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旅順刑務所は、伊藤博文を襲撃した安重根が収監され、死刑執行された刑務所です。絞首台も公開されていました。その後、日露戦争時の激戦地、203高地に向かいました。

2014秋、中国旅行記24(9/18):10月16日(5):旅順、旅順刑務所、絞首台、203高地

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2014/10/15 - 2014/10/18

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旅人のくまさん

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旅順刑務所は、伊藤博文を襲撃した安重根が収監され、死刑執行された刑務所です。絞首台も公開されていました。その後、日露戦争時の激戦地、203高地に向かいました。

  • 拷問室の光景です。資料を基に再現された品か、この刑務所に残されていたオリジナルの品か、判断が難しいところです。

    拷問室の光景です。資料を基に再現された品か、この刑務所に残されていたオリジナルの品か、判断が難しいところです。

  • 旅順刑務所の最後の田子仁郎典獄長に関する写真と説明文です。1945年10月に戦犯として逮捕され、撫順戦犯管理所に送られたようです。

    旅順刑務所の最後の田子仁郎典獄長に関する写真と説明文です。1945年10月に戦犯として逮捕され、撫順戦犯管理所に送られたようです。

  • 旅順刑務所の初代の栗原貞吉典獄長の写真と説明文です。1907年から1913年までの長期に亘り、その職にありました。安重根が処刑された1910年3月26日の前日には、絹の白装束を安に贈り、特別の木棺も用意していました。退任後は故郷の広島に帰ったとされます。(ウィキペディア)

    旅順刑務所の初代の栗原貞吉典獄長の写真と説明文です。1907年から1913年までの長期に亘り、その職にありました。安重根が処刑された1910年3月26日の前日には、絹の白装束を安に贈り、特別の木棺も用意していました。退任後は故郷の広島に帰ったとされます。(ウィキペディア)

  • 1907年に着任した、初代の栗原貞吉典獄長から最後になる1945年の田子仁郎典獄長まで、10名の名前と就任期間の一覧です。

    1907年に着任した、初代の栗原貞吉典獄長から最後になる1945年の田子仁郎典獄長まで、10名の名前と就任期間の一覧です。

  • 『獄方在教誨室●仏念経・旨在麻痺和消磨被関押者的反抗斗志』の説明文があった仏壇です。収監者の教誨用の仏壇のようです。

    『獄方在教誨室●仏念経・旨在麻痺和消磨被関押者的反抗斗志』の説明文があった仏壇です。収監者の教誨用の仏壇のようです。

  • 中庭から眺めた刑務所の建物光景です。写真の中央付近で壁の色が変わっているのは、左のグレー色がロシア当時の建設部分、赤レンガが日本の増築部分です。

    中庭から眺めた刑務所の建物光景です。写真の中央付近で壁の色が変わっているのは、左のグレー色がロシア当時の建設部分、赤レンガが日本の増築部分です。

  • 赤レンガ造りの刑務所の塀の光景です。塀の上の鉄条網も1メートルほどの高さがありました。右手に向かって緩い上り坂になった敷地でした。

    赤レンガ造りの刑務所の塀の光景です。塀の上の鉄条網も1メートルほどの高さがありました。右手に向かって緩い上り坂になった敷地でした。

  • 敷地内の緩い登り坂を進んだ、一段高くなった場所から撮影した光景です。建物と塀の間には巡視路のようなものが設けてありました。

    敷地内の緩い登り坂を進んだ、一段高くなった場所から撮影した光景です。建物と塀の間には巡視路のようなものが設けてありました。

  • 第二次大戦後、旅順刑務所の最後の田子典獄長の自筆調書には、『1944年秋カラ1945年春ニカケ私ハ(中略)死刑判決ヲウケタ中国平和居民六名ヲ(中略)死刑執行シマシタ』と記されていました。調書の15頁目です。終戦間際になって処刑された人達に関する石碑かも知れません。別のネット情報では終戦後の1945年8月16日の死刑執行もあったようです。

    第二次大戦後、旅順刑務所の最後の田子典獄長の自筆調書には、『1944年秋カラ1945年春ニカケ私ハ(中略)死刑判決ヲウケタ中国平和居民六名ヲ(中略)死刑執行シマシタ』と記されていました。調書の15頁目です。終戦間際になって処刑された人達に関する石碑かも知れません。別のネット情報では終戦後の1945年8月16日の死刑執行もあったようです。

