の浦にある寺の中では一番遠いかもしれません。
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その分、ここから見る眺めは抜群。鞆湾の街や港の全景が一望できます。
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明圓寺は、医王寺から市街中心部に帰る途中。
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かつては、朝鮮通信使の宿所に当てられたこともあるということが医王寺のところにある案内板には書いてあったのですが、このお寺には特に案内板等はありませんでした。ただ訪ねただけでは、浄土真宗のお寺であることくらいしか分からないと思います。
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鞆の浦には、ほかにも古刹がたくさんあって、古寺巡りと言うのもあるんですが、少し紹介すると。
この阿弥陀寺は、永禄8年(1565)の創建。 -
ここには「鞆の大仏」と呼ばれる丈6の座像があります。
元禄時代の作だということです。 -
隣りにあるのは、南禅坊。
見事な楼門が目立っていますが、こちらの創建は建久元(1190)年。
法然が讃岐に流されますが、その際、この地の豪族が法然の法義に帰依したのが始まり。法然の冤罪が晴れると、護身弥陀仏の像などを授けたということです。 -
近くに山中鹿之助の首塚。鹿之助は、毛利に滅ぼされた尼子十勇士の一人。「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話は有名ですね。
しかし、命を落としたのは戦場ではなく、毛利の家臣に謀殺されたもの。鞆の浦に陣取る毛利輝元の下へ護送される途中のことだったということです。
首は鞆に持ち込まれ、首塚は静観寺の前に造られましたが、さぞ無念の死だったかと思われます。 -
ささやき橋は、山中鹿之助首塚と同じく、静観寺の門前。橋と言っても、少し盛り上がったようなだけのささやかな橋です。
この橋には、悲恋が伝えられていて、以下のようなもの。応神天皇の招きで、百済から王仁博士がやってきます。日本に漢字を伝えた人物として有名ですが、その接待係りとして派遣されたのが、武内臣和多利(たけのうちのおみわたり)と江の浦(えのうら)。
その二人は恋に落ち、この橋のたもとで逢瀬を重ねます。ところが、それを知った上官は二人を海に沈めてしまう。その後、この橋では、和多利と江の浦のささやき声が聞こえると言われ、これがささやき橋のゆえんです。 -
小松寺はどこですかと道を聞いたら、「ぼけ封じかい?」とからかわれてしまいましたが、ここはぼけ封じの寺なんですね。
平清盛の嫡男、小松殿と呼ばれた平重盛の創建。 -
朝鮮通信使の遺構もあるというので訪ねた次第です。隆盛を誇ったという寺ですが、正直言えば、今はその面影はあまりありません。境内の一角に隠れるように朝鮮通信使の碑がありました。
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リム ふくやまは、福山駅からだと線路沿いに歩いて数分の商業ビル。とはいえ、福山駅からだと天満屋も近いし、ちょっと不便かなあという感じもするのですが、
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人の出入りはそれなりにある感じです。
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で、私はリムの8階にあるふくやま書道美術館が目的でした。三重県立美術館コレクション榊莫山展をやっていたので、逆に目当てだった当館の所蔵品は見れませんでした。
ちなみに、所蔵品は福山市出身の書家、栗原蘆水のコレクションがベースとなっていて、中国明・清時代の書画・文具がすばらしい。実は、福山市神辺歴史民俗資料館で、ここの所蔵品が一部公開されていたのを見たのですが、筆や水入れなどハッとするような美しさがありました。書道美術館が企画展をやっていたので、神辺歴史民俗資料館の方に貸し出しをしていたのだとか。当館の所蔵品展は、春と秋にやっているようです。 -
広島県立歴史博物館では、備後の歴史を概観しようと思ったのですが、その意味ではちょっとイマイチだったかも。
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この地域の古代遺跡がどのように分布しているのか、どのようなものが発掘されたのか等はとても詳しいのですが、それが日本全体の中で見た時に、どのような特徴があって、位置づけなのか等がよく分からない。自分で少し整理してみないといけないようです。また、戦国時代には有力な武将が出ていないことも、備後を積極的に理解するうえで、限界になっているのかもしれません。
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ふくやま美術館では、
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秋季所蔵品展「珠玉の名品」を見ました。熊谷守一の作品はポスターになっていましたが、荒々しい筆のタッチとはっきりした色使いが秀逸。一方で、岸田劉生は、麗子像に静物、橋を渡る人の群れを描いた風景画や劇場の幕間の一コマを描いた作品などが数点あって、やっぱり抜きんでた存在感があって、改めて、巨匠としての評価に納得をしました。一方で、地元の画家の目ぼしい作品はほとんどなくて、少しさみしい気もしました。
