2014/10/15 - 2014/10/18
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旅人のくまさんさん
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旅順の日帰り観光です。旅順博物館の次には水師営会見所の見学です。日露戦争時、乃木将軍とステッセル将軍の終戦に向けての会見場所です。続いて、旅順刑務所跡を見学しました。
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旅順博物館の見学を終えて、次の水師営会見所に向かう途中のバスの中からの光景です。前方の建物は、川島芳子こと愛新覺羅顯玗に関わりがあるホテルのようです。17歳で自殺未遂を起こした後、断髪し男装するようになりました。『男装の麗人』と呼ばれました。後年の芳子は『東洋のマタ・ハリ』や、『満洲のジャンヌ・ダルク』等とも呼ばれ、マスコミの寵児になりました。
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同じく、水師営会見所に向かう途中のバスの中からの光景です。人だかりがしていた場所は、ダンプと乗用車が衝突したばかりの現場です。ダンプが横から当たり、宙に浮いた高級車の前輪がゆっくり空回りしていました。バスの運転手さんは、咄嗟に経路を変えて水師営会見所方面に向かってくれました。
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2度目の見学となる、水師営会見所に到着しました。1905年、日露戦争中の旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結されたことで有名な会見所です。当時とは場所も変わり、建物も1996年に復元されたものです。
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水師営会見所の敷地内にさりげなく置いてあった、戦車やトラックの姿がレリーフされた石板などです。説明看板などはなかったようです。
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イチオシ
水師営会見所の建物全景です。日露戦争中の1905年1月15日に、旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結されました。その時の日本代表は第三軍司令官・乃木希典大将、ロシア代表は旅順要塞司令官・アナトーリイ・ステッセリ中将でした。戦勝国の日本では、水師営の会見が文部省唱歌になりました。佐々木信綱作詞の歌には、『将軍ステッセル』と表現してあります。
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1996年に再建された建物とはいえ、多くの記録写真が残っていますので、細部まで再現可能だったようです。『会見所』の標識があった入口付近の光景です。ステッセリ中将は、日露戦争終了後に旅順要塞早期開城の責任を問われ、1908年2月、軍法会議で死刑宣告を受けましたが、1909年4月、特赦により禁錮10年に減刑されました。
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水師営会見所の入口を入り、左手方面の室内光景です。会見に使われたとされる長机と椅子が置いてあります。ステッセリ中将の減刑に関しては、乃木希典が助命運動を行ったのが最大の理由とされています。釈放後は軍を追放され、モスクワで静かな余生を送ったとされます。
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水師営と水師営会見所に関する説明文です。旅順龍河の北岸に位置し、清朝時代には清軍水師の駐泊地であったことから、水師営の故名が付いたことから始まり、1905年1月5日の日露の終戦会見が行われ、戦後の1906年に日本当局により、『水師営会見所』の碑が置かれたことなどが説明されていました。
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同じく、長文の水師営と水師営会見所に関する説明文の掲示状況です。1905年当時の会見所のセピア写真も説明に使われていました。厳しい攻防戦であっただけに、乃木大将、ステッセル中将ともに、後代の評価は分かれているようです。
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1905年当時の水師営会見所のセピア写真です。日露双方の関係者の軍服姿が見えます。ステッセル中将(1848〜1915年)の晩年は、戦死した部下達の遺児4人を養子に迎え、1912年の乃木の殉死を知ると、匿名で香典を送るなどの逸話も残ります。乃木大将は1849年の生まれですから、同世代の軍人同士でした。
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水師営会見所の外で撮影されたロシア軍兵士と馬です。ステッセリ中将達に随行した人達のようです。
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『1905年1月5日・乃木希典同斯特塞尓在水師営会見所合彰』のタイトルがあったセピア写真です。従軍記者からの再三の要請があっても、乃木大将はロシア軍人の名誉を重んじ、この写真1枚だけの撮影か認めなかったようです。
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水師営会見所を案内してくれたのは女性の現地ガイドさんでした。乃木希典の『金州城下の作』の七言絶句は、中国の専門家からも高く評価されている漢詩と紹介されていました。全文を紹介しておきます。
山川草木轉荒涼
十里風腥新戰場
征馬不前人不語
金州城外立斜陽
現代語訳は、
山も川も草も木も、荒れ果てて見る影も無い。
戦があったこの場所では、十里にわたって風が血なまぐさく感じられる。
軍馬は進まず、将兵たちは押し黙っている。
夕陽が傾く金州城外に、私はただ立ちつくす。
希典の長男、勝典が戦死した戦いでした。 -
これで水師営会見所の見学はおしまいです。この日の昼食は、会見所に隣接した食堂でした。この写真からは左手になります。
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水師営会見所に隣接した食堂の光景です。水師営会見所の関連施設といったイメージでした。食事内容は記憶に残っていません。
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イチオシ
昼食の後の見学場所は、旅順刑務所です。1902年にロシア帝国が建設し、1907年に大日本帝国が拡張した刑務所です。1906年から1936年の間に累計2万人余りが拘束されていたとされます。また、1942年から1945年8月の間に収容者の約700名が亡くなったようです。(ウィキペディア)
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旅順刑務所址の入場見学です。1945年ソ連軍が旅順に進駐した後解体されましたが、1971年7月に再建され、『旅順日露監獄旧址』として、陳列館になりました。
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旅順刑務所址の構内の光景です。レンガ塀などは、当時のまま残されているようです。塀の上には、鉄条網も残っていました。
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旅順刑務所址の構内の光景が続きます。1907年に日本が増築した時、253室の牢獄の数となったようです。収容人員は約2千人が可能だったようです。
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見学してきた後方を振り返っての撮影です。旅順刑務所の敷地面積は、最大時22.6万平方メートルとなり、当時、東北地域において最大規模だったようです。
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旅順刑務所紹介の『前言』です。まだ新しいパネルには、中国語、ハングル、英語の順で解説が記されていました。近年の中国と韓国との関係を思わせる光景でした。20世紀初頭、ロシアと日本が中国領土上にこの監獄を建て、中国の愛国者や抗日の志士を収監し、屠刹したことなどの内容です。
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『旅順日露監獄歴史沿革)のタイトルがあったパネルです。1902年のロシアによる監獄建設から始まり、1945年8月15日の解体までが、いくつかに年代分けをして箇条書きにされていました。
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旅順刑務所の縮小模型です。はじめ帝政時代のロシアが建設し、帝国時代の日本が拡張した刑務所です。後ほど紹介するように、絞首刑施設もありました。
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実際に使用されていたらしい、囚人服を吊下げた部屋の光景です。同じ色ではなく、複数の色の服がありました。
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囚人服のアップ光景です。ネット情報によれば、入ったばかりの囚人は赤い服を着せられ、一定期間を過ぎた模範囚には青い服が渡されていたようです。
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格子窓越しに眺めた独房の光景です。鉄格子と金網が併用された、当時のままの独房光景のようです。この部屋が、安重根が収容されていた独房かも知れません。
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写真入りの安重根(1879〜1910年)に関する説明文です。日本語を含めた4か国語で記されていました。
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『朝鮮愛国志士・安重根を拘禁した監房』のタイトルの日本語説明文です。ハルビン駅で伊藤博文を射殺したのが1909年10月26日、この刑務所に送監されたのが同年11月3日、絞首刑が執行されたのが翌1910年3月26日と記されていました。
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通路の脇に並ぶ牢獄の光景です。牢屋の外に番号で管理された囚人を示す番号札と、食事を中に入れる小窓が付いていました。
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イチオシ
少し高くなった、看守台からの眺めです。三方向の通路が同時に監視できる場所に設置されていました。
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