  • 赤レンガ塀のコーナー部分の光景です。直角な造りではなくカーブになっていました。見張り所らしい施設がありました。

    赤レンガ塀のコーナー部分の光景です。直角な造りではなくカーブになっていました。見張り所らしい施設がありました。

  • 死刑執行をした絞首台があった建物光景です。この場所も公開されていました。『絞刑場』の新しい標識がありました。

    死刑執行をした絞首台があった建物光景です。この場所も公開されていました。『絞刑場』の新しい標識がありました。

  • 絞首刑場の内部の光景です。1945年の施設開放後、墓地から発掘された人骨です。『被絞殺者白骨』の文字がありました。実際に人骨が見えていました。

    絞首刑場の内部の光景です。1945年の施設開放後、墓地から発掘された人骨です。『被絞殺者白骨』の文字がありました。実際に人骨が見えていました。

  • 床に穴が開けられた絞首台の光景です。13階段を上るのではなく、床から下の階に落とされる構造です。

    床に穴が開けられた絞首台の光景です。13階段を上るのではなく、床から下の階に落とされる構造です。

  • 斜め上から眺めた絞首台の光景です。穴の真下には、蓋付の丸い木棺がセットしてありました。

    斜め上から眺めた絞首台の光景です。穴の真下には、蓋付の丸い木棺がセットしてありました。

  • 旅順刑務所で亡くなった人の数は2千名余りとされますが、その中のかなりの人がこの絞首台で処刑されたのかも知れません。先に紹介した田子典獄長の自筆調書の中には、獄中で病死した人のことも記されていたようです。

    イチオシ

    旅順刑務所で亡くなった人の数は2千名余りとされますが、その中のかなりの人がこの絞首台で処刑されたのかも知れません。先に紹介した田子典獄長の自筆調書の中には、獄中で病死した人のことも記されていたようです。

  • 通路脇の右下に見えていた建物光景です。『監獄墓地場景復原』のタイトルがありました。移築された墓地のようです。

    通路脇の右下に見えていた建物光景です。『監獄墓地場景復原』のタイトルがありました。移築された墓地のようです。

  • 多くの人が亡くなった刑務所の見学は、次第に心の中に澱が溜まるような沈んだ気持ちになってしまいます。周りの方の口数も自然と少なくなってきたようです。

    多くの人が亡くなった刑務所の見学は、次第に心の中に澱が溜まるような沈んだ気持ちになってしまいます。周りの方の口数も自然と少なくなってきたようです。

  • 通路脇にあった建物光景です。『日露侵占大物証陳列室』の表示がありました。日本人観光客にはパスしたい展示室でしょうか。

    通路脇にあった建物光景です。『日露侵占大物証陳列室』の表示がありました。日本人観光客にはパスしたい展示室でしょうか。

  • Aが四つ並んだ、『国家級旅游景区』の標識です。全国旅游景区質量等級評定委員会名の新しい標識でしたが、日付は記されていませんでした。

    Aが四つ並んだ、『国家級旅游景区』の標識です。全国旅游景区質量等級評定委員会名の新しい標識でしたが、日付は記されていませんでした。

  • 『参観路線示意図』のタイトルがあった観光案内図です。この図の中に示された白い線に沿って見学してきたようです。早回りコースです。

    『参観路線示意図』のタイトルがあった観光案内図です。この図の中に示された白い線に沿って見学してきたようです。早回りコースです。

  • 重苦しい気持ちになった旅順刑務所の見学を終え、次は日露戦争時代の激戦地、203高地の見学です。その案内看板です。『日露両軍争奪的重要戦場』の文字の下には日本軍の死者1万5千人余、ロシア軍の死者5千人余と記されていました。

    重苦しい気持ちになった旅順刑務所の見学を終え、次は日露戦争時代の激戦地、203高地の見学です。その案内看板です。『日露両軍争奪的重要戦場』の文字の下には日本軍の死者1万5千人余、ロシア軍の死者5千人余と記されていました。

