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日和山公園東に下日枝神社がある。<br /><br />建立は1784年というから、芭蕉が酒田に来たときにはこの神社はまだ存在しておらず、芭蕉とは直接の関連は無いが、案内の先生が此処の素晴らしい随身門を見せたいということで訪れた。<br /><br />朱の鳥居を潜った先に待ち構える、回廊を持つ事で2層にも見える随身門は重厚で美しい。<br /><br />此処の随身門の下で手を叩くと、音楽堂のように音が反響するらしい。<br /><br />1788年、随身門を創建したのも、火事で焼失の随身門を再建したのも、”三十六人衆”の要の一人・本間屋である。<br /><br />酒田の町は”三十六人衆”を抜きにしては語れない。<br /><br />言い伝えによると、16世紀の始め袖の浦(現酒田市宮野浦)”向酒田”に潜んでいた元奥州藤原氏の家臣(子孫?)36人が、16世紀の始め、最上川の氾濫を避け、最上川対岸”当酒田”に移り住み、砂浜を開拓して現在の酒田の元を作り、廻船問屋を主な業とした。<br /><br />1672年、河村瑞賢が西回り航路を開拓するや、”三十六人衆”という自治組織により運営された酒田の町は繁栄を極め、「西の堺、東の酒田」と云われるまでに成長する。<br /><br />中でも下日枝神社を建立した本間屋などは、農地改革が行われるまで、日本一の大地主と称された。<br /><br />芭蕉が酒田を訪れたのは、瑞賢が西回り航路を開拓した17年後に当たり、酒田は繁栄の真っ盛りだったと思われる。<br /><br />本町1丁目交差点に面した酒田市役所の一角には、「酒田三十六人衆ゆかりの地」と刻まれた石塔が立ち、傍らに”三十六人衆”の由来、当時の待ち割り図、”三十六人衆”の変遷を紹介した案内板がある。<br />

奥の細道を訪ねて第11回24酒田の町散策その2下日枝神社の随身門と三十六人衆が構成した街並み

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2012/08/30 - 2012/08/30

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WT信

WT信さん

日和山公園東に下日枝神社がある。

建立は1784年というから、芭蕉が酒田に来たときにはこの神社はまだ存在しておらず、芭蕉とは直接の関連は無いが、案内の先生が此処の素晴らしい随身門を見せたいということで訪れた。

朱の鳥居を潜った先に待ち構える、回廊を持つ事で2層にも見える随身門は重厚で美しい。

此処の随身門の下で手を叩くと、音楽堂のように音が反響するらしい。

1788年、随身門を創建したのも、火事で焼失の随身門を再建したのも、”三十六人衆”の要の一人・本間屋である。

酒田の町は”三十六人衆”を抜きにしては語れない。

言い伝えによると、16世紀の始め袖の浦(現酒田市宮野浦)”向酒田”に潜んでいた元奥州藤原氏の家臣(子孫?)36人が、16世紀の始め、最上川の氾濫を避け、最上川対岸”当酒田”に移り住み、砂浜を開拓して現在の酒田の元を作り、廻船問屋を主な業とした。

1672年、河村瑞賢が西回り航路を開拓するや、”三十六人衆”という自治組織により運営された酒田の町は繁栄を極め、「西の堺、東の酒田」と云われるまでに成長する。

中でも下日枝神社を建立した本間屋などは、農地改革が行われるまで、日本一の大地主と称された。

芭蕉が酒田を訪れたのは、瑞賢が西回り航路を開拓した17年後に当たり、酒田は繁栄の真っ盛りだったと思われる。

本町1丁目交差点に面した酒田市役所の一角には、「酒田三十六人衆ゆかりの地」と刻まれた石塔が立ち、傍らに”三十六人衆”の由来、当時の待ち割り図、”三十六人衆”の変遷を紹介した案内板がある。

同行者
一人旅
交通手段
観光バス 新幹線 JRローカル
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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