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福山城公園って、あんまり美しい公園というイメージはなかったのですが、福山美術館や博物館の方は、緑の芝生も青々しているし、福山城を見上げるアングルもなかなかいい。吹奏楽の練習をしている学生たちもいたりして、これはまさしく市民の憩いの場所。備後の中心地に相応しい公園です。
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福山城は、福山駅からでも天守閣がよく見えて、最上階の赤い高欄が特徴的です。一帯は、福山城公園として、よく整備されていて、天守閣の内部は博物館となっていて、ちょっとした文化ゾーンというエリアです。
ちなみに、福山城の歴史は江戸時代の初期から。というのは、関ヶ原の戦いの後、福島正則は、安芸国と備後国の二つの国を拝領することとなりましたが、ほどなく改易。そして、備後国10万石は、徳川家康の従兄弟、水野勝成が入封し、西国の抑えとしての役割を担います。その際、従来、備後の中心は神辺城でしたが、新たにこの福山城を築くのです。 -
ふくやま文学館は、井伏鱒二を中心に、地元出身の作家を紹介する施設。始めは画家を志していたという井伏鱒二の生い立ちはそれとして、作品数は想像以上に膨大。
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代表作である山椒魚のイメージが強すぎるきらいはあるのですが、時代物なども含めて、文章の描写力は秀逸。読者を引き込む力を感じました。やはりビッグネームの一人でしょう。
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福山市人権平和資料館は、閉館ぎりぎりに滑り込んだので、一階の福山空襲関係の展示を拝見しました。
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福山空襲は終戦直前。福山の軍需工場を狙ったもののようですが、時期的には広島の原爆投下のさらに後だったようです。戦争の惨禍を伝える立派な施設です。
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広島市では天満屋は撤退してしまいましたが、福山では福山駅にも近いし、他に有力な百貨店もないので、堂々の一番店という存在だと思います。
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地下の食料品売り場も充実していて、。
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地元の倉甚といった有名な蒲鉾屋さんも入っています。
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福山駅に近いので、観光客にとっては安心感もあるでしょう。
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鞆の浦には蒲鉾屋さんがいくつかあるのですが、何故か、市街中心部にはなくてけっこう不便。ウオヒサも鞆の浦の中心部からは少し距離があって、安国寺下まで歩いたところで断念。しかし、聞くと天満屋の地下にもお店があるよということで、こちらを訪ねることにした次第。
天満屋のお店は練り製品だけでなく、豆腐や油揚げなども一緒に扱っています。おでん種みたいな共通点があるのかもしれません。買いやすいお店になっています。 -
福山駅から天満屋に向かう途中に、白ばら喫茶という小さな喫茶店がありまして。見るとテイクアウトの洋菓子も店頭に並んで、おいしそう。
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例によって、シュークリームをいただきました。と、そのクリームのミルクの香りがとてもいい。こういうクリームって、確かにあり。上品な味わいに仕上がっています。
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さんすて福山は、福山駅の駅ビル。基本は衣料・装飾品関係のファッションビルだと思いますが、一階の軽食や食品関係もけっこう充実。華やかな雰囲気の中で、スイーツとかをちょっと食べたり。遊び心もあるビルだと思います。
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口福堂は、福山駅ビルのさんすて福山一階。みたらし団子や黄な粉だんごが店頭に山のように積まれていて、艶々した色いも鮮やかだし、これはたまりません。
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さっそく、みたらし団子をいただきました。期待通りもっちしただんごに甘辛いタレはしっかりした味わい。ただ、いわばぎりぎりの小ささを狙ったような大きさで、もうちょっと団子は大きめでもいいでしすけど。
さて、以上で、備後の旅二日間は終了。お疲れ様でした。
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