  • 逆光の写真になってしまいましたが、前方に見える丘に登っての見学です。203高地と呼ばれる丘の頂上です。

    逆光の写真になってしまいましたが、前方に見える丘に登っての見学です。203高地と呼ばれる丘の頂上です。

  • 省級文物保存単位の標識です。タイトルは、『旅順口日露戦争遺址・203高地』です。遼寧省人民政府による1988年12月の石碑です。

    省級文物保存単位の標識です。タイトルは、『旅順口日露戦争遺址・203高地』です。遼寧省人民政府による1988年12月の石碑です。

  • 『日露戦争遺址・203高地』と記された案内看板です。先に紹介した看板と同じでした。記されている数字の日本軍1万5千人強、ロシア軍5千人強は、死者数ではなく死傷者数のようでした。この戦闘での日本側の死傷者数は、約6万4千の兵士を投入し、戦死者5052名、負傷者11、884名のようです。

    『日露戦争遺址・203高地』と記された案内看板です。先に紹介した看板と同じでした。記されている数字の日本軍1万5千人強、ロシア軍5千人強は、死者数ではなく死傷者数のようでした。この戦闘での日本側の死傷者数は、約6万4千の兵士を投入し、戦死者5052名、負傷者11、884名のようです。

  • 203高地に建つ『爾靈山』の名前を持つ慰霊碑です。203を中国語読みする、漢詩に秀でた乃木大将の命名とされます。乃木大将は、『爾靈山』と題する漢詩も残しました。それを紹介しておきます。<br />爾靈山嶮豈難攀<br />男子功名期克艱<br />鐵血覆山山形改<br />萬人齊仰爾靈山<br />意訳の例は、次の通りです。<br />203高地がいかに険しくとも、攀じ登れぬはずはない。男子の功名のためには如何なる困難にも 打ち克つ覚悟が肝要である。その決意で激戦、遂に全山の形さえ変わってしまった。この戦いで、旅順も陥落した。この大功と共に多くの人命を失った。嗚呼爾の霊の山である、と万人が斉しく仰ぎ 英霊を慰めるであろう。<br />

    イチオシ

    203高地に建つ『爾靈山』の名前を持つ慰霊碑です。203を中国語読みする、漢詩に秀でた乃木大将の命名とされます。乃木大将は、『爾靈山』と題する漢詩も残しました。それを紹介しておきます。
    爾靈山嶮豈難攀
    男子功名期克艱
    鐵血覆山山形改
    萬人齊仰爾靈山
    意訳の例は、次の通りです。
    203高地がいかに険しくとも、攀じ登れぬはずはない。男子の功名のためには如何なる困難にも 打ち克つ覚悟が肝要である。その決意で激戦、遂に全山の形さえ変わってしまった。この戦いで、旅順も陥落した。この大功と共に多くの人命を失った。嗚呼爾の霊の山である、と万人が斉しく仰ぎ 英霊を慰めるであろう。

  • 203高地の山頂近くのお土産店にあった、『203高地紹介図』のタイトルがあった説明看板です。日本語の内容には、いくつか納得できない数字がありました。

    203高地の山頂近くのお土産店にあった、『203高地紹介図』のタイトルがあった説明看板です。日本語の内容には、いくつか納得できない数字がありました。

  • 203高地から眺めた旅順港の光景です。先ほど記した案内看板の記述の部分ですが、第7師団は3千人まで戦力が減少したとの記述もあります。また、280ミリの榴弾砲が威力を発揮したのは、203高地を奪取した後の旅順湾の艦船攻撃が大きいようです。

    イチオシ

    203高地から眺めた旅順港の光景です。先ほど記した案内看板の記述の部分ですが、第7師団は3千人まで戦力が減少したとの記述もあります。また、280ミリの榴弾砲が威力を発揮したのは、203高地を奪取した後の旅順湾の艦船攻撃が大きいようです。

  • 同じく、203高地から眺めた、海側方面の光景です。見晴らしの良い、戦略拠点地であったことが実感できました。

    同じく、203高地から眺めた、海側方面の光景です。見晴らしの良い、戦略拠点地であったことが実感できました。

  • 少し陸地側の光景です。いくつかの丘陵地がありましたが、高さなどでは203高地が勝っていたようです。

    少し陸地側の光景です。いくつかの丘陵地がありましたが、高さなどでは203高地が勝っていたようです。

  • 203高地での見学を終え、次の場所に向かう途中の光景です。今回は使用しなかった、昔ながらの登山道路がありました。

    203高地での見学を終え、次の場所に向かう途中の光景です。今回は使用しなかった、昔ながらの登山道路がありました。

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2014秋、中国旅行記24

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